第4話 妖しい正体と残酷な事実
「あれ? この匂い……」
何度目かの突撃を防いだ後、数字の魔女がなにかに気づいたような声をあげる。
「待った! なにしてんの!」
こちらの制止も聞かず、彼女は盾に付着した液体と粉を指ですくって口にふくんだ。
それらが毒だとしたら吐き気や腹痛、しびれがあるはず。
最悪の場合……死に至る。
最悪の事態を想像したら全身の血の気が引いていくのがわかった。
「やっぱり!」
場違いなほど明るい声が聞こえる。
見れば数字の魔女はうれしそうに笑っている。
魔法のおかげでこの子が話していることはわかるのに、なにがしたいのかわからない。
「大丈夫? 幻覚とか幻聴はない?」
「大丈夫ですよ。白い粉は小麦粉。液体は木の実の汁ですから」
彼女は盾を近づけてくる。
なめる勇気はないが、鼻を近づけるとたしかに果実のような甘い香りがする。白い粉も小麦粉に見えてくるし、匂いもパン屋の店先を思い出させた。
「ナナツナ様。あれを見てください。黒い角だと思っていたものがなくなっています」
言われて見ると、謎の生物の頭頂部にあった黒い角が消えている。何度も突進したせいで折れたわけではなさそうだ。それなら黒い体毛を果汁かなにかで固めていたのだろうか。
「あの生き物は、角や毒がある凶暴な生物のように擬態していた?」
「おそらくそうだと思います。なんのためにそうしているのかはわかりませんが」
毒も角もない。
噛みついたり手足で殴ったりもしてこない。
殺傷能力がないのならあまり怖くない。
さながら空飛ぶ毛玉といったところか。
それなら謎の生物を無力化して正体を見破ってやろう。
そのためには……。
「ほんの一瞬でもいいから動きを止める魔法はある?」
「それならできます。なにか考えがあるんですか?」
「協力してほしいことがあるんだ。お願いできるかな?」
「はい! ナナツナ様のためなら!」
元気よく返事する彼女に耳打ちで策を伝える。
「ナナツナァー!」
その隙を見逃さない謎の生物。これまで以上の速さで一直線に飛んでくる。
「【六角6番】!」
負けじと声を張り上げる数字の魔女。
すぐさま彼女の手を取って走り出す僕。
こんな時だというのに、昔いっしょにかくれんぼした時のことを思い出した。
「ナナツナ様! 来ます!」
肩にかけていたスクールバッグを後ろに投げつける。
だが敵にあっさりと避けられた。
でも大丈夫。
なんとかたどり着いた。
鳥居をくぐってすぐにある手水舎へ。
「今だ!」
「【六角6番】!」
僕の声に合わせて数字の魔女が敵の進行をふさぐ。
その直後にまた呪文を唱える。
「【括りの9番】!」
どこからともなく細長い紐が出てきた。
その紐は、自ら意思があるように自由に動き回る。そして宙に浮く謎の生物に狙いを定めると蛇のように頭をもたげて勢いよく襲いかかる。謎の生物は飛んで逃げようとするが、紐も浮かび上がって追いかけていく。
「【括りの9番】は、動物を縛ることができる魔法です。体に傷をつけるほどきつく縛ることはできませんが、ほんの少しの間なら動きを止められます」
「おかげで助かったよ。あとは水をかけてやれば正体がわかるはず」
僕らが会話をしている間にも紐と謎の生物の距離は縮まる。
とうとう体に巻きついて完全に動きを封じ込めることに成功した。
だがそこで、にわかには信じられないことが起きた。
「は? なにあれ?」
球のように丸かった体から空気が抜けたように勢いよくしぼんでいく。タコやクラゲのように軟体なのか。巻きついていたはずの紐がどんどんゆるむ。
敵が脱出を図ろうとしているのは明らかだった。
このまま逃がすわけにはいかない。
これが失敗したら次はないんだ。
僕は手水舎に置いてある柄杓をつかんですぐに走り出した。
神様。神主さん。
罰当たりな人間ですみません。
でも、どうか今だけは見逃してください。
「柄杓アタッーク!」
縄抜け寸前の生物を思いきり叩くとカコーンと高い音が鳴り響いた。
「ヒイィィィィィン」
死にかけの馬のような鳴き声を発しながら謎の生物は参道の石畳に落ちた。
地面に叩きつけられたせいか、体型は元の球のように戻っている。
「や、やりましたか……?」
数字の魔女がゆっくりと近づいてきた。
「まだわからない。このまま様子を見よう」
油断はしない。
こんな見た目でも異世界の生物だ。
すぐに襲いかかってくる恐れがある。
しばらく待っても起き上がる気配はない。
さすがに心配になってきたので当初の計画通りに水をかけてみることにした。柄杓も本来の用途で使われた方がうれしいだろう。
水を一杯、二杯とかけていくと白い粉や毒々しい色の液体は流れ落ちる。次第に本来の黒い体毛が見えてきた。三杯目の水をかけていたところで、突然目を覚まして飛び上がる。
「ヒィン!」
また襲いかかってくるか?
僕は柄杓を剣のように構えて対峙する。
「ナナツナ様! 待ってください!」
数字の魔女が焦った様子で止めに入ってきた。
「今わかりました。この子は妖精です。昔から島に生息している生き物なんです」
「え? この毛むくじゃらの生物が?」
僕のイメージでは、小さな人間の体に蝶のような羽が生えているのが妖精だった。しかし、目の前にいる生物は黒い毛玉にしか見えない。
「木の実や花の蜜が好きな温厚な生き物なんですよ。ちょっと毛玉にそっくりですけど」
この見た目で甘いものが好きなのか。
正直、魚や獣を襲って生き血をすすっていそうだ。
「おうおう! さっきから毛むくじゃらとか毛玉とか好き勝手言ってくれるじゃねえか!」
謎の生物、黒い毛玉、もとい妖精が話に割って入ってきた。
「きゃあっ! しゃ、しゃべった!」
数字の魔女がひどく驚いた声をあげて僕の背後に隠れる。
「どうかしたの?」
「妖精は、人間の言葉を話さないはずなんですが……」
「じゃあ魔法の効果かな。たしか……5番の魔法?」
「いいえ。【語学の5番】は人間の言葉しか訳せません。鳥や獣の鳴き声はそのまま聞こえますし、先ほどヒィンと鳴いていたから間違いありません」
さっきの死にかけの馬のような悲鳴が妖精の鳴き声だったのか。
僕の中で妖精のイメージがどんどん崩れていく。
「おいおい。なんだよ。妖精が人間の言葉をしゃべるのがそんなにおかしいのかよ」
人間同士で勝手に話し合っていることに怒りを覚えたらしい妖精が抗議してくる。
「す、すみません。人間の言葉を話す妖精がいるなんて知らなかったんです」
「臆病な年寄り連中は人間に近寄ろうとしないからな。だが若い奴らの多くは、人間に興味があるんだぜ。俺みたいに言葉を話せる奴はまだ少ないけど、ちょっとずつ勉強してるんだ」
「そうなんですか。もし人間のことをもっと知りたいなら、ぜひ図書館に……」
言葉が止まった。
気になって彼女の顔色をうかがうと青ざめている。
「無理もねぇ。図書館は魔導書が保管されていた場所だからな」
妖精は体を左右に揺らして飛ぶ。
「魔女のねえちゃんには気の毒だが、悪い知らせがある。あんたがこっちの世界へ旅立った後、島の人間全員が魔導書にやられたぜ。もう生き残っているのは……あんただけだ」
それを聞いた数字の魔女は目に涙を溜めた。
だが決して流れないように唇を噛んでいる。