悪女は極上令息に溺愛される
コメディ色強めです(※当社比)
軽く読んでいただければ嬉しいです。
ここはデクスター侯爵家の応接室。繊細な輝きを放つ豪華絢爛なシャンデリアが大きな窓から入る昼の日差しを受け、部屋を華やかに彩っている。
その下で、この家の長女であるヴァレンティーナ・デクスターが二人の客人を前に優雅に紅茶を飲んでいる。雪のように白い肌に漆黒の髪色のコントラストが見事な少女である。夕暮れと夜のあわいを氷柱に映したような透き通った紫色をした瞳が鋭く目の前の人物を捉えたとき、客人の一人はごくりと生唾を飲み込んでこう切り出したのだ。
「婚約を破棄してほしい」
「お断りいたしますわ」
ヴァレンティーナは即答した。
――婚約破棄なんて常識的にありえませんわよね? 将来結婚するという「約束」なのですよ? 家同士で交わした契約書もきちんとありますし、どうしてその約束を簡単に反古にできると思われるのかしら? この方、常識を知らないのですわ。頭かちわって中身を検分して差し上げるべきかしら?
ヴァレンティーナは自称超常識人であり、悪名高い悪女でもある。
意外に思われるだろうが、彼女が悪女と呼ばれることを受け入れながらも、そのイメージに染まらぬよう常識を守ることを常に心がけていることを知る人はごく僅かだ。
デクスター侯爵家は違法取引や違法薬物、違法な人材雇用まで……商売をする中で法律を犯す人々の取り締まりを請け負っている。国王から全権を任されてまっとうしている立派な職務なのだが、その性質上、貴族からは嫌厭されて久しい。国からは感謝されているが、貴族の間では悪虐の限りを尽くす悪の一族として認知されているのが実状だ。
――しかもその隣のお方はどなたですの? 勝手に人の婚約者と一緒に人様の屋敷に上がり込んで名乗りもしないなんて常識がなさすぎですわ。先ほどから目に涙を浮かべて親を探す子猫みたいに震えていますけれど、目障り……あら。かわいらしいわね。
その子猫ちゃんをこちらに渡してくれるなら婚約破棄、考えてみようかしら?
ヴァレンティーナは可愛いものにも目がないのである。
彼女の婚約者であるアンドリュー・ウォーレス公爵令息が連れてきた子猫はユリア・ロジオン子爵令嬢。大きな瞳から涙が今にも溢れそうなほどである。
ヴァレンティーナが子猫ちゃんに目を向けると「ひいっ!」とさらに身体を震わせてアンドリューに縋りついた。するとアンドリューはユリアを庇うようにして前に出た。
「この子に危害は加えないでくれ。俺が、この子を好きになってしまったのがいけないんだ……」
――はぁ。好きになったから。それで? 私たちの婚約は「契約」ですわ。あなたに恋人がいようがいまいが守られなければならない「約束」ですわ。何を勘違いしていらっしゃるのかしら……。
「『好きになったから』という理由で私たちの婚約が破棄できると……?」
ヴァレンティーナがちらりと二人に視線を投げると、彼らは緊張した面持ちでヴァレンティーナを真っ直ぐ見つめていた。
「そう簡単にできるとは思っていない。思っていないが……僕たちは愛し合っているんだ。だから、君に身を引いてもらいたくて……」
ヴァレンティーナは自分の信じる常識に忠実だった。貴族の家同士の契約は、当事者ただ一人の感情だけで破られるべきものではない――と。正論である。
――なるほど、彼と彼女は相思相愛で、婚約などしてしまっている私が邪魔ってことですのね。なるほどなるほど……でもねぇ。
「婚約破棄を申し出る理由については理解いたしました。しかし、だからといってすぐに婚約破棄に同意はいたしかねます。第一に、婚約に際し貴家に莫大な資金援助をしておりますが、そちらに関してはいかがいたしますの? あなた様の都合で婚約を破棄なさるならすぐにでも全額耳をそろえて返却していただくのが筋だと思いますけれど」
ウォーレス公爵家は豊かな穀倉地帯を領地に持ち、堅実な経営も相まって潤っていたのだが、三年前に大規模な水害が起きたことから経営が傾き始めた。
資金をかき集めても足りず、国からの支援を受けても足りなかったため、資産が豊富なデクスター侯爵家に援助を頼みにきたのだ。
悪の一族と罵られるデクスター侯爵家的にもウォーレス公爵家と縁づけるのは益があった。それに、長女ヴァレンティーナの縁談についても、家の悪評のためなかなか進まない状況に頭を悩ませているところだった。
結局、お互いの利害が一致する形でヴァレンティーナとアンドリューの「婚約」という「契約」が成立したのである。
ヴァレンティーナの「持参金の前払い」という名目で送られた金品は相当な額となり、ウォーレス公爵家はそれを元手に領地の復興をしている最中なのだ。
「それは……返却する。領地を立て直して、絶対に払うから……」
「お話になりませんわ。不確かで見通しすら立っていない条件しか提示できない契約をするのはこちらが不利だとお分かりにならない? お帰りください」
「おとといきやがれですわ」とヴァレンティーナは満面の笑みで呟いた。
「常識をお守りくださいませ」
((あなたがそれを言うのか……))
悪虐の限りを尽くす悪女だと思い込んでいる二人の客人は、彼女の台詞に心の中でそう突っ込んで、すごすごと帰っていったという。
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場所は変わってこちらはヴァレンティーナの私室。父親の配下の三人が屋敷の中でも常に護衛として付き従っているので、彼女はその護衛たちに本日の顛末を話して聞かせていた。
「おかしいわよねぇ? 私、間違っていないわよねぇ? だから、頭をかち割って差し上げたほうがいいのかしらと思って……」
「姐御……! 頭かち割って差し上げるのは私がいたします!」
「私が!」
「いえ、私が!」
「「どうぞ、どう……」」
「お黙りなさい」
「「「イエス、マアム!」」」
どうやら、ヴァレンティーナの少し変わった物言いは、この護衛トリオが仕込んだものらしい。心根は優しいし、腕っ節はいいし、荒事にも慣れているのだが、そのためなのか少しばかり口が悪い。幼い頃から共に過ごした時の長さがヴァレンティーナの言葉使いに表れていた。
「『姉御』という呼び名は常識的には間違っていますわ。『お嬢様』とお呼びなさい。何度言えばわかるのかしら? お馬鹿さんたちね」
「「「イエス、マアム!」」」
そして少し、なんだかズレているのがヴァレンティーナらしさである。
「あと、あなたたちのさっきのやりとりは何かしら? ……常識?」
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ここに常識にとらわれない男がいた。
男の名は自称レオ・アダム。大規模な水害の被害を受けた穀倉地帯で復興支援を行っていたのだが、一ヵ月前に王都まで戻ってきたところである。
彼は尋常ではない顔の良さのため、様々な女性と付き合っては別れてを繰り返していた。
「私のこと好きじゃなかったの!? じゃあ、どうして結婚しようなんて言うのよ……!」
ひと月前に王都に帰ってきたばかりなのに、もうそこに住む女性と別れ話をしているらしい。
「もちろん好きだったし、結婚したいって本気で思ってたさ。君が僕じゃない誰かと浮気をしてるって知るまではね。不誠実な女性とは結婚できないから、別れてほしい」
「……だって、あなたが仕事ばかりしてるから寂しくてつい……あなたのせいよ。責任とって結婚してよ……私が好きなのはあなたなのよ……」
「いや、それは……。論理が破綻しているって自分でわかっているだろう? でも、仕事もあなたも大切だったのに、それを伝えきれていなかった僕にも反省するところはあるよね」
女性はテーブルを見つめていた顔を上げて、男に期待の視線を寄せる。
「でも、ごめんね。あなたを妻にはできない。お互い、この失敗を次に活かそう。じゃあね。さようなら」
「…………」
女性は泣き崩れていた。レオにとっては一度好きになった女性なので、心が痛まないでもなかったが、仕方ないと自分に言い聞かせた。
――僕は君との将来のために忙しくしていたし、そのことは伝えていたはずだけど。聞いてるようで聞いてなかったんだな。彼女のそういうふわふわしたところも可愛く思っていたけど、こうなってしまった今は、欠点にしか思えないなぁ。
レオは女性と話していたカフェを出て、王都の街をあてもなく彷徨い歩いた。
――女性たちはみんな揃いも揃って感情的で……もう少し理性的に話ができる人はいないものか……。
レオは、実家から長男が結婚するから戻ってこいと言われていた。しかし、戻ってしまったが最後、家のための結婚をするしかなくなるだろうことが想像できた。
――そうだ。契約婚約なんてどうだろう? 好きな人ができるか期限がきたら解消できるように……。利害が一致する相手と契約を結べばいい。
街を歩けば、「悪女がついに婚約者から婚約破棄を申し出られたけど、それを拒否した」とそこかしこで噂されている。
――そうだ。彼女なら――!
レオは計画を練るため仮住まいへと戻ることにした。
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その日は王宮で舞踏会が開催されていた。
……それにも関わらず、ヴァレンティーナはパートナーも連れずに会場入りした。常識はずれの行動ではあるが、婚約者との交渉は決裂したままだから仕方がなかった。
一方で当の婚約者は例の子猫と連れ立って仲睦まじく寄り添っている。
当然周囲はざわついている。「ついに悪女が捨てられた……!」とヴァレンティーナに対して不敬な発言をする者すらいる。
ヴァレンティーナは好奇の目を向けられることに疲れてしまった。人目を盗んで会場から離れ、人気のないバルコニーへと逃げ込むことにした。
外の空気を吸うと、胸にわだかまっていた黒いモヤが綺麗に澄んでいくようだった。
深呼吸して黒いモヤを浄化していたヴァレンティーナの下に、人が近づいたのはそんな時。
「月が綺麗な夜ですね」
そう声をかけられ、ヴァレンティーナは咄嗟に空を見た。夜空にぽっかりと穴をあけたように浮かぶ月が確かに綺麗だった。
「そうですね。……ですが、あなたはどなたですか? 死角からいきなり話しかけてきて失礼ですわよ」
「失礼いたしました。レオ・アダムと申します」
妖艶な笑みを見せるこの人は、護衛トリオが教えてくれた「チャラ男」という人種ではないかとヴァレンティーナは思った。
――顔が良くてモテそう。スラっとしていて立ち姿も素敵だし、声もとても好みだわ。それに笑顔が美しいわね。これは護衛トリオが言っていた人種に相違ないわ。
客観的に見た印象は「顔が良くてモテそう」という部分だけで、あとは自分の好みの話にズレてしまっていることには気づかないヴァレンティーナである。
――チャラ男には気を許さないように、と言っていたわね。気を許さない、許さない……気を許さないってなに?
脳内で迷走しながらもヴァレンティーナは律儀に名乗った。
「はじめまして。わたくしはヴァレンティーナと申します。デクスター侯爵家の長女ですわ。それで、月のお話でしたかしら?」
「ええ」
「綺麗な満月ですわね。輝いていますわ」
「そうですね。……あなたは月の女神のように美しいですね、と……どうしても伝えたかったのです」
「月の女神とはどのような方なのでしょうか? わたくし、お恥ずかしながら拝見したことがなくて」
ヴァレンティーナはそこまで話し、レオに視線を向けて、困惑しているような様子を表情から読み取る。
実際は今のヴァレンティーナの返答を反芻していただけだったのだが……。
「あ、申し訳ありません。比喩でしたか? それほどまでにわたくしが美しい、っておっしゃりたいので間違いないですか?」
ヴァレンティーナはただ事実確認をするように質問する。情緒などあったものではない。
これには百戦錬磨のレオも戸惑っているのではないかと思われる。
「はい。その通りです」
「ああ。雰囲気を壊してしまいましたわね。舞踏会に参加するからしっかりお勉強はしてきたのですが……ごめんあそばせ。わたくし、あまり普通の会話に慣れておりませんので、練習中ですの」
「れんしゅ……」
――だめだ。可愛い。降参だ。
レオは戸惑うどころか、ヴァレンティーナとのズレた会話を楽しんでいたようである。案外この二人、相性がよさそうだ。
「あの……、デクスター嬢」
「はい。なんでしょうか?」
「私のこと、どう思います?」
ヴァレンティーナはレオからの唐突な質問にたじろぐが、先ほど感じたままを丁寧な言葉に変換して答えることにした。
「ええと、お顔がとても麗しいのでたくさんの女性を魅了しそうですわ。あと、美しい身体つきをされていて筋肉も素晴らしいですし、声がとてもわたくしの好みです。そして笑顔が艶美ですわね。わたくしなどよりもよっぽど」
これを聞いてレオは赤面した。こう聞いたら大体自分のことをどう思っているかがわかる。……はずなのだが、ヴァレンティーナは淡々と理性的に話すので、そこに込められた感情までは読み取れなかった。しかし、もらった言葉を振り返ってみると、好意は少なからず持たれているようである。
レオは褒め言葉や外見を称賛する言葉は数多く聞かされてきた。しかし、これまでこんなに率直でストレートでときどき変な言葉選びの称賛をもらったことはあっただろうか。
本当にそう思っていることが伝わってとても嬉しく、こんなにも心に響いたのは初めての経験だった。
「お褒めの言葉、ありがとうございます……」
――悪女がこんなに擦れてなくて可愛いなんて誰も想像しないよなぁ……。ああ、これはまずいかも。
まずいどころかとっくに堕ちてしまっているレオだが、百戦錬磨の経験にかけてあと一押しくらいは頑張ってもらいたいところである。
「貴族相手の会話、『練習』しているのでしたよね? そのお相手、私に務めさせていただけませんか?」
「『練習』のお相手、してくださるのですか⁉︎」
ぱあっとヴァレンティーナの表情が明るくなる。
純粋そうな瞳に見つめられるとつい目を逸らしたくなる小さな罪悪感はあったが、この機を逃すつもりはないレオである。
「ええ。いいお相手になれると思います」
「よろしくお願いいたしますわ!」
悪女なのにこの純粋さが心配になったレオだったが、悪女だからこそ他者との接触が少なく、純粋なままでいられたのかもしれないとも思った。
――違うな。結局俺は、そのままの君が――。
その先は言わずもがな、である。
✳︎✳︎✳︎
「姐御……いえ、お嬢様。それは紛れもなく『デート』っす」
「っす」
「うす……涙」
舞踏会の日、専属護衛は会場内への付き添いを禁じられていたため、外で馬車と共にヴァレンティーナの帰りを待っていた護衛トリオは、愛するお嬢様が男性にエスコートされて戻ってくるのを見て呆然とした。
男に寄り添うヴァレンティーナは頬を染めて幸せそうに笑っていたのだ。
顔が怖い三人組は、その生まれつきの威圧感を遠慮なく発揮して威嚇しようとしたが、顔が良すぎる男に鋭く見つめられて怯んだ。
その一瞬の隙をついたレオは慣れた手つきでヴァレンティーナを馬車に乗せ、最後に「手紙を書くよ」と言葉を残して甘く微笑んだあとに扉を閉め、護衛トリオに向き合った。
「レオ・アダムと申します。デクスター侯爵宛にヴァレンティーナ嬢と共に外出することを許可いただけるよう手紙を認めますので、よろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げた。完璧な対応だった。
その日に護衛トリオは悟った。「やっとヴァレンティーナお嬢様にも白馬に乗った王子様がやって来たのだ」と。
只者ではないオーラを感じたし、ヴァレンティーナを悪女として貶めている様子は微塵もなかった。むしろ優しく丁寧に、まるで恋人をエスコートしているかのように大切に触れているように見受けられた。
ヴァレンティーナも満更ではない様子だった。これは良縁に違いない。護衛トリオはレオ・アダムなる人物を応援することにした。大切なお嬢様の幸せを願って――。
レオからの手紙はそのあとすぐに父親の元へと届けられ、レオの願いは聞き入れられた。
ヴァレンティーナの父は「おもしろい男に見染められたなぁ。さすが私の可愛いヴァレンティーナだな」なんて親バカ発言をしていた。ひとりごとだったが。
そして、その旨を護衛トリオがヴァレンティーナへと伝えていたわけだが――。
「デ、デートですの!? ただの会話の練習では? レオ様はそうおっしゃっていましたわ……」
護衛トリオが大事に守り育てて来たので、ヴァレンティーナは驚くほど純粋で初心だ。ヴァレンティーナの父親から許可は出ているから素性も問題ないだろうし、あの舞踏会の日の誠実な様子を鑑みるに安心して大丈夫だろうと判断を下した。
ただ、大切なあまり過保護になっていたかもしれないことは否定できない護衛トリオは、最後のその責任を果たそうとしていた。
「いいえ、お嬢様。言葉には『本音と建前』というものがあるとお教えしましたよね?」
「ええ。習ったわ。舞踏会の日もそれで助かっちゃったもの」
「それはよかったです。では、それを恋愛にも当てはめてください」
「恋愛? うーん、よくわからないわ……」
「大丈夫。レオ様が教えてくれます。ただ、『駆け引き』という名の『本音と建前』が存在しますので、しっかりと本音を見極めてくださいね」
「駆け引き……」
「そう。今日はレオ様が『会話の練習』にかこつけて『デートの約束』を取り付けたという構図です」
「ええ……」
「お嬢様、がんばって……」
「待って。私、婚約者がいる身なのに、他の男性とデートだなんて……常識的にありえなくないかしら?」
✳︎✳︎✳︎
デート当日。
本日を迎えるまで「婚約者がいる身でデート」は常識の範囲内であるか否か? という議題について熱い議論を交わした護衛トリオとヴァレンティーナ。結局は、父親の「私が許可しているのだから問題ない」という一言で納得することとなった。
ヴァレンティーナは初のデートだったため、それはもう勉強した。常識の範囲内で。
――準備は万端。どこからでもかかってきやがれですわ。
迎えた当日。ヴァレンティーナは高位貴族の令嬢らしく、美しい外出用のデイドレスを身に纏い、レオの迎えを待っていた。
そわそわする気持ちを持て余しながら自室で紅茶を飲んでいると、護衛からレオの到着を告げられた。
「いざ、出陣ですわ!」
そんな言葉を残して邸を出たヴァレンティーナ。見送る護衛トリオは全員涙を流していたとかいなかったとか――。護衛のために隠れてついていくのにも関わらず。
辻馬車でデクスター侯爵家まで迎えに来たレオは、邸から現れたヴァレンティーナを見て心からの笑みを浮かべた。
――可愛い。可愛いが過ぎる。ほんと、高位貴族の令嬢でこんな子がいるなんて聞いてない……!
レオはヴァレンティーナを丁寧にエスコートし、一緒に馬車へと乗り込んだ。
「ヴァレンティーナ嬢、とお呼びしてもいいですか?」
「……ティーナ、で構いませんわ」
「……! ありがとうございます! ではティーナ、今日はいろいろお店をまわりながら会話の練習をしましょう。行き先は私にお任せください。そのほうがきっと楽しいので」
「ええ。わかりましたわ。よろしくお願いしますね、レオ」
「かしこまりました。では、最初は……」
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二人が最初に向かったのはドレスショップ。……といっても、平民にとっては憧れだけれど、貴族にとっては安価すぎる、そんな店だった。
お家柄、裏社会に精通しているヴァレンティーナはこういう店に全く忌避感はない。しかし、貴族の「常識」的には、訪れるべき場所ではないとヴァレンティーナは認識している。
いかにも貴族らしい貴族であるレオに連れて来られるのは想定外の店だった。
「あの、レオ……」
どうしてここへ来たのか、その意図を確認しようとしたところ、店のマダムに声をかけられた。
「あらー! ヴァレンティーナお嬢様! お久しぶりですねぇ」
マダムはにこにこと相好を崩してヴァレンティーナたちに歩み寄った。
「こんにちは。お久しぶりです」
「こんにちは。マダム。ティーナとお知り合いですか?」
「あらあら! レオ様もご一緒でしたか」
マダムは一瞬心配そうな顔を見せるも、慌てて営業スマイルで気持ちを覆い隠して説明した。
「ヴァレンティーナ様は私どもの味方ですもの。恩恵を受けていない店はこの辺りにはありませんし。お貴族様たちには『悪女』などと言われているようですが、私たちには可愛いお嬢様でしかありません。幼い頃から成長を見守ってきましたからね。みんなヴァレンティーナお嬢様には幸せになってほしいと思ってるんですよ」
最後のほうは心なしか自分に非難の目が向けられ、釘を刺された気がしたレオである。
レオは平民や中間層が集まるこの界隈でイケメン貴族として名を馳せており、知らない者はいないほど有名だった。特に、短期間で恋人を作って捨てたチャラい男として――。
――大丈夫。彼女のことは本気も本気。いや、今までも本気じゃなかったわけじゃないんだけどな……。
心の中で誰に対してなのかわからない言い訳をするレオである。
――それより、やはりヴァレンティーナは「貴族の常識」をよく知らないんだな。
ヴァレンティーナの常識は貴族の常識からちょっとズレていた。それは、幼い頃から親について平民たちと関わることが多かったことに起因するのかもしれない。
――貴族が違法に搾取するとしたら、それは弱い立場の人間から……。だから、ここいるマダムたちみたいに助けた人たちからは慕われるが、取り締まる対象である貴族とは敵対してしまうわけだ。
「悪女……」
悪女とは誰に対してなのか? そう考えてレオは沈黙した。
――ティーナが今日着ているドレス。可愛いけど、ティーナが好きで着ている様子じゃないし、何より……。
ヴァレンティーナは知らなかったのだ。貴族が貴族らしい豪奢なドレスを着て外出するのは、お茶会や舞踏会を始めとする社交の場のみだということを。カジュアルな外出の場合は貴族であっても社交用の豪華なドレスではなく、一人でも着られるようなワンピースを身につけることが主流なのだと。
――なら俺が、教えてあげる。
レオははりきってマダムに目配せした。
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ヴァレンティーナは過去を思い出していた。
貴族たちから「悪女」と呼ばれ始めた頃のこと。ヴァレンティーナだけではない。父も母も、一家に属する人間はみんな悪人と呼ばれてしまう。
悲しかった。どうしてそう呼ばれるのか。考えて、勉強して、わかった。デクスター侯爵家は「貴族を取り締まる貴族」だからだと。父は誰もやりたがらないことを国王陛下から請負い、正しく仕事をまっとうしている。だから、貴族から不当に搾取されていた人たちからは英雄扱いだ。ヴァレンティーナも可愛がってもらっていて、貴族の世界よりもそちらのほうが居心地がいいくらいだった。
けれど、ヴァレンティーナは貴族だった。同じ貴族たちからいくら罵られようと、彼らには絶対的に必要な貴族だ。なんて素晴らしい仕事なのだろうと思った。父を、デクスター侯爵家を誇りに思った。
だから、精一杯貴族をすることにした。貴族は「貴族らしさ」を重要視するから、貴族の「常識」に敏感になった。嫌われていたから、あまり効率よく学べなかったけれど、周りに言われた言葉によく耳を傾けて、貴族の自分を作っていった。
本当のヴァレンティーナは、可愛いものが大好きだった。けれど、ヴァレンティーナが選ぶドレスは「悪女には似合わない」と言われた。仕方なく可愛いドレスは諦め、悪女らしいドレスを選ぶようになった。
でも、悪女と呼ばれるからといって、本当の悪女になってしまうのはだめだ。常識を守れる悪女になろう。弱い立場の人にいつでも手を差し伸べられるように――。
レオに連れられてきたドレスショップにて、ヴァレンティーナは着替えを要求された。女性にドレスを購入することがデートの鉄板であると学んで知っていたので、ヴァレンティーナは素直に頷いたのだけれど。レオが「悪女……」と呟いていたので、てっきりまた悪女らしいドレスを着せられるのだろうかとしょんぼりしていたところ――。
着替えを終え、鏡に映った自分を見たヴァレンティーナは、ぎこちない笑みを浮かべた。
身に纏っているのは可愛いワンピース。ヴァレンティーナには似合わないと言われた、ピンク色で、レースが付いていて、ふんわりしている女の子らしいワンピースだ。
――これは、常識はずれなのでは……?
「あらぁ。ヴァレンティーナお嬢様にぴったりですねぇ。お優しくて可愛らしいお嬢様らしさがワンピースの雰囲気と合っていてとても素敵です」
マダムにべた褒めされて気恥ずかしい。
――似合ってるって……。本当に?
ヴァレンティーナは恥ずかしくも、嬉しかった。自分が着たかったのはこんなワンピースだったと思い出したのだ。
「本当によく似合っている。可愛いよ。いつものドレスもいいけど、こっちのほうがもっといい」
「ええ、ええ。私もそう思いますよ、ヴァレンティーナお嬢様にはこういう雰囲気がぴったりです。あなた、意外とわかってるわね」
「私の目に狂いはないですよ。特にティーナのことに関してはね」
マダムとレオの会話から、このワンピースはレオが選んでくれたものだと知れて、驚いた。
同時に、レオから見たヴァレンティーナはこの可愛いワンピースが似合う女の子なのだと思うと、胸のあたりがくすぐったくなった。
「レオ……。ありがとう……」
――常識はずれって、幸せね。
感謝の気持ちを伝えなければと思えば思うほど、シンプルな言葉しか出てこなかった。
照れながらも喜んでいるヴァレンティーナは女性から見ても大変可愛い生き物だった。
マダムは不安になって横にいるチャラ男を見ると、予想以上に顔が溶けていた。
大切なヴァレンティーナお嬢様に変な男を近付けるわけにはいかないという一心で、マダムはチャラ男にこっそりと声をかけた。
「あなた、お嬢様に本気なんです?」
チャラ男もといレオは、溶けた顔を元に戻し、真剣な表情で宣言した。
「もちろん本気です。ティーナの気持ちさえこちらに向いてくれれば、結婚を申し込む準備はできています」
「無理矢理は絶対に許しませんよ」
「誓って無理強いはしません」
「悲しませたら許しませんよ」
「肝に銘じます」
「よし」
二人の間でそんな会話がなされていることなどつゆ知らず、ヴァレンティーナは鏡を覗き込み、そこに映った理想通りのワンピースを着る自分の姿を嬉しそうに眺めていたのだった。
✳︎✳︎✳︎
その後もレオはヴァレンティーナの反応をつぶさに観察して、彼女は可愛いもの、甘いものが好きだと気づいた。
どこの店でもヴァレンティーナは歓迎され、その度に恥じらいながらも嬉しそうに反応するヴァレンティーナを見ることができた。その姿が可愛いでは言い表せないほど可愛くて、貴族街に連れて行かなくてよかったとレオは自分の判断を褒め称えた。
一方のヴァレンティーナも、デートはこんなにも楽しいものなのかと夢中になった。
全てが初めての経験なので自信がない。けれど、この胸で育っている気持ちは「そう」なんだとヴァレンティーナは感じていた。
デート自体が楽しいのではなく、レオとデートをしているから楽しいのだと――。
「今日は楽しかったかな? それで、会話の勉強にもなっていたら嬉しい」
「はい、とても楽しかったです! 私、今日はとても自然体でいられたと思うんですが、どうでしたか?」
「よかった! そうだね。とても自然だったと思うよ。いきいきしていた」
「ですよね! ……レオのおかげです。レオのおかげで、いつもみたいに『常識』を考えずにいられたから」
「どんなティーナも魅力的だよ。でも、今日みたいなティーナが本来のティーナなのだとしたら、ちょっと心配になるかも」
「心配ですか……? どこか変でしたか?」
「ううん。変じゃない。可愛すぎて、他の男にとられそうで心配ってこと」
ヴァレンティーナの顔はみるみる赤くなった。
レオの言いたいことは正確に伝わったらしい。
「好きだよ。ヴァレンティーナ。正直、一目惚れだった」
ヴァレンティーナは直球の告白に驚き、歓喜した。
「私も……。好き……なんだと思います。レオのこと」
ずっとそうであれと願っていた言葉をヴァレンティーナからもらえて、レオは快哉を叫んだ。
「やっ……た! 本当に⁉︎ 嬉しい! ちゃんとよく考えた?」
ヴァレンティーナが好きだと言ったことで、レオが声を上げて喜んでくれた。こんなに嬉しいことはないとヴァレンティーナは思った。
――やっぱり、この気持ちは「好き」なんだわ。
「ええ。こんな気持ち、この先レオ以外の誰に対しても抱ける気がしません。レオが好きです」
ヴァレンティーナがそう言い切ったとき、レオはたまらなくなってヴァレンティーナをきつく抱きしめた。
ヴァレンティーナは驚いたけれど、初めて感じる好きな人の温もりを心から喜んで受け入れた。
これが帰りの馬車の中で起こったできごとでなければ、きっと護衛トリオが号泣しすぎて職務をまっとうできなくなっていたことだろう。
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それからレオは忙しくなってしまい、主に手紙のやりとりで二人は仲を深めた。
会えないことは寂しかった。けれど、初めての恋に浮かれているヴァレンティーナには手紙のやりとりですら楽しかったので、そんなに不安になることもなかった。
しかし、大きな不安はそういうときに突如として外からやってくるものなのだ。
――数日後。
ここはウォーレス公爵邸の応接室。細やかな輝きを放つ小ぶりのシャンデリアが窓から入る朝の日差しを受け、キラキラと光を放っている。
その下で、この家の長男であるアンドリュー・ウォーレスが二人の客人を前に緊張した面持ちで紅茶を飲んでいる。麗しい金髪は手入れ不足で少々艶を損なっているようだが、蒼白となっている顔の造形はすこぶる良い。
目の前にいる客人の夕暮れと夜のあわいを氷柱に映したような透き通った紫色をした瞳が鋭くアンドリューを捉えたとき、彼は腹を括った。ごくりと生唾を飲み込んでこう切り出したのだ。
「ヴァレンティーナ、婚約を破棄してほしい」
「……お」
ヴァレンティーナが彼の言葉に答えようとしたとき、応接室に来客の知らせが届いた。
部屋に控えていたウォーレス公爵家の執筆が扉を開けると、入ってきたのはそこにいる全員がよく知る人物だった。
「え……なぜレオニードがここに……」
ヴァレンティーナは驚きに言葉を失っていたが、アンドリューの呟きはしっかりと耳に入っていた。
「レオニード……様……?」
ヴァレンティーナは聞こえた単語を繰り返した。確かにその名前は知っている。でも、目の前に突然現れた人物とは結びつかない。頭の中での情報処理が追いついていなかった。
「ティーナ、隠していてごめんね。僕はレオニード・ウォーレス。この家の次男。そこにいるアンドリューの弟だ」
ヴァレンティーナがレオと呼んでデートして、想いを通わせて手紙を送り合っていた人物は婚約者の弟だったということだ。
「レオニード、どういうことだ」
「あとで説明する」
アンドリューの問いかけに応えるレオニードは、視線と身体は変わらずヴァレンティーナに向けたままだ。
「おい、お前、兄に向かって……」
それが気に入らなかったのか、アンドリューはレオニードの肩を掴み、自分のほうへと身体を向けようと腕に力を入れた。……が、レオニードの鍛え上げられた屈強な身体はびくともしなかった。
「弟の幸せを思うなら」
レオニードは仕方なさそうな顔を兄に向けて言った。
「ちょっと黙っててくれる?」
今までレオニードは兄を敬ってきたし、このように雑に扱ったことはなかった。
公爵家の後継となる長男と何も持たない次男の間には大きな壁があり、それを理解していたレオニードはいつも兄を立てていた。
弟の突然の変化に戸惑ったアンドリューは息を呑んで黙り込んだ。話の主導権を渡すしかなかった。
「ヴァレンティーナ、これをあなたに」
レオニードはヴァレンティーナの前に跪き、背に隠し持っていた花束をヴァレンティーナの目の前に恭しく掲げて見せた。
レオニードがアンドリューに抗い、頑として身体の向きを変えようとしなかったのはこのためだった。
ヴァレンティーナを驚かせ、喜ぶ顔が見たいがために――。
「どうか、私と結婚してください」
ヴァレンティーナは突然のできごとに驚いていたが、答えは考えずとも出ていた。
――そうだった。この人に常識なんて通用しないのだったわ。
ヴァレンティーナは満面の笑みで可愛らしくラッピングされた真っ白なユリの花束を手に取った。
「はい。よろしくお願いいたします」
二人はお互いを見つめ合い、微笑み合った。
胸が温かくなるような光景を目にして、ヴァレンティーナの父親はハンカチを手に静かに号泣していた。娘の嫁入り先にここを選んでよかったと――。
アンドリューは状況を呑み込めず、ただ呆然としていた。本気でデクスター侯爵家から援助してもらった金を返すつもりで動いていて、最近ようやくその目処が立ったところだった。主に弟がよく働いていてくれたおかげで――。
レオニードはヴァレンティーナの耳元に口を寄せ、何かを嬉しそうに囁いた。それを聞いたヴァレンティーナは瞳を輝かせ、レオに向けて一層美しい笑みを浮かべた。
そしてその光景をただ眺めているアンドリューに向けて、先ほど伝えようとした言葉の続きを紡いだ。
「婚約破棄はお断りいたします」
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実はウォーレス公爵家とデクスター侯爵家の契約では、「ウォーレス公爵家の後継となる者にデクスター侯爵家の長女を嫁がせる」となっていたのだ。
ヴァレンティーナを好きになってからその事実を知ったレオニードは腹を括り、兄に代わってウォーレス公爵家を継ぐことにした。
元々兄より素養があったレオニードは、領地で「レオ・アダム」として復興に心血を注ぎ、高い評価を得ていた。その功績が認められ、父親から後継になってくれと何度も打診を受けていたのだ。
婚約破棄をせずとも婚約者となったヴァレンティーナとレオニードは、その後なんの障害もなく結婚した。
ユリアと結婚したアンドリューも、ウォーレス公爵領で今後の水害対策についての研究で成果を出し、二人を大いに助けることとなった。
ヴァレンティーナが手に入れたものは、彼女が思い描いていた以上の、常識はずれな幸せだったという――。
Fin.
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