【初回】2017-05-29 13:48:50【最終掲載日時】2017-09-17 12:48:06:彩√
傷口から溢れた血液は止まることなく、溺れてしまいそうな温かな血の海ができている。薄れいく意識のなかで私は世界を恨んだ。
***
早朝の静かな商店街のゲートを抜けて慣れた足取りで大通りを行く。交差点で信号待ちをしていると、制服姿の学生が募金を呼びかけていた。ポケットティッシュだけを受け取りチラシはいらない。遠くの大鳥居を目印に大通りから外れ石畳に整備されたレトロな街道を歩く。車両通行禁止の標識は曲がり、古い民家が窮屈そうに立ち並んでいた。観光客は高そうなカメラで風景を切り取っている。何気なくレンズの先に視線を向けると細い脇道があった。
「こんな路地があるなんて知らなかった」
住居は短冊型に区画され路地は奥深くに続いている。好奇心から薄暗い路地をカニ歩きで進んでいく。錆びついた看板や倒壊しそうな家屋。野良猫が不審者の俺を睨みつけていた。昭和で時の止まった路地の光の先には一軒分の空間がぽっかりと空いている。行き止まりだった。雑草が生い茂り売地の看板が斜めになっている。
「この隠れ家は買い物するのも一苦労だな」
興味を失くし独り言を呟く。踵を返そうとすると生暖かな風が路地から流れ込んだ。
「みつけたー」
気の抜けた声が空間に響く。耳鳴り。割れてしまいそうなほど頭が痛い。腹部に激痛が走った。立っていられずうずくまる。脂汗が流れる。誰かの気配がした。痛みを堪えながら気配に視線を向ける。見慣れない制服を着た少女がぽつりと一人立っていた。人でないと瞬時に理解した。
「大丈夫?」
「……お前は誰だ?」
少女は下着の見えてしまいそうな短いスカートを押えながらしゃがみ込み視線を同じにする。可愛らしくニコニコと笑っていた。その姿がより一層不気味に見えた。憑依しようとしている。遠ざかる意識。
「これからよろしくねー」
目が覚めると草むらの上で大の字になっていた。すでにあたりは暗い。空に光る星とドット絵で作ったような歪な月だけが照らしていた。痛みはもうなかった。不思議な体験は初めてではない。立ち上がり体についた草を払う。行きは短く感じた道のりも帰りは長く感じ、人工的な明かりが見えたとき安心した。提灯が風で揺れている。客の少ない寂れた屋台の暖簾をくぐり席に着くと注文をした。セルフで水を汲み飲み干す。口に砂でも入っていたのか苦かった。油で汚れた机に香辛料や調味料、天かすが置かれていた。「へい、お待ち!」ラーメンと白飯が運ばれてきた。朝から何も食べていない空きっ腹にラーメンは少し重い。白飯の扱いに困ったが天かすと調味料でたぬき飯にした。見たことのない店だがこれで1000円は高いと思った。悪いことが続く。椅子を一つ挟んだ席に制服姿の少女が座っていた。「……年ぶりのラーメン。おいしー」とか言いながら食べていた。人ではない気がした。妖相手の屋台を噂で聞いたことがある。もしかしたらここが噂の屋台なのかもしれない。人々は飲み屋街に流れ始め大交差点では客引きの声に変わっていた。不審者がいないか警察官が目を光らせている。眠らない街。喧嘩の原因はわからないが酔っ払い同士怒鳴りあっていた。連れらしき人々が必死で止めている。「わーたいへーん」後ろを振り返ると警察官が仲裁に入っていた。虚無僧の調子はずれな尺八の音が聞こえる。「へたくそだね。もっと練習しよ?」少女の声からも逃れるよう橋を渡る。橋の丁度中央で立ち止まると川の両端に沿ってぼんやりとした光が点々と連なっていた。目を凝らしてみると水辺に等間隔で座る人々の情報端末の光だった。尺八の音が耳から離れない。今日は厄日だ。橋を渡り終えると地下へ続く螺旋状の階段を下る。タイル張りの地下道は薄暗く切れかけの蛍光灯が点滅し不気味な音を立てていた。靴音が響く。迷い込んだ虫が力尽き地面に転がっていた。コツコツカツカツ同じスピードで靴音が続く。案内板を確認するふりをして立ち止まる。コツコツコツ、人か妖かそれは立ち止まることなく通り過ぎていった。異様な雰囲気だった。安堵のため息をつく。地下道は途中で閉鎖されていて行き止まりだった。柵の向こう側は真っ暗闇で足音が遠ざかる。「道に迷っちゃったー」遠くで聞こえる。情けなく悲鳴を上げそうになったが必死で堪え早歩きで地上を目指す。風に流され転がる空き缶を踏んでしまい転びそうになる。荒い呼吸。大通りに戻って来ると大勢の人がいて安心した。息を切らしながら自宅へ駆け込むと幽霊相手に効果がなくても扉を頑丈に施錠した。家中の明かりを灯し居間のテレビを大音量にすると大の字で寝っ転がる。吹き出す汗が体を冷やし冷静さを取り戻した。自動湯沸かし機の無機質な声に誘われ浴室へ移動する。乱暴に服を脱ぎ捨てると風呂場に入りシャワーの蛇口をひねる。勢い良く飛び出す大粒の水滴は痛いほどだった。目を瞑りジッと修行僧のように水に打たれる。
「いいお湯だねぇー」
背筋の凍るような少女の声が浴室にこだまする。恐る恐る目を開けると濃霧のような湯煙で視界が悪い。ただ、浴槽でバシャバシャと水音がするだけだった。
「シャワー変わってほしぃー」
水の滴る大きな音がすると背後に気配を感じた。好奇心に駆られ振り返りたくなる。俺が答えを出す暇もなく少女の幽霊は俺に抱きついた。冷たく柔らかな弾力が背中から伝わる。
「ねぇ? シャワー変わって?」
俺は少女の幽霊に場所を譲り湯船に浸かる。母親のシャンプーを借用し鼻歌混じりに泡立てると柑橘系のいい香りがした。
「男の子には刺激が強すぎかなー?」
少女の幽霊は湯煙を切り裂き狭い湯船に浸かろうとする。肩まで伸びる栗色の濡れた髪は妖艶だった。メロンを思わせる大きな膨らみを腕で隠しながら、くりっとした瞳に見つめられると鼓動が高鳴る。
「??? もしかして私のこと見えてない? ラッキー」
上目遣いの少女の幽霊は俺の髪を引っ張ったり、頬をつねったりしている。夢か現か。のぼせた俺は湯船から逃げるように這い出した。
***
冷房の効いた快適空間の自室は猛暑とは無縁で、俺はベッドにうつ伏せになりながら雑誌を読んでいた。あれから1週間は経過しただろうか少女の霊は未だ取り憑いる。最初は可憐な女の子が憑依してうれしーとか頭の中がお花畑だったが、考えが甘かった。同居人の鬱陶しさから怒りで体が熱くなる。冷たい部分を探すように寝返りを打ち仰向けになった。
「私、喉乾いちゃったー。ねぇ、お茶買ってきてくれなーい?」
「はぁ? お前幽霊のくせにお茶飲めるのか?」
「飲めるし。早く買ってきてぇ? お・ね・が・い」
ぶりっ子する少女の幽霊は真新しそうな見慣れない制服に身を包んでいる。スカートの丈はパンツが見えてしまいそうなほど短く、ルーズソックスを履いていた。ひと昔前の言動が目立ち、きっと生前はチョベリバとか言っていただろう。援助交際とかしてそう。
「い、今、アンタ、私が援交していたとか思ったでしょ!」
顔を真赤に染めた少女の幽霊は俺に殴りかかってきた。物理干渉ができるので当たると痛い。そして、困ったことに憑依されると俺の思考や記憶を読み取られてしまうことがある。
「そんなこと思ってないから落ち着けよ」
「ふぅーん……あなたが思っているより私は無垢だよ?」
「わかった、分かった。俺が悪かった」
目の前の生意気な少女が無垢ならば、浴室で素肌を晒すことはできないのではないかと疑問を感じずにはいられなかった。疑いの視線を向けると何故か頬を朱に染めた少女と目が合う。
「あなたは私に早く出て行って欲しいと思っていること知っているよ? 私の復讐が終わるまでの辛抱だから安心して」
「復讐なんて初耳だぞ?」
「私がよろしくって言ったから契約完了だよ?」
悪質な契約だった。今すぐクーリングオフしたい。チョベリバ。いま言うと寒い。このままでは少女の幽霊の復讐に巻き込まれてしまう。
「私刑は禁忌だと聞いたことがある。神様から罰を受けてもしらないぞ?」
「神様なんて……存在しないよ?」
自殺者の幽霊が神様の存在を否定することは多い。一度は神様を頼った経験を持っているのだから当然だ。
「……俺も神様に会ったことがないから居るとは断言はできない。さて、お茶を買いに行ってくるよ」
ベッドから起き上がり学習机に置かれた財布と情報端末をポケットに入れると部屋から抜け出した。夏休みが終わるまでの辛抱だと自分に言い聞かせながら、ムッとするような熱気が溜まる廊下を進み階段を降りていく。
「待ってー。私はあなたから離れられないー」
「そうだったな……」
住宅が建ち並ぶ細い旧道を歩きながら、少女の霊は頭上を風船のようにフワフワ浮遊していた。セミの合唱と強い日差しで目の前が霞んで見える。1本の冷えたコーラが1万円の価値に思えるほど暑い。影を探しながら10分ほどの地獄の行軍を終えコンビニに到着する。お互い黙ったままだった。
「絶対に言葉を発するな。欲しい商品は指差せ」
「わかったー」
ゴミ箱に空の容器を捨てながら忠告する。物理干渉ができる幽霊は危険だ。近所のコンビニがポルターガイストで有名になっては困る。
「いらっしゃいませー」
店内に足を踏み入れると聞き慣れた入店音がした。コンビニ特有の匂いとレジ前には季節外れのおでんが陳列している。過剰に効いた冷房が心地いい。お昼過ぎのコンビニは人が少なかった。
「ポテチよりじ☓がりこな気分かなぁ」
「おい、止めてくれ。他の客に聞こえるだろ」
「聞こえないよ? 私幽霊だから。まだ売ってたんだぁー」
冷や汗を流しながら小声で抗議する。90年代を代表するお菓子の商品名を口にするのは止めてくれ。慣れ親しんだ商品に興奮を隠しきれない様子だ。毎回新たな発見があるようで、この前はアイス売り場を漁っていた。買い物を手短に済ませコンビニを後にする。少女の幽霊はお茶ではなく炭酸ぶどうジュースを選んでいた。
「ファ☓タおいしー」
「飲んでいる所を見られたらどうする!」
少女の幽霊はゴクゴクと美味しそうに飲み干すと、空のペットボトルを俺に投げつけた。呆れ顔でゴミ箱に捨てると自宅を目指し歩き始める。少女の幽霊の特徴に人の話を聞かない事を追加しておいた。
***
「ねぇ、早く冷房を点けて」
自宅に到着し安堵のため息をついていると、少女の幽霊は俺から袋を奪い取り居間に消えていく。鼻歌を歌いながら我が物顔でちゃぶ台に1週間分のお菓子を広げていた。パーティかよ。俺は暑さに耐えきれず冷房の電源を入れる。今月の電気代は出張中の両親に怒られそうだった。
「私、夏の海に行きたい」
涼しげな風が居間を冷やしている。少女の幽霊はテレビの電源を勝手に入れると旅番組に合わせた。お菓子をぱくつきながら真剣な顔でブラウン管を凝視している。
「海水浴場は人が多いから嫌だ」
「夏休みに海へ行くのは人として当然のことだよ?」
指を舐めながら少女は言った。去年は幼馴染みと一緒に行ったが、今年の夏は一度も海へ行っていなかった。過去の記憶をたどっていると、少女の幽霊は俺にばれないように絨毯で指を拭いていた。止めてくれ。
「海で泳ぐのか?」
「泳げるか分からないけど海へ行きたい。友達誘って行こ」
「分かった。誘ってみるよ」
俺はポケットから情報端末を取り出しアプリを起動する。そして、グループチャットにメッセージを書き込んだ。少女の幽霊は端末を興味津々で眺めていた。
「友達居たんだ……」
「失礼なこと言うなよ」
10分ほどのやり取りでバーベキューをするため海へ行くことが決定した。それ以外は何も決まっていない。
「女の子は一緒じゃないねぇ」
馬鹿にしたような少女の顔が画面に映り込む。必死で言い返そうと言葉を探すが無駄だった。黙っていると少女は不安そうに俺の顔を覗き込んできた。彼氏に不自由したことのなさそうな少女の幽霊に俺たちの気持ちが分かるはずなかった。
「前から聞こうと思っていたけどーあなたの名前は何?」
「急だな……。俺は八坂大輝」
「私は彩」
名前の漢字は色彩のサイだと教えてくれた。俺は大きく輝いて欲しいからだと親の願いを説明した。
「大輝君。もしかして女の子と海に行くのは私が初めて?」
「去年までは幼馴染みの女の子と一緒に海へ行っていた」
「夏休み前に振られたの?」
「振られる以前に付き合ってもいない」
「大輝君が鈍感で愛想を尽かされたパティーンだね」
「どうだかな。明日海へ行くから寝坊するなよ」
「話逸らして可愛いねぇー」
彩を海へ連れて行く代わりに宿題を手伝ってもらう約束をした。悪友と分担を決め集合場所や電車の時間を調べ雑な計画が出来上がる。俺は海行きの準備を整えると就寝した。
[中略]
「嘘だろ……。中略ってなんだよ! 水着回はないのか!」
「いやらしいこと考えた人には見せませーん」
「どんな水着だったかだけでも教えてくれ!」
「ハイレグかなぁ」
「何だよそれ。平成っ子に分かるように説明してくれ」
真っ黒な空間で彩はクスクスと人を馬鹿にしたような笑みを浮かべている。俺が1歩近づくと彩は1歩遠のく。さらに1歩進もうとすると金縛りにあったように体の自由が利かない。彩は憎悪に染まる瞳で俺を睨みつけながら近づく。
「デレデレして気色悪い。貴方は私の復讐のための人形で居てくれればいいの」
彩はどこから取り出したのかカッターナイフを手にしていた。無表情の彩はゆっくりと俺の首筋にナイフをあてがうと力一杯に引いた。
BAD END
***
私は窓際に座り紙コップ片手にぼんやりと窓の外を見ていた。大輝君は悪夢にうなされている。部屋は薄暗く窓から月の光が差し込み私の影を部屋の中に映し出していた。今日は大変な1日だった。私は記憶を反芻する。海へ行くため彼が指定した駅前の時計台に男どもがぞろぞろと集まってきた。
私と大輝君
自称天才ハッカーの前田君。通称、ハッカ飴の前田
金持ちの奥田君。通称、坊ちゃん
普通の有田君。通称、有田みかん
彼らはお互いに久しぶりなど挨拶をしていた。時刻は午前8時ちょうど。全員集合すると改札に向かって歩き出す。みんなカードのようなものを改札機に押し当ててゲートを通り抜けていった。券売機の上に張り出された図をみて切符を買うのは時代遅れらしい。ちなみに私は無賃乗車した。駅のホームに人はまだそれほど多くなかった。通勤客よりも小さなリュックを背負った幼稚園児ぐらいの子が目立った。大輝君は時折私に視線を送ってくる。いやらしい。ちょっとやさしくしたからって調子に乗らないで。童貞さん。構内放送、メロディ、モーター音、扉の開く音。ドアの前でハの字に分かれる。乗降する。規則正しく無意識に行動していた。浮遊して少し高い位置から見るとなんだかおかしかった。すり抜けられるのは気持ち悪いので、人の間を縫うように乗り込む。ドアが閉まりもう一度開いた。誰かが強引に乗り込んだのだろう。走り始めると景色が変わる。住宅街。田んぼ。トンネル。誰かの見慣れた景色であっても私には新鮮だった。時には見たくもない景色を見せられるとしても死んだ私には関係なかった。走っては止まり、走っては止まりの繰り返し。人を吐き出し、迎え入れる。海に近づくにつれキラキラと光る水面がまぶしかった。
「海じゃない……」
連れて来られたのは琵琶湖だった。私の声に彼はぎょっとしたが誰も聞こえてはいなかった。彼らは楽しそうにはしゃいでいた。
「おい大輝、ここにしようぜ」
「ああ、準備するから手伝ってくれ」
丁度よさそうな場所にシートを引きパラソルで日陰を作る。私はすでにその影の中にいた。コップを傾けるジェスチャーをして彼に飲み物をよこせの合図をしても叶うことはなかった。人はそれほど多くなかった。午後になれば増えてくるだろう。彼らはカップルが近くにいないときは楽しそうにしていた。私は暇で仕方がなかった。大輝君が沖の方へ泳いで行ったとき文句を言ってやろうと思ったら、ここなら大丈夫だろうと言って海パンの中から缶ジュースを取り出した。少し顔を赤らめ受け取る。童貞扱いした手前何とも言えない気持ちだった。彼らはバーベキューをしていた。火が大きくなりすぎて監視員に怒られていた。真っ黒けの肉ばかり有田君は食べさせられていた。そんな有田君に助け舟を大輝君は出していて、ちょっとかっこいいと思ってしまった。昼食を食べ終わると雨が降り出した。天気予報士の名前を見たとき期待していなかったが天気予報は見事に外れた。近年、予報が外れることは珍しくないらしい。予定を狂わされた人々は慌てている。幽霊の私は雨が嫌いだった。
「冷たい……」
はじめは何なのかわからなかった。しばらくして雨に濡れていることに気が付いた。制服に水滴が染み込んでいく。
「だ、誰?」
一同に私を見ていて、彼は驚愕の表情をしていた。
「え、えっとー……」
私の助けを求めるような視線に反応した大輝君は機転を利かせ自分の知り合いであると友人に紹介をした。彼らは納得していないようだったが、土砂降りの雨のなか慌てて片付けるうちうやむやとなった。帰宅すると私は下着までずぶ濡れで、彼は私から視線を逸しながら誰かに電話を掛けている。10分後、チャイムが鳴り少女が招き入れられた。
「ごきげんよう、わたくしを呼び出すほどの用は何かしら?」
「ああ、雨のなかゴメンな……凛、髪を切ったのか?」
「ええ。長髪は暑苦しいわ。他に用が無いなら帰るわよ?」
「待ってくれ。助けて欲しい」
「……その前にあなたはお風呂へ行ってきなさい」
私はこくりと頷き脱衣所へ向かう。暖かなシャワーと湯船に浸かり冷えた体を暖める。出てくるとタオルと衣類が用意されていた。カジュアルなTシャツとハーフパンツに着替え居間に戻る。大輝君と少女は話し込んでいた。
「あら、湯加減はどうだったかしら?」
「丁度良かったです。服をありがとうございました」
「気にしないで。それより、どうしてあなたはずぶ濡れで大輝の家に居るのかしら?」
「それは……」
私は身に起こったことが理解できず泣いてしまう。助け舟を出そうと彼が割って入ろうとしたが少女に腹パンされていた。自室へ逃げ込もうとする彼を少女は執拗に追いかけ、見事なストレートを打ち込む。
「ゴホゴホ……凛! 誤解だ!!」
「女の子を連れ込むなんて最低だわ!」
ふらついた彼は机に頭をぶつけ、反動でベッドに倒れる。「ギャグかよ……」と言い残し気を失った。「変態と幼馴染だなんて恥ずかしいわ」冷たい侮蔑の視線を放つ少女の誤解を解くのに苦労した。少女に事情を説明する。
「ええ、なるほど、彩さんの境遇は一応理解したわ」
「現実離れした話だとは思わないの?」
「大輝は憑依体質で不可解な事は慣れっ子よ」
「あの体質でよくこれまで生きていれましたよね」
「そうね、……人には役割があり大輝はまだ死ねないのではなくて?」
目の前の少女は私の記憶のなかの誰かに似ていた。
「……役割ですか。大輝君はあなたをリンと呼んでいましたが、本当は×ではありませんか?」
少女は瞳を凝らし静かに頷く。
「時が来たのかしら、わたくしも無関係ではいられないのかもしれないわ。だったら、大輝が寝ている間に指紋認証を突破して友人に挨拶を済ませてしまいましょう」
私は立ち上がり紙コップを握りつぶした。彼の寝息だけが部屋に響いている。ふかふかの布団。生きているものだけが世界に影響を与えることができる。あの細い路地に縛り付けられていた私はうらやましかった。生きているときはそんなこと思わなかった。ただ、早く死んでしまいたかった。死んでから生を欲しがるなんてわがままな女だ。古びた二つ折りの端末を開けると待ち受け画面が表示された。涙が頬を伝う。彼女のような才能が欲しかった。凡人は天才と一緒にいられない。
***
自分の発した呻き声に驚き悪夢から目覚めると、頭やみぞおちが痛く、腕が日焼けしていてヒリヒリしていた。コンビニの行き帰りだけでこれほど焼けるだろうか。幽霊はいない。ベッドから起き上がると居間に向かい、パジャマ姿の彩が瓶コーラー片手にテレビを見ていた。
「おはよー、大輝君、昨日のこと覚えている?」
「海へ行く計画を立てた話か? まだ間に合うだろ」
「琵琶湖だったけど泳ぎにはちゃんと行ったよー。頭ぶつけて記憶が曖昧なのかな。大丈夫? 病院行く?」
デジタル時計の日付は7月2×日で、丸一日の記憶が抜け落ちていた。
「……そうだな。記憶が無いから病院へ行くよ」
「病院の帰りに市役所へ寄ってもいいー?」
「話が読めない。どういうことだよ?」
彩はどこで入手したのか情報端末を持っていた。慣れた手つきで市役所のページにアクセスすると身分証発行の通知を俺に見せる。両親死亡。養子入と記載されていた。
「八坂彩。年齢16才。7月21日生まれ」
「戸籍を発行して貰ったー。うれしぃー」
「どこで戸籍を手に入れた?」
「自称天才の飴じゃなくてあたり前……」
「ああ、ハッカ飴の前田君ね」
「住基カードが一元化になって情報の書き換え余裕でしたって言ってた。合法だから安心して」
「重機カード? 戦車にでも乗るのかよ」
彩はグループチャットのログを見せてきた。俺の書き込みも何故かあり、慌てて自分の端末を取り出し確認する。俺を含め友人たちと楽しそうにチャットをしていた。ログをさかのぼると大輝君が端末買ってくれました。ういふぃーなので家でしか使えません。ケチとあった。そんな記憶はない。それ以前に俺以外の人間が彼女を認識している。一体、何があったのだろうか。
「今バリ3だから。圏外にしちゃだめだよ?」
彼女は俺が買い与えたらしいものとは別の古い二つ折りの端末を見せながら、まじめな顔をして言った。カメラが搭載され始めたころの携帯電話で待受画像は荒い。彩と寄り添う肩まで伸びる銀色の髪と強気な瞳の少女。胸はないが可愛いと思った。右上に小さく右肩上がりの縦線が三本表示されていた。俺と彼女の送受信状況を表しているということだろうか。
「一緒に写っている子は友達か?」
「大輝君には教えません。やらしいこと考えたでしょ?」
「その子に見覚えがあるからもう一度見せてくれ?」
「別人だから安心して。さぁ病院行こ? 私の復讐が終わる前に死なれたら困るしー」
彩は端末を折りたたむとスカートのポケットに入れた。俺は待受画像の少女を諦めると保険証を探しに部屋へ戻る。彩は憑いてこない。準備を整え脱衣所の前を通るとラフな格好に着替えた彩が日焼け止めを塗りたくり、鏡の前で髪を櫛でといでいた。市立病院は結構遠く電車とバスを乗り継ぎ1時間ほど掛かる。
「タッチで通れてホームに運賃表が張ってあるー」
「ICカードの次は生体認証が主流になるって話だ」
「時代の変化は急速だねぇー」
俺の日常風景を彩はIC専用の改札機やホームドアを興味津々で眺めている。通勤のピークは過ぎ去り利用客は俺と同じ夏休みを楽しむ子供たちだらけだった。最寄り駅で電車を降りバス揺られていると巨大な白い建物が鎮座している。今朝診察を予約していたので待ち時間は少ない。むしろ優先的に診てもらえた。脳に異常がないかCTスキャンされ頭を包帯でぐるぐる巻きにされた。診察を終えるとお昼の時間で俺と彩は病院の最上階にあるレストランで昼食をとることにしてエレベーターに乗り込む。
「異常なしで良かったねぇー」
「死んでないのが不思議だと医者が驚いていた」
「大輝君も死人なのかな?」
「止めてくれ……」
医者や看護師、ウエイトレスも彩を認識していた。レストランは病院食に飽きた患者や家族で溢れかえり、窓際の席でのどかな田園風景と黄色の新幹線が猛スピードで過ぎ去っていくのを眺めた。
「本当に大丈夫なのか? 捕まって解剖されたりしないか」
「幽霊が蘇ったなんて誰も信じないから安心して良いよー
注文の品が揃い彩はスパゲティをフォークに巻きつけ頬張る。俺はハンバーグにナイフを入れながら不安を口にした。帰りに市役所へ寄り彩の身分証を受け取りに行かなくてはならない。
「それに、認知拒否による戸籍を持たない子供を救済するための法律に従って申請をしたから合法だよ?」
「そんな法律聞いたことがないぞ」
「合法で無いなら大輝君の両親が納得しないと思うけど?」
「……それも、そうだな」
申請の許可が早すぎるのは気になるが、両親の立場を考えれば納得するだけの材料があったはずだ。彩は何者なのだろうか。窓の外から皿に視線を移すと俺のハンバーグとふんわりパンが消えていた。
「大輝君、食べ終えたし早く市役所行こ?」
「俺はまだ何も食べてないが……どこへ行った」
「知らない。また記憶喪失? 大変だねぇ」
口の周りにデミグラスソースを付けた彩は我関せずの態度をとる。埒が明かないので俺は注文書をレジに持っていき会計を済ませた。バスに揺られ駅に降り立つ。30分に1本の電車を待つ間、俺と彩は駅の蕎麦屋へ立ち寄り麺を啜った。郊外にある市役所で顔写真入りの身分証を受け取とる。俺の心配とは裏腹に滞りなく発行された。
「私は八坂彩。大輝君と戸籍上は兄弟になります」
「……実年齢で考えれば彩が姉だな」
「女の子に年齢を突きつけるのは失礼だよ?」
***
家事の分担を決めながらの帰り道。夕日に照らされる彩は心に秘めた復讐心を隠すようにニコニコと微笑む。明日は彩が昼食を作ってくれるらしい。俺は期待と不安の両方を胸に彩との共同生活が始まった。
***
エプロン姿の彩は鼻歌交じりに食材を切り刻んでいた。刻む音が不規則で狂気じみたリズムが俺を余計に不安にさせる。盗み見ると、すべて目分量で調味料を鍋に入れる。たまにやってしまったという顔をするので味の担保はできていないようだ。台所は何かの空き瓶、食材の切れ端、チューブなどが散乱していた。「今日の昼食はカレーです」なんて言っていたが、闇鍋ではないか。時たま煮詰められた食材の雄たけびが気泡となり現れる。ポコッという間抜けな音が聞こえた。発酵でもさせているのだろうか。俺は出てくる料理に恐怖した。彼女は楽しそうだったが声をかけずにはいられない。
「あ、彩さん。昨日もだが服やエプロンはどこで手に入れたのかな?」
「大輝君の自称幼馴染に貰ったぁー」
「はい?」
「大輝君は記憶がないかもしれないけど、湖水浴へ行った日に死の商人から可愛い服をいっぱい譲り受けましたー」
「俺は凛に代金を支払ったのか?」
「お代は結構ですってー」
私服や情報端末を彩が何故持っていたのか、事情を何となく理解していると呼び出しの鈴が鳴った。玄関扉を開けると俺は突然の訪問者に驚く。肩まで伸びる銀色の髪と勝ち気な瞳。懐かしささえ感じる幼馴染を迎え入れた。
「ごきげんよう」
「ああ、ごきげんよう……髪を切ったのか」
「大輝君、昨日と同じ会話をしているよ?」
「打ちどころが悪くて記憶喪失かしら?」
「琵琶湖へ行った日の記憶がないらしぃー」
「わたくしを連れて行かなかった罰よ」
俺は幼馴染を昼食に誘い闇鍋の被害者が増え喜んだ。彩は台所へ消えていく。俺たちはテレビを眺めながら料理の出来上がりを待った。目の前の少女は夏休み前の凛とは少し違う気がする。いや、俺は彼女が凛では無いことを知っている。
「彩の生活必需品を用意してくれてありがとうな」
「どういたしまして。……大輝は昔と変わらないのね」
「急にどうした?」
「別に。それより大輝は両親に連絡しているのかしら?」
「幽霊と楽しく暮らしていると報告できるかよ……」
「彩さんの件は、わたくしから上手く伝えておいたわ」
「親は何て言っていた?」
「帰ったら紹介してくれと言っていたわ」
「大輝君! カレーできたから食器を用意してぇー」
俺は話を中断すると皿とコップをちゃぶ台に並べ炊飯器を持ってくる。鍋敷きを置くと彩は闇鍋を静かに鎮座させた。蓋を開くと煮込みすぎで見た目が悪く、食材は溶け原型を保ってない。盛り付け恐る恐る口にすると俺たちは顔を見合わせた。
「普通のカレーだわ」
「もっと、こう、不味いかと思ったが食べられるな」
「カレーだから大丈夫だよ?」
楽しい昼食を終え片付けを済ませると幼馴染は帰っていった。見送りのとき「次会うまでにわたくしのこと思い出して下さいまし」と不機嫌そうに別れの言葉を口にする。「また遊びにこいよ葵」俺は扉を閉めながら去っていく少女の背中に声を掛ける。慌てて振り返る少女の驚きの表情が隙間に見えた。
「大輝君。午後から図書館で約束通り宿題を見てあげる」
「午後から出かけるのは暑いし別の機会にしないか?」
「今日でなければダメだよ?」
「あと、リクルートスーツを着ているのは何故だ?」
「これが21世紀の家庭教師の正装だと教えて貰ったー」
「外は暑いから別の服にしてくれ」
やる気満々のスーツ姿は彩の体のラインを強調し色っぽかった。俺は商売上手な彼女に感服しつつ、図書館へ行く準備をしに自室に行く。美女が家庭教師をしてくれるのだ。カバンに荷物を詰め込みながら期待を膨らませる。真夏の太陽が照りつける昼下がりは後悔するほど暑かった。彩は「日焼け止めはバッチリだよ。でも日傘も欲しぃー」と影を探しながら歩いていた。ガングロギャルではなかったらしい。全国的にも珍しく府内に唯一の図書館は設定温度が高く少し不快だった。幸い個室が空いていた。彩の勉強の出来不出来は激しく特に英語は苦手らしい。得意科目は国語と社会だと自信ありげに語っていた。戦力外通告を出したときの彼女のがっかりした顔は忘れられない。その後、俺は宿題を順調に終わらせていった。彼女は文庫本を読んだり、パソコンで記事検索をして印刷したりしていた。異様な雰囲気で声をかけることができなかった。パソコンを扱うことはできるのならば金持ちの子だったのだろうか。
「大輝君。宿題終わった?」
「終わった。彩も調べ物は済んだのか?」
「……うん」
伸びる影。図書館を出ると外はまだ明るかった。俺と彩は恋人のように並んで歩く。彼女は行きたい場所があるので付いて来て欲しいと言った。石畳に整備されたレトロな通りを歩く。春になれば桜が美しく観光客も多い。幻想的で非日常な空間。川の水が静かに流れている。わきにそれ細い路地を進むと例の空間に出た。彼女と出会った場所だった。夕焼けに照らされた彼女は一人劇をするように語り始めた。
「復讐は終わりました。天使か悪魔、神様仏様か知らない。超自然的存在が代行し勝手に終結させてしまいました。復讐するべき相手はもういなかったのです。そして、今すぐ死にあの世に行くか。このまま生きこの世に一旦とどまるか私に問うのです。時間的な差はあれど結果的にあの世にいくのだから××は目的を果たしたのです。この場所で貴方と出会いました。偶然ではなく必然だったのかもしれません。私はまんまと罠にはまったのです。慈悲深い××は私が復讐を終えると生きる意味をなくしてしまうと考えたのでしょう。貴方を与えました。死んだ幼馴染の親友を転生させました。社会復帰できるよう身分などを与えました。ここ十何年かは大げさに言えばある意味私を中心に世界は回っていたのかもしれません。このまま、この世にとどまるのであれば、夏休みが終わるともう一度学校に通い始めるでしょう。欲しかった平凡な学生生活を大輝君と一緒に過ごしたい。それが今の私の願い」
俺は言葉の意味を理解することはできなかった。何を背負い生きていたのか。語り終え静かに涙を流す彩を抱きしめる。俺は彩の力になりたいと思った。
***
彩は落ち着かない様子で時計をチラチラと頻繁に見ていた。21世紀の家庭教師の服装というセールストークに騙され購入したリクルートスーツに身を包み出立の準備をしている。昨日とは違うデザインだった。
「誰かの葬式へ行くのか?」
「違うよー。一度、実家を外からでも見てみたいだけだよ」
緊張が俺にまで伝わる。一緒に行こうかと提案したくなるが言葉を飲み込んだ。彩は長細い全身を写すことができる鏡の前で髪型を整えている。黒のストッキングは絶妙だった。
「襟に値札が付いたままだ」
「えぇー……本当だぁ」
彩は体のあちこちに触れて回り首元の値札を発見する。鏡の前でハサミを片手に必死で切ろうとしていた。胸元が強調され目のやりどころに困る。
「ほら、ハサミ。俺が切ってやるよ」
「はい。あ、ありがとう……」
ハサミを受け取ると彩の後ろに立つ。華奢な体とブラウスから透けて見える下着が視界に入る。甘くいい匂いがした。感情を押し殺し値札を切断する。彩は動こうとはしなかった。
「大輝君。あ、あの……一緒に付いて来て欲しい」
「彩が1人で行くことに意味があると思うぞ」
「そだね。変なこと言ってごめん」
玄関で靴ベラを彩に渡してやる。お互いに無言だった。
「遅くても夕飯までには帰るから。私、頑張る」
「ああ。行って来い」
明るい声で彩は出ていった。遠くなる背中を俺は見送ることしかできなかった。彩は移動制限のない自由な肉体を手に入れた。新たな人生は過去の決別から始まる。
***
私はバスに揺られ中央駅に降り立った。切符売場を素通りしICカードで改札機を抜けた。××行は変わっておらず発車時刻とホームの番号を確認し歩き始める。ホームでは転倒防止柵の設置工事をしていた。たばこを吸う人々は居ない。電車に乗り込むと座席の幅は若干広くなり、つり革の形が円形ではなく三角形になっていた。液晶ディスプレイに乗り換えなどの情報が表示されている。扇風機は設置されていなかった。実家の最寄り駅に到着すると当時のまま時間が止まっていた。数えきれないぐらい通った道を歩く。はやる気持ちを抑え先に進む。田んぼが埋め立てられ住宅になっていた。コンビニが新しく出来ていた。本屋が潰れていた。お気に入りのパン屋はまだあった。変化はあれど街の基本的な構造は変わっていなかった。この角を曲がれば実家だった。道路に止まれと印字されている。立ち止まる。高鳴る鼓動。落ち着かせようと目をつぶる。大丈夫。大丈夫。前に進んだ。目の前には見慣れた××年前より少し古びた我が家だった。家の周りをウロウロとしていた。不審者だった。洗濯を干す女性と目が合う。
「どうかされましたか?」
「えっと、この近くに美味しいパン屋があると噂を聞きまして……」
「それなら、その角を曲がった先にありますよ?」
「そうですか。ありがとうございます」
「……あそこは娘が大好きだったパン屋です」
「そうですか。私もパンが好きなので楽しみです」
それ以上何も言わなかった。女の人は泣いていたのかもしれない。私は泣いていた。
***
冷房のよく効いた部屋で彩は扇風機の前に陣取り不機嫌そうに棒アイスを舐めていた。地面には大量の観光情報雑誌が広げられている。
「どうして海ではなく琵琶湖だったの?」
「琵琶湖も海みたいなものだろ?」
「私の中では湖と海は違うよ?」
「どうでもいいだろ」
「よくない! あぁ、アイス落としちゃったじゃない!!」
地面に落ちたアイスを拾い上げ俺の口にねじ込むと、青色の水たまりをティシュで拭いていた。俺はコバルトブルーの美しい海が掲載されたページに折り目を付け彩に差し出した。
「ここなら、文句ないだろ」
「海へ連れて行ってくれるの! 嬉しぃー」
彩は情報端末でページを撮影するとグループチャットに投稿していた。通知が届きアプリを起動すると暇人どもの書き込みが次々と投稿されている。
「もしかして2人だけで行くと思った? 残念でしたぁー」
食べ終えたアイスの棒を持つ彩は閻魔のようで罪深い俺は萎縮する。チャットのやり取りを眺めていると部屋のドアがノックされコンビニの袋をぶら下げた少女が入ってきた。
「ごきげんよう。彩さんと大輝」
「ごきげんよぉー」
「玄関は施錠していたはずだがどうやって侵入した?」
「大輝の両親から自宅の鍵を預かっているからよ」
「マジかよ! 俺にプライバシーはないのか?」
「最低限の礼儀は尽くしているわ。ノックしたでしょ?」
ドアの隙間から生暖かな空気が流れ込む。幼馴染は手土産を俺に手渡すと涼しさを求めるように扇風機の前に陣取った。風量を強にすると髪はなびき首筋には大粒の汗が流れている。袋をあさり葵に棒アイスを手渡すと熱い体を冷やすようにペロペロと舐め始めた。
「それで、葵は何の用があって来たんだ?」
「わたくしは、彩さんに旅行の相談をしに来たわ」
「私が誘ったよ?」
「凛は来ないのか? 放って行くと怒るぞ?」
「双子の妹は友達と北の方へ旅行に行っているから心配無用よ」
「大輝君。凛さんに連絡しておこうか?」
「いや、今年は恒例の海行きを断って友達との旅行を選んだから誘うのは止めておくよ」
「……なら決定ね。楽しみにしているわ」
記憶を辿ると夏休み前に『木彫りの熊を買ってきて差し上げますわ』と凛が言っていたのを思い出した。そして、凛になりすましていたのは三笠葵。何故だが忘れたが小学生のころ転校して行った。髪の長さ以外は凛と同じで胸はぺったんこ。向こうの学校も夏休みなので一時帰国しているのだろう。グループチャットですり合わせ予定を組むと解散した。
***
レールの切れ目に合わせガタンガタンと心地の良いリズムで目的地を目指し走り続ける。車窓を眺めるだけの1人旅とは違い旅行を共にする友人がいると心が踊った。俺たちは4人がけの座席に腰掛ける。
「三笠凛に双子の姉が居たなんて知らなかった」
「凛とは違い清楚な子に見えるな」
「待て、あの凛の姉だ。極悪非道で残虐な姫様に違いない」
「葵の性格は凛とは違う。失礼がなければ大丈夫だから安心しろ」
前田、奥田、有田は謎の少女に興味津々だった。通路を挟んだ向こう側の座席に座る当人は、彩と折りたたみ式の将棋盤で小さな駒をチマチマ動かしている。
「彩さんは強いのね」
「素人で私に勝てる人は少ないよ?」
将棋盤を眺めると彩と葵は互角の勝負をしていた。俺たちは先に対戦し惨敗した。「参りましたでしょ?」と残虐な言葉が頭から離れない。
「暇だな……」
乗車して数時間が経過すると単調な景色に飽きていた。将棋は終盤に差し掛かっていたが勝敗はついていない。大富豪や携帯ゲーム機で遊んでも羽目を外せず長く続かない。ローカル線乗り放題切符の旅の恐ろしさを味わうことになった。
「なあ? 乗り降り自由だから途中下車しないか?」
「途中下車したら今日中に宿に辿り着けないよ?」
「切符の元を取ったら急行に乗り換えれば間に合うだろ」
「いいじゃない。楽しそうだわ」
彩と葵は将棋盤から目を離さずに回答する。手が止まり熟考していた葵は「参りました」と清々しい表情で口にし「決まりだな。次で降りよう」と俺は提案した。手荷物をまとめ小さな駅に降り立つと狐の像が俺たちを迎える。幾千もの鳥居が並ぶ有名な神社は人で溢れていた。中腹に到着すると茶屋で休憩するか山を1周するか意見が分かれる。
「わたくしと大輝は1周してくるわ」
「私はここ苦手だから待っているー」
「俺たちはきな粉のソフトクリーム食べながら待つよ」
「山越えをする道は罠だから気をつけろ」
冷房の効いた涼しい店内でくつろぐ彩達と別れ、俺と葵は17巡りをするためなだらかな階段を登っていく。ひとつひとつお参りを済ませていくと段々と人が少なくなっていった。薄暗く不気味な参道を抜けるため早歩きになる。
「大輝、待って!」
葵の悲痛な声に振り返ると俺と葵はかなり距離が空いていた。立ち止まり額から流れ落ちる汗を拭く。狐の像は破壊され首が転がっている。追いついた葵は荒い息を繰り返していた。上着のボタンを緩めると胸元をパタパタと空気を送る。
「はぁはぁ……た、大輝は何を焦っているのかしら?」
「いや、そんなつもりは……」
「わたくしを放って行くなんて最低だわ。憑かれたたのかしら?」
「……すまん」
「ねぇ、大輝は彩さんのことが好きなの?」
「急にどうした?」
「答えて!」
「……わからない。ただ、気にはなっている」
「わたくしがいるのに幽霊のことが好きなのね」
――意識が遠ざかる。
「大輝、大丈夫かしら?」
「少し暑さにやられただけだ。しばらく休めば大丈夫だろ」
「そう。無理しないで」
心配そうな葵は俺の頭にペットボトルの水をひっくり返すと日傘を差してくれた。狐に化かされたのだろうか。休憩すると17巡りは諦め茶屋へ戻り合流する。
「20万円を6人で割ると……割り切れないよぉー」
「1人あたり約3.4万円出せば買うことができる」
「結構安いな」
「でも、10年で寿命が来ると店主が言っていた」
茶屋に戻ると彩達は鳥居を購入するかどうかを話し合っていた。高校生でも払えない金額ではない。俺と葵も加わり購入を決めたが10年待ちと言われ断念した。参道には出店が何軒も並んでいて、スズメの丸焼きをジャンケンで負けた奥田が食べた。感想は口にせず無言だった。また敢えて聞こうとも思わなかった。
「あー疲れたー。もう動けない」
宿に辿り着くと日が暮れていた。男女別の部屋で個室には温泉がある。俺たちの部屋に彩と葵が集まり夕食を待った。俺は大の字で寝転がる。
「俺達は何をしに来たのか?」
各々、今日の出来事を思い出しているのか黙り込んでしまう。個室の温泉は憧れだったが水の滴る音が想像以上に響く。
「旅行でしょ? 私は楽しかったよ?」
「わたくしも良い物が買えて楽しかったわ」
「そうだったな……」
ワガママを突き通した彩が一番楽しんだことは明白だ。次点でアンティークショップに連れ回した葵。退屈な買い物に付き合わされ、荷物持ちの俺たちは辟易した。だが、彼女たちの水着を現地調達するサプライズで帳消しになった。「これどうかなぁ」「どうかしら」試着室のカーテンが右往左往するたび俺たちを赤面させる。気がつくと前田が行方不明になっていた。必死で探すと向かいの試着室で蹲っている所を発見された。調子に乗った前田が葵にスクール水着を着せようとして殴られたらしい。絶妙なチョイスではあったが正当な理由だったので前田の擁護はしなかった。
***
柱の時計は夕食の時間が迫っていた。襖が開き中居が慌ただしく出入りし豪華な料理が次々と運ばれて来る。鯛を1匹豪華に使用したお刺身は初めてだった。
「この料理……部屋を間違えたのかしら?」
「大丈夫だろ。多分」
「謎のブランド牛おいしぃー」
葵は別料金ではないか冊子を確認している。急なキャンセルが出た部屋を格安で予約したが想像以上だった。正規料金は5万円ぐらいだと思う。考えごとをしていて俺が全ての食材を焼き終える前に燃料が切れてしまい、硬い生野菜を食べることになるとは思いもしなかった。夕食後、彩と葵は温泉に浸かるため部屋へ戻っていく。
「覗いちゃだめだよぉ?」
「覗いたら……分かるわよね」
襖がピシャリと閉められる。覗きに行くかと案が出るが前田の件が思い浮かび行動に移すことをためらった。俺たちも湯に浸かり疲れを癒やすことで意見が一致する。浴衣の正しい着方で意見が割れ、あれこれ試していると湯煙を立ち上らせる彩と葵が戻ってくる。
「あら? 死に装束なのね」
「枕投げしよ? 旅行の定番だよねぇー」
「子供じゃあるまいし枕投げはしたくない」
「大輝の意見は聞いていないわ。す・る・の・よ」
「わ、分かったよ……」
俺の嫌な予感は的中し、葵はどさくさに紛れて前田の枕を明後日の方向へ投げ捨て温泉に放り込んだ。まだ根に持っているらしい。前田はドライヤーで枕を必死に乾かしていた。枕投げを終えると古い筐体が並ぶ寂れたゲームコーナーに移動する。プリクラで旅の記念写真を撮影すると奥田の顔が半分切れていて可笑しかった。有田はクレーンゲームで3000円を投入しても景品が取れず腹いせに筐体を揺らし警報が鳴った。俺たちは必死で逃げた。
「じゃぁねぇー。おやすみ」
「夜這いしちゃだめよ。特に大輝は」
「しないから安心しろ」
「あら? 残念?」
可愛らしく首を傾げる葵に俺は困惑してしまう。部屋に戻り有料チャンネルで一悶着あったが消灯する。暗闇で奥田が急に笑いだしつられて笑った。このやり取りがたまらなく楽しかった。
「スズメが! スズメが俺を突っついてくるー!!」
「止めてくれぇー。体がついばまれて、あぁぁーー」
有田はとばっちりだと思ったがスズメにうなされていた。
***
翌朝、目が醒めると水が跳ねる音がしていた。カーテンを勢い良く開けると眩しい太陽の光が部屋に差し込むことはなかった。窓に張り付く葉っぱが強風を物語っている。オーシャンビューは濁った海と、どんよりとした鉛色の雲が晴天比3倍速で流れていた。露天風呂に雨の雫が涙のように打ち付けている。うなだれ座り込んでいると着替えを済ませた彩と葵が部屋にやって来た。
「雨ね……。日頃の行いが悪いからかしら?」
「残念だねー。また次あるよ?」
「まあ? 汚い部屋ね。早く片付けて欲しいわ」
「空き巣に入られたみたいでウケるぅー」
俺たちは最後の夏が無念に終わってしまった高校球児のように地面に広がる荷物を旅行鞄に無心でかきこんだ。天気予報では晴天。現実は土砂降りの雨。異常気象には慣れているが今日は晴れて欲しかった。朝食を終えた俺たちはプランを練り直す。
「ここなんてどう? 日本一のお城だそうよ」
「お城は攻めにくい構造だから、思っている以上に歩くことになるよ? それに舗装されてないから泥が跳ねるー。私はオルゴール博物館が気になるぅ」
「駅からすぐでよさそうね。候補に入れておきましょう」
「☓☓県に来たからには城下町は外せない」
旅館をチェックアウトし30分ほどバスに揺られると城下町と近代建築が調和したレトロな街並みが広がっている。広い水路には手漕ぎの船が行き交い雨と相まって幻想的だった。観光案内所でもらったパンフレットを片手に彩と葵を先頭に俺たちは街並みを堪能する。
「いい場所ね」
「水路を中心とした都市は珍しぃー」
「ええ。それに住民に大切にされているのを感じるわ」
「あれ、おいしそぉー」
「もう、彩は食べ物のことばかりね……」
葵は傘を回転させ雫を吹き飛ばす。出来立ての甘すぎずふわふわで温かなバームクーヘンを頬張りながら、木造建築特有の温かみとコンクリート建築の無機質さが融和した街を歩く。整備された道には馬車や人力車ではなく車が走っている。古さを破壊するのではなく生かしていた。帰りの電車は疲れたのか皆静かだった。葵は吐息を繰り返す彩のヨダレを拭き取っている。
「大輝、彩さんの編入先は決まったのか?」
「いいや、まだ決まってない」
奥田は真剣な顔で俺に問いかける。学園長の息子だと知っていたが口添えをお願いするのは気が引けた。戸籍取得の手続きは合法でも過去や単位を捏造するのは難しい。
「他の学校だと審査が厳しく確実に通らないぞ」
「……迷惑じゃないのか?」
「僕のことは気にするな。親父も乗り気だからな」
迷ったが編入手続きは奥田に一任することにした。編入試験と制服のサイズ合わせの日程は郵送される。地元の駅に到着すると解散した。各々、重い旅行鞄を引きながら帰路につく。旅の終わりはいつだって儚いものだ。
「あぁー疲れたー」
「大輝君。昨日も宿で同じこと言っていたよ?」
「そういえば、そう、だったな」
コンビニで明日の朝食を買い帰宅すると23時丁度だった。俺は換気のため居間の窓を全開にするとお風呂が沸くまで大の字で寝転び目を閉じる。彩はお土産をちゃぶ台に並べご満悦だった。
「大輝、疲れちゃったけど旅行楽しかったねぇ」
「遊びに行って疲れて帰って来るのが旅行だ!」
「大輝君、静かにして。オルゴールの音が聞こえない」
「質問しておいて……理不尽かよ」
俺はダルい体にムチを打ち立ち上がると近所迷惑にならないように窓を閉めた。オルゴールの心地の良い音色で気が緩み睡魔が襲う。
***
「どう大輝? 似合う?」
「似合っているが、スカートの丈が短すぎないか?」
「私の基準では長い目だよ?」
「丈は現代の基準に合わせてくれ」
真新しい制服に身を包む彩はニコニコと楽しそうにしている。俺の通う高校の制服だった。確か、現行の制服はスカートの丈が短くできないよう改良がされている筈だ。矛盾を発見すると夢であると確信する。彩はその場でくるりと回るとピンク色の下着が見えた。俺の深層心理は彩を求め欲情しているのだろうか。
「彩、もう1度回転してくれないか?」
「えぇー、さっき、大輝のいやらしい視線を感じたよ?」
「い、いや、違う」
彩の顔は赤く染まりスカートを押さえ後ずさる。恥ずかしいのか怒っているのか分からない。「見せパンだから……」蚊の鳴くような小さな声で強がっていた。桜はとっくの昔に散り万緑の季節になろうとしている。長いようで短い夏休み。休みの終わりはいつも憂鬱だった。だが今年は違う。彩と学校に通い楽しい学園生活を送ってみたい。互いのことをもっとよく知って……。知った先に何があるのだろうか。
***
「大輝、ねぇ、ねぇ、起きて。お風呂空いたよぉー」
現実に引き戻す間の抜けた声が聞こえる。眠りから覚めると彩は眠気眼で自室に戻り俺はシャワーを浴びるため浴室へ移動する。洗濯カゴには脱ぎっぱなしの服が入れられていた。
「旅行中は1度もしてないから、溜まっているだけだ」
俺は独り言を呟く。彩に人間としての本能、3大欲が戻ったのは確かだ。俺は手早くシャワーを浴びると就寝した。
***
くりっとした瞳をハンガーに掛かった制服に向けている。
「私の名前は彩。事前の健康診断で身長は160㎝だった。身長計が肩まで伸びる美しい茶髪を撫でる。自動で測定するなんて時代は変わったね。体重は秘密。今日は編入してから初めての登校日。自分でいうのもなんだと思うけど可憐で真新しい制服を着こなす胸の大きな女の子。ちょっと苦しくサイズを間違えたかもしれない。これから卒業までよろしくね!」
制服をびっしと指さす。決まったって顔をしていた。朝目覚めると彩は壊れていた。居間で変な芝居をしていたのだ。俺と目が合うと髪を耳にかけ顔を赤くして黙り込んでしまった。
「おはよう。彩さん。どうぞ、続けてください」
「い、いい。もういい忘れて……」
寝起きのぼさぼさ頭を押さえながら台所へ行く。冷蔵庫を開けお茶の入ったペットボトルを取り出しラッパ飲みする。ふと、いたずら心が沸いた。
「俺の名前は大輝。この家の家主だ。入学時の健康診断で身長は170㎝だった。短髪がぐしゃりと潰され何とも言えない気持ちだ。憑依体質で目の前にいるのは元幽霊。いつの間にか肉体を得て居候になってしまった。大食いで家計にやさしくな……」
「もうやめてよ……」
「ごめんごめん」
編入が決まり制服を手に入れてから、彩は心ここにあらずといった様子だった。夏休みはあと数日。冷却期間が必要と葵は言ったがその通りだった。
「言った通りでしょ?」
「ほんとうにそう思う、ってどこから!」
隣には葵が俺と同じようにペットボトル片手に立っていた。つややかな肩まで伸びる銀髪をかき上げ、人を馬鹿にしたような視線を俺に向けていた。ひょうひょうとしていて神出鬼没で掴みどころがない。
「今日は貴方たちと文具を買いに行く約束していたわ」
「そういえばそうだったな。おーい彩出かけるぞ!」
「準備できてないの大輝だけだと思うー」
俺はまだ寝起きの恰好だった。女性を待たせるとは男失格なのかもしれない。ポリポリと面倒くさそうに頭をかきながら、着替えをするために自室へ戻る。準備を終え居間に戻ると、2人はソファーで退屈そうに足をぶらぶらさせていた。
「大輝、はやくいこ?」
「大輝、はやくいくわよ?」
この状況。もしかして俺に春が来たのかもしれない。
***
史上最強! 死人でも目を覚まします!! が謳い文句の時計が昨日セットした時刻に一刻一刻近づいていた。デジタル式特有の無音で無防備な俺にジワリジワリとにじり寄る。時刻を迎えた刹那、目を剥くような爆音で目が覚めた。早押しクイズの回答者の如く停止させてやった。ぼんやりとする頭で長くて短い夏休みが終わったのだと実感する。汗で足裏が地面に吸い付くのを感じながら居間に行く。規則正しい生活に戻るには少し時間が必要のようだ。
「おはよう。彩」
「あぁー! おはよー大輝。朝食の準備はしといたよ?」
「ありがとう」
トーストにマヨネーズを塗りたくったマヨパンをパジャマ姿の彩が器用に食べていた。落ち着いた様子で安心する。席に着き「いただきます」と言い食べ始めた。ジャムの水気を弾きサクサクとした触感を味わうことができる俺好みの焦げる寸前のトーストだった。彩は豆乳をコップに注いでくれた。「新婚夫婦みたいだな」と何気なく言うと彩はむせていた。顔を赤くし「ごちそうさまー」とそそくさと逃げて行く。
「どうかな。制服似合っているー?」
「ああ、似合っている」
「似合っているわよ」
「だよなーってどこから!」
パクパクとシリアルを食べながら葵は感想を述べた。学校指定の夏服。半袖で可愛らしいリボンが付いている。スカートは膝あたりの長さで清楚な感じにまとまっていた。その場で一周回りひらりふわふわとスカートが舞う。彼女のために生まれてきたような制服だった。冷たい視線を感じ「葵も似合っているぞ」と申し訳程度の感想を述べた。「そう」と満更でもない様子で答えていた。手早く準備を整え凶器のような指定鞄を手に出発した。
「初登校だよー」
「そうだな」
「あそこのパン屋さんにいってみたいー」
「ああ、今度帰りにいこう」
「私はあそこに行きたいわ」
「うん? 本屋か今度行こう」
制服の魔法にかかり好奇心に突き動かされた彩と葵がカタツムリのようなスピードで登校していたため、指定された時間ギリギリに職員室前へ到着した。
「私とは一旦ここでお別れー。じゃあねぇー!」
「私も職員室に用事があるわ。また会いましょう」
彩と葵は手をひらひらさせ職員室に消えて行く。葵の編入は知らなかった。電子掲示板を確認する振りをして雑務を押し付ける教員の魔の手から逃れる。軽い足取りで階段を登り教室を目指す。新学期の教室には日焼けしたアウトドア派とインドア派が混在する。日焼け止めを塗りたくっていた例外もいるが大体この分類だ。教室にはギッシリと席が並び迷路のようになっていた。窓際にある前から2番目の席を目指し時折挨拶を交わしながらジグザグに進む。着席している生徒が行き止まりを作っていた。電子黒板前の教壇は一段高くなっていて1人囲碁を楽しむ。やっとのことでゴールに辿り着くと俺の席を銀髪ロングの誰かが占拠していた。風がカーテンを揺らしていた。鞄を机横のフックに掛けていると不法占拠者は窓の外を不機嫌そうに眺めながら「おはよう。遅かったじゃない?」と言った。挨拶に答えると女学生はお尻を軸に半回転し俺に向き直る。机には耳を塞ぎたくなるほどの咆哮を発するような大きな木彫りの熊が置かれていた。
「か、髪伸びたな……葵」
「……姉と一緒にしないで欲しいわ。凜よ!!」
「そうだったな。まだ寝ぼけているから許してくれ」
「……夏休みは姉とお楽しみだったらしわね?」
「凜は北の方へ旅行に行っていたからな。誘わなかった」
「それでも、誘いなさいよ!!」
凛は裁判官の如く拳を机に叩きつけ、浮ついた教室を静粛にすると冷たい声で令状を読み上げる。
「休み前に約束したことを忘れてしまったのかしら? 大輝から連絡をしてきたのは遠い親戚の子が急に訪ねてきて生活用品が必要になった時だけ。姉に代理を任せるのは失敗だったわ。大輝は姉と旅行へ行き、わたくしとは遊んでもくれなかった。……最低ね」
「……すまん」
「ねぇ? わたくし抜きの夏休みは楽しかったかしら?」
「すごく楽しい夏休みだった」
凛は言葉に詰まり口をパクパクとしている。俺は立ち去ろうとする凛にお土産を握らせるとパッと表情が明るくなった。席に付いてからは照れ隠しか冷たい視線を背中に感じた。クラス委員長の沙夜がフォローに入るが「わたくしの夏休みが楽しくなかったのは大輝の責任」と俺に聞こえるような嫌味を言っていた。あとで沙夜に聞く所によれば、俺のことなど忘れ壮大な自然を楽しんでいたそうだ。
「おーい、お前ら! 席につけ」
パタパタペタペタと靴底が裂けたサンダルをお喋りさせながら美女2人を引き連れた担任の神領。通称、神頼みの担任が気だるそうに教室に入ると、話に花を咲かせていたクラスメイトは散っていき各々着席する。俺の横に2つ席が用意されていた。彩と葵は廊下で担任の中身のない話を緊張の面持ちで聞いている。凛は幽霊に出会ってしまったかのように固まっていた。担任は事務的連絡を終えると手招きし呼び寄せる。彩は自信のない問題の回答を指名されたように、可愛らしい丸みのある字で電子黒板に名前を記すと癖なのか指を撫でるような何かを払うような仕草をした。
「前の学校ではチョークを使ってたんか? 珍しいの」
「あ、えっと、そうです。使っていました」
神頼みの担任が余計なことを言い調子の狂わされた彩は赤面した。深呼吸をしてからニコニコと笑顔で自己紹介をする。
「八坂彩です。遠い親戚を頼ってこの街にやってきました。趣味はパン屋巡りです。分からないことも多いですがよろしくお願いします!」
凛と無表情で火花を散らしていた葵は凛と入れ替わり教壇に登ると達筆な字で名前を書き込んだ。振り返ると普段とは少し明るい調子で自己紹介を始める。
「葵です。凜は双子の妹ですが一緒にしないでください。趣味は読書。これからよろしくお願いします」
自己紹介を終え席へ向かう彼女たちをクラスメイトは太陽を追いかけるヒマワリの如く追いかけていた。そわそわとした朝礼は鐘の音で終わりを告げた。録音の放送ではなく実際に鐘を鳴らしている。弱すぎると聞こえず力任せに鳴らすと教室の窓が割れる。職人は今日も仕事をしていた。しみじみとしていると隣の席に人だかりができていた。
「前はどこに住んでいたの? チョークって何? 好きな食べ物は? 恋人はいるの? どんなドラマが好きなの? 連絡先交換しよ? 今はどこに住んでいるの? おすすめのパン屋さんは? どんな本を読むの? もしかして紙製? 好きな作家は? 好きなジャンルは? どんなシャンプー使っているの? 休日は何をしているの? どんな子がタイプなの? 血液型は? 好きなアーティストは? わかんないことがあったら何でも言ってね」
矢継ぎ早に質問を投げかけられ転入生は混乱し答えに窮していると、自称面接官達は自分たちの紹介と称しマシンガントークを始めた。きっと彩はマシンガントークと形容したと思う。同時刻。前の席の前田を押しのけ凜が占拠した。すらりと伸びる足を組み苛立ちを隠さず「やってられないわ」と言葉を投げかけ「葵が転入してくるのを知らなかったのか?」と返し「知らなかったわ」と言葉を打ち上げ「まさか人気を取られて嫉妬しているのか?」とスマッシュを打つ。怒りで真っ赤に顔を染めた凜は「ジュース買って来ますの」と勝負を投げ出した。クラス委員長の沙夜が神頼みの担任から転入生の世話役に人知れず任命されていた。面倒事を押し付けているようにしか見えなかった。
「ちょっとみんな! 葵さんと彩さんが困っているよ!!」
世話役に任命された沙夜は自称面接官達の暴走を止めようと、神頼みの担任の名の元に勇敢に立ち向かう。かよわい乙女の決意は数の力に圧倒され劣勢を強いられついには闇に飲み込まれていった。
「連絡先交換完了!」
沙夜は楽しそうに連絡先を交換していた。もはや誰も止めることができないかと思われたが、休み時間の終わりを告げる鐘が鳴り響きく。クラスメイトが去ると彩と葵は引きつった顔をしていた。
「大輝君。どうして私を助けてくれなかったの?」
「あれは無理だろ……」
「臆病者」
俺は彩から臆病者の烙印を押された。編入生の通過儀礼だから仕方がない。授業中、葵と凛はピリピリとした空気の中で激しい空中戦を繰り広げていた。休み時間、険悪な空気を感じ取り沙夜が仲裁人として関係修復に乗り出すが「「部外者は黙っていてくれないかしら?」」と爆撃を受け墜落していた。
「学食、一緒に行くか?」
「俺たちは静かに命を頂くことにするよ……」
悪友を昼に誘うが断られてしまった。俺達は日向の生活に慣れていない。俺と彩と双子で食堂に行く。人より料理の数が多い休み明けの食堂は日常を取り戻していた。
「わたくしは沙夜と席を取ってきますわ」
「ああ、頼む」
凛と沙夜に席取りを頼む。俺と彩、葵は食堂の利用方法を教えるためトレイを手にしていた。日替わり選び放題の食券を発券し店員に渡すとトレイをレールの上に置く。セルフで1品料理を載せながら進んでいく後戻りできないサービスだ。
「ミスドのシステムと同じ?」
「お持ち帰りできない以外は一緒だ」
「あれだけの料理の数。残飯はどうなるのかしら?」
「AIで管理されていて残飯は殆ど出ない……はず」
「「はず?」」
「食欲を予測コントロールすることはできない。残れば家畜の餌になるから心配しなくていい」
「万能ではないのね」
「別腹もあるよ?」
俺たちは料理をトレイに載せながら進む。大食いの彩も初日は控えめにしていた。盗み見ると名残惜しそうに食べ物の山を凝視している。楽しく会話をしていると、目を離した隙に俺の唐揚げを奪い取っていた。沙夜はきつねうどんといなり寿司を交互に見ている。狐が被ったのだろう。葵と凛はメロンパンが被ったのが気に入らないらしく、クリーム入りは邪道だとか至高の一品だとか言い争っていた。本当は仲が良い気がした。
「あら? 教室に誰も居ないわ」
「あー、そうだ、今日は短縮授業だった」
「やったぁ。どっか寄って帰ろ?」
補給線を絶たれた午後からの授業は空腹との壮絶な戦いと覚悟したが、午前までの短縮授業だと思い出した。教室に取り残された俺達を凜はきっと馬鹿にしていたに違いない。世話係の沙夜は昼食の選択が気に入らなかったらしく、ブツブツ訳の分からないことを口にしながら消えて行った。放課後の予定を立てる彼女達に委員長の沙夜が言い忘れていたことを伝える。
「帰る前に部活動を見ていかないか? うちの高校は幽霊部員だとしても部活への所属が義務付けられている」
「大輝は何部なのー?」
「行き場の無くした幽霊部員の集う文芸部だ」
「どんな活動をしているのか気になるわ」
横並びの席に座り会話をするのは滑稽な姿だった。机の中を漁り筆記用具を鞄に詰め込み帰りの支度をする。読書が趣味の人は文芸部に入部しないので戸惑う。
「主な活動内容は紙製の本や資料の管理だ。原本が劣化しないように温湿度が適切に管理された国会図書館同等の施設。温湿度に異常がないか確認し専用用紙に記入するだけの簡単な仕事。まあ、実際はコンピューター管理されているので異常があれば専門業者がしてくれる。書庫内の書籍は全てデジタル化されていて元は図書館と呼ばれていた。司書と呼ばれる図書館の番人が欲しい資料を発掘してきてくれたが、今はAIがデーターベースを参照し正確な情報を提供している。司書を育成する場としての役割を終えた本の墓場と言ってもいい」
「大輝君、早口ですごいー」
「本の墓場の管理は世界中で問題になっているらしいわ」
「大事な本を燃やしちゃだめだよ?」
「廃棄されることも多かったらしい。保存だけなら数冊で十分だからな」
戸締まりを確認すると教卓に残された鍵で出入り口を施錠した。馴染みのない鍵はロータリーディスクシリンダー錠。興味津々の2人に教えるため情報端末で調べた。俺を先頭に閑散としたワックスでコーティングされたツルツルの廊下を歩く。掛け声と共に階段を駆け上る運動部の学生に2人は興味なさそうだった。
「どうじゃ、馴染めそうか? 悪人はおらんから安心せい」
「はい。いい人ばかりなので大丈夫そうです」
「わたくしもそう思います」
「そうか、それはよかった。これから部活見学か?」
「ええ。文芸部を見学しますの」
「我が校は部活や同好会が盛んじゃから、ゆっくりと決めてくれてかまわん」
部室の鍵を取りに職員室へ行くと神頼みの担任は彩と葵を呼び寄せ今日の感想を聞いていた。申請書に日付と名前を記入し鍵を受け取る。担任との話が終わった彼女たちと合流し文芸部の部室を目指す。上靴でスノコを踏みつけ外に出ると別館の巨大な図書館が眼前に広がる。
***
大輝君は木製のスライド扉をガタガタと動かし、セキュリティの低い棒鍵を差し込む。構造は単純だが建付けの悪くなった扉は鍵穴を合わせるのが大変そうだった。滑りの悪い扉は重く耳障りな音を立てる。図書館に踏み込むとカウンターが目を引く。私の記憶と合致する唯一の光景だった。
「なにこれ」
「驚いたか? 奥の方に本棚だけが地上に残されている。あ、あと、地下書庫へ行く前に、トイレは先に済ましておくように」
本棚はドミノのように奥に並べられていた。大輝君を先頭にウンター裏にある地下へ続く階段を降りる。分厚く重い金属製の重厚な扉はカードを読み込ませると自動で開閉した。
「2時間間隔で再認証が求められる。拒否すると警備会社に連絡が行くので閉じ込められても丈夫だ。ただ、報告書が必要なので認証忘れには注意して欲しい」
「内線電話は無いのかしら」
「故障中だ。予算の関係で復旧の目途は立っていない」
照明が人の動きに合わせスポットライトのようについてくる。本は天井まで届く本棚にギッシリと詰め込まれていた。大輝君は温湿度を専用の用紙に記入している。
「当番が回って来たら、温湿度の記入を頼む。あとは、用紙の原本はカウンターの引き出しに入っている。コピー機は職員室で借りてくれ」
「空白が目立つねぇ。サボりかな?」
「いいや、最近空調の調子が悪く測定不可が多いだけだ」
葵は私達とは離れ本棚を興味深そうに眺め、金色に光る本を手に取ると難しい顔をしていた。大輝君は調べものをするための個室にあったパイプ椅子を引っ張り出し暇そうにしている。私も大輝君に習いパイプ椅子を横に並べ座った。
「どうだ文芸部に入部するか? 他の部でもいいぞ」
「担任の先生から同好会部活動の一覧を貰ったけど迷う」
「不要な部の解体がされたから、今、残っているのは文芸部と極道部を除くと真面目に活動している部だけだ」
「そっか。大輝君は本が好きなの?」
「活字に触れることが特別好きではない。帰宅部があれば、そこに入部していた」
「文芸部の活動を見る限り帰宅部に改名しても問題なさそう」
「そうだな。でも、俺は楽で緩い部に入って正解だったと思っている。人生を優位に歩みたいなら運動部を進める。彩の好きな部に入ればいい」
「過去はいつまでも付き纏い、勝手な決めつけで人生の価値を査定されてしまう。残念なことだねぇ」
「難しい話を俺に振っても期待する答えは出ないぞ」
「答えは既に私の中にあります。それに、大輝君の考え方を貶すつもりはないよ?」
「それはどうも。さて、葵がこっちに向かっているから、そろそろ戻ろう」
遠くに光るライトが点々と私達に向かってくる。葵と合流すると地上に戻った。カウンターの古びたパイプ椅子に座り、地下書庫の涼しさを懐かしく思う。運動、芸術、音楽の才能に恵まれない私と葵は文芸部への入部を決めた。
***
目が覚めるとベッドの上に置いておいたはずの情報端末が枕元に転がっていた。端末が直撃したらしく鼻が痛い。午前2時51分に凜からお呼び出しのメッセージが届いていた。夢の内容は時間と共に散っていく。確か葵と何かをした。断じて認められないが唇の柔らかな感触……まさか××××!! 殺虫剤を部屋中に噴射しても黒い悪魔は出てこない。
「大輝君の変態!」
「な、なんだよ! やめろ」
騒がしい部屋に来た彩は俺を罵倒するとポカポカと殴りかかる。夢を共有してしまったらしい。彩は殺虫剤を奪い取ると俺の顔面に噴射した。視界に瞬く星々が現れ憑依した変態は無事に退治された。
***
「遅かったじゃない? わたくしより先に来て待っているのがマナーではなくて?」
「すまない。雑務を押し付けられてしまった」
「まあいいわ。大輝に大切な話がありますので、扉の前で突っ立ってないで、こっちへ来て下さいまし」
暇そうに金色の棒鍵を撫でながら古びたパイプ椅子に座る凜は、司書のように貸出返却カウンターに鎮座していた。誰もいない文芸部部室の元図書館。地下書庫の空調の騒音が聞こえてきそうな静寂。足元は剥がれた絨毯、窓はブラインドが下りていて直射日光が入ってこない設計。本には理想的な空間だったが俺と凜には静かすぎた。警戒して逃げやすい出入り口扉の前に陣取っていたが、儚げな呼び声に誘われカウンターへ引き寄せられる。20年振りの利用者はカウンター前で司書と対峙する。
「図書カードはお持ちですか?」
「貸出カードは持っていない。遠い昔に廃止されたからな」
「少しは、わたくしに合わせてくれないかしら?」
「凛の芝居に付き合う気はない」
「大輝は何を警戒しているの? もう少し女の子と2人だけの状況を楽しむべきではないかしら?」
「楽しむ? そうだな……告白をすればいいか?」
「してくれるの? こ、心の準備は、で、できていますわ」
付き合いの悪い俺に苛立つ凜は、備品倉庫に仕舞い込んでいたはずのバーコードリーダを不機嫌そうに点滅させていた。だが、告白の二文字を耳にした途端乙女のように頬を赤く染め髪を撫でる。
「こ……ktkr! ぐぇ……」
「英……苦手……よー」
「ktkr……英語……ない」
「ちょっと……胸が……」
「ぐぇ……僕じゃ……い」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
古典的展開ではあったが、備品倉庫の扉が勝手に開くと苦しげに腹を押さえた有田が飛びだし、前田はその場に倒れ込んだ。葵は腕を組みものすごく不機嫌そうにしている。
「あら、あら、残念。大輝の告白が聞けませんでしたわ」
「台本に告白はなかったはずよ。説明してちょうだい」
「姉さん、嫉妬は止めて下さいまし」
俺は呆然と立ち尽くし双子のやり取りを眺めていた。彩は前田の屍をやっとのことで踏み越えると、ドッキリ成功の札を掲げ闖入する。
「大輝君、告白なんて10年早いよー」
「ドッキリ?」
「そう、急に告白を始めるから驚いたよ?」
幽霊部員が全員集合したのは久々だった。元紙飛行機部の有田、元バク研究会の前田、元密造酒倶楽部の奥田、元道端ホイールキャップ回収部の凜、元エンドウ豆研究会の沙夜、生粋の文芸部員の俺。新人の彩と葵。五味生徒会長の指示で廃部になった面々が集う。既に廃部が決定していたのに入部した阿呆ともいえる。設立当時の理念が形骸化した部の解体が五味生徒会長唯一の成果だった。文芸部もやり玉に挙がったが幽霊部員最後の受け皿として残された。社会不適合者の暴力集団は極道部が引き受けたので文芸部にはいない。
「歯に海苔を付けてお歯黒って一発芸は大輝君に頼むね」
「一発芸はないぞ。体育会系のノリは他所でやってくれ」
「わたくし、大輝の一発芸が見たいわ」
「だから、一発芸の伝統はない」
沙夜と凜は小型冷蔵庫から飲み物を取り出し、俺と彩、葵は折り畳み式の机をカウンター付近に広げ歓迎会の準備をしていた。悪友はお菓子を買いに近くのコンビニへ行っている。
「それでは、乾杯!!」
「「「「「「「乾杯!」」」」」」」
歓迎会は楽しく何事もなく終わった。図書館では静かにしているのが常識だったらしい。読書家の望む空間になったのだろうか。俺は部員が増え活気溢れる今の図書館が好きだ。
天候に左右されず正確な時間に鐘を鳴らす職人は今日も仕事をしていた。授業の終わりを告げる鐘が鳴ると教室は活気に溢れ、話し声を分解していくと俺達の声に辿り着く。
「鐘打職人は存在するのかしら?」
「職人に会ったことがないから分からないな」
俺の机に体を預ける葵に前田は自分の席を譲るとお手洗いへ消えて行く。足を通路に向け浅く座る。葵の横顔を間近で見るのは初めてだった。俺は夢の続きを求めているのだろうか。
「わたくしを見つめてどうしたのかしら?」
「いいや別に」
「なら、どうして避けるの?」
「それは……俺の夢に葵が出てきて……濃厚な、あれをだ」
「濃厚な、あれ? わ、わたくしと何をしたのかしら?」
彩は何かを察したのか顔を赤くし黙り込んだ。葵は理解できていない様子で俺に答えを求める。俺は葵に顔を近づけ「キスだよ」と耳打ちをするとみるみるうちに耳まで赤く染まっていく。髪をしきりになでている。
「じ、……事情は把握したわ。この話は止めましょう」
「そだね。私、梵鐘を見てみたいー」
「放課後に探しに行くか」
休み時間が終わると鼻息を荒くした前田が席に戻って来る。授業の準備をしていると小声で俺に問いかける。
「スカート越しで座っていたか? それとも……」
「体が椅子に直接触れていた。それに今日の葵はパンツを穿いていないからラッキーだな」
「マジかよ!」
俺達は彩と葵の冷たい視線を感じ取ると窓の外を眺めやり過ごす。次の休み時間に葵はスカートをひらひらさせながら殺気を身に纏いやって来た。俺の腕を掴み人気のない非常階段に出ると監視カメラの死角に追いやる。葵は震える手でスカートを摘みたくし上げようとするが俺は止めさせた。
「お、おい。俺が悪かったから止めろ」
「大輝の誤解を解きたいだけよ。見たいでしょ?」
「頼む」
軽い調子で頼むと回し蹴りを受けた。ちらりと視界に一瞬の瞬きではあったが名前と同じ色のショーツが目に焼き付く。何故、葵はこれほどまでに積極的なのだろうか。記憶を探っても答えは見つからない。ただ、無理をしているように思えた。
「放課後だけど大輝は葵と仲直りはできた? できていなくても梵鐘を探しに行こ?」
「別にわたくしは大輝と喧嘩していなから安心して」
小中高の一貫校で敷地は広く自転車で移動する生徒も多い。放課後のグラウンドは運動部が占領し砂埃を立てていた。夏の太陽は居残りをしていて探し物をするのに都合が良い。学園長の息子の奥田から梵鐘の場所を聞き出すと、俺と彩と葵は敷地の端を目指し歩いていた。
「あれか? 思っていた以上に小さいな」
「拍子抜けだわ」
「そだね。あれ? 文字が刻まれているよ?」
意気揚々と出発したが謎が解けると興味を失った。彩は漢文に近い文字を現代語に翻訳している。俺と葵は吸い込まれそうな禍々しい文字から目を逸した。
「よくある幽霊と人間の悲恋物語だねぇ。問題は叶わぬ恋心を抱いた幽霊と人間の怨念が梵鐘に閉じ込められてあって鐘を打つことが鎮魂になると刻まれているよ?」
葵は俺達をチラリと見る。何が言いたいのかは理解できた。梵鐘には幽霊の気配が感じられない。
「彩は幽霊ではなく人間だ。誰と恋をしても自由だろ?」
「どうかしら? 確証がないのだから幽霊に戻る可能性は否定できないわ」
人と幽霊の恋が叶わないのであれば幽霊同士であれば問題ない。永遠の場所で永遠の愛を育む。彩との距離が近づくにつれ俺はいつか幽霊に変えられてしまう気がした。
***
難しい顔をした大輝君と別れた私と葵は目的地に到着した。放課後の商店街は学生で溢れている。制服姿で商店街を歩くのは何だか恥ずかしかった。可愛らしい制服。私と葵もその景色の一人だった。平日でも人が多い。本屋。靴屋。洋服店。飲食店。アニメショップ。ドラックストア。通りには沢山の店が並んでいる。観光客相手の商店街なので地元民は少し離れた大型店舗で日用品や食料品を購入する。屋上の小さな遊園地は絶滅したらしい。商店街に薬屋が4店舗もあり店舗数増加に驚いた。ドラックの語彙にはまだ抵抗がある。路地裏で秘密裏に売買される小麦粉のような白い粉を想像させた。昔ながらの薬屋の前には錆びついたブリキのカエルが不気味な笑みを浮かべていた。現代の薬屋はコンビニの模倣だった。客寄せの赤字覚悟の格安なお菓子を買った。激戦が繰り広げられている。
「おいひー」
「美味しいわね」
店員の身動きが取れないほど小さな店舗で謎のブランド鶏の唐揚げを購入した。2人で分け合った。衣は薄くピリ辛で肉は柔らかくジューシー。食べ歩いていると煙突の煙に気が付いた。銭湯だった。汗臭い体で家に帰るのは何だか嫌だった。そんなこと一度も考えたことがなかった。質の悪い石鹸は髪がパサつくが背に腹は代えられなかった。我が家に寄って帰る葵も同じことを思ったのだろう。言葉を交わす必要はなかった。銭湯で汗を流すことを決定した。タオル込みで700円。良心的値段だった。バスタオルが手拭いサイズで驚いた。吸水性抜群で大丈夫ですと説明を受けたが純白の柔らかなバスタオルに包まれたかった……。靴箱の番号が刻まれた木製表札は健在だった。葵はスルスルと衣類を取り払う。ロッカーの鍵紛失防止キーバンドが手首に光っている。スカート姿のまま下着をスーッと下した。可愛らしいリボンの付いた葵色の下着。違和感からか心地の悪そうな顔をしていた。葵は私の視線に気がついたらしく顔を赤らめた。私も恥ずかしさから目を逸らし衣類をスルスル脱いでいく。竹かごに衣類が積み重なっていく。隠すものは何もない。踏み心地のいい竹ござ。湯煙が待ち遠しい。温泉の作法に詳しくないが、かけ湯でサッと体を洗い流す。利用者は少なく大浴場を独占できた。壁には富士山が描かれている。温度の違う2つの温泉。葵はのぼせやすいのでぬるい目が好きだそうだ。
「ふぅー極楽浄土ー」
「彩。おっさんみたいよ」
「気持ちよくて、つい言ってしまったー」
2人で笑い合った。しばらく無言で湯を愉しんでいると葵は背中を流してくれると言った。葵の小さな手でくしゅくしゅとスポンジを握りつぶし泡立てるようすが鏡越しに映っている。握りつぶす度に泡と水が手に溢れる。時々指の間からぴゅっと液体が飛び出た。十分泡立つと風呂椅子に座る私の背中を撫でる。ザラザラとしたスポンジの感触を感じる。自分で洗うのとは違う感覚でなんだかくすぐったかった。
「どう? 痛くないかしら?」
「うん……」
シャワーから放出される水の滴が泡を洗い流した。湯に浸かっていないのにのぼせてしまった。葵はどさくさに紛れて私の胸に触れ自分にはない弾力を悲しい顔で確認していた。葵と変わり背中を流した。
「そろそろでよ?」
「そうね」
既に日が暮れ火照る体を涼しい風が優しく撫でた。大輝や葵は私が幽霊に戻るのではないかと心配していたが可能性は低いと思っている。根拠はないがメリットがないことは確かだ。大丈夫、自分に言い聞かせた。
***
太陽が沈み街灯の光が道を照らしている。俺の思考は堂々巡りで解決の糸口はつかめていない。気がつくといつの間にか梵鐘の場所へ戻って来ていた。
「梵鐘に閉じ込められても幽霊にはなれんぞ?」
大量の鍵と懐中電灯を持つ神頼みの担任が呆れ顔でいた。下校の時間はとっくに過ぎている。面倒事に巻き込まれたくないので無難に挨拶を交わす。
「転入生は事故で亡くなった昔の教え子に似ておる……」
「彩と葵は先生の教え子とは無関係ですよ」
「分かっとる。じゃが夏休み後の編入に運命を感じた」
「……どんな生徒でしたか?」
「優秀な子で将来を期待されておった」
「そうですか」
「八坂と三笠を卒業させるのがワシの最後の仕事じゃと思っておる。気にするな。面倒は全てワシが何とかする……昔話に付き合わせしまったの」
担任の重々しい口調に俺は気圧されてしまう。人ではない気がしたが黙っていた。最近、出会う頻度が急上昇しているのは霊界でバーゲンセールが開催されているのだろうか。
***
頂上目指し心臓破りの坂をすいすい登っていく。その姿は目標めがけ一直線に飛ぶ矢の如し。破魔矢製の傑作。免許不要電動アシスト自転車Runners High。メーカ希望小売価格25万円。
「電動アシスト自転車……るんねらすひぐは?」
「ランナーズハイな……」
彩は地面にチラシを広げ熱い視線を注いでいる。軽い足取りで俺に近づくと情報端末でニヤニヤ動画のアプリを開き製品紹介の動画を目の前に突きつける。近すぎて見えない。
「すごいでしょー。だから……」
「買わないぞ」
「まだ何も言ってないよ? か……」
「絶対に買わない」
これ以上出費が増えると困るので先に意思表示をしておく。通学路に激坂はない。買い物は楽になるかもしれないが高級品は宝の持ち腐れだ。充電も面倒臭い。盗難保証の費用、バッテリーの交換費など維持コストも高い。規格が変更され入手困難になることもある。高品質の一般的な自転車で十分だ。
「可愛い女の子を自転車の後ろに乗せて通学したくない?」
彩は理屈で要求が通らないことを悟ると感情に訴えてきた。学生時分にしか味わうことができない青春の1ページ。心が揺れ動くがグッと我慢した。
「魅力的な提案だが一般的な自転車でもできるので却下」
「電動アシスト自転車がいいー! 私が漕ぐよ?」
「女の子に漕がせるとか俺好みじゃねーか!」
「あぁー大輝ってクズ? ありきたりなパティーンだねー」
「い、いやそうではなくて……その……合法的に抱き付けるから……」
「ぁ……クズで変態になっちゃうよ?」
「勘弁してくれ……」
俺の失言は憑依した悪霊の仕業にしておく。彩は納得していない様子だったが、自転車屋に行こうと提案するとそれ以上は追求されなかった。賢明な読者諸君も合法的に抱きつくことに理解を示してくれるだろう。月日が流れ休日となった。近所の自転車チェーン店は人が少ない。電動アシスト自転車は目立つ所に展示されている。
「何かお探しでようか?」
「えっと、用があれば呼びます」
「そうですか。ごゆっくり検討ください」
お目当ての自転車は売れ筋商品だった。価格は抑えられていてカタログスペックは他社を圧倒している。試乗したいと申し出ると教習所風の巨大なコースに案内された。
「ペダルが軽いよー 振り落とされないでねー!!」
「おおぉ! まだ加速するか!!」
誰もいないコースを楽しむ。ペダルを漕ぐ彩は楽しそうだった。俺は後ろの荷台に横座りで落とされないように腰に手を回す。2人乗りは私有地だと大丈夫らしい。人の運転に身を任せるのは怖かったが彩だと不思議と安心した。交代しながら気が済むまで走り続けた。俺は青春を謳歌していた。請求書が届くのが怖い……
***
食事、台所、くつろぎの場を一体化させたリビングダイニングキッチン。リビングの端には製造が中止されたハイビジョンブラウン管のテレビが鎮座している。後ろの壁には電気焼け。録画された料理番組が流れていた。液晶テレビ全盛期には珍しい。頑丈なテレビ台には型落ちのレコーダーやゲーム機。テレビの近くには食事をするための小さなちゃぶ台。大きな部屋には似つかわしい。向き合うように敷かれたウサギの描かれた2枚の座布団。壊れた食器洗い乾燥機付きの少し古いシステムキッチン。料理好きの人なら憧れる大きさ。機能性。2人暮らしでは持て余すほどの食器や調理道具が収納できる。水切りラックには少量の食器と2個のコップ。曇りのないシンク。レバー式水栓。調理台には金属製の小さなラックに調味料が並んでいる。エプロン姿の彩は料理番組に合わせ食材を切り刻んでいた。心配そうに見つめる大輝。三角コーナーには大根、ジャガイモ、ネギの残骸が残されていた。原型が分からないほど刻まれた食材は小皿に移してある。豆腐は容器のままでワカメは乾燥したままだった。彩は食材を点呼し指折り数えると食材を刻む作業を終えた。冷蔵庫から計量スプーン山盛りの味噌を取り出し肘で扉を閉める。
「料理番組の手順と明らかに違うよな?」
「至極の一品に仕上げるから安心していいよー」
大輝は言葉を飲み込み開花した花のように開封された段ボールを潰していた。彩は緊張した面持ちでガス栓を開く。3口グリル付きの黒色のガスコンロ。点火のツマミはなかった。通販で購入したツマミをはめ込みゆっくりと捻った。バーナーキャップは蝋燭に火が燈るように次々と点火した。金属製の行平鍋を乗せ水を注ぎ込む。しばらく鍋を加熱すると大粒の泡を噴き出し食材を欲した。不慣れな手つきで食材を入れていく。ワカメは乾燥したまま1袋。豆腐は手で握りつぶし投入。味噌は鍋の淵に計量スプーンを叩きつけ落とした。最後に魔法の粉。大量の食材を投入され満足したのか静かになった。
「もう少し煮込めば完成だよ? ご希望の味噌汁だよー?」
「似て非なるものが出来上がりそうだ……」
「そんなことないよー! わぁーあちぃちぃ!」
鍋が熱かったのか彩は耳たぶに触れた。お玉でかき混ぜる。乾燥ワカメに水分が奪われ煮物になっていた。何食わぬ顔で水を追加した。お玉に少し液体をすくい息を吹きかける。ヘリコプターが水面に着陸しようとするように液体が波立つ。液体が冷めたことを確認すると彩はお玉に口付ける。
「うわぁー……まずぅ……」
彩の感想は大輝に聞こえていなかった。こんな食べ物を出すことが出来ないと考えたのか味の微調整を開始した。さしすせそ。調味料投入。味見はしなかった。客人用の漆器。お椀に汁物を注ぎ盆にのせた。彩は少し躊躇する様子を見せたが深呼吸をすると大輝の目の前に運んでいく。テレビの電源を切り。ちゃぶ台の上にお椀を置く。箸置きに1膳のお箸。大輝と彩はお互いに緊張していた。「いただきます」大輝はお椀を持ち上げ箸で軽くかき混ぜる。啜る音が小さく聞こえる。身震いしていた。
***
国会で祝日の制定が乱発され何の日であるかは記憶にない。だが休日であることは理解している。金曜日の夕飯後に俺はベッドに寝転び雑誌を読んでいた。彩がメロンバーを頬張りながら何かを思い出した声を上げる。
「あぁ、琵琶湖県にあるメタセコイア並木を見に行きたい」
「メタセコイアってなんだ?」
「生きた化石。関西では琵琶湖県の並木が有名だよ?」
「生きた化石ってゴ……」
「例として挙げるならシーラカンスよ」
「シーラカンスもなんだー」
俺が身近に暮らす生きた化石の紹介をしようとすると葵に割り込まれてしまった。急に現れても驚かないことにしている。スイカバーをぺろぺろと舐めていた。
「化石は夢があって面白いわよね」
「アノマロカリスとかかっこいいー」
「無関係と思われていた化石が生物の一部だったって話は面白いわよね」
よく分からない化石の話に花を咲かせている彼女たちをしり目に、俺はメタセコイア並木の場所を情報端末で検索する。目的地まで公共交通機関で行くことは可能のようだ。急ではあるが明日行くことに決定し計画を立て解散した。
残暑厳しい夏の空は憂鬱で駅は混んでいた。集合場所の時計台の真下で葵と凛が微妙な距離感で別の方向に視線を向けていた。
「5分前に到着なんて遅いわ」
「遅刻ならまだしも5分前を責められるのは理不尽だろ」
「まあ、いいわ。行きましょう」
電車に乗り込むと彩と葵、残された俺と凛が一緒の席に座る。足を組み頬を緩ませる凛は不気味だった。左周りのルートが最短だったが、乗り間違え右周りのルートを選択させられた。中途半端な住宅街と田んぼ、琵琶湖が順番に入れ替わる単調な景色で飽きる。湖北の駅で彩は車窓から弁当を購入したが、お釣りの受け渡しが間に合わず必死で走る弁当売を俺達は眺めた。
「うぇぇ……バスに酔ったぁ」
「おい、嘘だろ。まだバスは動いてもいないぞ」
「うぅぅ……バスの匂いでも酔うぅ」
「ほら、彩、酔い止めがあるから飲みなさい」
「葵、ありがとぉー」
吸い殻入れのある古いバスはタバコと得体の知れない匂いが染付いていた。1番後ろの横長の席に陣取る。彩は喉を鳴らし酔い止めを飲むと「オーザックおいしぃー」と何事もなく旅行を楽しんでいた。葵が渡したのは胃腸薬で気分が悪いのは食べ過ぎだと思う。
「凛が一緒とは珍しい。何があった?」
「これを見て下さいまし」
誘ったときに「メタセコイア? 何それ?」と返答した凜は情報端末のスリープを解除するとホイールキャップ愛好者が運営する掲示板の書き込みを俺に見せた。
琵琶湖県にあるメタセコイア並木
「何故かホイールキャップがよく落ちています。大量です。原因不明です。ホイールキャップの聖地度☆☆☆☆☆です! 愛好者なら一度は訪れたい場所です!!」
報告者の写真付きコメントが続く。年代国内外問わず純正品や互換品のホイールキャップを花壇の仕切りに使用しているらしい。最初の報告者は花壇を作っているときに撮影されたものと特定されていた。50年以上も前のレアものが使用されていて一部愛好家から勿体無いと反発コメントも散見された。凜にとっては特別な場所らしい。
「わたくし楽しみで昨日は眠れませんでしたの」
「そ、そうか……よかったな」
並木前のバス停には多くの観光客が待っていた。入れ替わるように降り立つと巨大なメロンバーが道路沿いに並んでいる。横に広がる花壇にはペチュニアが鮮やかに咲いていた。凛は目を輝かせる。仕切りやカラスよけのカカシの顔もホイールキャップだった。
「あれは日本で初めて製造されたホイールキャップですわ! 輸入車の部品を委託生産したのが始まりですの」
「あぁ! あれは国産初の自動車に採用された幻のホイールキャップ!!」
「これがホイールキャップの聖地ですのね!!」
指差しながら説明してくれるが全部同じにしか見えなかった。はしゃぐ凛に俺達はついていけない。彩と葵は俺を置き去りにジェラートを食べるため道の駅へ消えていった。凛は生贄の腕を掴みグイグイと引っ張り先へ進んでいく。
「なあ凛。ホイールキャップのどこに惹かれた?」
以前から気になっていた疑問を俺は口にする。
「……仮面のようだからですわ」
ホイールキャップに囲まれた聖地で待ってましたとばかりに愛を語り始めるかと思われたが凛は静かに吐き出すように言葉にした。俺は言葉に詰まり黙り込んでしまう。
「大輝は何をまじめな顔をしているのかしら? 良く見せようとするものなのだから可愛いに決まってます! ほら、あれ! ホイールキャップ風モナカアイス買ってくださいまし」
ホイールキャップ風モナカアイスと看板を掲げた軽トラ屋台が営業していた。味はバニラのみだが多種多様のモナカから好きなデザインを選べる。前輪後輪セットを購入した。モナカのバリはプラモデル風に仕上げられている。モナカをランナーから丁寧に切り離し凜に手渡す。間を埋めるためゆっくりと食べながら並木道を歩いた。遠くの喫茶店の窓から、嫉妬に満ちた顔でハンカチを噛み悔しがる彩となだめる葵の姿が見えた。感情表現が古いと思った。俺が質問すると答えるぐらいでホイールキャップの蘊蓄は全く聞かされなかった。年代順に整理されているらしく知識がなくてもデザインの流行り廃りの移り変わりを見ることができ楽しい。昔金属買い取り価格が暴騰していたころ金属製のホイールキャップ盗難が多発していた。稀に樹脂製も盗難に遭い処分に困った犯人が公園に放置した事件もあった。最近はホイールキャップを道端で目にする機会は段々と少なくなって来ている。縁石に立てかけられた忘れ物。
「忘れ去られそうなモノはどうすればいいのかしら?」
「……正確に記録し供養してやればいいさ」
「責任重大ですわね……」
「ホイールキャップは俺達が死ぬまで残ると思うが」
「そうかしら? 工業製品の運命は過酷ですわ……」
「時間と空間は有限で役目を終えた製品をいつまでも残すことはできない。でも、凜のような愛好家がいる限り大事にされるだろ?」
凜は言葉を飲み込んだ。並木の終盤に入ると記憶にあるホイールキャプが並ぶ。コスト重視の簡素なデザインになっていることに気が付いた。既に主力製品でないことを意味する。似たり寄ったり単調でデザイナーの魂が入っていない。正気のない幽霊みたいだった。立ち止まる。凜も同じことを思っただろう。一度絶滅したが何億年も前の地層で種が発見され復活した生きる化石のメタセコイア。花壇を整備した人の消えゆくホイールキャップに対する願いを感じた。
***
2時間ほどの滞在で既に夜になっていた。俺と凛はベンチに座りバスを待っている。彩と葵が何処へ行ってしまったのか記憶がない。夢は矛盾で成り立っている。また、何者かに取り憑かれたのだろう。腹部が痛い。視線を移動させるとサバイバルナイフが刺さっていた。心の中で覚醒を祈ると意識が戻る刹那、沙夜がお歯黒の女を退治していた。
「大輝君、大丈夫?」
「多分、梵鐘のお歯黒女に取り憑かれていた」
「??? 大変だったねぇ」
彩、葵、凛は不思議そうな顔で俺を見つめている。気がつくと俺は道の駅内の食堂にいた。テーブルには既に料理が並び俺のグラタンだけ乱れている。彩が慌てて説明を始めた。
「ドジっ娘の店員さんが水をこぼしたり、出来たて熱々のグラタンを落としそうになったり大変だったー。全部、大輝君が受け止めて私達には何の被害もなかったよ?」
服は白濁としたグラタンで汚れ拭き取った跡がある。腹部を確認すると火傷のようなものがあった。刺されたように感じただけだろう。
「彩は駅弁とアイスを食べてお腹いっぱいじゃないのか?」
「別腹で行けるー。紐を引くと煙が出る不思議な弁当で熱々に加熱されておいしかったよ?」
「水蒸気がすごくて恥ずかしかったわ。彩に少し分けて貰ったけど味は折り紙つきよ」
「10食限定で売り子が限定数以上の在庫を抱えていたよ?」
「口コミサイトに書き込まれたら大変なことになるな」
「既に大量の書き込みがあるけど、限定の魅惑に抗うことはできないー」
「話について行けなくて悔しいわ」
「凛はモナカを食べたからいいだろ」
「そうでしたわ」
「……猫舌の凛は放っておいて熱々を頂きましょう」
葵は不機嫌そうに口にする。熱々のグラタンを自宅で作るのは難しく最近は冷凍食品で食べることが多い。夢の出来事を反芻していると俺はハーレムを創ろうとしていることに気がついた。
***
人の居ない繁盛したラーメン屋台で2人は一杯500円の塩ラーメンと一緒に出された白飯の扱いに困っていた。周りを見渡すとスープに投入したりテーブルの調味料で創作料理を作ったりしている。客は商品開発の実験台にされていた。
「人間に戻ってから欲に振り回されておるぞ」
「間違いが起こらないといいが、我らにできることは限られている」
「無職になってしもうたからの」
「本望だ。神々は人が身勝手な願いばかりしてくると不満を募らせているが、現代の幸せはその身勝手な願いだと他の神々は気づいていない。時代錯誤な価値観で未だに人間の幸せは衣食住に困らない生活を送ることだと思っている。残念ながらそれは人の知恵で成し遂げた。遅かれ早かれ我らは消えていく」
「おい、声が大きいぞ。誰かに聞かれたらどうするのだ?」
「神格を失った俺の意見など誰も気にしない」
グラスを傾けると升に日本酒が流れていく。結局、白飯は追加料金を支払い焼き飯&紅茶にする。紅茶と焼き飯の組み合わせは最悪だと語っていた。
***
「うぅ、あぁ、彩、……く、苦しい……やぁ」
細い路地を抜けると私は葵に抱き憑いた。首筋を流れる大粒の汗を舐めると葵は妖艶な声を出す。むせるような甘い香りは麻薬のようで快楽の海に飲み込まれ溺れてしまいそうだ。
「やっと、平安貴族を見つけた……何をしているの?」
「……邪気払いかなぁ」
籠を斜めにぶら下げ虫取り網を手に持つ沙夜は、私の答えに耳を傾けず網で何かを捕まえていた。虫籠に何かを押し込むとお札を張る。男の不気味な断末魔が聞こえた。
「それでは、秘密にしておくから心配しないで」
「ま、待って! 誤解ですの!!」
自然と距離を取っても葵は私の手を握ったままだった。俯き黙り帰路に憑く。補導されないよう慎重に逃げるよう帰宅すると大輝は目を合わせてくれなかった。
***
翌日の放課後、俺と葵はとある古本屋に来ていた。狭い店内には大量の本が棚に並び、溢れた本は平積みされている。店主は紙製本特有の匂いで満たされた店内で新聞を読んでいた。用もなく居座るとハタキでわざとらしく埃を落とされ追い出される。彩が喜びそうだ。
「街の本屋を全て当たったけれども全滅ね」
数日前に蔵書が盗まれた。盗難本のほとんどは古本屋で換金されている。犯人捜しは警察の仕事だが、売られた本を探すのは文芸部の仕事だ。
「街中の書店を巡って目当ての本がないなら文芸部の仕事はここまでだ。貸出制度廃止を知らない学生は多いし本を借りる奴は少数だからすぐに見つかるだろ」
「そうね。返ってくることを祈るわ」
時間が余ったので古本屋からほど近い喫茶店で一服して帰ることにした。落ち着いた雰囲気で良心的な価格は学生の支持を受けている。瓶ジュースと自慢のタルトを注文する。
「大輝は消えた『×××』がどんな本かご存知かしら?」
学者が生涯を費やし完成させた名著。現代では批判も多いが功績は後世に残るだろう。全てを理解できてはいないが中心的な疑問が何かを知っている。
「本の概要は知っている」
「珍しいわね。『☓☓☓』でわたくしが前世で殺害された理由を説明できないかしら?」
「馬鹿馬鹿しい。趣旨が違うだろ」
「そうかしら? 現代でも世界を動かしているのは一握りの人間ではなくて?」
「否定はできないが、世界の表舞台で存在感が薄れている日本の現状を考えると無理があるだろ」
「そうね。でも、きっと彩は世界を無意識に恨んでいるわ」
「彩を祟り神みたいに言うなよ」
注文の品が運ばれてくると会話を中断した。半分に切られたタルトが目の前に現れる。瓶コーラとオレンジジュースを各々配置し、栓抜きとコップを置くとウエイトレスは厨房へ消えていく。紛失した本は『金枝篇』で、葵は王殺しについて論じているのだろう。世界イコール王の公式で世界の衰退イコール王の能力の低下。だから王を殺して更新しなくてはならない。天才を殺しても、この国に新たな王は生まれなかった。そしてこの惨状だ。
「蓋を開けてやるよ」
「あら? 昔は開けられなくて泣いていたのに」
「俺の過去を掘り返すのは止めてくれ」
俺は栓抜きを王冠にあてがいテコの原理を利用して蓋を開けた。空気の抜ける音がする。瓶に直接口を付け飲むのは抵抗があるのか葵はコップに注いだ。思っていた以上に量が少ない。久々の瓶コーラは他の容器と比べ美味しく感じた。
「一口くれないか?」
「いいわよ。大輝のコーラと交換しましょう」
葵は少し迷ったが結局瓶に直接口づけをして飲んでいた。潔癖症を疑ったが勘違いだろうか。タルトはサクサクとした生地で濃厚さが程よく美味しい。しばらく無言で食べ進めキリの良い所で本題に入ることにした。
「葵は彩のことが好きなのか?」
「……わたくしと彩が大輝の思っているような関係でないことを先に伝えておくわ。昨日は梵鐘に閉じ込められていた怨念が肉体を得た元幽霊の彩に嫉妬したのよ。自分たちが叶わなかった願いを神様が特例で認めたことが許せなかった。だからこそ、大切な人たちとの関係を無茶苦茶にするために取り憑こうとした。それだけよ」
葵はフォークを食器の上に置くとナフキンで口の周りを上品に拭き取ると淡々と語り始めた。呆れているような口調で少し怖い。
「噂が嘘で安心した。彩は秘密主義的な態度で掴みどころがなく何を考えているのか分からない。葵は小学校以来会っていないから月日の流れで俺とは住んでいる世界が違う気がした。変わらない俺は正しいのか不安になる」
「大輝が不安を吐露するなんて珍しい。他人に興味がないと思っていたわ。承認欲求が無く誰からも必要とされなくても孤独に生きることに恐怖を感じていない。それに、わたくしのこと全然聞いて下さいませんし、女の子に興味が無いのかとも」
「異性に興味はある。ただ、彼女ができない俺の言い訳かもしれないが、学生生活を恋愛中心に捉えることに疑問を感じている」
「大輝は勉学も部活もプライベートも単調で平凡な生活を送っているだけよ。学校で揉め事が起こらないよう裏でフォローを入れたりしていることを凛から聞いていますの。無欲であることは殊勝な心がけだとは思うけど何かを成し遂げたくはないのかしら?」
「野心はない」
「わたくしは、大輝に表舞台に立って欲しいと願うわ」
「俺は表舞台の役者にふさわしくない」
「そうかしら? 労働は国民の義務ではあるけれど、全力で働けとは記されていませんわ。大輝なら能力の50%で一生を終えることができるでしょう。でも、自惚れではないけれども、不景気は能力の高い者を求める。大輝は無関係では居られなくなる。平凡を求めても意味はないのよ」
「俺は生贄になる気はない」
「ご自由に。大輝の考えを改めるまで、わたくしは待ちますわ。これ以上、失望させないで下さいまし」
葵は大きなため息をつくと黙ってタルトを崩し始めた。不景気と少子化で企業や国家の上層部に年功序列で能力に関係なくたどり着いた人々が停滞している。私利私欲を満たすためだけのシステムを構築し政治経済を混乱させた。天才は日本に居てはダメだ。だからこそ葵は海外へ学びに行った。
***
机には広げられた真っ白なノートが一冊。ペンが何本か無造作に置かれている。俺たちは国語の課題に頭を悩まされていた。オリジナルの創作物語。それは、困難の付きまとう問題だ。
「鵺退治伝説をベースに創作しないか」
元バク研究会の前田が何となく言った。鵺は伝説上の生き物で不気味な鳴き声をするらしい。未だに夢喰いのバクを捜しているので気になる生物なのだろう。特に反対意見はなかったので鵺伝説を調べることにした。
「WEB情報では限界があるな……活字で調べるか」
奥田は面倒くさそうに言った。図書文庫アプリを開きAIの図書師匠に問いかけている。
「異世界転生要素を入れるぞ」
有田はすごく楽しそうに言った。自己投影させた主人公を無双させる気らしい。
「
俺の名前は有田。30歳中卒だ。
ジャージ姿で休日のイ×ンモールのフードコートを闊歩し底辺家族を見下すことを日課にしている。ニートの寄生虫のごくつぶしだ!! 今日もコンビニで雑誌を立ち読みしていると大型トラックがダイナミック入店してしまい、俺はサンドイッチにされ死んでしまった。目を覚ますと裁判所の証言台の様な場所に立たされていた。立ったまま寝ることが出来ることに感動を覚える。
「有田様初めまして私の名前は花枝です。急でびっくりしているかもしれませんが、未練を残し死んでしまうとここへ転送されます。そして、人生に対し不服申し立てをすることができます。申し立てせずに常世へ行くことも可能ですがいかがなさいますか?」
「俺の人生は理不尽で未練しかない。不服を申し立てる」
「左様ですか。では、有田様の理想の人生とは何でしょうか?」
「異世界でハーレムを作り魔王を倒し英雄になる」
「承知いたしました。世界を構築しますので少々お待ちください……」
女は片膝をつくと呪文を諳んじる。
「哀れな汝に慈悲の心を与えたまえ……世界よ汝を中心に回れ!!」
花枝が呪文を唱え終えると魔法陣が現れた。いや……正確には傍聴席の魔女が一斉に立ち上がり総勢30人で大魔法陣を手書きで描き完成させた。
「明らかにサボっている魔女いたよな!!」
***
「総額、三千万円の借金返済のアテはあるのか?」
――春
それは、出会いと別れの季節。
夢から醒めてしまえば、何も残らない。種明かしされてしまえば無意味な経験だ。
「八日市中学校出身の十津川湖南です。趣味は……」
奈良県十津川村、推理小説。滋賀県湖南市、推理漫画。どちらで呼ばれるのがマシか?
俺は劣等感に支配されていた。中学時代は思い出したくもない。
駅まで徒歩数分の立地。恵まれた家庭環境。容姿は中の下ぐらいの自己評価。自己肯定は名前のせいで極めて低かった。俯向き加減の猫背で人は正視できない。それでも道端には小銭ぐらいは落ちている。
「キャベツ、うんめぇーーーー!」
今日だって、ほら、道草を食らう人だっているさ。地域の人が管理している花壇には葉牡丹が植えられている。門松の周囲を彩る植物だ。もちろん食用ではない。
「ふぅ、お腹いっぱいやぁ」
この女の子は頭がおかしいのか? 泥を祓う彼女はこれから通うことになる学校の指定制服だった。俺は少し気持ちが楽になる。世の中、下を向けば霧で見えない。
***
「もう死んだのか? 有田、お前、次はみかんな」
***
街から街へ。
籠の中の鳥は、いつ放たれるのか。
ボロ服の彼女らは誰かに売られていく。
何をしでかしたのかは知らない。
広場の一角で虚ろな瞳の少女たちが立っていた。
行商人は絵に描いたように太っていて時折金歯が覗く。契約が成立したのか彼らはテントに入っていった。俺がこの街に定住してから何度も目にした光景だった。
「兄さん、今日は市場に安くて新鮮な野菜が多くて助かりました」
妹のターナは紙袋から赤々とした奇抜なみかんを取り出していた。ピンクのアウターに丸襟の上着で胸元には黒い紐のリボンが付いている。清楚なロングスカートにブーツ姿で魔術士にしては特有の影を感じさせなかった。「私を魔女だと思っていますか?」頬を膨らませた妹の姿が脳裏から離れない。回復や攻撃魔法を行使できて長旅では心強いパートナーだった。
「買占めで食料品が暴騰していたから、戦争が終わったのかもしれないな」
「兄さんが兵役逃れの常習犯でなければ、素直に喜べたかもしれません」
ターナのスカートが舞い背を向けられてしまった。百年前の因縁か何かで長引く戦争は庶民を苦しめている。
「か弱い妹を残して戦争に行けないからな」
「私など放っておいて国王の騎士団に入ればよかったのです」
表情は分からない。ただ、耳は真っ赤で月を象ったイヤリングは彼女からねだられて俺が買い与えたものだ。
「きゃぁ」
小汚い子どもがぶつかってきて短い悲鳴をターナがあげた。
「ごめんよー」
右側の犬歯が一本抜けた子どもは振り向きながら謝る。少年か少女か判別は付かなかった。
突き飛ばされたターナを受け止めながら子どもの進行方向だけは目で追った。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。……目立つので剣から手を離してください」
俺は職業病に苦心しながら腰の短剣を収め戦闘態勢を解く。ターナは黙って服を正していた。
「ターナじゃなくて、財布のこと」
「ふんっだ、落としたり、スリに遭うほど腑抜けてはい……」
麗しい妹の顔は赤くなって青くなった。俺は取り返しに行くか迷う。
「あれは物乞いの子ですから、追わなくていいです」
俺たちの導いた解は同じだった。
「兄さんも奴隷が欲しいのですか?」
「えっ、急にどうしたの?」
突然の問いに思考が停止してしまう。
「物欲しそうな目は昔から変わりませんからね」
「白状すれば、家事手伝いのメイドは欲しいと思っている。一人で大変だろ?」
「押し付けがましいお節介はいりません。それに、私だけで問題なくこなせています」
虚勢なのは明らかだった。
「……財布も取られたし、今は雇えないから、また今度にするよ」
「未来永劫いりません。私がいますから」
自信たっぷりにターナは口にした。
「わかった、無理はするなよ」
「無理していません。当たり前のことをしているだけです」
俺の言葉のどの辺りが癪に触ったのかイマイチわからないまま市場を歩いていく。
「帰ろうか?」
「はい」
遠くから男の雄叫びが届く。轟音がした。人の流れが変わっていく。誰からか逃れるように必死の形相で街の人が走っていった。緊急事態にしか鳴らないはずの鐘が鳴り響く。俺とターナは顔を見合わせ、侵略の魔の手が迫っていることを理解した。一斉に動き出した人々は砂煙を舞い上げ方向感覚が失われる。ターナは俺の手を握り「行きましょう」一緒に王宮へ駆けていく。街の出入り口は三箇所あって敵の侵入は走ってきた方角から察するに正面からで、左右からの襲撃はない。追い越し抜かされ誰もが必死だった。「兄さん!」ターナが空を指差すと大きな魔法円ができている。「あれは闇魔法……失われたはずの魔術です!」息が上がり砂で喉が痛く妹の声は震えていた。二重円のなかに三角があって、また円が描かれている。俺はあれが何か分からない、それでも怯えたターナの様子から不穏な魔法であることは嫌でも受けいれた。「兄さん……悪魔の召喚魔法です。あれからは逃れられません」
彼女は立ち止まる。
「大丈夫。俺がターナを守る、さあ安全なところへ行くぞ!」
「古い文献には、あの闇魔法で多くの街が壊滅しています。私がなんとかします」
ターナは俺の手を振りほどくと、人ごみに消えていった。
」
「プロローグは終わった。俺の伝説の始まりだ!!」
「有田。鵺退治伝説の要素が全く見当たらない」
「大輝は黙っていてくれないか……これからがいい所なんだ!」
結局有田を主人公とした異世界ハーレムの話作りを手伝った。
***
正誤表
××ページ××行目
(誤)――可哀想なのは抜けない。
(正)――妹ものでは抜けない。
「やっと、終わった」
特別賞に輝いた『ミカンに怯える有田の英雄譚』の間に合わなかった修正の対処に追われていた。受賞した作品は文庫本になる。紙製書籍は書庫に保管しなくてはならないので、俺と彩は図書室に来ていた。肌寒い地下へ続く階段を降りていく。
「人の想像力はすごいねぇ」
「そうだな。当初の予定では鵺退治伝説がベースだった」
「鵺退治? ハーレムを作る話? 大輝は好きなの?」
「ハーレムは男の性だが1人を愛する人間でありたい」
「誠実だねぇ。でも、誠実と臆病は別だよ?」
複数の女性に夢を見続けさせることは至難の業であり現実的ではない。夢から醒めると誰も残っていない気がする。しかし、誠実と臆病の違いを考えたことは無かった。
「黙り込んでどうしたの? 大輝には難しい話かなぁ?」
「投げ出してしまいそうな難問だ」
「頭で考えるモノではないよ? 彼氏居たことないけどね」
生前の彼氏居ない自慢をする彩は少し寂しそうだった。恋愛をする暇も無かったのかもしれない。認証カードを読み取らせると書庫の分厚い扉が自動で開いた。規則に従って本が整理されている。『ミカンに怯える有田の英雄譚』は国語の課題で作成したものなので専用の本棚に仕舞った。
「あれ? 認証できない」
「最近、故障が多いねぇ」
認証カードを何度も読み込ませるが反応しない。自力で開けることはできないので警備会社を待つ以外に選択肢は無かった。磁気式の旧式だが大量の書籍を一時的に保管する場所がないので切り替えができずにいる。国会図書館は順次最新式に以降しているらしい。
「助けが到着するまで、噂の地下通路探しをするか?」
「徳川埋蔵金探しみたいで楽しそぉー」
文芸部に代々伝わる伝説。地下書庫には秘密の部屋、通路があるらしい。先人が幾度も挑戦し誰1人発見できていなかった。暇つぶしには丁度いい。
「天井に隠し扉はなさそうだねぇ」
高い場所を調べようと彩を肩車すると体が反応してしまう。柔らかく温かい太ももは凶器だ。地下書庫は温湿度管理のため密閉されていなければならない。素人が後から付け足すことは不可能。忍者屋敷のような回転扉はない。時計を見ると閉じ込められてから2時間が経過していた。警備会社に連絡が入り専門業者と警備員が10分ほどで到着するだろう。
「仮に隠し通路や部屋が実在するとして設計の段階で利用者目的を設定しているはずだ。埋蔵金の隠し場所、極秘実験場、シェルターだったら俺達は対象外だったのさ」
「設計段階と施工で状況が変わることがある。誰が何の意図で噂を流したのかを考えるのが現実的だよ。例えば途中まで破棄された部屋だったら噂に踊らされた学生に探させる意味はないと思う」
「都合が悪いモノを隠すためではない。か」
「大輝君は女の子と2人きりで密室に閉じ込められて特別な感情を抱かないの? 淡々とあるはずのないモノを探し助けが来るのを待つ? この伝説の本質は異性との距離を縮めることを目的にしていると思うよ?」
「確かに閉じ込められた先輩の多くはカップルになっている」
「大輝君は臆病者だから無理かなぁ?」
俺は何も言い返すことができなかった。無言で助けを待つ他ない。しばらくすると大急ぎで地下書庫にやって来た警備員と専門の修理業者に俺達は無事救出された。修理業者は作業台に工具箱とパソコンを広げると作業に取り掛かっている。
「今からだと深夜までかかるやんけ。女のような男の幽霊が出るから嫌だなぁー」とボヤいていた。後に聞く所によれば彼に担当が変わってから故障が頻発している。腕が悪いのではないので幽霊の仕業だろう。警備員に渡すための報告書を適当に作成し地上に戻ると18時20分だった。校舎に人は少なく職員室棒鍵を返しにいくと「大変だったの。覚えていたら内線電話の修理を進言しておく」と神頼みの担任が人ごとみたいに言っていた。
***
鞄を取りに行くため俺と彩は誰もいない教室に来ている。西日が窓から差し込み机の影が伸びていた。俺が自席に到着しても彩は扉の前にいる。色っぽい笑みを浮かべ影踏みしながら近寄ってきた。俺の机に腰掛けスカートをいじりながら話し始める。
[中略] BAD END
「バレちゃったぁ。はぁー、おめでとう。さようなら」
彩に似た何者かはあっけなく見破られ残念そうだった。最後の言葉は野太いおっさんの声で嫌になる。彩の顔で止めて欲しかった。
***
気がつくと真っ暗な教室に居た。俺は自席に座り居眠りをしていたようだ。彩は俺の手を優しく握り前田の席に座りぼんやりと儚げに窓の外を見ていた。
「おはよ。夜だよ?」
はっとした表情で彩は俺から手を離す。時計に視線を向けるとカカシのようにへの字を指し俺達を追い払おうと睨みを効かせている。
「大輝君、今日が提出期限のノートを取り出すため机の中を探っていたら突っ伏して眠ってしまったよ? 疲れが溜まっているのかな?」
「疲れてはいない。ただ、地下書庫に住まうオカマの幽霊が現れた」
「??? おかま? 憑依体質は大変だねぇ」
彩の顔をしていたとは言えなかった。向かいの校舎の灯りが消え懐中電灯の灯りが廊下を彷徨い歩く。この時間から夕飯を作るのは何だか面倒で後片付けをする気になれない。
「折角の金曜日だから外食にしよう」
「月末のぷれみあむふらいでーだね。倹約家の大輝君から言い出すのは珍しいね。でもこんな時間だし賛成ぇー」
彩と協力して教室の戸締まりを確認した。職員室には担任が残っていたので鍵とノートを渡す。「期限に間に合わせるため、夜遅くまで残って大変じゃの」と他人事みたいな事を言っていた。世間話に付き合い下校する。空高く掲げられた看板がクルクル回るファミレスで向かい合う2人用の席に案内された。週末は21時を過ぎても人が多い。
「ファミレが居酒屋になっている」
「夕方からはアルコール類の飲み放題があるからな」
「大輝君がお通しの素揚げパスタを焼き鳥の串だと勘違いしていたのを思い出したぁ」
「止めてくれ。俺の過去を掘り起こすな」
彩はルーレット式おみくじ器が無いと分かるとガッカリしていた。メニュー表を眺め好きな料理を各々注文する。ミートスパゲティ、カルボナーラ、大きなピザ。ウエイトレスに勧められドリンクバーを追加で選ぶ。飲み物はセルフサービスで彩が取りに行ってくれた。凛の大好きなガムシロップジュースは止めてくれと頼んだ。
「じゃあ、私がジュースを選んでくるねぇ」
「頼んだ。荷物は俺が見ているよ」
遠目で彩の様子を眺めているとウエイトレスに使い方を教えて貰っていた。ニコニコと笑う彩は液体が並々と注がれたガラスのコップを手に戻って来る。
「はい、大輝君には烏龍茶。トクホだよ?」
彩は緑色の飲み物をチョイスしている。メロンソーダーだと思ったが炭酸の粒がない。嫌な予感がする。彩は俺の視線に気づいたのかご満悦で説明を始めた。
「これは、元祖青汁だよ! 飲んでみたかったー」
「絶対にあのセリフを口にするなよ……」
「えぇー! あのセリフなしに飲みきれないよー」
無調整の不味い青汁を押し付け合っていると、ウエイトレスが料理を載せた台車を引いてきた。テキパキと注文の品を机に並べ厨房に消えていく。想像より大きい。俺はパスタを小皿へ盛り付けた。彩はピザカッターで危なかっしく切断していたが、上手く行かず最後は手で千切る。油でベタベタの指を舐めるとお手拭きで拭っていた。
「美味しそうだねぇ。青い汁を飲んでくれてありがとう」
「体には良さそうだが、苦くて不味かった」
「次はミドリムシ飲料に挑戦だね?」
「絶対に嫌だ!」
絶妙に芯の残るパスタは美味しかった。ピザの上の葉っぱが何か話し合いをしていると次第にヒートアップしていく。ウエイトレスにルッコラだと教えて貰い解決する。食べ切れないと思っていたが彩が7割ぐらい食べてくれた。カルピスの原液を締めの1杯にする。何となく乾杯をしてみた。補導される時間が迫っていたので店を出た。
***
ある日、俺は街の中心から離れた山の麓にある神社に呼び出されしまった。禍々しい石段を登り切ると巫女が竹ほうきで砂利を掃くと土煙が立ち上る。沙夜は俺を見つけると手を振った。朱色の鳥居をくぐると視線の先には山がある。本殿は少しずれた場所にあった。
「遅い。女の子を待たせるのはマナー違反だね」
「すまない。地下書庫の異常で手間取った」
「ご苦労様です。立ち話もなんだから社務所へいこう」
手水舎には柄杓が並び龍の口から水が絶え間なく流れている。砂利道を歩く音と水音だけが静寂のなか響いていた。
しばらく待合室で待たされると沙夜が盆に急須と湯のみを載せ危なっかしく持ってきた。机の上に放置されていた茶菓子と湯のみを並べられる。お茶の香りとは違う。「どうぞ」と勧められたので口をつけた。お茶にしては苦すぎる。急須の蓋を開けると黒い液体で満たされていた。
「お茶ではなく珈琲か?」
「正解。大輝君は懇意にしてくれる氏子だから高級品を開けました」
「高級品って猫が……だろ?」
沙夜は答えを口にしなかった。急須の蓋に手を添えながら俺の湯のみに追加で注ぐ。生産途中の豆を想像しなければ美味しかった。
「大輝君本題にはいるね。端的に言ってしまうと神様がクビになりました。しばらく不在で憑依されてもどうにもできません」
「それは前に凜から聞いた。何をしたらクビになる?」
「詳細はお伝えすることはできません。ただ、重大な規則違反を犯しました。神体山の力を行使する別の神様の派遣を要請したけど断られました」
「……分かった。気を付けるよ」
沙夜は話し終えると冷めたコーヒーを飲み干した。おかわりを一緒に注いでもらう。茶菓子を食べながら以前から疑問に思っていたことをぶつけることにした。
「この神社の氏子集団が隣接する街でなく、少し離れた街にあるのは何故なんだ? 隣接する街は別の神社の氏子集団に組み込まれている」
「一般的な神社であれば隣接する地域に氏子集団があるね。元は隣接地域に氏子集団が形成されていたけど全員……生贄になってしまったね。大輝君なら真っ先に生贄にされたと思う。もう遥か昔の話だから安心して」
「そうか……」
「神聖は永遠ではないから更新が必要。それか……維持するために生贄を与え続けなくてはならない。神様のわがままに振り回されて滅びた地域も多いね」
これ以上聞いてはいけない話だと思った。チラリと時計を見ると沙夜も気が付いたのか片付け始めた。
***
折りたたみ式の机には食べかけのお菓子や飲み物が散乱している。元図書館の文芸部部室で部員達は各々難しい顔をしていた。壊れかけの冷房機が部屋を冷やすため不協和音を奏でている。
「活動内容の見直しを求められている」
「温湿度管理だけって聞いたよ?」
「実際の活動はそれでいいが、文面上の体裁は整える必要がある」
毎年文化祭で和綴じの実演をしている。去年の来場者が0人だったことを部活動の管理委員に指摘された。
「ホイールキャップ拾いを盛り込めば解決ですわ」
「凛だけで回収していればいいわ」
「姉さんは黙ってくれないかしら?」
「姉妹喧嘩は止めてくれ」
遠い昔には同人誌を展示していたが文才のない俺達に文集を仕上げる自信は無い。国語の課題は奇跡だ。
「貸出業務を再開してみたら?」
「誰も来ない図書館で毎日業務をしても意味がないだろ」
「確かにー。毎日は大変だしねぇ」
利用者が少なくなったので業務が廃止になった。今更再開しても意味はない。何か妙案は無いかと記憶を辿る。俺が生まれた頃には既に紙製の本は絶滅に瀕していた。現代では雑誌だけが紙製だ。当時は目が悪くなると言われ情報端末の使用は控えられていた。唯一触れたことのある本は絵本だけだ。
「……次の文化祭の展示物は思い出の絵本にしてみるか?」
俺の問いかけに各々賛成の声が上がった。展示を活動内容に予定として書き加え部の顧問に提出する。「思い出の絵本の展示か……いい案じゃ。楽しみにしておるぞ。頑張れよ」と他人事みたいなことを言っていた。再審査は訂正箇所もなく無事に通過した。
黒板の内容を移すだけの退屈な授業。出題箇所は赤色で丁寧に教えてくれるので真剣に聞かなくてもいい。凛が常日頃苦心しているホイールキャップが外れるメカニズムを考えることにした。凛の嬉しそうな顔が浮かぶ。段々と毒されている気がした。
「きゅちゅん……はぁー……くちゅん」
「なんじゃ? 誰かに噂されとるのか? 人気者じゃな」
凜はくしゃみをすると恥ずかしそうに俯いた。そして、追い打ちをかけるように社会担当の神頼みの担任が茶々をいれた。関係ないと思いつつも後でホイールキャップ磨きを手伝い罪滅ぼしをしようと思った。
――な、なんだ
ノートの切れ端を四角く丁寧に折った手紙が俺の机に転がり込んできた。一昔前に伝言ゲームの様に運ばれてくる手紙でのやり取りが流行った。葵の真剣な横顔の奥に彩は不自然な視線を俺に送っている。手紙を手にすると開けた。
『目を開けながら寝るのって難しいね。チョーク飛んで来たらどうしよー 彩』
居眠りは減点対象なので演技力が問われる。有田は刮目し立ったまま眠ることができるのでコツを教えてもらえば良いと思った。チョーク伝々は理解できなかったが、また古臭い冗談だろう。インクの切れかけたボールペンを鞄から探し出し手紙を綴る。
『瞼にマジックで目玉を描けばいいぞ 大輝』
鬼が電子黒板に向いている隙に書き終えた手紙を彩に投げつける。――刹那。葵に握りつぶされていた。心のなかでマナー違反を抗議するが届くことはない。葵は少し考え何かを記すと宛先不明で手紙は帰ってきた。
『授業中は遊ばないでちょうだい。手元にマジックあれば瞳を塗りつぶしていました。休み時間覚悟しておいてください 葵』
授業を邪魔された葵の不機嫌な横顔は恐ろしかった。そっと閉じると綺麗に折りたたみ彩に投げつける。ジロリと葵に睨まれたが愛想笑いを浮かべやり過ごす。
「きゅちゅん……ん……くちゅん」
「なんじゃ? またか? 人気者はつらいのー」
振り返ると凛はかぁーっと顔を赤くすると髪を撫でていた。彩は手紙を開けると顔を青くしている。瞳を塗り潰されると思ったのだろうか。彩は「た・す・け・て」と口だけを動かし俺に救難信号を送るが俺は視線を逸した。見捨てられた彩は情報端末を太ももの間に置くと震える手で画面をタッチしている。「・・・---・・・」モールス信号でSOS。電鍵アプリで繰り返し打ち込んでいた。
「モールス信号か? ……SOS……そうか風邪か!」
「ち、違いますわ!」
「委員長、保健室に連れて行ってくれるか?」
「凜、無理しないで保健室に行きましょう」
「え、ええ。ありがとうですわ」
うつむき加減の凛は恥ずかしそうに沙夜に付き添われ保健室へ行くため歩き始めた。好機と捉えた彩が立ち上がる。
「先生! 私も体調が悪いので保健室へ行きたいです」
「真っ青じゃ、委員長一緒に連れて行ってやれ」
白い清潔な空間。診察椅子。屏風のような青い布張りパーテーション。古い事務机に置かれた救急箱。体温計。カーテンで仕切られた個室。小さなシャワー室。手洗い場。鏡には正しい手洗いの方法が描かれた剥がれかけのシール。土足厳禁でスリッパに履き替える。保健室に行くのは初めてだった。消毒液の匂い。白衣の天使はオカマだった。努めて冷静に挨拶を交わし見舞いの旨を伝える。ケロッとした顔で帰ってきた彩から、凜は本当に風邪で保健室のベッドで寝込んでいることを聞いた。カーテンの隙間から様子を確認する。丸椅子。転落防止柵付のベッド。新雪のような純白のシーツ布団カバー。銀色の長い髪。おでこに冷却シート。上気した顔。高熱で意識がもうろうとしていて苦しそうな浅い呼吸を繰り返していた。会話できそうになかったので見舞いの品を置いていくことにする。飲料水7本をベッドの脇にある机の上に静かに並べた。
「大輝、待って……待って下さいまし」
布団から顔を半分だけ出すと、俺に助けを求めるように手を伸ばす。俺は丸椅子を引き寄せると、ガラス細工のような細く繊細な指先を丁寧に受け止めた。
「限界まで我慢するのは凜の悪い癖だ」
「はぁ、はぁ、ごめんなさい」
凜の荒く浅い息は指を絡めしばらく傍で付き添うと安心したのか静かな吐息に変わった。雪の上で静かに眠る姫君安らかで時を忘れさせる。放課後、彩と葵が俺と凜の鞄をそれぞれ持ってきてくれた。鞄が地面に落ちる音と共に俺と凜の様を2人は凝視し固まっている。軽いクラクションでハッと我に返った。
「そ、そうだ! 先生が車で送ってくれるってー」
「そうか。凜立てるか?」
「ええ……大輝のお陰で……少し楽になりましたわ……」
手を貸し起き上がると凜はベッドの端に腰掛け乱れた制服を正していた。
「羨ましいわ……私も風邪になったら……」
「大輝君に行かせたのが間違いだったよー……」
爪を噛みながら小声で呟いていた。校門前で錆びついた軽バンに乗った神頼みの担任が待っていた。スライド式のドアは自動ではなく窓も手回し式だった。シートベルトは伸び切っていて安全性は皆無に等しい。冷房はかび臭く申し訳程度のラジオからは雑音だけが漏れていた。硬い座席は破れスポンジがむき出しで扉を閉めると軽い音がする。
「ボロの公用車じゃが、現役だから安心せい」
「大丈夫か、これ」
規則正しい方向指示器の機械音。助手席に座る葵は神頼みの担任に指示をだしている。凜を挟むように俺と彩が乗り込み「社長席かな?」と楽しそうに言っていた。予測不可能な動きをする自転車を無事に追い抜く。メーターパネルに様々な情報が表示されていてガソリンの残量は限りなくEに近い位置を指していた。住宅街の真ん中にある庭の広い三角屋根の自宅へ乗り入れる。軽バンは砂を巻き上げ意味もなくハザードを点滅させ停車した。俺は車から先に降りると凜に手を差し伸べる。危なっかしい足取りの凜が転ばないようにしっかりと支えた。
「大丈夫か? 無理するなよ」
「ええ……ありがとうですわ……」
凛を親御さんに引き渡すと葵も心配そうに付き添い自宅へ消えていく。
「大輝君も体調が悪い時はすぐ私に言ってね」
「俺は風邪を引いたことがないから大丈夫だ」
「大輝君はバカなの?」
「さぁな。彩はどうだ?」
「私も病気になったことはないよ?」
バカ同士笑いあっているとキュルキュルと腹を下したような音がしばらく続き、次第に聞こえなくなっていった。振り返ると神頼みの担任がカギを捻りながら「バッテリがダメになってしもうた。機嫌が悪くて大変じゃー」と他人事みたいなことを言っていた。
「「せぇーのぉぉぉおおおおおおおおおおおーーーーー」」
掛け声と共に俺と彩は軽バンを後ろから勢いよく押した。スピードがつくと車体が少し跳ねエンジンが始動する。「さすがMT車! 何とかなったわい……」と俺達を残し走り去って行った。最後の言葉は聞き取れなかったが、きっと他人ごとのようなことを言っていたに違いない。呆然と国道の方角を眺めていると玄関の隙間から顔を出した葵が手招きする。俺と彩は無言で頷き合うと双子の自宅に招かれた。葵を先頭に日当たりの良い廊下を進む。名前の刻まれたホイールキャップが扉に掛かっている。凜の部屋を通り過ぎると物置の隙間から何かが見えた。
「これに見覚えがあるが思い出せない」
「えっと、ほら、あれ、橋の横に設置されている、あれ」
「ああ、あれか、あれだよな」
「珍しいでしょう。名称は侵入防止柵らしいわ」
「へぇー、どこで買ったの?」
「水管とセット販売だけど保守部品を通販で買ったわ」
「最近は通販で何でも買えるねぇ」
正式名称は不明。水管やガス管が橋と並行して渡してある水管橋。管に乗ったり出来ないよう両端に扇形に広げられ設置されている金属の骨組みが置いてあった。人の収取品にケチを付ける気はない。ただ、姉妹の収集品に影響を与えたのは誰なのか気になる。葵の部屋は荷物が少なかった。引っ越しの時に大半を処分したそうだ。
「あぁ! これ、お揃いで買った奴だ」
「ええ。あれは、夏休みの旅行で買ったものよ」
「私も部屋に飾っているよ? 大事にしようね」
彩と葵は楽しそうに思い出話をしている。俺がプレゼントした品も並べられていた。部屋は住民の心の状態を示すらしい。心理分析はするのもされるのも苦手なので止めておく。人生ゲームを3人でしていると夕方になっていた。夕飯を誘われたが丁重にお断りを入れる。帰りに渡したいものがあると葵の自室に連れて来られた。扉の鍵を閉めると引き出しからボロボロの婚約届を取り出し俺に見せる。
「大輝は約束通り、わたくしをもらってくれるのかしら?」
葵は期待と諦めが入り混じった複雑な表情で俺を凝視している。いま、この瞬間まで記憶から消えていた俺は即答できなかった。沈黙が答えだと判断したのか暗い顔で婚姻届けを折り始める。
「幼少期に守れない約束をするのは失敗だったのかしら。契約に縛られるのはお互いにとって不幸だと思うわ。大輝は忘れていたのでしょう。こんなものを信じたわたくしがバカだっただけよ。それに、まだ、諦めてもいない」
折られた鶴がシュレッダーで裁断されて行くのを2人で眺めた。葵は有無を言わさず彩の待つ居間へ引っ張っていく。彩は暇そうに玄関で待っていた。凜が部屋の窓から手を振っている。帰り道。等間隔で並ぶ街灯が遥か遠くまで続き徐行と印字された細い道を照らしていた。高さを競い合うようにコンクリート塀が立ち並ぶ。電柱には無許可の高利貸のお札が乱暴に張られていた。白線に沿って俺と横並びで歩く彩のスピードは遅く徒歩五分の道のりを倍以上かかっていた。家々から楽しい話声が聞こえ家族団らんの時を過ごしている。無点灯の自転車が忍者のように音もなく強引に追い越していく。避けようとすると彩を塀に押す形になってしまった。彩に非礼を詫びるが、くりっとした瞳をぼーっと俺に向けるだけだった。艶やかな茶髪は街灯に照らされ天使の輪ができている。
「彩、どうした?」
「大輝は誰にでも優しいね」
俺を呼び捨てするのは初めてだった。彩の瞳は怒りに変わっていく。華奢な体のどこに力が貯められていたのか、俺を半ば強引に抱き寄せる。柔らかく弾力のある大きな膨らみに顔を埋められた。抗議の言葉は吸収され意味を成さない。
「私も負けないから」
彩は俺を解放すると早歩きで自宅へ向かった。
***
数日後、全快した凜は無言の圧力で前田を退去させるとスカートをまとめ浅く腰掛けた。メロンを抱きしめ背筋を伸ばし少し首を傾け銀色の長髪を手櫛している。
「おはよう。大輝」
「おはよう。風邪は治ったのか?」
「ええ、おかげ様で体調が戻りましたわ」
凜は毛先で頬を撫でながら温和な雰囲気を放っていた。強気な態度が薄れ居心地が悪い。抱きしめられたのはメロンだった。
「……ロン」
「ロン? もう少し大きな声で頼む」
上手く聞き取れなかった。ロン? 麻雀? 葵を捨てたとでも言いたいのだろうか。凜に振り込みをした俺は大きな代償を支払わされる気がした。
「マスクメロンですわ」
「……うさぎリンゴ剥いてやるから保健室いくぞ」
「心配無用ですわ」
メロンをスピンさせながら渾身のギャグを俺にお見舞いすると、凜は勢いよく立ち上がり颯爽と自分の席に戻っていった。沙夜と楽しそうに会話しながら南国のフルーツを渡している。隠し持っていた刃物で切り分けると美味しそうに食べていた。意味不明なのはいつものことなので気にしないことにする。
「えへへぇ、大輝! 映画のチケット貰っちゃったー」
「世界を震撼させた映画らしいわ」
「『震える侍』と『麻雀牌にとまるスズメ』かよ……」
「待ってくださいまし! わたくしも行きますわ」
彩と葵はクラスメイトから押し付けられた駄作の映画券を俺に見せた。自席で沙夜と会話をしていた凜が飛んで来る。約束を取り付けると、俺の机に南国フルーツの残骸を残し解散した。教室の後ろにあるゴミ箱に残骸を捨てに行き帰ってくると、凜は前田に洋ナシを渡しながら差し入れの礼を珍しく述べている。俺はマスク姿のメロンにマジックで目を描く。凜からの最上のお礼は嬉しかった。
***
何事もなく1日を終えた俺は真剣な顔でパソコンのディスプレイを眺めていた。めぼしい情報をみつけるとクリックし時折ブックマークをする。表向きは映画を見に行く予定だが特別な期待をされていることを薄々と感じていた。クラスメイトは優柔不断な俺に苛立ちを隠せないようで選択を迫られている。
「彩、葵、凛を狙う男は多いからな」
独り言を呟き伸びをした。秋になると何故かカップルが増える。俺は明確に誰々が好きだという感情は抱いていない。ただ、彼女たちは交際の申し出を断る理由に好きな人が居ると答えるのだ。俺であろうとなかろうと無関係ではいられない。あくびをしているとドアがノックされ。
「大輝、今、大丈夫?」
返事も聞かずにドアを開け放つ彩はお風呂上りで湯気が立っている。俺は素早い動きでブラウザを閉じると向き合う。
「真っ暗な部屋で何をしているの?」
「明日、見に行く映画の情報を調べていただけだ」
「ふぅーん。計画を立てているのかと思った」
「俺がノープラン人間だと知っているだろ?」
「知っているよ。でも、少し期待していた」
「あのな、デートだと触れ回っているのはクラスの連中だ」
「私と映画を見に行くのがデートじゃないなら、葵や凛さんとはデートなの? 私は下見に同行するだけ?」
「葵や凛と映画を見に行くのも、デートではない」
「へぇ……。私たちの気持ちを弄ぶの?」
「彩は明日、デートだと思っているのか?」
「そだよ。葵や凛さんも同じ気持ちだよ?」
「彩、葵、凛の気持ちは理解した。だが、俺の気持ちはないじゃないか」
「大輝は誰が好きなの? 分からないは禁止」
「俺は……」
「いやだなぁー冗談だよ? 大輝真面目すぎー。迷っているなら既成事実を作られないように気をつけてね」
彩は表情を緩めると俺の肩を揉むと凝り固まった何かが流れていく。怒り、悲しみ、恋心。関係を変えるためには大きな動機が必要になる。俺は平凡を求め彼女たちは何を求めたのか。
***
食卓には菓子パンが並べられていた。女の子座りした彩はパジャマ姿でメロンパンを頬張っている。マヨパンは飽きたらしい。「おはよー」昨日の出来事を忘れてしまったかのようないつも通りの振る舞いだった。朝食を終えると脱衣所に彩は消えて行く。俺は手早く着替えを済ませ旅番組をぼーっと眺めていた。
「急きょ服を新調しましたー」
ドアの前でスカート姿の彼女が恥ずかしそうに突っ立っていた。人のことは言えないが、一言で表現すると店のマネキンを一式買いしました的なコーディネート。膨らみを強調するような服だったが似合っていた。
「大輝は普段着だねぇ」
「映画を見に行くだけだからな」
「ふぅーん。値札付いているよ?」
「こ、これは、季節の移り変わりに合わせた結果であって、決して特別な意味は持っていないのかもしれない」
「意味不明だよ? でも、うれしい」
甘く温かい吐息が首筋を撫でる。はにかむ彩は値札をハサミで切ってくれた。
「私ね、男の子と2人で出かけるの初めて」
「本当か?」
「うん。今日は私にとって記念すべき日なのです」
俺はノープランであることを後悔した。彩の特別な日を演出したいと別々に自宅を出発し駅前で合流することに決めた。先に家を出た俺は通いなれた道を歩いていた。電柱がタケノコのように立ち並び道幅がさらに狭く感じる。通り抜けに使う迷惑な車が行き交い、見覚えのある自転車が抜かして行く。20メートルほど進み急ブレーキをかけた。
「徒歩だったの? 台無しだよー」
「それは、こっちのセリフだ。徒歩で来いよ」
「えぇー、徒歩はヤダ」
電動アシスト自転車に跨る彩に追いつくとお互い苦笑いを浮かべていた。囃し立てるようにカラスがうるさく鳴いている。
「ぐ、偶然だね!」
どうしょうか考えていると彩は軌道修正するため、三文芝居を始めた。俺も即興劇を演じることにする。
「彩……偶然だな……駅まで一緒にいこうか?」
「う、うん」
俺達はぎこちなく言葉を交わし歩き始めた。知り合いと顔を合わすのは嫌だったのでいつもとは別のルートで直接目的地に向かった。一方通行の道路標識が点々と並び、ゴミ捨て場には鳥よけの網がゴミ袋に被せてあった。どこからか洗濯物のシワを勢いよく伸ばす音が聞こえてくる。休日の住宅街だった。中心地に近づくにつれ人が多くなった。映画館は複合商業施設のなかにある。ポップコーンやら飲み物やらを買っていると映画館の入場可能時刻になった。スタッフに『震える侍』のチケットを渡し半券を受け取ると予約しておいた席に座った。映画の評判が悪いことは承知だったが、俺と彩以外ほとんど客はいなかった。彩は特等席に座るとさっそくポップコーンを食べ始めた。観客は増えることなく上映が始まった。
「キャラメル味のポップコーンおいしかったねー」
「そうだな」
借り物の眼鏡を回収箱に入れた。飛び出す映像が売りだったが、目が疲れて途中から苦痛だった。後ろの席の観客が「目がぁー目がぁー」と目を押えながら消えていった。薄暗い通路を歩きながら、明るい口調で彩はポップコーンの感想を述べた。映画は期待通りだった。映画館を出るとちょうどお昼の時間帯で飲食店に人が集まりだしていた。飲食店街で異彩を放つカウンター席だけの小さな店を発見した。高級店のように格式の高そうな雰囲気で人を選んでいるようだった。
「あのお茶漬け専門の店が気になるー」
「じゃあここにするか!」
普段であれば絶対に利用しないが引き込まれた。厳選した食材からとった澄み切っただし汁は衝撃的でこだわりを感じた。ふと、俺だけが楽しんでいて彩は退屈しているのではないかと疑問が頭の中で渦巻く。
「大輝どうしたのー?」
「彩は楽しんでいるか?」
悪友と遊んでいて気を遣うことはなかった。幼馴染でさえだ。俺は彩を1人の女の子だと認識しているのだろうか。
「手……つなごっか?」
彩は首を傾けると優しい顔で手を差し伸べた。鼓動が跳ね上がる。俺は黙って彩の手を軽く握った。主導権は完全に彩に握られていた。赤やピンクの艶めかしい下着専門店の前を通り過ぎるのを避けようとした。彩はその思惑を見透かしいたずらっぽい顔で俺を見ていた。彩は肉体の年齢は同じだが年上だった。大人の女性だと思うと急に恥ずかしくなった。
「……映画でよかったのか?」
「大輝と2人だったらどこでもいいよ?」
ニコニコと笑う彩は魅力的で綺麗だった。俺は恋愛対象なのだろうか。遊ばれているのではないか。対等なのだろうか。疑問が頭の中で渦巻いた。
「ずっと考え事しているよ!」
不機嫌そうな彩の声で我に返ると屋上の天空庭園に到着していた。緑のカーテンに覆われ木漏れ日は幻想的だった。遠くの線路には電車が走ている。周辺で一番高い建物なので景色は最高だった。夕方の涼しい風が吹き抜ける。
「……彩が大人びていて驚いていた」
「ひゃぇ? わ、私が?」
「ああ、彩に釣り合う人間になりたいと思った」
「なにぃをいって!……大輝は私にもったいないぐらいの男だよ?」
彩は噛みながら偉そうなことを言った。年上ぶって緊張を誤魔化していたのかもしれない。お互い無言で地平線の彼方を眺めていた。太陽が沈んでいきあたりが暗くなり始めた。永遠に感じた時間は止めることができず美しい朱色の空を2人で見ていた。
「大輝、少し私の昔話に付き合ってー?」
俺が頷くと彩は語り始めた。
「私はね中流家庭に生まれたの。両親はどっちも学者。幼少期に葵と一緒に受けた知能指数のテストで才能をみいだされた。そして、才能を伸ばす特別な訓練を受けた。私達を育成するための莫大な費用は大企業が名を連ねる団体が負担した。先行投資に近いのかな。10歳になるころには頭角を現し始めた。分析力の彩・発想力の葵。葵とはライバルであり親友だった。私は情報処理能力に長け10年先の未来を予測することができた」
夏休み彩に家庭教師をしてもらったが学業はさっぱりだった。得意科目は国語と社会と語っていた。目の前の情報を無意識に処理することによって未来を予知する。この能力は何かの本で読んだことがあった。
「葵と研究を進めるなか私の先見性から企業に招かれることも多かった。こどもの私が角を立てず相手を納得させるのは大変だったなぁ。小さな会社だと私の指示で意思決定がされることが多くなり、乗っ取り屋と誹謗中傷を受けることもあった。それでも一生懸命役割を果たした。間違った選択をしていないか不安で眠れない日が続いた。夜中に胃が痛くて目が覚めることが多かった。両親が辞めさそうとしたんだけど莫大な違約金を請求されてどうにもならなかった」
凜と人の上に立つ人間について一緒に考えたことがあった。10代の女の子に背負わせるのは余りにも酷だった。従業員を路頭に迷わせないために組織のトップはときに非情となり意思決定をしなくてはならない。幸運にも90年代はこの国の全盛期で過度な人員整理の必要はなかった。残酷な運命を少女たちに押し付けたこの国の大人たちは後始末をしていた。
「破竹の勢いで世界に進出して大成功を収める企業も多く感謝されることもあった。その反面、会社が持ち直すと追い出されることも増えていった。私を追い出した企業を図書館で確認したら一時的に隆盛を誇り軒並み倒産していた。……業績が持ち直し急成長したけど次が続かず多くの従業員を抱えて倒産した会社があった……恨まれているかも知れない」
涙が頬を伝う。彩に全てを丸投げし意思決定のできないトップに人の上に立つ資格はない。なにかあれば彩に責任を押し付ける気だったのだろう。
「彩は未来を見据えて大切な木の苗を与えた。立派に育つと分かっていても弱々しい木が手入れなしで生き残れるはずがないだろ。ブランドや人材を大切に育てることのできない企業は倒産して当然だ」
手を強く握り返した。空には飛行機雲がどこまでも伸びていた。
「そう言ってくれるのは大輝だけ。ありがとう。自分1人で築いた世界だとは思っていない。でも、死の瞬間すべてをゼロに戻してしまいたいと願った。思い通りにならないからってわがままでしょー……」
だんだんと声が小さくなり最後の言葉は消え入りそうだった。誰もが好き好んでその生き方を選んだとは限らない。彩は途中下車できない電車に乗せられていた。思い描いた場所とは程遠い昭和で時が止まったような細い路地で最期をとげた。
「復讐は終わったんだろ。新しい人生を歩めばいい」
「大輝は優しいね。今日は私の思い描く特別な休日を過ごすことができた。ありがとう。楽しかった」
微笑む彩の紡ぐ言葉は別れの挨拶のようで怖かった。
「俺はこれからもっと特別な日を積み重ねていきたい。彩の新しい人生を一緒に歩みたい」
「……昨晩、未来を演算しちゃった。私は都合のいい女の子で大切な想いは大輝君に届くことはなかった。私達は結ばれてはいけないと思った。でも、諦めることができず大輝を押し倒し返した。空しい結末を迎えることに納得できなかった。運命は変わったのかな?」
「あれは俺が悪かった。ごめん。間違った道に迷い込みそうになったら彩が俺を叱ってくれ。2人で軌道修正していけばいい。最初から悲観していては何も始まらない。だから、けじめをつけるため俺をビンタしてくれ」
指を絡めたままお互いに向き合った。沈みかけの太陽は最後の煌めきを放っていた。彩は上気した顔でぼーっと俺を見つめていた。涙をぬぐってやろうと手を伸ばすと彩は瞳を閉じた。人差し指で滴を受け止めた。彩がゆっくりと目を開くと俺は瞼を閉ざした。
――激しい痛みが走った。
ビンタではなかった。急所を強打され呼吸をすることができなかった。足がもつれ倒れ込んでしまう。葵が護身用術を伝授していたことを思い出した。絡めた指は絶対に離さなかった。気が付くと大きな膨らみが眼前にあった。暖かく柔らかな太もも。此処が常世か最高だ。俺の股間を蹴り上げた彩は心配そうにしていた。
「運命は変わったな……今日は使い物にならない」
「私をホテルに連れ込もうなんてまだはやいよ?」
「俺は彩の膝枕で大満足だ」
「……痛みは遅れてくるらしいよー?」
「今晩、俺の看病をしてくれるか?」
「いいよー! たっぷりと看病してあげるねー」
彩は悪魔のような笑みを浮かべると俺の髪を撫でた。もう少しこのままでいたいと思った。
***
大輝はベッドの上で苦し気な顔をしながら股間を冷やしていた。女の私には理解できない痛みだ。天空の庭園で告白をしてくれるはずだったが、急に怖くなってしまった。大輝が本気でホテルに連れ込もうなど考えていないことは分かっていた。ただ、親と子ほど離れた歳の差に躊躇してしまった。私はおばさんだった。
「夏休みに将棋で葵に勝った理由が分かった」
「葵は強いよ。私も危ないところだった」
与えられた情報を処理することで未来を予測する。情報は常に正しくなければならない。誤った情報を与えられるとそのまま未来を演算した。情報を補完する能力と取捨選択する能力は必須だった。歴史から多くの失敗を学び、長文から短時間で必要な情報だけを抜き取る訓練を積んだ。日本語に特化しすぎて外国語はさっぱり理解できなくなっていた。
「情報を関連付けて処理する能力は天からの才だな」
「後天的に得るには時間がかかりすぎるからねー」
「例えるなら人間コンピューターか」
「この世界で稼働しているAIの元はたぶん私だよ?」
AI黎明期に私の思考データーを収集していた。学習型のアプリに話しかけていた。最初は単調な会話しかできなかったが性能が飛躍的に向上し私と同じ思考をするようになった。応用され出来上がったのがAI図書師匠だと知った。
「司書の件で責任を感じているのか?」
「大輝は私の罪を背負う覚悟がある?」
「彩は負うべき責任の範囲を限定することを覚えろ」
「大輝は私を特別扱いしないね?」
「特別には思っているらしい」
「らしい? ……お互い自分の気持ちがはっきりしないね」
敵視されることが当然だった私に大輝を受け入れる覚悟ができていなかった。疑り深い私はずっと大輝のことを試していた。最低だ。
「……俺じゃダメなのか?」
「そんなことない! ……ただ無償の好意が怖い」
「俺は彩の信用をまだ得られていないみたいだな」
「悪いのは私だから!」
他人に身を任せることが怖かった。周りの大人は私を利用することばかり考えていた。自分の身は己で守らなくてはならない。利害関係でしか結びつきがなかった。私の思い描く普通の人生は大輝の日常だった。自分の知らない世界を見せてくれるから惹かれるのはなんだか違う気がした。まるで、優等生が不良の世界に憧れるようで滑稽だった。
「俺は彩と対等でありたい。どちらかに合わせるでもなく同じ視線で一緒にいたい。やっぱり引っ張ってくれる人が好みなのか?」
「大輝君は私にはもったいないぐらいの男だよ。それは本当のこと。純粋で困っている人をほっとけず、誰にでも寄り添うことができる姿はかっこいいと思う。私が大輝に釣り合ってないの……」
大輝は難しい顔で考え込んでしまった。股間が痛むのかもしれない。私はクーラーボックスから新しい氷を取り出した。大輝は黙って受け取った。好みの子が知りたくてベッドの下に隠された桃色本を赤面しながら読んだことがあった。巨乳の女性が好みだと知ると安堵のため息をついた。何故安心したのか自分でも理解できなかった。
「……断る理由ばかり考えていないか?」
「……もう少し時間が欲しい」
「わかった」
大輝は態勢を変え背を向けた。話し相手を失った私は自然と布団にもぐり込んでいた。大輝はびくりとしたが何も言わなかった。
***
彩は布団にもぐり込んできた。初夜のように緊張した。1人用のベッドで寄り添う俺達は身動きができなかった。これほど近くにいても想いを伝えることはできなかった。近すぎて伝わらないこともあるのかもしれない。今日は彩の過去を少し知ることができたので一歩前進と思うことにした。
「彩。おやすみ」
「うん。……おやすみ」
股間の痛みと緊張で眠れず悶々としていると彩は小さな寝息をたてていた。緑色のLEDが点滅しメッセージの通知を知らせる。情報端末を手に取ると慎重にベッドから抜け出した。薄着で無防備な彩から目を逸らした。クーラーボックスから新しい氷を取り出し椅子に座る。
『玉砕はできたかしら?』
メッセージは葵からだった。俺の玉は潰れたかもしれない。返事を入力し読み返す。『玉砕許されず。告白をしようとしたら股間を蹴られた』誤解されそうだったので文章を消した。
『告白はまだしてない。あせらずいくよ』
メッセージを送信し端末を机の上に置くと、今日の出来事に思いを巡らせた。映画を見て食事をして天空の庭園でいい雰囲気になったところで股間を蹴られた。そして、膝枕されてデレデレしていた。とんでもない日だった。
『そう。成就するといいわね』
メッセージから葵の気持ちは読み取れなかった。許嫁を解消した相手に恋愛相談をするのは気が引ける。俺と彩の関係を見せつけるのは余りにも酷だった。葵をこれ以上悲しませたくない。贅沢な悩みだった。
「俺は彩のことが好きだ」
俺の問いかけは静寂に飲み込まれた。ベッドに戻る気にはなれず居間で寝ることにした。暗闇でクーラーボックスを蹴り飛ばしてしまった。足の指の痛みを堪え部屋を後にしようとした。
「大輝、どこいくの?」
「目を覚ましてしまったか、すまん」
目をこすりながら詰問口調で言った。彩は抜け出そうとする絶対安静の患者を見つけた看護師のようだった。素早い動きで俺に立ちはだかる。
「どこ行くの?」
「どこってトイレだよ」
「そう。私も喉が渇いちゃったー」
もっともらしい答えに彩は安心したようだった。一緒に1階へ降りる。お気に入りの不二家ネク×ーピーチをコップに注いでくれた。とろりとした舌触りで濃厚な桃の味がする。俺が飲み終わる頃には彩はすでに2缶目を開けていた。
「それじゃー。おやすみー」
「ああ、おやすみ」
今日初めての挨拶を交わした。ジュースを飲み終えると彩は自室に戻っていった。なんだか寂しかった。新しい1日の始まりは憂鬱だった。
***
大輝は朝から落ち着かない様子だった。洗い物を済ませるとちゃぶ台に自宅の鍵と少しばかりのお金があった。外出して欲しい合図。暗黙の了解だった。引き換えにファブリ×ズとゴミ袋を乗せておいた。悪友といかがわしい動画の鑑賞会をするらしい。情報は筒抜けだった。大輝の股間は無事で安心した。私の話もするのかな。赤面してしまう。ちゃぶ台のそれを見ると大輝は顔を真っ青にしていた。私は脱衣所で困り果てていた。脱ぎたてのパジャマをどうしようかと考えていた。とりあえず洗濯機に入れておいて、帰ってきてから回すことにした。しかし、洗濯槽にはスイカが冷やしてあった。こんなの知らない。パジャマを洗濯させない罠なのかな。大輝は『体目当てが前提条件になっているのはおかしい』と沙夜さんに愚痴っていたが、前科が多すぎて枚挙にいとまがない。スイカを取り出すとパジャマと洗剤を投入し洗濯することにした。スイカを大輝に投げつけてやりたかった。マジックで名前を記し所有権を主張してもよかったが変態の想像力は果てしない。彼らに食われてしまうスイカは冷蔵庫に冷やしておいた。私の頭はずっとこんな感じで煮詰まっていた。私と大輝の関係は進展していなかった。クラスメイトからアドバイスを受けている。相談という名の諜報活動。無責任な意見に振り回されるのは目に見えていた。寝癖をなんとかすると外出の準備は整った。暴徒化した彼らに部屋を荒らされたくないので厳重に鍵をした。以前、奥田君が『紳士は部屋の匂いだけで何杯もいける』と霞で腹を満たす仙人みたいなことを言っていた。意味を理解することはできなかった。お金持ちになっても質素倹約なのかな。
「大輝! でかけるねー。夕飯には戻るー」
「ああ。ゆっくりしてこい」
天気予報では晴天。今日は誰とも会う約束をしていない。電動アシスト自転車で残暑厳しい街を周ることにした。情報端末をハンドルのホルダーに装着する。中途半端な自転車レーンを走る。近所の人が打ち水をしていたので挨拶をした。私達のことを「いつも楽しそうに買い物に行ったり仲のいい兄弟ですね」と言われた。恋人になれるのか心配になってきた。戸籍では遠い親戚だけど結婚は可能なのかな。考えはあらぬ方向に向かっていた。街のパン屋巡りが一息つくと、私は街はずれにある公園にきていた。遊具はない。1本の大木とベンチだけだった。ブランコやジャングルジムは撤去されていた。15年前に遊具を製造する会社が倒産し保守部品が入手できなくなったそうだ。フェンスに挟まれたボールは野球場があった名残だった。ボール使用禁止。漫才の練習禁止。盲導犬を除くペット持ち込み禁止。現代の公園には細かなルールが定められていた。飲食禁止の項目はなかった。ゴミは持ち帰ろう。私は小さいころ遊具で遊んだ記憶があるので、砂地だけが広がる公園に寂しさを感じた。大輝たちは遊具で遊んだ記憶がないので、きっと何も感じないだろう。ペンキ塗りたてでないか確認しベンチに腰掛けた。無料でもらったパンの耳を頬張りながら遠くのはげ山を眺めていた。急な斜面を作業車が登っていた。機械がロッククライミングする時代がきていた。今日は柄にもなく恋愛指南書を買ってしまった。これまで情報にお金を使ったことはなかった。誰もが私に莫大な情報料を支払った。休む暇などなかった。こうやってだらだらと休日を過ごすことができるとは。定年退職後のおばさんみたいな考えが浮かぶ。仕事一筋だったので、ことに恋愛についての知識は欠けていた。実践から学習するのは怖かった。私は自分の気持ちを誤魔化してばかり。素直に好きと口にすればいいのに、答えを先延ばしにしてしまった。まったく成長していない。さらに、男の大輝が強引に進めないからと人のせいにしてしまっている。チャンスを逃してしまったことを後悔していた。大輝の態度に一喜一憂して私は何をしているのだろ。私は誰に恋をしているのかな。自分に酔っているだけかもしれない。本のダウンロードが済んだのでさっそく読み始めた。クラスメイト。友達。幼馴染み。先輩後輩。それぞれに合った恋に落ちる方法が記されていた。近所の人によれば私と大輝は兄弟のような間柄らしい。どれに当てはめればいいのか分からなかった。仕方がないので、次章に書かれていた通り、私の理想的な彼氏を想像してみた。大輝、葵が順に脳裏に浮かんだ。理由は分からない。好きになることは理屈ではないのかな。好きってなんだろう。あまり役に立つ情報はなかった。お金を無駄にしてしまった。少しでも損を取り返すため大手出版社が母体の電子書籍専門のオークションサイトに出品した。出版時期によって最低金額があるが、それ以外は自由だった。落札後は出版社に権利の譲渡を申請するだけでお終い。電子書籍も絶版する。電子書籍のコレクターがあらわれるとは驚いた。場所を取らない趣味だから密かに人気らしい。買い物袋をゴソゴソと漁りアップルパイを取り出すと頬張った。私はパンが好き。なかでもアップルパイは格別だ。私は星の数ほどいる男性のなかで大輝が好き。同じく女性の中で葵が好き。等しく好きだけどパンと大輝、葵を同列に語っていいのかな。だんだん好きの感情が分からなくなってきた。ならば、好きと愛しているの違いは何かな。検索の結果、唯一無二の存在かどうかが差異だと分かった。私は大輝に愛していると自信たっぷりに口にすることができるだろうか。また、大輝も私に愛していると口にしてくれるだろうか。相手の心が読めないのだから真意なのか判断することができない。無意識の防衛反応。つまり、告白をさせなかったのは大輝を信用できていなから。信じる心が私に必要なんだ。朝から大輝のことをまったく信用していなかった。帰ったら謝ろう。私は大輝を受け入れる覚悟をしなくてはならない。2人なら断崖絶壁を乗り越えられる気がした。2人……私はいま誰を思い浮かべたのか。思い出そうとしても記憶の渦に消えてしまっていた。固い絆で結ばれていた私と葵は、死を避けることができなかった。いや、私達は死の運命を避けたのではなく受け入れた。不吉な考えを振り払うように、残りのアップルパイを口いっぱいに頬張ると立ち上がった。記憶と感情は一致しない。悟られないようにすました顔で歩き始める。隣町のパン屋も新規開拓しよう。
***
私は隣町へ向かうため颯爽と川沿いの道を走っていた。昨日の雨で増水し流れも速い。タイヤは湿った砂を巻き上げまき散らす。大きな水たまりを避けていると、むずがゆいような微弱な振動が手首から伝わった。大輝から譲り受けた腕時計型の旧式情報端末。ベルトは交換した。私はブレーキをかけ停車させると、ビジネスマンのように大袈裟に確認した。メッセージが届いていた。時刻を調整するようにツマミを回転させる。タッチパネルは故障している。カクついた動きで項目に合わせづらい。ツマミを押し込むと小さな文字で本文が表示された。
『いまから、美術館でもどうかしら?』
私はハンドバックから情報端末を取り出し、葵宛てに返信を打ち込んだ。腕時計型の情報端末は音声入力に対応している。外で使うのはなんだか恥ずかしかった。また、チマチマ打ち込むのも恥ずかしい。情報端末の小型化が進みすぎると逆に使いにくい。最新型の端末でも道案内機能が付加されている程度。浮かび上がる映像などSFの世界にはまだ辿り着いていなかった。世界のどこかで未来の技術研究が進んでいるのだと思う。今の私には無縁な世界だった。葵と隣町の有名な博物館で待ち合わせした。現地集合。私は半時間ほどで到着した。先に着いていた葵は私を見つけると笑顔になった。昼食は手早く済ませた。入館料は少々高いが本物を鑑賞することができる。美術品、特に絵画のデジタル化がほぼ完了した。劣化防止のため実物を見る機会は減った。春画展だと知るとお互い無言で頷き合い、ガラス彫刻展に決めた。吹き抜けの窓から光が差し込んでいる。太陽光は美術品が劣化するので珍しい。四方ににらみを利かせる4体の天使が私達を迎えた。高くそびえるガラス彫刻は圧巻だった。他に客はいなかったので独占できた。天気によって表情が変わるのかな。薄暗い展示室には香水瓶が多く展示されていた。美しいデザインは世の女性を魅了した。脆く儚いガラスは美貌と同じく永遠ではなかった。私は金細工が施された香水瓶に心を奪われていた。接吻を交わす乙女。
「大輝と何か進展があったのかしら?」
葵は耳元でささやいた。私はびくりとしてしまった。接吻を交わす乙女に見とれていたことに気づかれたかもしれない。心を落ち着かせる。向き合うと無言で首を横に振った。進展はまったくなかった。葵から大輝を奪い取った後ろめたさもあった。
「そう……。恋愛は1人ではできない。そして、恋心も永遠ではないのよ。覚えておいて」
消え入りそうな声で葵は自分の失敗を口にした。結婚が約束されていても成就しないことがある。2人の気持ちが伴わないと意味がなかった。私は泣きそうな葵を抱きしめた。永遠とも思える時間だったが、ほんの数十秒のことだった。葵は私を押しのけると距離をとった。気まずそうな顔で順路をたどる。お土産を買うと現地解散した。ホタルのようなぼんやりとした灯。美術館で解散してからパン屋巡りを再開した。自転車のかごがパンでいっぱいになるころには日が暮れていた。バッテリーの残量は少ない。力なく胸に顔をうずめる葵の姿が焼き付いて離れない。記憶を反芻していると胸がチクリと痛んだ。何の感情が私を苦しめているのかな。分からなかった。自宅の2階の窓際には青いバラが飾られていた。帰宅して大丈夫の合図だった。逢瀬のようで恥ずかしくなった。駐輪場に止めるとバッテリーを引き抜いた。大輝は私の気持ちが決まるまで待っていてくれるだろうか。誰にも取られたくない。大輝を取られたくない。すでに気持ちは決まっているような気がした。
***
夕飯には戻ると言い残し彩は颯爽と出かけていった。俺はその姿を見送ると安堵のため息をついた。いかがわしい動画鑑賞だと決めつけていたが違う。偽の情報を流しておいて正解だった。ずっと一緒にいると息が詰まってしまう。今日は自宅でゆっくりと自堕落に過ごしたい。俺の願いはそれだけだった。ベッドに転がり込むと何をするでもなく目を閉じた。夏休み前の生活に戻っただけだ。しばらくぼーっとしていると疑問が湧きあがる。俺は一体、何をして、過ごしていたのか。記憶を辿る。そうだ、TVゲームをして雑誌を読みネットで情報の海をさまよっていた。見回しても手の届く範囲に娯楽はなかった。机の上の情報端末を取るのが面倒だった。意味もなく情報端末に念力を飛ばした。当然浮遊して手元に来ることはない。しばらく悪戦苦闘していると眠ってしまった。暗闇のなか2回扉をノックする音が聞こえた。彩はノックもなく部屋に侵入してくるので違う。遠慮気味に扉が少し開くと、長い銀髪が隙間から顔をのぞかせた。凜だった。自宅の鍵を親から預かっているので不思議ではなかった。
「大輝。ごきげんよう」
「ごきげんよう。凜」
凜の挨拶に同じ口調で返した。凜は慌ただしくスリッパをパタパタさせ自室に入り込んだ。手土産のシュークリームをそっと机の上においた。椅子をベッドに向けるとに静かに座った。凜はすでに一個目に手を付けていた。
「いかがわしい動画の鑑賞会と聞いて参上したわ」
「凜も一緒に見るか?」
「ええ」
悪友と口裏を合わせていたが、きっと凜は嘘の情報だと見抜いている。凜は興味津々といった様子で無言の圧力を俺に向けていた。しかたがないので自慢のオーディオビジュアル機器を披露することにした。当然アダルトビデオではない。
「オーディオビジュアルには興味なくてよ?」
「……ばれたか」
クリームを口の周りにつけた凜は俺の考えを見透かしたように言った。俺は立ち上がるとティッシュを凜に手渡した。そして、お土産のシュークリームを袋から取り出し頬張った。シュー皮は柔らかで、クリームとカスタードの両方がたっぷりと入っていた。かなり食べにくい。俺はベッドに腰掛け向かい合うと凜は恥ずかしそうに口の周りを拭いていた。
「大輝。クラスで噂になっているわ」
「何の噂だよ? 身に覚えはないぞ」
「大輝の自主製作映像の披露会だって」
凜の声音はグラフを描くように徐々に下がり、再び上昇していった。凜は噂の真相を確かめに来たのだ。転校生は好奇の的になりやすい。特に若い男女が同居していればなおさらだ。誰の陰謀か知らないが腹が立ってきた。盗撮盗聴の疑いは不快だった。
「その噂は嘘だ。誰がそんな無責任なことを言っている?」
「伝播するうちに誇張されたのかしら?」
「たぶんそうだろ。俺を疑うのは自由だが、何もでてこないぞ?」
「……そう。情報の発信者を見つけ出し、私からきつく言っておくわ」
「あまり、ことを荒立てないでくれ」
「わたくしは無責任な噂で人を傷つけることが許せないだけよ!」
「そうか。ありがとう」
凜は感情の高ぶりを押えられず大声で吐き捨てるように言った。そして、乱暴な手つきでシュークリームにかぶりついた。クリームが口の周りについていた。俺はそっとクリームを拭きとってやった。凜は怒りか恥ずかしさか顔を赤くしていた。
「大輝のそういう誰にでもやさしい態度が嫌いですわ」
「そうだな。俺は外面がいいDV男かもしれない」
「彩さんに暴力をふるっているのかしら?」
「いや、まったく。彩に尻に敷かれている」
「なにそれ? 意味不明ですわ」
ニコニコと笑う凜は唇の前に人差し指を立てると、俺の情報端末のバッテリーを外した。シュークリームの銀紙で包んだ。そして、コンセントからすべてのプラグを引き抜いた。自分自身を盗聴盗撮する人間がどこにいるのか。窓には遮光フィルムが張られているので、カーテンを閉める必要はなかった。凜はポケットから小型の霧吹きを取り出し部屋中に吹きかけた。霧は物理法則にしたがい床に消えていく。
「盗聴器の類はなさそうね」
「自分を盗撮盗聴するような歪んだ自己愛を持ち合わせていないからな」
「そう? さてと、大輝に伝えたいことがありますの」
凜の行動から察するに電波を可視化する液体だった。違法電波を調査する際に使用される。反応があれば着色されオーロラのような幻想的な光景を目にすることができる。俺は凜の改まった態度に困惑した。先ほどの話とは別の件だろうか。
「わたくしたちが何と呼ばれているか知っているかしら?」
「さあ、検討がつかない」
「当時を知る人からは『天才の生まれ変わり』と呼ばれているらしいわ」
「『天才の生まれ変わり』か……」
俺は復唱した。彩が里帰りをしたとき両親は存命していた。当時の関係者は高齢になっているだろうが、彼女達を知る者は多い。情報端末で名前を検索すると多くの基礎研究の論文に名を連ねていた。後世に名を残しても不思議ではないほどの功績だった。顔写真は1枚もみつからなかった。
「噂が広まって政府関係者が調査に来たらしいわ」
知能指数を測定する試験を受けた記憶はなかった。物心つく前のことだろう。つまり、俺達は10年以上も前から政府にマークされていたのだろうか。なんだか現実味がなかった。
「だから俺と葵を許嫁にしたのか?」
「その通りよ。知能指数が近い者でなければ会話が成り立たないから。明文化するよりはるか以前に許嫁は決定していたわ」
正確には長時間の会話が成り立たないだ。共同生活は苦痛を伴い生涯独身を選ぶことも多い。この国の教育政策は天才を育てるよりも、多くの秀才を輩出することを目的としていた。国内で唯一の例外は俺達の通う学校らしい。世界一の教育機関を謳い政府が創立した。
「……そうだったのか。どうしてこの話を俺にするんだ?」
「許嫁を解消したのは姉さんの判断だから、わたくしは何も言えない。ただ、政府は彩さんに興味を示しているわ」
彩の戸籍の捏造を夏休みにした。政府は黙認したのだ。彩の編入先は一世代前の制服を着ていたことを理由に学長が優遇してくれた。きっと学長と担任は善意から受け入れてくれたに違いない。あれだけの功績を残した彼女達が再び現れたとしたら。大人たちの様々な意図が渦巻いていた。
「……俺達をどうする気だ?」
「天才少女と同じ運命をたどるのではなくて?」
「残酷な運命を受け入れろと?」
「そうよ」
凜はぶっきらぼうに言った。死刑宣告に等しかった。人生のレールを敷かれてしまった。凜はすでに決められた役割を演じ始めているのかもしれない。環境への適応は誰よりも早かった。凜は俺が落ち着きを取り戻すまで傍にいてくれた。そして、部屋を元の状態に戻すと去っていった。俺はベッドに仰向けに倒れ込み目を閉じた。疑問が湧きあがり雑念が頭の中を支配する。高い能力を持つ者は、世界の発展に、尽力しなくてはならない。それは自分の意思とは関係なく求められる。各分野の最先端で能力を発揮することが幸せなのだろうか。俺にはそういった使命感などまったくなかった。うっかり口を滑らせば大人は俺を厳しく批判するだろう。凜の話を肯定するならば、俺には何の能力があるのだろうか。天才的な発見をしたこともない。学校の成績は真ん中なので秀才でもない。また、落ちこぼれでもなかった。だんだんと凜の話の信ぴょう性が揺らいだ。ならばと、久々に母に連絡したくなった。むくっと起き上がると机の上の情報端末を手に取りダイヤルした。なんだか緊張する。何度目かのコールで繋がった。
「もしもしー! そろそろ電話してくると思った」
「ああ。いつまで経っても帰ってこないから連絡してみた」
「まったく素直じゃないねー! 一時帰国はそのうちできそう。遠縁の彩ちゃんと仲良く一緒に暮らしている?」
「ま、まーな。帰ってきたら彩を紹介するよ」
「彩ねぇ……。ふーん。今日の夕飯には赤飯炊くから!」
最後の言葉は俺ではなく父に向けられてものだろう。彩のことは葵がしっかりと説明しておいてくれたらしい。両親は人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。親戚も把握できていないので遠縁ならなおさらだ。受話器の向こうで「なんだ、なんだ、大輝からか?」父の声が近づいてきた。
「迷ったら年功序列の古臭い会社に就職したら?」
「母さんや、僕はね、公務員が一番だと思う」
「そう? 人は差をつけられると不満を感じるから」
「大輝の人生は大輝が決めるさ」
「お、おい、……切れてしまった」
高校1年生の夏。秋を目の前にして、母から昭和で時が止まったような会社に就職するように進言された。迷ったら人を大切にする会社に就職せよとのことだろう。今の俺に母の意図を読み取ることはできなかった。欧米の実力主義が日本に浸透し成長が鈍化した。反対に欧米は日本式経営学をうまく取り入れ成長を続けている。皮肉な話だ。俺は情報端末を充電器の上においた。画面にはバッテリー残量と17:20と表示された。そろそろ彩が帰宅する時刻だ。近所の花屋で買った青色のバラを花瓶に生けた。そして、道路側の窓に飾った。階段を降りながらぼんやりと反芻した。薄暗い玄関で俺は彩を待ち構えた。きっとパンの山を抱えているに違いない。気を遣う相手ではないが、嫌疑を晴らす前に機嫌を損ねられては困る。そして、彩が無防備な状態でなければ勝ち目はなかった。
「ただいまー。あれ? めずらしー!!」
「そうか? いつもパンを抱えてくるからな。ほら、持ってやるよ」
「ありがとう」
彩から紙袋を受け取ると居間に運んだ。バットのようなフランスパンがはみ出ていた。香ばしい匂いがする。トーストにしてたっぷりのバターを乗せてかぶりつきたい。腹の虫が騒ぎ出した。腹が減っては戦はできない。残りを運ぶため玄関に戻ると、彩は靴箱に入れられた災害用のエンジン式発電機を興味深そうに眺めていた。
「これ、有名な自動車メーカーが作ったのー?」
「自動車? ああ、今はエンジン式小型発電機で有名な会社だ」
学校の公用車はガソリンを燃料にしたエンジン式だった。自動車業界の主力は急速に電気自動車に移行している。日本と欧米が市場を独占したのは、高度な技術を要するエンジンが新規参入の壁だったためだ。しかし、電気自動車の動力は構造が比較的簡単なモーターであり新興国が次々と参入した。同時に蓄電池市場への参入も増えた。結果、粗悪で安価な蓄電池が市場に溢れ悪貨が良貨を駆逐した。市場を荒らされた日本は無線充電技術に注力した。情報端末の分野で実験的に投入し技術を蓄積した。無料Wi-Fi網と同時に無線充電装置が爆発的に普及している。
「聞いたこのない自動車メーカーがあらわれたよねー」
「15年ほど前に技術革新が起こったからな」
「電車の応用だと思うよ?」
「そう言われると、確かにそうだな」
無線充電技術の進歩は自動車から燃料補給の概念を消し去った。走りながら充電することが可能になったのだ。これは次世代動力装置の勝敗を決定づけた。日本は水素を燃料とする動力装置に注力していたが惨敗した。完全移行までの猶予期間を30年と推測したが、予測に反しエンジン式の市場占有率は3割まで減少している。日の丸製造業最後の砦は崩壊寸前だった。
「日本の製造業はもう終わりだと大輝は思っている?」
「現状から言って、俺は技術立国なんて過去の話だと思う」
「また、私は日本の命運をかけて苦しむのかな?」
「俺らが社会にでるころには手遅れだろ」
「大輝は日本を救いたくないの?」
「俺は不景気しか知らない。なにごとも永遠ではないから、今もどこかで会社が倒産している。日本を救う前に自分の生活を守ることで精いっぱいだと思うぞ」
彩は一瞬失望したような表情をした。私は何のために戦ったのかと言いたげだった。今の世界は彩が思い描いたものに限りなく近いだろう。確かに生活は便利になった。しかし、技術革新は業界の再編が起こる。日本が世界の中心にいられたのは一瞬だった。便利性を享受するにはお金が必要で、彩には経済の観念が欠如していた。
「私達は間違っていたと大輝は言いたいの?」
「彩の功罪に言及できるのは何十年か先の歴史家だけだ」
「あはは。大輝ってたまに変な言い回しするよねー」
彩は電動アシスト自転車のバッテリーを充電器に挿入すると、脱衣所に消えていった。特許の関係で無線充電は実装されていない。俺は残りの紙袋を抱えると居間に戻った。彩はだらしのない恰好で素足のまま現れた。冷蔵庫から飲み物を取り出すと一気飲みしていた。百年の恋も冷めるような行動だったがいつものことだ。
「少し早いが夕食にしようか?」
「そだね。どれでも好きなの食べていいよ?」
彩が席に着くのを待って食べ始めた。首回りの伸びた部屋着に意識がいってしまう。彩は大食いだが早食いではない。綺麗にひとつひとつ綺麗に食べる。
「大輝、キスしよっか?」
意図が掴めず混乱していると彩はちゃぶ台に身を乗り出すと、静かに目を閉じた。じっと彩の顔を見ることはあまりなかった。鼓動が高鳴る。鼻がぶつからないように静かに顔を近づけた。柔らかな唇。触れるかどうかの接触。ファーストキスは甘酸っぱいイチゴジャムの味だった。世界は俺が熟考する時間を与えてくれない。ならば、自分の気持ちに素直になる他なかった。
「大輝、好きだよ」
「彩、好きだ」
私は余韻に浸っている暇などなかった。食後のスイカを一緒に食べながら、凜さんが大輝にした話を私にしてくれた。もっと別の意図があるはず。大輝の母は電話を予見していた。何を伝えようとしているのかな。
「年功序列なんて昭和の企業制度だろ」
「優秀な人材を惹きつける会社は、不思議と年功序列になることが多いよ?」
「そうなのか? 上には上がいるってことだな」
旧日本軍から引き継いだシステムの欠陥を補うため、合理性を重視した欧米の経営手法を取り入れたはずだった。私達の他にも優秀な人が沢山いたはずなのに、失われた20年に何があったのかな。
「私の知らなさそうな社会的な出来事を言ってみて!」
「うーん。反社会的組織が壊滅したことを知っているか?」
「それは知らない」
「90年代に撲滅のため法が施行された。同時に取り締まりも強化され2010年代初頭には見る影もなくなった」
「きっと、それも原因のひとつだねー」
反社会的組織は富と権力が頂点に集中するピラミッド構造のシステム。組織を離れた構成員が一般企業に持ち込んだのだと思う。欧米の実力主義は優れた査定方法で正当に評価されている。だが、年功序列の日本には合理的な評価制度がなかった。場の空気に支配された評価制度は、改心した悪者にやさしい。
「関連してそうなことが他にあるー?」
「2000年代後半にパワハラが社会問題になった」
「パワハラ?」
「パワーハラスメントの略語。上司が立場を利用して部下を殴ったり怒鳴ったり、肉体的精神的な嫌がらせをすることだ」
「こわいー」
90年代後半~00年中頃まで企業は必死で雇用を守った。しかし、不景気は続き人員整理の汚れ役を欲した。恐喝は反社会的組織の十八番。大鉈を振るうことで出世の足掛かりを作ったのかな。
「そういえば、大輝の両親の職業は何なのー?」
「政府関係者だ」
「そうなんだ。大輝が連絡しないからだよ?」
「??? 彩には一時帰国したときに紹介するよ」
「ほんとー!? 緊張するー!!」
日本の全盛期を支えた私が思い描いた便利な世界になった。しかし、日本の組織は大きな欠陥を抱えたまま私達に引き継がれるだろう。その転換期に私はいなかった。だからこそ私は解決をしたいと思う。大輝は協力してくれるかな?
「もう一度、キスしよ?」
大輝は困ったような顔をしたが私は抱き着くと唇を重ねた。まだ、社会に出るまで時間はある。まずは大輝との甘い時間を楽しもう。
彩ルート トゥルーエンド