人が変わった婚約者様と私 ~元に戻ってももう遅い~
貴族でありながら画家でもある父を持つ私は、その血によるものなのか物心ついた頃から絵を描くのが好きだった。
絵を描いている間は無心でいられて、描くという行為そのものがとにかく楽しくて仕方ない。
けれど自分の描いた絵に自信があるわけではなく、お父様の絵には到底及ばないそれらを人に見せることは滅多に無かった。
そんな私だけれど、出来上がった絵を見せに行きたいとまで思える相手が一人だけいた。
それは幼い頃からの婚約者様。
婚約者様の言葉だけはお世辞ではなく本心から褒めてくださっているのだと信じられたから。
「なんかこう、よくわからないけど、心がぐわーってなって、ふわふわってなって……いや、ふわふわは違うかも。ぶわあーって感じかな……」
幼い頃の婚約者様が限られた語彙で一生懸命感じたことを述べようとする姿がどうしようもなく嬉しかった。
私が描いた絵を見つめる婚約者様のキラキラとした瞳を見るのが本当に大好きだった。
だけど私の絵を切っ掛けに絵画の世界に興味を持って行く婚約者様を見ると、私の絵が大したものではないとすぐ気が付くのではないかと不安で仕方なくなっていく。
「そんな心配はしなくていいよ。君の絵が僕の原点であり、そして今も最も僕の心を動かしてくれるのだから」
「淡くて繊細な色使いとか、空間の作り方とか、作風や技巧的な面だけを見ても君の絵は好きだ。でもそれだけじゃなくて……君の眼から見た世界や、君が理想とする世界を垣間見れているような気がしてそれがたまらなく嬉しいんだ」
他の方々から絵画を通して私の思想を読み取ったような口ぶりで批評されるのはあまりいい気分がしないのに、私の持つ世界観を見つけようとする婚約者様の姿勢はとても心地良くて。
婚約者様とだけは絵で繋がれていると信じていた。
貴族としての振る舞いを身につけてからも無邪気な感性を奥底にしまっている婚約者様。
屋敷の火事でお母様を亡くして以降火に怯えるようになった私を守り、外套で視界を遮りながら燭台のある場所を共に歩いてくれたり、火を使わないランプや部屋を暖める道具をプレゼントしてくださる、優しい婚約者様。
政略による婚約だけれど私は婚約者様を愛していたし、婚約者様も私を見てくださっている。
私達を引き裂くものなど無いと、そう思っていたのに。
婚約者様が変わっていったのは私達が貴族学校に入学してからのこと。
桃色の髪の男爵令嬢が婚約者様に接触してから、婚約者様は私をいないものとして扱うようになった。
私はただただ戸惑い、二人を諫めるという発想さえも浮かぶことなく、日に日に親しくなっていく様子を眺めているしかなかった。
そんな時でも私は絵を描き続けた。
権威ある美術アカデミーに入り画家になる夢を叶える為に。
そしてこの絵を見た婚約者様が再び私を見てくださるようになることを願いながら、苦しい現実から逃げるように筆を走らせていった。
男爵令嬢の周りには私の婚約者様以外にも見目の良い高位貴族のご子息達が何人もいて、その中にはこの国の王太子殿下の姿まであった。
当然その全員に婚約者のご令嬢が存在する。彼らの婚約者であるご令嬢達は私のように黙って見ているような方々ではなく、王太子殿下の婚約者である公爵令嬢様が筆頭となって男爵令嬢の行動を非難した。
ろくに喋れないけれど私もその輪に加わるようになり、その位置に立ったことで気づく。
私達に怯えてご子息達の背中に隠れてみせる男爵令嬢が、彼らに見えぬ角度から私達を嘲笑していることに。
ただ皆様と友達になりたいだけと言いながら私達全員から婚約者を奪おうとしているその魂胆に激しく憤った私は、目を覚ましてくださいと自分の婚約者様に言い募るようになった。
しかし婚約者様は聞く耳持たずで、それどころか男爵令嬢の私物を破いたり階段から突き落とそうとした等とありもしない罪で私を糾弾する。
それらは全て男爵令嬢の証言によるもの。
私がどんなに否定しても信じてくれない婚約者様は言った。
「家同士で決めた婚約でしかないのに調子に乗るな。お前を好いたことなどただの一度も無い」
「あいつを傷つける者は俺が許さない。あいつは俺の、最愛の人だ」
「二度と俺達の前に姿を見せるな」
あんなに冷たい目をする婚約者様を、私は見たことが無い。
私に対してだけじゃない。男爵令嬢のことだけは甘く熱く優しい眼差しで見つめているけど、それ以外の人間のことをひどく冷めた目で見ている。世界に自分達以外の人間は不要とでもいうかのように。
決してそんな人ではなかったのに……。
あの冷たい視線と言葉に耐えられなくなった私は極力二人と会わないようにしながら絵画の制作を続けた。
だけどあの男爵令嬢は偶然を装って私の視界に入ってきては見せつけるように彼と腕を組んだり抱き合ったり……挙句には私だってまだしたことの無い、口づけを、交わしながらほくそ笑んでいた。
目を逸らしたいのに見てしまう。呼吸が出来なくなるほどに苦しい。
とうに打ちのめされて、もうどうにもならなくなっていたのに、それでも私は筆を止めなかった。これだけは止めてはならないと魂が警告しているような気がして。
男爵令嬢はそんな私が気に食わなかったようだ。
「お前があいつの教科書を燃やしたんだろう」
あれ以来私から彼女に近づいたことなど一度も無いのに、再び婚約者様から糾弾されてしまう。
よりにもよって火なんて、私が使うわけないのに!
その時あの方は私が描いている最中だった絵に目をやった。
この方から絵を見られることなんていつぶりだろう。だから少し期待してしまった。
絵を通して想いを通わせていた頃の気持ちを取り戻してくれるのではないかと。
「なんだこの下手な絵は」
その言葉は今まで耳にしたどんな言葉よりも痛かった。
あなたが、あなたが私の絵を貶したことなんてただの一度も無かったのに。
それがあなたの本音だったの……?
「あいつが負った苦しみを味わえ」
そう言って、あの方は、その手から魔法で燃え盛る火を、お母様を殺した赤い火を、出して、私の、絵を。
狂ったように叫び続けた後倒れた私はそれからしばらく誰に会うこともなく部屋で過ごした。あの方からいただいた照明の無い部屋で。
絵も、描けなくなった。
だからその後起こった出来事は全て伝聞によるものとなる。
私より二学年上の先輩方を送る卒業パーティーにて、王太子殿下が公爵令嬢様に婚約破棄を突き付けたらしい。
理由は男爵令嬢に酷いいじめを繰り返したから。そして王太子殿下は男爵令嬢を新たな婚約者にすると発表した。
破棄を突き付けられた公爵令嬢様は一切動じることなく毅然とした態度で、男爵令嬢が魅了の力によって殿方を惑わせていることをその場にいる全員に公表した。
もちろん、その豊富な人脈を活かして証拠を全て揃えた上で。男爵令嬢は身柄を拘束され、魅了にかけられた殿下達は公爵令嬢様の用意した術式によってその場で魔法から解かれたという。
男爵令嬢が使っていた魅了の魔法は、魅了とは名ばかりの恐ろしい術だった。
魔法によって作り出した人格を対象に植え付け、相手を自分好みの性格に作り変える。それは元々ある人格を完全に否定することに他ならないもの。
つまり男爵令嬢はご子息達を自分の虜にしていたのではなく、自分を無条件で愛し他には目もくれない人格を入れただけにすぎないと判明したのだった。
その人物や場所の過去を映し出す「過去視の魔法」によってその力で国を乗っ取ろうとしていたことまで暴かれた男爵令嬢は関係者もろとも極刑となり、一方これまでの軽率な行動によって周囲から白い目で見られていた王太子殿下達は完全な被害者だったとしてその名誉を回復したらしい。
私の元婚約者様も元に戻った。
そう。元、婚約者。
私が倒れてから卒業パーティーがおこなわれるまでの間に私達の婚約は解消された。
魔法が解かれた後すぐに元婚約者様は復縁を求めてきたけれど……弱い私は受け入れられなかった。
元婚約者様は悪くないと分かっているのに。
あの方が、恐ろしくて仕方ない。
どんなに小さな火でも未だに恐れてしまうように。
火が人々にとってかけがえのないものであると理屈ではわかっていても感情が理解してくれないように。
屋敷を燃やしお母様を炭に変えた火を作り出せるあの手が。私を、絵を蔑むあの目が。こわい。
再び絵を描こうとする度にあの時の、火に喰われていく光景を思い出して、動悸と汗が止まらなくなって、手が動かなくなる。
思うように動かない体に、心。
この人間はもう壊れている。
だから私は諦めることにした。絵も、それ以外の全ても。
それなのに。
「嫌だ。頼む。僕には君が必要なんだ。謝ってもどうにもならないとはわかってる。だけどどうかもう一度チャンスを。償いの機会をください。このまま終わりなんて、僕は」
扉の向こうから彼の泣きじゃくる声がする。
その声を聞くだけで私は煙に囲まれたかのように息苦しくなるのに。
「……っ無理、無理です! もう、イヤなんですっ……!! どうしてっ、どうして忘れて、くれないんですかっ! もうやだ……もう私のことなんか、放っておいてよお……!」
繰り返される言葉に耐えきれなくなった私は涙で喉を詰まらせながらも感情的に喚き散らす。
愛おしさなんてもう思い出せない。ただただ辛い。消えて。消えて。消えて……。
そんな酷いことを思ったからだろうか。
結果的に消えたのは私の方だった。
私じゃない誰か。この国とはまるで違う、どこか遠い国で暮らす女性の意識が流れ込み、私という存在は奥へ奥へと押し流される。
そして私は自分の体を一切動かすことが出来なくなった。
この体を動かしているのは、私の「前世」を自称する女性。
前世女性は私の記憶を持ちながらも、私とは違って火や元婚約者様に対する恐怖心を一切抱いていない。
「よし、まずは部屋から出て皆に謝らないとね。ずっと閉じこもっていてごめんなさいって。それにあの子にもちゃんと謝らないと。あの子は魅了されていただけでなんにも悪くないものね。でも婚約はどうしようかしら……。私とよりを戻してもあの子がこの先ずっと思いつめることになるだけかもしれないし、他に相手を見つけて欲しいって気もするのよねえ……」
前世女性は意識の奥底にいる「私」の存在を認識していないようだった。
どんなに苦しくても「私」自身が歩み続けていくはずだった人生を、これからは自分が歩むのだとなんの疑問もなく受け入れている。
私の様子が以前と全く異なることはすぐに皆から気付かれ、王太子殿下達のことがあったばかりなのもあり念入りに調べられることとなった。
その結果わかったのが、今の私の状態もまた魅了の魔法によるものだということ。
ただし殿下達とは状況が大きく異なる。
それは術者一人の力によるものではなく、元婚約者様の体に纏わりついていた「魅了の魔力の残り香」、元婚約者様が抱いた「以前の彼女に戻って欲しいと願う意思」、そして私の中に眠っていた「前世の記憶」、それらが複合した結果起こった事故だった。
前世の記憶。それを魂の何処かに保持している者はそう少なくないそうだけど、その記憶を思い出したとしても人格まで変わることはまず無いのだという。
言うなれば他人が書いた自伝を読むようなもので、それを自分自身の体験であるとまでは認識しないのが普通なのだそう。
しかし魅了の魔法によって私が持っていた前世の記憶は新たな一つの人格として形成されてしまった。
今世の記憶がありながら前世で作り上げた価値観を抱き続ける新たな人間として。
より複雑化した力は公爵令嬢様が用意した術式をもってしても解くことが出来ず、新たな解決法が見つかるまでこのままだと言われてしまう。
「僕の、せいで……」
その時の元婚約者様の愕然とした姿や、その後後悔に打ちひしがれている姿さえ、私にはどうしようもなく恐ろしい。
それなのに私の体は平然とした様子で彼を眺めていた……。
「うーん、でも、今世の私じゃなくなったって感じはしないのよねえ。ちゃんと今までの記憶だって持っているわけだし。淑女教育だって忘れていないもの。なんていうか、融合したってかんじ? 前世の私寄りになってるのは、前世の方が長く生きてきた分経験も豊富だからじゃないかしら」
私の存在を認識していない前世女性はそんな勝手な解釈をして自身の思うように振る舞う。
まずはじめに、私よりもずっと社交的な性格である前世女性は学校内でたくさんの友人を作った。
その結果以前の私を知る者よりも人柄が変わってからの私を知る者の方が圧倒的に多くなり、以前の私を知っていた者も「今の方が明るくて良い」と新しい人格の方を選ぶようになり、私という存在は次々と上書きされていった。
最初の頃は「魅了の魔法による造られた人格」として警戒すらしていたのに、「前世と今世が融合しただけ」という言葉を周囲の人々は次第に信じていくようになり、否、信じたいと思うようになり、前世女性を新しい私として受け入れていく。
学校の生徒も教師も、屋敷にいる使用人も、そしてお父様までもが……。
「お願い、他人行儀にならないでお父様。私にとってお父様はずっとお父様なのに、そんな態度を取られると悲しいわ。私はほんの少しの間でたくさんの経験を積んでしまっただけなのよ。昔を思い出す、という形でだけどね」
「……そう、なのか。私の娘は、消えてしまったわけではないのだな……?」
私が過去の存在にされていく。
――違う。違うのですお父様。私はここにいます。だから魅了の魔法を解く手掛かりを探すのを諦めないで。私を助けて……。
そんな声は届かない。そもそも声が出ないのだから。
元婚約者様も、同じように意識の奥底から見ていたのだろうか。自分が異なる人間になっていく様子をどうすることもできぬままに。
前世女性の活動は当然交流だけにとどまらず、前世住んでいた場所には無かったからと魔法について調べては自分に素質が無いことに嘆いたり、料理を作ってみては食材の違いに頭を抱えたりと様々なことに手を出していた。
なかなか成果が出なくても彼女はいつだって楽しそうにしていた。彼女が本当に私であれば忘れるはずのない行為には一切目もくれぬままに。
しかしある時彼女はふと思いついたようにそれを手に取った。
私がいつも愛用し大事に手入れしてきた絵筆を。
「前世では絵なんて授業くらいでしか描かなかったけど……圧倒的画力があると描くのってこんなにも楽しいのね!」
私が幼い頃から培ってきた技術を使って、私の想いが乗っていない絵が生み出されていく。
そして私よりずっと交流の広い彼女の作品は、私が描いた作品よりもずっと多くの人々に見られた。
称賛を浴びて更にやる気を出して絵を描く彼女。
私の足元が崩れ落ちていく心地がした。
その癖に彼女は美術アカデミーを志さない。
私を名乗っていながら私の意志なんて引き継いではいない。私が思い描いていた人生を歩むつもりなんて全く無いんだ。
仮に意志を引き継ごうとしたところで不快な気分になるのはわかっているのに、どうしようもなく腹立たしい。
私のこれまではなんだったの……?
しかし「奪われた」と思うのは筋違いなのだろう。
だって彼女が現れる前から私は絵が描けなくなってしまっていたのだから。
それでも私は彼女が憎くて、苦しい。
でもそれだけで終わればまだ良い方だった。
次第に彼女は自分の「性癖」とやらを発露させ、私の口からはとても言えないような、いかがわしい絵を描くようになったのだから。
――やめて! 私の手でそんなものを描かないで!
どんなに抵抗しようとも私にそのすべはない。
出来上がった卑猥な絵を、最初は一人で楽しんでいるだけだった。
それなのにいつしか気心知れる友人達に見せるようになり、次第にその輪は広がり、理解を示さない人々にまで知られて議論を巻き起こすようになり、新しい芸術だのなんだのと高尚な意見まで出るようになり……何も出来ない私を置いて事態はどんどん大きくなっていく。
所詮他人事。私はただ遠くから眺めているだけ。
そんな風に割り切れたらよかったのに侮蔑や好奇の視線が私を刺してくる。
――違う、私じゃない。それは私の絵じゃない。私はそんなものを生み出す為に絵を描いてきたんじゃない!
どんなに泣き叫んでも誰にも届きやしない。
私には到底認められないそれらは、世間からは大々的にではないにしても受け入れられるようになり、同志が集まって展覧会を開くという話にまでなった。
「いよっしゃあああ! 異世界に格式高い同人イベントの爆、誕!」
いつになく興奮している耳障りな自分の声から耳を塞ぐ手段さえ、私には無い。
これは天罰だ。
私が元婚約者様を許さなかったからこうなったんだ。
あの時、こんなに苦しんでいる私に復縁を請う彼を身勝手だと思っていた。
でも、これほどまでに辛い思いをしていたのなら、理不尽に自分という存在そのものや自身を構成するもの、取り巻く環境を奪われ壊されていく様を眺めていたのなら、失ったものを必死に取り戻そうとするのは当然のことだ。
折角自分を取り戻せたのに奪われたものは返って来ないなんて、そんなの悲しすぎる。
あの頃に戻れたら。そう願うことは何もおかしなことじゃない。私だって戻りたい。
それなのに私は必死で伸ばしていた手を取らなかった。
彼の苦痛を想像しようともしなかった。自分のことばかり考えていた。
燃やされる絵を見て私が泣き叫んだ時、彼もまた意識の奥で同じように泣き叫んでいたのだろうって、彼をよく知る私なら想像出来たはずなのに。
だからこうして今同じ苦痛を与えられているんだ。
ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……。
前世女性は復縁することがないよう元婚約者様を避けているから、彼が何をしているのかを知る機会は少ない。
ただ、彼女の描いた絵が展示される機会があると彼は必ず足を運んではそれらの絵を眺めているようだった。
絵を見る時の彼の表情はひどく険しい。それはいかがわしい絵でも、そうでない絵でも一緒だった。そんな目で私の絵を見ることは無かったのに。
もしかして絵の中から私を見つけ出そうとしているのだろうか。
殺意さえも感じるほどの眼差し。私の想いがそこに無いということに心のどこかで気付いているのかもしれない。
だとしたらこれほど嬉しいことはない、はずなのに。
未だに心は震えてしまう。
だってその時の元婚約者様の表情は、造られた人格に操られた元婚約者様がしていた冷たい表情によく似ていたから。
彼を怖がりたくなんてないのに、この心は私の思うように動いてくれない。
自分の弱さに嫌悪する。こんな思いを抱いていながら彼に救いを求めてしまう厚かましさにも。
いつも絵を眺めた後はこちらを一瞥だけして帰る彼。
しかしこの時は違った。
「これ以上彼女を穢さないでくれないか。その才能は彼女が長年努力して磨き上げてきたものだ。それをこんな形で扱うなんて……僕は絶対に許さない」
そう言ってこちらを睨む瞳。真正面から浴びる凍てついた視線はこの上無く恐ろしかったけれど、この時ばかりは歓喜もした。
彼だけは私達が融合していないと、私の意識が別に存在しているのだとわかってくれたから。
「なによそれ……! 私は私よ! 私が私の才能をどう使おうと私の自由でしょう!?」
何もわかっていない前世女性は激昂する。
その声に周囲の観覧者の視線が集まり、当然前世女性の絵を目当てに来た彼らは元婚約者様の方に非難の目を向けた。
「一体いつまで婚約者面をするつもりだ? 彼女はもう君のものではない。いい加減自由にさせてやったらどうなんだ」
そう言って前世女性の……私の体の肩を抱くのは、前世女性が作った新しい友人であり留学生である隣国の第二王子だった。
前世女性が描くいかがわしい絵画についてはあまり理解を示していないけれども「そんな破天荒なところも含めて愛おしい」なんて言って微笑ましく見守っている、野性的な雰囲気を持つ人。前世女性に好意を抱いているのは明らかだった。
「人とは変わりゆく生き物だ。君は魔法のせいにしたいようだが、他でもない彼女自身が経験によるものだと言っているだろう。俺は彼女の人となりをずっと見てきたが、彼女はそんな嘘をつくような人間じゃあない。紛れも無くこれは彼女自身の成長だ」
「違う! 僕の婚約者はまだそこで泣いているんだ! だってここにある絵には全て彼女の魂が宿っていない! 僕の愛した絵が……ここには一枚も無い……!」
涙を流せる体も無いけれど、間違いなくこの時の私は泣いていた。嬉しくて、救われたような気がして、溢れてくる感情が止まらなかった。それが表面に出てくることは無かったけれど。
「酷い……私、いつだって自分の思いを込めて描いているのに……!」
この体から出てくるのは別の涙。その涙を拭うのは彼ではなく、他の男の手だった。
あの件以降、前世女性と隣国の王子の仲は急速に深まっていった。
「も、もうっ。おばちゃんをからかうもんじゃありません! 前にもいったでしょ? 私、前世の二十八歳プラス今世の十七歳で四十五歳になるおばちゃんなのよっ!?」
「精神年齢はそうやって合算するものではないと思うぞ? それに四十五歳だろうとかまわないさ。お前がどんな年齢だろうと俺は変わらぬ愛を注ぐと誓おう」
触れられる手が不快でたまらない。その手の感触に対して浮かれる自分の声も気持ち悪い。
王子は牽制のつもりか、周りに見せつけるように場所を問わず恋人同士のような距離感で前世女性と戯れている。
元婚約者様がいる場所ではそれがより過激なものとなっていた。この女に手を出そうとするなと言わんばかりに。
その場にいる元婚約者の姿を私の目は視界の隅に入れていた。
視線の動きからして前世女性は気にも留めていないようだけれど、私の意識はそちらに集中する。
彼を見ても以前ほどの恐怖心はわいてこない。少なくとも前世女性が楽しんで見に行く炎の曲芸や庶民達が催す火祭りに比べれば、今はずっと怖くなかった。
けれど、だからこそ辛いのは変わらない。元婚約者様のあまりにも痛々しい表情が、恐怖が薄らいだ分よく見えるから。
腰を抱く男の手。それに恥ずかしがりながらも表情筋を緩める女の顔。
――お願い、見ないでください。私はこんな顔したくないのです。こんな声出したくない。王子様だろうが女生徒達の憧れの的だろうが、こんな何もわかっていない男好きでもなんでもない。むしろ嫌で嫌でたまらないの。だから……!
まるで浮気者の言い訳のような言葉を並べながら必死で乞う。
あの時のあなたもこうだったのだろうかと想像しながら。
そんなことが何度も繰り返される内に私の心はすり減っていった。
王子との戯れだけではない。描きたくない絵をこの手が描き上げていく時も、燃え盛る炎を見せつけられている時も、私とは全く異なる性格の私を周囲が褒めそやす時も、髪を短く切ったり身に着ける物や部屋の装飾が変えられたり、前世女性が私の名を名乗るだけでも。
この二年間、彼女のあらゆる行為によって私は摩耗して……このまま消えてしまいたいと願うようになっていた。
きっと彼も同じだったのだろう。
この時期になって彼が行動に移したのは、私と王子の婚約が近々発表されるという話を聞いたからなのだろう。卒業後には隣国へ連れ去られるということも。
国を出て行かれる前に是非お会いしたいという、彼女の絵のファンとだけ名乗る差出人不明の手紙。
筆跡は変えているけど私にはそれが誰が書いたものか察しがついた。でも彼女の方は思い当たらなかったようだ。
警戒心の薄い前世女性はひと気の無い教室にまんまとおびき寄せられ、そして。
鍵を掛けられたのとほぼ同時だった。
元婚約者様の手によって腹部に穴を空けられたのは。
耐えがたい程の痛みと、絶叫する声、命が消えていく感覚。
きっと普通なら恐怖や苦痛といった強烈な不快感に襲われるところなのだろう。
けれど今の私にとってそれらは救いでしかなく、心地よささえも覚えている。
引き抜かれた短剣にべったりと付着した赤がこんなにも美しいなんて思いもしなかった。
ようやく終わる。いや、彼女がこの先も生きるつもりだったろう数十年に比べたら圧倒的に早い幕引きだ。
もう身動きの取れない私の体を抱きながら彼は語り掛ける。それは前世女性にではなく私に対する謝罪の言葉だった。
「こんな、こんな手段しか取れなくてごめん……っ。ずっと、足掻いてたんだ。君の父君も説得して……僕の家も、君の家も魔法院に資金援助を続けていたんだよ。君にかかった魔法の解除方法の研究を続けてもらうために。でも、上からの圧力で研究は打ち切られていた。王太子妃が……大事な友人を消さないで、だなんてふざけた命令を出して……っ。だったら僕が自力で解いてやるって、勉強、してたんだ……この学校を出たら魔法院に入って、一人でも、周りから止められても研究してやるって……でも、そんな時間は無かった。君の体がこの国を出たらもう僕には手が出せなくなる、だから、もう、これしかないと」
彼の涙が私の頬に落ちて流れる。
目の届かない場所で彼はずっと頑張っていたのか。お父様も私を完全に見捨てたわけじゃなかった。それだけで充分嬉しい。
「本当は君にもっと早く伝えたかった……。君は独りじゃない。僕もいるから、絶対に治してみせるから、一緒に頑張ろうって……結局何も出来なかったけど……。あの女を警戒させるわけにはいかないと思って、何も言い出せなかった……。ずっと独りにしてごめん……。そもそも、何もかもが僕のせいだ。ずっと君を傷つけて……せめてあの時、君とやり直したいなんて願わなければ、こんなことには……」
そんなに自身を責めないで。あの時のあなたの気持ちが今の私にはよくわかるから。
今はただただ感謝しかない。
「……ぁり、がと……」
せめて最後にそれだけでも伝えたいと強く念じた言葉が、この口からもれた。
彼女の言葉じゃない。これは間違いなく、私の。
彼の目が大きく見開かれる。そしてきっと今私も同じ目をしていた。こんな奇跡が最後に起こるなんて思いもしなかったから。
まるで息を吹き返したかのように私の目が、手が動く。死にゆく体だから自由にとまではいかないけれど。
彼の頬に手を伸ばす。目の前にいる女が誰なのか完全に理解したらしい彼は涙を更に溢れさせた。最後くらいしっかり目を合わせたいのに、なんて少し残念に思ってしまう。
「君、なのか。君、なんだな」
「は、い……ずっと、奥、から、見て、ました」
「待ってくれ! 今治療を」
「もう、無理です。わかるん、です……もう、だめだって。だから、そばに……」
この体が完全に死ぬよりも先に彼女の意識が消え、奥に押しやられていた私の意識が表に出た。けれどこの体も本来であれば既に死んでいるのだろう。
だからこれは奇跡の時間。
最後の最後に与えられた束の間の自由だ。
彼は「わかった」と力無く呟きながら血で汚れるのも構わずに私を優しく抱きしめる。
感覚が曖昧で彼の温もりがよくわからない。それでも彼の腕の中はとても心地良い場所のような気がした。あんなに彼を恐れていたのが不思議なほどに。
「君には、本当に申し訳ないことを」
「ぃいえ、私の方、こそ」
「違う、君は何も悪くない。悪いのは僕なんだ」
「いいん、です。もう」
こんな状況でどちらが悪いかなんて不毛な議論はしたくない。
最後の力を振り絞って私は声を絞り出す。
「感謝、してるん、です。あなたが、いて、くれて……だから、最後に、お願い」
「なんだい。なんでも言ってくれ……!」
「お願い、して、ください。私として、何か、出来ること、してから……逝きたい、んです」
こんな体じゃもう出来ることなんて何も無いかもしれないけれど、それでも何も遺せぬまま逝くのは嫌だった。
せめてあなたの中にだけは私が生きた証を残したい。
そんな想いから出た言葉だけれど、言った直後に後悔する。
「それなら……僕を、殺してほしい」
……ああ、良かった。
もしも「絵を描いてくれ」なんて言われたらどうしようかと思った。
仮にこの体が自由に動けたとしても、やっぱりもう私に絵は描けないだろうから。
「君の手で、僕を裁いてくれ」
そう言って彼は私を刺した短剣を私の手に握らせる。
彼にとっての救いが私と同じ死であるというのなら、私は迷わない。
「わかり、ました。一緒に、死にましょう」
私は頷いて短剣を彼の胸に刺す。しかし人の体というのは想像以上に硬く、今の私の力ではどうやっても深くは突き刺せなかった。
すると彼が今度は強く抱きしめながら私を床へ押し倒す。私の体は彼の重みに圧迫され、彼自身の体もまた自重によって刃が深く突き刺さっていく。
私は空いている方の手で彼の背中を抱いた。
死の感覚に包まれながら神に祈る。
神様。私は来世なんて望みません。前世の人間と私が全くの別人であるように、来世の私も私とは異なる存在でしょうから。
この方との再会も願いません。来世こそは二人で幸せになろう、なんて希望は抱きません。
だからどうかここで終わりにしてください。
どうか、私が私であるうちにこの魂を潰してください……。