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世界が変わる喫茶店  作者: min
4/4

#3 誰も知らない

ある夕暮れの頃のことだ。空は晴れているのに雨が降る中、1人の男が、雨宿りをしていた。

 

 小さなゴミ捨て場で。


 小さいがしっかりとした屋根のあるゴミ捨て場の周辺に、この男以外誰もいない。ただ、敗れた袋の隙間から漏れる生ゴミらしき液体に、アリが群がっているぐらいだ。

 特別隠れた場所にあるわけではないのだから、人が2、3人は通ってもいいはずだが。

 この男の他には誰もいなかった。


 なぜかと言うと、ここ最近、このゴミ捨て場周辺で、殺人に火事と、警察沙汰になるような事件が発生しつつあるからだ。

 それに、コンビニ一件しかないくらい、地味な住宅地だ。家でもない限り、訪れる用事もないのだ。そんな景色の中にある誰も気にかけ無さそうなゴミ捨て場。ゴミを回収する業者は来ているようだが、相変わらず『回収不可』とレッテルを貼られたものは、まだそこに置いてあった。さらに、曜日表を見てみると、今日は普通ゴミに加え、大型ゴミの回収であると記されている。

 だが忘れ去られてしまったのか、ゴミはまだそこに置かれたままである。そのうち、業者も来なくなるかもしれない。

 ただでさえ物騒な出来事が起きているのだから、わざわざ足を運ぶ奴などいないだろう。


 人はいなくとも、カラスくらいはいるかと思うが、日が暮れ、遅い時間になりつつあるからか、1匹もやってこない。

 地面には、カラスのフンがあちこちに落ちており、男はそれを避けるようにして立っている。そして、使い古してボロボロになった自分のサンダルを気にしつつ、ぼんやりと雨が降るのを眺めていた。


 作者はさっき、『1人の男が雨宿りをしていた』と書いた。しかし、男は雨が止んだって、特別どうしようというわけではないのだ。普段ならもちろん、家賃を払えず水道も電気も止められた薄暗いアパートに帰るはずである。ところがつい先日、大家から家賃を払わないと次こそ追い出す、と半ば脅し気味に怒鳴られた。


 だから『1人の男が雨宿りをしていた』というよりも、『雨に振り込められた男が、行き場がなく、途方に暮れていた』というほうが正しいだろう。さらに、空模様に関わらず、男のセンチメンタルな気分を一層濃くするのだ。


 さぁ、こんな感情に浸る男と、それを取り巻くその場面に適した情景は一旦置いといて、話を進めよう。


 それから何分か後のことである。男はコンビニの前まで行く。朝は満杯になるはずの駐車場には、一台しか車が止まっていない。雑誌コーナーで夢中になってページをめくるあの中年のおじさんの車だろう。

 暗くなり始め、コンビニの眩しい光が、男をかすかに照らす。肌荒れである男の頬をいくつもの雨粒が流れていく。

 男は始めから、コンビニで買うものなど特にないし、せいぜい買えるのは肉まんくらいの値段のものだと分かっていた。

 そろそろ影が濃くなり始めたので、重い足取りで男はコンビニに入った。コンビニ中に来客を合図する電子音が響く。

 レジに立つ若めの女の人が、「いらっしゃいませ」と笑いかける。雨粒を垂らしながら、恐る恐る店内を見渡す。


 見慣れた店内。どこのコンビニも内装は似たようなものである。ただ、レジの方から漂う、暖かい食べ物の匂いが、男の嗅覚と空腹を刺激した。

 口にたまった唾を飲み込み、レジの前へと歩く。

「いらっしゃいませ」

 営業スマイルを見せる女性店員。男は手をポケットに入れる。

 左側には薄い財布。そして右側には、



カッター。

 バレないよう、歯を食いしばり、ポケットの中で少しずつ刃を出す。


 カチカチカチ


 男にしか、それは聞こえていない。汗が流れる。

 ふと、出入り口の電子音がなった。中年のおじさんが、コンビニを出たのだ。そして車のドアを開け、中に入り、エンジンをかける。音を立てて車がさっていく。


 これはチャンスだ。


 男は瞬時にそう悟った。今なら、この人にカッターを向け、「金を出せ」というだけで、金が手に入る。万引きでもよかったか…?いや、今更もう遅い。

 この右手をポケットから出すだけだ。早くしろ。早くしないと客が来る。


「お客、様……?」


 まずい、店員が怪しがり始めた。男は自分に言い聞かせる。


 今だ


 今だ!


 今だ!!


 男は声を張り上げようと、大きく息を吸う。


 「スゥーーー」


 そして言葉を吐く。

 




「カッ……ぁぁぁぁ肉まん一つください……」





「ハッ……あ、はい、わかりましたっ」


 出てきたのは、弱々しく情けない言葉だった。キョトンとした店員が慌てて肉まんを取りに行く。

 男は右手のカッターの刃をしまい、左ポケットから財布を出す。札が入る場所はすっからかん。小銭の入る場所は、やけに1円玉が目立つ。


 実行しかけた計画に失敗し、店員に変人を見る目で見られる。男は、恥ずかしい気持ちを抱えながら、いい匂いを放つ肉まんの袋を手に外を出た。

 外はまだ雨が降っており、男は急いでビニール袋の口を縛る。濡れないためだ。そしてボーッと棒立ちした。

 そうだった。今はもう、ビニール袋にも金がいるのか。貧乏に優しくねぇ国だな。

 と、心の中で悪態をつく。むしゃくしゃして空いた手で頭をかきむしる。


 しかし、次の瞬間その手は、頭を掻くことを忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとく、この男のむしゃくしゃした気持ちを奪ってしまったからだ。


 男の目は、このとき初めて、ゴミ捨て場を漁る人間を見た。ボロボロの半袖のTシャツに、薄汚れたスカートを身につけ、背の低い、痩せた、白髪頭の、老婆である。その老婆は、右の肩に一見高価そうなバッグを掛け、誰かの大型ゴミ、テーブルをまじまじと見つめていた。今日出された大型ゴミだろう。


 男は6割の恐怖と、4割の好奇心に動かされて、しばらくの間、息をするのも忘れていた。 

 すると老婆は、辺りをキョロキョロと確認し、やっとのことでテーブルをひっくり返す。そして、テーブルの足の部分をクルクルと回し、分解し始めた。運びやすくするためだろう。

 テーブルの足が、一本、二本と分解されるにつれて、男の心からは恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。___いや、この老婆に対するといっては誤解を生むだろう。正確には、あらゆる悪に対する反感が、1秒おきに強さを増してきたのだ。


 この時誰かがこの男に、さっきそのゴミ捨て場で男が考えていた1人寂しく孤独死するか、盗みを犯してお尋ね者になるか、という問題を改めて投げかけたら、何の未練もなく、孤独死を選んだかもしれない。それほど、この男の悪を憎む心が、止む気配がなく、強まり始める雨のように、激しくかき回され始めたのである。


 男にはもちろん、なぜ老婆がテーブルを持っていこうとしているのか、よく分からない。つまり、合理的には、この老婆の行為に対する良し悪しのつけようを知らなかったのだ。


 しかし男にとっては、この雨の夜に、小さなゴミ捨て場で捨てられたものを持っていこうとする行為が許されなかったのである。

 もちろん、さっきまで自分が犯罪者になってやろう、と思っていた気持ちは、きれいさっぱり忘れているのである。


 そこで男は、両足に力を入れ、ポケットからカッターを取り出し、大股で老婆のもとへ歩み寄った。


 老婆が驚いたのは、いうまでもない。






 今日は珍しく夕立が降った。もちろん、授業終わりの僕は傘を持っていない。仕方なく、大学の売店でビニール傘を購入。

 あーあ、無駄なお金を使ってしまった。それに、家にビニール傘が増えていく。折り畳み傘を買うことを検討しなければ。


 外に出ると、もう薄暗く、日没の後のようだ。やはり建物内にいると、外の様子はわからないものだな。

 なんて思いつつ、僕の足は、いつもの場所へと向かっていた。流行遅れのワイヤーありのイアフォンをつけ、音楽を聴きながら歩く。

 慣れた足取りで、細い路地裏へと入っていく。

 ついに真っ暗になり、不気味だとすら思う道をしばらく歩くと、その場所は現れる。階段に着くと、僕は傘を閉じ、振って水気を落とす。

 そして、喫茶店『TURN』に続く階段を降りようとした時だった。


「うぅ……」


 階段下でうずくまる、1人のおばあさんの姿があったのだ。僕は急いで駆け下りる。


「大丈夫ですか……??」


 そう言って背中に触れて驚いた。


 骨……。


 骨しか感じない、痩せこけた体。人間はこんなにガリガリになれるものなのかと、おののきつつ、僕はおばあさんに肩を貸す。


「立てますか……?とりあえず、店の中、入りましょう……」


「ごめんねぇ」


「いえ……」


 僕は、傘を入り口の脇に立てかけ、その空いた手でドアを開けた。そして勇気を振り絞って腹から声を出す。


「て、店主さん……!!」


 店主さんはカウンターから出ると、驚き、困惑したような表情で駆け寄った。


「どうされましたか?!」


「入り口のそばで座り込んでいました。……大丈夫でしょうか……?」


 や、明らかに大丈夫じゃないだろう。何当たり前のこと聞いてんだよ。


「とりあえず、奥の部屋にソファがあるので、そこに。私は、タオルをとってきます。こっちです」


 さすがだ。行動が早い上に冷静だ。


「は、はいっ……」


 僕も手伝わなければ。


「ゆ、ゆっくり歩きますね……。あの部屋です、もう少しです」


「ごめんねぇ……」


「ぼ、僕は、大丈夫、ですから。ゆっくり……」


 なんとか無事にこけることなく歩き、ソファにおばあさんを寝かせる。喫茶店の奥の部屋は、こんな風になっていたのか。

 なんというか、予定を書き込むためのホワイトボードを除いて、談話室みたいな雰囲気だ。もしくは、校長先生の部屋、みたいな……。


 ふと、店主さんが数枚のタオルと、水の入った桶、そして救急バックを持ってきた。そして僕が後ろでぼっ立ちしているなか、手当てを進めていく。


「ごめんねぇ……」


 何度も同じセリフを繰り返している。明るいところで見て分かったが、服は雨で湿り、泥だらけで、あちこちに擦り傷がある。一体何があったのか……。


 店主さんは手当ての手を止めることなく、ふわりと微笑み言葉をかける。


「大丈夫ですから、ご安心ください。ここは安全ですよ」


 こんな時にこんな考えを持つのはおかしいが、


店主さん、『マジ女神』。


 いやいや本当にそんなこと考えている場合じゃない。僕も何か助力しなければ。


「あ、あの……救急車、呼んだほうがいいですかね……??」


 店主さんは手を止めて、考え込んだ。


「そうね……万が一どこか大きな怪我になっていたら大変ですし……。そうですね、呼んだほうがいいかもしれ__」


「ダメよ……!」


 おばあさんは、急に起き上がろうとする。そして、痛さに顔をしかめた。


「あぁ、ダメですよ、安静にしてないと……!」


 おばあさんは、心配そうにおばあさんの背中に手を添える店主さんの手をがっしり掴んだ。


「お願いよぉ……救急車を呼ばないで……!少し休めば、大丈夫よぉ」


 弱々しい声と対照に、かなり強い力で店主さんの腕を掴んでいる。必死に懇願する目は、不安に揺れていた。


「分かりました。救急車は呼びません。ですがどうか、今は安静に……」


 店主さんも僕も困惑を隠しきれなかった。擦り傷をたくさんつけられて、ぐったりするほどなのだから、警察も呼んだほうがいい気がするが……。でもこのおばあさんは必死に懇願して断るだろうなぁ……。


 店主さんは、顔や腕にできた小さな傷たちを丁寧に消毒していく。

 疲れていたのだろう。気を失うように、おばあさんは寝息を立て始めた。店主さんはおばあさんにそっと毛布をかけた。


「ふぅ……、とりあえずは大丈夫でしょう……。着替えがないのが、少々悔しいところではありますが……。少し暖房をつけておきます。

 目を覚ましなさった時に、改めてお話を伺いましょう」


「はい、そうですね……」


「あ、そうだ、君も」


「?……あ……」


 店主さんは使っていないタオルを僕に渡した。


「いくら室内でも、濡れたままでは風邪をひいてしまいます。しっかり水気を拭いて、上着はハンガーにかけちゃってください。私はコーヒーを入れてきますね」


 僕は、何も言えず、大きく頷いた。

 店主さんは、にこりと微笑むと、部屋のドアを開けっぱなしの状態にして、カウンターへと移動していく。


 

 なんだこの胸の高鳴りは……!顔が熱い……!


 僕は渡されたタオルを顔に押し付ける。はぁ……ふかふかだ。あったかいし、何より、いい匂いがする……。


 うわぁ、僕は何を考えてるんだ!!これじゃあ変態じゃないか!!

 とりあえず落ち着こう。ヒーヒーフー、ヒーヒーフー……。


 冷静さを取り戻せていない気もするが、僕はリュックを下ろし、上着をハンガーにかけ、おばあさんのソファとつくえを挟んで向かい合うソファに腰を下ろす。

 髪の毛を拭くと、上着を脱いだからか、肌寒くなってきた。

 全然気にしていなかったけれど、季節は秋の中盤。そろそろ冬が見えてきそうな時期なのだ。


 この喫茶店を知って、通い始めて、もう1ヶ月……。あれ、もうそんなに経ったのか。なかなか続いたもんだな。

 つまりは、店主さんを好きになって、1ヶ月……な、ななな何を考えてるんだ!バカバカバカバカ!うっかり声に出てたらどうする!!


 「ぁぁぁぁスマホスマホ……」


 意味のわからない独り言を言いながら、僕はリュックからスマホを取り出す。

 そして意味もなくニュースを開いた。特に変わったものはない……か。

 つまんないなぁ、とふざけたことを思いつつ、ホーム画面に戻り、『呟くやつ』のアプリを開いた。ログインし、自分のアカウントに飛ぶ。

 すると、通知のところにニュースのアカウントから新しいニュースが来ていた。

 エンタメ系のニュースだ。


『××○○監督 「羅生門」再び映画化』


 『羅生門』か。高校生の時に現代文の授業でやった気がするなぁ。なかなかに生々しい話で、気持ちが悪くなった覚えがある。こんなこと言ったら、芥川龍之介さんにと芥川ファンに怒られるな。

 

 舞台は、災害や流行病により廃れてしまった平安時代の日本の都市。1人の若い下人が生きていくために盗人か、飢え死にか、どちらを選ぶか必死に考えているところから話は始まる。

 雨宿りも兼ねて、ちょうど考え込んでいた場所が、題名にもなり、実物が本当に存在する門、『羅生門』だ。

 羅生門は大雑把に言えば、梯子を登っていくと、上の方に屋上みたいなところがあり、死体やらがたくさん転がっている。その中に1人だけ動く人間がいる。これまた貧乏な老婆だ。老婆は、1人の女の死体から髪の毛を抜き、売ろうとしている。

 何を思ったのか、激情を抑えられず老婆に注意を含めた脅しをかける下人。まぁ、確かに、生きるためとは言えど、していいことと悪いことの区別はある。その時の老婆の行動が、いいのか悪いのかは高校生の僕にも今の僕にも分からないが……。


 そっから一悶着あって、結局下人は老婆の身ぐるみ全部盗んで行くんだっけ……。その一悶着の内容や結末は流石に覚えていない。結構詳しく高校生の頃にやった気もするけどなぁ……。

 仕方ない、覚えていないのだから。考えようもない。

 スマホで調べようとは思わなかったことは、何故なのか分からない。


「フゥ……」


 スマホをスリープ状態にして、ポケットに入れる。

 画面の見過ぎからか、目が乾いている。眼鏡を外し、つくえに置く。そして再びタオルを顔に押し付けた。


 ふと、暖房をつけたのか部屋がさっきよりも寒くないことに今気づいた。店主さんがつけてくれたのだろう。ありがたい。


 そしてなんて優しい……!!


「う、ぅぅ……」


「あっ……」


 おばあさんが目を覚ましそうだ。僕は少しあたふたしながら、店主さんを呼びにいく。


「店主さん…!」


 店主さんはトレイの上にポッドを置いているところだった。


「あ、おばあさん、お目覚めになりました?」


 僕はあわてて頷いた。なんだろう、眼鏡がないからぼやけて見えるのに、この店主さんから漂うオーラは。


「ちょうどよかった。君も、コーヒーいかがですか?今そちらに向かいますので、眼鏡、した方がいいかもしれませんよ」


 店主さんは自分の目を指してそう言った。僕は一気に顔が熱くなり、


「はひっ」


 訳のわからない返事をして眼鏡の元へカムバック。

 するとちょうど、おばあさんが起き上がろうとしているところだった。危なっかしくて、心配になったので、急いで支えの役に入る。


「ごめんねぇ……なかなか思うように体が動かなくて……」


「む、無理もないと、思います。今は、助けを存分に、乞いてください……」


 敬語が片言になるのはなぜだ。


「お若いのに、しっかりしているのねぇ」


「いえ……」


 人生の先輩にそんなことを言ってもらえると、認めたくないが悪い気はしないのである。


「調子はどうですか?楽な体勢でいてくださいね」


 店主さんがトレイをつくえに置く。


「あなたも、何から何までありがとうねぇ」


 店主さんはにこりと笑った。


「いいんですよ。さ、コーヒーはいかがですか?あったまりますよ」


「まぁ嬉しい。コーヒー大好きなのよ」


「それは良かった。もらいものではありますが、一緒に砂糖菓子もどうぞ。はい、君にもね」


「あ、ありがとう、ございます……」


 小さな木の皿に乗った可愛らしい砂糖菓子。和菓子に多いものだと思ったが、くまや猫、花の形と、女の子が喜びそうな形にかたどられている。


 コポコポと心地よい音とともに、お洒落なカップにコーヒーが注がれていく。いわゆる、回し入れる、というやつだろうか。目の前でお湯に色がつく様子を見せてくれる。どこまで優しいのか、この人は。


「まぁ、香ばしいいい香り。やっぱり本格的なお店は違うのねぇ」


「ふふっこれはうちの店でもかなり香ばしい匂いが特徴のコーヒーなんです。君は、まだ飲んだことがないやつね」


 そう言ってクスリと笑う店主さん。僕はさらに恥ずかしくなった。

 やっぱそうだよね。僕は三種類あるうちの一種類しか飲んだことがない。


 だって一番安いのがそれなんだから!!!!!


 バイト週3の大学一年の預金残高をなめるなよ!!!!!


「加えて、ちょっと苦味が増すんです。ミルクと砂糖はどうされますか?」


 えっ……。


 まじぃ?


「私は何も入れずにそのままで。今日はブラックの気分だねぇ」


「かしこまりました。では、こちらをどうぞ。熱いのでお気をつけください」


「はい、ありがとう」


 おばあさんは満足そうに香りを楽しんでいる。


「君はぁ……」


 話が僕に振られる。うわぁ……マジか。ブラックコーヒー、嫌いなわけではないけれど、慣れたわけでもない……。

 なんでだ、店主さん、意図的か?!

 恐る恐る店主さんを見ると、にこりと笑いかけられた。


(//△//)!!!


 馬鹿野郎。照れてないでなんか言えよ!


「ぼ、僕も……ブラックで、お願いします……」


 いろんな気持ちに負けて、後押しされ、ボソボソと言う。大丈夫かなぁ、飲めるかなぁ……。


「はい、どうぞ」


 僕は店主さんに顔を向けられず、俯いて頭を下げる。


「ありがとう……ございます……」


 そして震える手でカップを持ち、匂いを嗅ぐ。……いい匂いだ。そこまで主張が強いわけでもなく、コーヒーをよく知らない僕にも、香りを楽しむと言う行為がわかったような気がした。


 だが問題は味。苦い……のは当たり前かぁ〜。

 でもせっかく店主さんが入れてくれたんだ!初めて!!目の前で!!!!! 

 かなり進展したじゃないか!!いつもならこんなに喋らないし!!


 それだけで僕は幸せなんだ。このコーヒーだって、舌が苦みになれているかもしれない僕なら美味しく飲めるかもしれない!!


「いただきます……」


 意を決して、口をつけ、すする。

 そして驚いた。





 甘い……??


 あれっ、普通に飲める。コーヒー特有の苦味は確かにあるけれど、甘い。飲める!!

 そうか、コーヒーとはこんなに甘いものなのか!!ブラックコーヒーは慣れると甘く感じるのか!!


 舞い上がった気持ちと、驚きを隠せない気持ちが混濁しながら、僕は店主さんを見た。

 どこからか1人用の椅子を持ってきた店主さんは、僕の驚いた表情に気がつくと、してやったり、という感じで微笑んだ。


「はっ……」


 砂糖入れたなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!


 どうしよう、本当に恥ずかしい。本当に恥ずかしい!こんなこと、予想できないことはないだろう!


 顔が熱くなる。お風呂上がりくらい体温が上がった気がする。いや、上がった!

 

「て、店主さん……?」


「ところで、」


ハッ!!華麗な無視!!

「ところで、何があったか、伺ってもよろしいでしょうか?外は雨でした。滑ってこけたにしては、細かい傷が至るところにありました」


 そうだ、本題だ。そのための時間なんだこれは。


「お耳汚しになりますよ。せっかくおいしいコーヒーも入れてくださったのに」


「誰かから、暴力を受けましたね?」


 僕もそう思う。自分でこけたにしてはひどいと思う。


「どうしてそう思ったの?」


「胸ぐらを掴まれたのでしょう。今はなんとか整えていますが、服の首元が伸びています。そして髪の毛は雨に濡れたにしても……掴まれてぐしゃぐしゃにされたようですね。風ではできない乱れ方をしています。そしてスカートの裾」


 スカートの裾?そんなところまで見ていたのか、店主さんは。

 なんて観察眼だ。おばあさんが何も言えなくなっている。


「雨が降っていたので泥がついた、という解釈もできますが、泥にしてはくっきりつきすぎです。よく見ると、細かい線が2本ほど入っています。おそらく、倒された時に踏まれた靴の爪先部分でしょう」


 倒された?踏まれた?泥がついているということは、外で、雨の中でだ。なんてこったい。

 夫からの暴力でも受けてるのか?いや、そもそも結婚してるかもわからない。


「すごいですね。あなたは名探偵ですか?」


「いいえ、私はただのコーヒー好きの一般人ですよ。こんなちんけな一般人たちで良ければ、お話を伺ってもよろしいでしょうか?何か力になれるかもしれません」


 たち……?ちんけ……??


 え、僕?


「それじゃあ聞いてもらおうかねぇ」


 そう言って、おばあさんはポツポツと話しはじめた。





 「あんた、どこ行くんだよ」

 男は、老婆が分解したテーブルにつまずきながら、あわてて逃げようとするゆく手を塞いだ。それでも男を突き抜けていこうとする老婆を男は、行かすまいとして押し戻す。

 2人はゴミ捨て場の中で、しばらく、無言でつかみ合った。しかし勝敗は予想ができる。男はとうとう老婆の腕を掴んで、無理やりそこにねじ倒した。鶏の様な骨と皮ばかりの腕である。


「何をしようとしていた。言え、言わないと切るぞ」


 男は老婆を突き放すと、目の前にカッターを突きつける。だが、老婆は黙っていた。

 恐ろしさに身を震わせ、肩で息をしながら、眼を眼球が目蓋の外へ出そうになる程見開いて、意地でもしゃべるまいと口をつぐんでいた。


 このとき男は、初めてはっきりと、この老婆の生死が自分の意志に支配されているということを意識した。そしてこの意識は、今まで険しく燃えていた憎悪の心を、いつのまにか冷ましてしまった。あるのは、その行為が成功した時の満足感だけだった。


 そこで男は、老婆を見下しながら、少し声を和らげてこう言った。


「俺は犯罪者じゃない。たまたまここを通りかかっただけの人間だ。だからあんたを刺し殺してどうしようということはない。ただ、ここのゴミ捨て場で何をしていたか、何をしようとしていたか、俺に言いさえすればいいんだ」


 すると老婆は、見開いていた眼を一層大きくして、じっとその男の顔を見守った。

 苦労したような、目元のクマに充血した鋭い眼。

 どう逃げようかと考えているのか。頭の中に歯車があってカタカタという音が聞こえてきそうだ。焦っている息切れとともに、苦しそうな声が男の耳に伝わる。


「このつくえを持って帰ってな。このつくえを持って帰ってな。火にくべる材料にしようと思うたのよ」


 男は、老婆の回答が平々凡々が言うそれだったことにがっかりした。ガッカリすると同時にまた前の憎悪が、冷たい侮蔑と一緒に心の中に入ってきた。するとその気持ちが、老婆にも伝わったのだろう。老婆は、分解したつくえの足を一本持ち、こう言った。


「そういうことなのですねぇ。ゴミ捨て場のものを持って帰ることは罪だと。でも、ここに捨ててはいけないものを捨てている人も同罪でしょぉ?ここのゴミ捨て場に残るゴミはほとんど、回収不可なものばかり。ルールを守らず、あまつさえ面倒くさいから他人に処理してもらおうとしている、怠け者の仕業ではありませんか!

 まぁでも仕方のないかもしれませんねぇ。その人も人間なのですから。面倒臭がることだってあるし、仕事が忙しかったのかもしれないし、まぁ、ゴミを処理する人は、ゴミを処理するのが仕事ですからねぇ。

 こんなに無責任なことをこの人たちがしているのですから、生きるためにここのものをもらう私だっていいでしょぉ!他人が犯した愚かの行動を利として受け取っているのだから、私のやっていることは一概に悪いとは言えないでしょぉ!仕方ないのよぉ、生きていくためだものぉ!!」


 老婆は大体こんな意味のことを言った。

 男はカッターの刃を納め、ポケットに入れて、冷然とその話を聞いていた。


 しかし、この話を聞いている最中、男の中にある勇気が生まれた。それは、さっきこのゴミ捨て場で計画を練り、コンビニで失敗した時の、男に欠けていた勇気だった。また、この老婆を捕らえた時の勇気とは、全く真反対の勇気だった。

 男は孤独死するか、犯罪を犯すか、はなから迷ってはいなかった。その時の男の心持ちから言うなれば、孤独死という選択は、考えることさえ放棄するほど、全く考えていなかったからである。



「あぁ、そうか」



 老婆の話が終わると、男はあざけるようにそう言った。そして一歩前に出ると、老婆の胸ぐらをつかみ、噛み付くようにこう言った。


「じゃあ、俺だっていいよな!?あんたののものを盗んで金にしようがしまいが!!俺だってそうしなければ死んじまう身なんでねぇ!!」


 男はすばやく、老婆の持つカバンをひったくった。それから足にしがみつこうとする老婆を、ゴミの上に手荒くなぎ倒した。


 男は盗んだカバンを上着の中に隠しながら辺りを見回す。幸いなことに今の一連の出来事を目撃した人は1人もいないようだ。監視カメラなど、こんな小さなゴミ捨て場になんてあるはずがない。




 男は自分は幸運だとうかれながら、またたくまにそこから立ち去っていった。



……

 ホームレスじゃん……。


 おばあさんの話を最後まで聞いて真っ先に思った。 

 戸惑いを隠せず、僕は店主さんを見る。表情一つ変えていない。話を聞くプロか!!


「ねぇ?ろくな話じゃなかったでしょう?」


「いえ」


 だがいくら話を聞くのがうまい店主さんでも、言葉をかけるのは、時間がかかるらしい。店主さんより頭が回らない僕はもちろん、言葉なんて捻り出せもしない。


「あぁ、そうだ、店主さん。同じ川沿いに住んでいるお仲間の皆様に連絡がとりたいのぉ。あとでこの店のお電話お借りしていいかねぇ?」


 ホームレス仲間に電話……。意外と貧乏じゃないんじゃないか?ホームレスって。


「えぇ、いいですよ。後ほどお持ちいたしますね」


「ありがとうねぇ」


 それにしてもおばあさんを襲った男は、なんでカバンを狙ったんだろう。やっぱり財布狙いだからかな?でもこの身なりからして、あんまりいいもの持っているようには見えないんじゃなかろうか。


 や、そんな失礼なことを考えちゃいけない!!

 僕の顔よ!地蔵になれ!!シワのひとっつも動かしてはならん!!

 

 ふと、ずっと考え込んでいた店主さんが口を開いた。


「今のお話を伺って、申し上げるとしましたら……うーん、そうですねぇ……」


 珍しい!!店主さんの中で考えがまとまっていない!!

 考え込んで、顎に手を添える仕草、たまりませ〜〜〜ん!!


「そうですね、やはり、私にはお客様の善悪は判断しかねます。どちらも犯してしまえば、『盗み』扱いです。ですが生きていくためだとなると、一概に悪いとも言えることではなく、法による裁きが下る場合、テストの問題に部分点があるように、部分部分で、良し悪しを決めることになるのではないでしょうか。

 幸い、この国は法律によって全国民の最低限度の生活は保障されていますから、何かしらの援助は存在するでしょう」


 おばあさんは少し驚いたように眼を見開き、そして優しく優雅な笑顔を見せた。


「驚いたわ、まるで法のもとで働く人のようだねぇ」


「いえ、全て憶測で話しているようなものなので……。あまり信用しないほうがいいと思います。知ったかぶってしまってすみません」


「いいのよぉ。あなたの前だと話やすかっんだぁ。いつかお礼をさせてね」


 すごい……ものの数時間でもう仲良くなってる。


「お若いあなたも、」


「えっ」


「つまんない話を真剣に聞いてくれてありがとうねぇ。世の中にはこんなにもちゃんとした若者たちもいるのねぇ」


「いえ……」


 なんだろう……。顔が熱い。恥ずかしい。何も考えずに話を聞いていたのに。ホームレスじゃんとか言って、この人を心の中で失礼な位置づけにしていたのに。

 

「ふふっ」


 店主さんまで、何笑ってるんですか。


「それじゃあ、お電話お借りしてもいいかい?」


「はい、カウンターにあるので、行きましょう」


 僕が何を話しかけるでもなく、2人は部屋を出て行った。


 今度はちゃんとお金持ってこなきゃねぇ。また来させてねぇ。

 

 店主さんとおばあさんの会話が聞こえてきた。

 そして、ピポパポという、電話番号を押す音が、喫茶店中に響いた。


 

 外はまだ、雨が降っている。




 やったぞ、やったぞ、やったぞ!!

 

 夜、無事に帰宅した男は、真っ暗な部屋の中で、懐中電灯のほのかな明かりを頼りにカバンの中身を確認して舞い上がっていた。

 中身は、高そうな化粧ポーチに化粧用品。どこかの家のピカピカの鍵。新品同然かというほど綺麗なスマホ。


 そして、札束であふれた封筒に、十分にお金で満ちている財布。


 あの老婆は何者だったのか?あんなみすぼらしい格好をして、こんなにも高価なものばかりを持ち歩いている。


 疑問ばかりだが、男にはどうでもいいことだった。

 この大金さえあれば、家賃は払い終わり、新しい場所に引っ越せるかもしれない。仕事を見つけられるかもしれない、いや、むしろ仕事をしないでいいかもしれない。

 スマホだって、設定を変えることさえできれば、使うことができるかもしれない。


 なんだなんだ!いいこと尽くめじゃないか!!


 男は調子に乗っていた。生きていけるに加えて、遊んで暮らせるかもしれない。そんな呑気なことを考え、幸せに浸っていた。


 男は懐中電灯を消し、散らかった部屋の中に寝っ転がる。


 ゲームができる。酒が飲める。金がある。


 これから先のことを想像するだけで、夢見心地だった。


 その時だった。


 プルルルルップルルルルッ!!


 急に大音量でスマホが鳴り出す。


「なっなんだなんだぁ??」


 誰からの着信なのか。明るくなった画面を見ると、『非通知』と表示が出ている。

 

「誰だよ、絶対でないからな」


 そう思いながら、鳴り止むのを待っていても、なかなか着信は終わらない。普通途中で自動的に留守電になるものではないのか、と男はだんだん不安になり始める。

 そして思い切って『通話拒否』のボタンをタップした。だが、いくら押しても、電話は切れない。


「あれ、あれっ???」


 男は焦った。このままだと、家賃払い終わる前に、うるさいと言われ、隣の奴からも出ていけと言われそうだ。 雨に濡れたせいで壊れているのだろうか。

 ならば、と男は『通話』のボタンをタップする。電話に出て一瞬できればいいからだ。

 男はボタンを連打した。


 だが、表示は変わらず、音は鳴り止まない。

 男はさらに焦った。


 プルルルルップルルルルッ!!


 なんだかだんだん音が大きくなっていくように男は感じた。


プルルルルップルルルルッ!!!


 うるさいうるさい!!

 みんな起きちまう!!


 男が不安を通り越してイライラし始めた時だった。


 ピンポーン


 「!!?」


 男は驚きと恐怖のあまり飛び上がった。

 今は真夜中だ。誰がきたのだろうか。こんな真夜中に訪ねてくるやつなんて、ろくなやつじゃない。


 そう思いつつ、男は抜き足差し足で玄関へ向かい、ドアの覗き穴から外を見る。





 そこには、複数の『黒いもの』がいた。





「ひえぇぇ!!」


 驚いて後ろに尻餅をついた男は、ドタバタと部屋の中へ逃げ込んだ。

 スマホはまだ鳴り止まない。


 プルルルルップルルルルッ!!!!


 男は必死にスマホの画面を叩いた。


「なんで、なんで、なんで……!!止まれよ早く……!!バレるじゃねぇか……!!」


 ついに、訪ねてきた者がドアを叩き出す。何を言わず、呼びかけることもなく、ただ、ドアを力強く叩くだけ。


ドンドンドン!!


プルルルルップルルルルッ!!!!


ドンドンドン!!!


プルルルルップルルルルッ!!!!!


ドンドンドン!!


 2つの音が鳴り響き、男は頭がおかしくなりそうになっていた。だが、スマホは鳴り止まず、今玄関のドアを開ければ、なんだか生死に関わるようなことをされる、と言う危機を男は感じていた。


 このまま居留守を使ってやり過ごそう。ほっとけば、どちらも止まるかもしれない。


ドンドンドン!!


プルルルルップルルルルッ!!!!!


ドンドンドン!!


プルルルルップルルルルッ!!!!!


プルルルルップルルルルッ!!!!!


 ふと、ドアを叩く音が消えた。

 外の奴らが帰ったのだろうか。男は鳴り響く電話の音を必死に押さえながらホッと息をつく。


 とりあえず、ひとつ難は去った。

 そう思ったのだ。









カチャッ









 鍵が、開いた。


 なんで!?鍵は閉めたはずなのに!!

 男は恐怖のあまり腰を抜かす。ズルズルと後ろに後退り、壁にぶつかり、行き止まりになる。


キィィ


 ドアが開いた。外の電灯の光に照らされ、逆光ではっきりとは見えない。

 だが男が一つだけ分かったのは、大柄な人間が、3人いると言うこと。


プルルルルップルルルルッ!!!


ミシッミシッ……


 着信音の合間に聞こえる、床を踏み締める音。

 男はガタガタと震えるばかりで何もできない。


プルルルルップルルルルッ!!!!!


ミシッミシッ……


 ついに人間は男の目の前まできた。

 そこで男の目は捉えた。


 真っ黒なサングラスから覗く恐ろしい眼と、後は振り下ろされるだけとなった、鈍く光る銀色の刃を。



「ぎゃあああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」









男の行方は、誰も知らない。




















下人の行方は、誰も知らない。

ー『羅生門』 芥川龍之介 よりー


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