王太子妃はやり直しを要求する
「これは一体、何の真似だ?」
王宮の庭で開かれた茶会、その空気が一瞬にして凍りついた。
主催者であるクローディアは、突然現れ、真横に立った自らの夫である王太子を見上げた。
「エイメリック殿下……」
彼は隣に座るクローディアの妹、レオノーラの手を掴み、鋭い目つきで睨みつけている。血管が透けて見えるほどに白いレオノーラの顔が苦悶に歪んだ。
エイメリックがぐっと手に力を籠めると、妹の手から三角の白い包みがぽとりと落ちる。その衝撃で、中の粉が散らばった。
同じテーブルを囲んでいた母の口から、「ひっ」という小さな悲鳴が洩れる。
「まったく……まさか姉の命を狙うとは。これまでのこともお前が仕組んだんだろう?」
これまでのこと――
クローディアは、エイメリックと婚姻を結んでから二年の間に起きたことを思い返した。
狩猟の祭典では矢を射かけられたり、王宮内を歩いていたら階段から突き落とされそうになったり、外を歩いていると窓から植木鉢が降って来たりと、明らかにクローディアの命を狙っていた。
これまで犯人を特定できず、恐々と過ごしてきたのだけれど……。
クローディアはレオノーラへと顔を向けた。まさか、という思いがぬぐい切れない。
たまに喧嘩もするけど、姉妹仲はいい方だと思っていた。
王太子妃になるための辛い教育にもレオノーラは理解を示し、励ましてくれた。嫁いだ後も、こうして交流を持っている。
信じられない思いでレオノーラを見つめていると、彼女は手首を掴んだまま放さないエイメリックを、きっと睨んだ。
「これは……そう、お砂糖ですわ!」
震え上がりそうなオーラを放つエイメリックにも怯まず、端然と言い放つ。
「砂糖って……」
さすがにそれは無理があるんじゃないだろうか。クローディアが思わず呻くと、エイメリックが冷たく嗤った。嫌な予感がして声をかけようとする。しかし、エイメリックのほうが僅かに速かった。
「じゃあ、舐めてみろ」
レオノーラの顔がさっと青くなった。
クローディアも、その粉の正体に気づいているため言葉を無くす。
王太子と一緒に潜んでいたのか、近くまで来た王太子付きの護衛がレオノーラの腕を後ろ手に捻り上げた。容赦なくテーブルの上に押さえつける。
それを見たクローディアは我に返った。
ぼんやり見ている場合ではない。このままでは妹の命が危うい。ここにはクローディアとレオノーラの母もいるのだ。クローディアは隣で声もなく立ち尽くす母を見た。気の毒になるほど青ざめている。そんな彼女の目の前で、死ぬようなことはさせられない。
それに、正直なところ、この段になってもクローディアには未だにこの状況が飲み込めていなかった。
普段の妹は大変可愛らしく、非常に懐いていた。
よく相談に乗ってくれたし、こうして王太子妃としてやってこれたのも彼女の存在が大きい。
体が弱く、屋敷に籠もることも多かった妹の笑顔が頭をよぎり、エイメリックの腕にすがった。
「殿下、おやめください」
震える声でそう言うと、エイメリックは吊り上げていた目をなごませ、蕩けるような微笑を浮かべる。枝葉の隙間から差し込む光で、エイメリックの柔らかな髪が金色に煌めいた。こんな状況でもなければ、誰もがその笑顔に見惚れるところだ。
しかし、クローディアはうっとりするどころか、背中に悪寒が走った。こういう時の彼はとにかく怖い。情けなくも膝が震える。
「ディディが気にやむ必要はないよ。いくらお前の妹とはいえ、愛する我が妻の命を狙ったんだから。こうして犯人が分かった以上、お咎めなしというわけにもいかないだろう」
エイメリックはそう言うと、さあ舐めろと促す。クローディアは夫の腕を強く掴むと、止めに入った。
「殿下、おやめください。罰を与えるにしても、きちんとした手順を踏んで……」
クローディアは必死だった。法に則って裁いてもらった方がいくらか希望がある。
最悪でも終身刑だろうし、命までは取られない。服役中の態度いかんによっては、今までと同じように暮らせるかもしれない。
なんとか諫めようとしてみるものの、それを遮ったのは、なんと妹だった。
テーブルに押さえつけられたままコーラルの瞳をぎらつかせる。
「あんたに情けなんて、かけてもらいたくないわ!」
クローディアは最初、聞き間違いかと思った。黒い瞳にレオノーラの悔しそうな顔が映り込む。
「あんたなんかエイメリック様に相応しくない! 王太子妃になるための教育だって、私がいなきゃ投げ出してたくせに! 今までどんな気持ちで傍にいたと思ってんの!? いやいや傍にいられるエイメリック様の気持ちとか考えたことないんでしょ! そんなに嫌なら他所で子供でも作って逃げればよかったのに、そんなことすらできないで……なんであんたみたいなのが私の姉なのよ! あんたみたいなクズ、さっさと消えてくれればよかったのに! そうしたら、私がエイメリック様と結婚して、幸せにして差し上げたのに……!」
「……えっ、ノーラあなた、そんなこと思ってたの?」
初耳だったクローディアは、思わず素で呟いた。
まさか、そんなに不満というか、恨みというか、募らせていたとは思いもしなかった。普段の態度からはそんなこと、微塵も感じなかったというのに。
微妙な面持ちで、掴んだ腕の主であるエイメリックを見る。なんとなく、エイメリックとレオノーラは似ていると思った。
散々な言われようだが、エイメリックの横にいること自体は嫌ではない。何を考えているのか掴みにくいところはあるが、それは彼に限った話でもない。
普段の彼は怒らせさえしなければ温厚であるし、少なくともクローディアには優しいし、嘘もつかない。
嫌なことがあるとするなら、王太子妃という立場だろうか。会う人会う人、常に言葉の裏を読まねばならないので、気の休まるところがなかった。
「……ディディ、今なにを考えてた?」
「へっ? いえ、なにも……」
クローディアは心を読まれたような気がして、ぎくりとした。
派閥とか関係のない地方の領主に嫁いで、敵味方とか気にすることなく、のんびり暮らしたかったなとか、ちらりとでも思ったなんて言おうものなら、後が怖い。間違っても言えるはずがなかった。
首をぶんぶく振る横で、レオノーラがぽつりと零した。
「私があんただったらよかったのに……」
そんな風に思っていたなら、むしろ変わって欲しいと思ってしまった。もちろん、心の中で思っただけで口には出さない。しかし、エイメリックにタイミングよく腰を引き寄せられたことで、バレているような気がして身が竦んだ。
エイメリックが薄く笑う。
「例えお前とディディが入れ替わったとしても、私はお前を愛したりはしないし、そう――」
にわかに体が震える。もちろん嬉しくてではない。
「ディディを選ぶよ」
エイメリックがクローディアの額に口づけを落とした。声音は優しいが、どことなく恐ろしいものを含んでいるようで、エイメリックの顔を見れない。
そんな私たちがどう見えたのか、レオノーラの瞳に暗い影が宿った。
「さあ、さっきの話の続きだ」
エイメリックの声が無情に響いた。
「砂糖なんだろう? 舐めてみろ。それが本当なら……そうだな。今回は見逃してやってもいい」
それがまるで温情だとでも言いたげな台詞に、クローディアは瞠目した。毒だとわかっているものを舐めろということは、死ねと言っているのと同じことだ。
この点だけはどうあっても相容れない。同時に少し気の毒にも思った。
継承権をめぐり、幼い頃より命を狙われて当然とばかりに過ごしてきたエイメリックは、身内であっても敵となれば容赦しない。
時折、妻であるクローディアであっても、完全には信頼していないのではないかと思う時がある。
レオノーラを押さえつけていた護衛が、テーブルに散った白い粉にぐっと彼女の顔を擦りつけた。レオノーラの頬に白い粉がつく。
「……エイメリック様、お慕い申し上げております」
この段になってもまだそんなことが言えるのか。
それほどまでに好きだというなら、確かに自分よりレオノーラのほうがエイメリックに相応しいのではと思えてくる。
クローディアが見つめる先で、レオノーラが唇の横についた粉を舐めとった。不適に笑んだ口の端から、赤い血が一筋、つーっと伝う。
血の色を無くし、テーブルに突っ伏す形で静かに事切れた妹を見て、クローディアは思った。
ああ、神様お願いです。
叶うことなら妹と入れ替わって、もう一度人生、やり直させてください。