桶狭間の合戦 前
「えい、えい、おー!」
丸根砦から討って出た佐久間勢を打ち破った今川勢の鬨の声を聞きながら、ほぼ無人状態の丸根砦に火を放つ。油を含んだ木が燃え上がるのに、時間は要さない。
素早く懐に手を入れ、師からもらった忍具”雨の種”を握りしめると、育ち始めた炎の中に放り入れると、舞い上がる炎の先に黒い煙が舞い上がり始めた。
「育ちな、雨よ!」
そう目の前の炎に言葉をかけると、視線を鷲津砦に向けた。
昨晩、信長の挑発に乗るかのように、ねねが言うおけはざま山で今川義元を立ち止まらせる策を実行するため、三河で今川軍の動きを探っていた師の下に、協力を仰ぎに向かった。
私が話した事情に、師は苦笑いしながら、言った。
「信長に乗せられおったか。
しかし、おけはざま山とは、それほど襲いやすい場所ではないのだが、なぜそこなのか?
いや、だからこそ、義元に油断ができるのやも知れぬな。
まあ、よい。信長とねねたちの運試しに力を貸してやるか。
ただ、義元は名将ぞ。そうやすやすと戦のさなかに立ち止まったりはせぬぞ。
策を立ててみよ」
そして、私は三つの種からなる策を立てた。三つがうまく咲きそろえば、兵数で劣勢な信長軍でも、ねねが言う今川義元の首をとる事も可能となるだろう。
三つの種の内、すでに二つは蒔き終えている。後は収穫を待つだけ。そして、最後の三つ目の種を完成させるため、鷲津砦に向かった。
鷲津砦は、籠城策をとったらしく、今川勢が取り囲み、数にものを言わせた攻撃を加えていた。放たれる火に、砦の所々はすでに燃え上がっており、陥落するのも時間の問題だ。
その辺りに転がる今川勢の屍から、旗指物を拾い上げると、緑と黒の装束から足軽の兵装に着替え、殺気だった今川勢の中に潜り込んだ。
燃え上がる城壁に近づくと、思いっきり、雨の種を投げ入れる。
ぼわっと、一瞬炎が喜んだかのように、煌いたかと思うと、大きく成長した炎の先から黒い煙を巻き上げた。
一つや二つでは足りない。もっと、もっと、雨の種を蒔かなければならない。
場所を移動しては、炎の中に雨の種を蒔きいれると、暑い日差しに青く輝いていた空はだんだんとくすみ始めていく。
「お前、何をしている」
戦いに参加するでもなく、今川にとってみたら、謎の動きをしている私を一人の侍大将らしき人物が見咎めてきた。
それなりに雨の種は蒔いた。丸根砦と合わせれば、それなりの雨を降らせられるに違いない。ここらで、撤退しても問題はない。そう判断した私は、その侍大将らしき男に、にんまりと笑みを返した。
「もう、ここには用は無いので」
「何奴!」
その男が刀を抜こうと右手を柄にかけた。
「遅いわっ!」
腰に差していた刀を抜き去り、柄を握りしめた男の腕を斬りおとすと、その横を走り抜けて、今川の軍勢から離脱した。
これで、全ての種は蒔き終わった。後は、うまく花が咲くのか? それを確かめるため、おけはざま山に向かった。
それは山と言うより、少し小高い丘のようなもので、そこに今川の幔幕が貼られているところから言って、最初に蒔いた二つの種はうまく芽を出したようだ。
昨夜、私が村人たちによる食料と酒の提供を一つ目の策として挙げた時、師は言った。
「名将は、それだけで立ち止まったりはせぬ」
ならば、体調を崩させればいい。輿に乗るに堪えられないほど、足を痺れさせる。そのための薬を、師にお願いして、義元の朝食に仕込んでもらった。その効果はちょうど、昼頃に最大となる。
そして、最初に私が師に語った策の種も昨夜中に蒔いておいた。
昨夜、私は声分身を使い、御仏の名の下、おけはざま周辺の村長達を洗脳した。明日の正午、桶狭間にやって来る今川義元公に、酒、魚、米で馳走せよと。もちろん、そのための資金も用意した。
きっと、あの幔幕の中で、痺れた足に耐え切れず 輿を降り、足を延ばした義元が酒を飲みながら、昼食のひと時を過ごしているに違いない。
「燐、そろそろ時のようだな?」
背後から、突然師の声がした。全く気付かない内に、背後まで来ていたらしい。
「うまくいったようですね」
おけはざま山頂の幔幕と、周辺の空を覆う真っ黒な雲を見上げながら、言った。
師が言うには、目には見えないけど、この気の中には雨の元があるらしい。特に蒸し暑い日は、それが多く、雨の元は雨になりたがっているらしい。その雨の元が雨になるためには、雨の元が集まるための中心となるものが必要だとかで、師が作る雨の種は、その中心となるものなのだ。
炎に巻き上げられ、空高く舞い上がった雨の種は、はるか上空で気の中にある雨の元を集め、雨雲を作り上げ、やがて雨となって地上に降り注ぐ。
私がまき散らして来た雨の種は、今にも雨となって地上に降り注ぎそうだ。
「あとは、信長の運だな。
あの義元の位置からだと、接近してくる信長の軍勢を、今川の見張りが見逃すはずもない。
ただ、降りしきる雨の中であれば、話は別だ。
発見は遅れるであろうし、敵か味方かの区別もつきにくいからな。
だが、それほどの雨が降るのはほんの一時でしかない。
信長がそんな頃合いに、ここに到達するかどうかが、信長の運だな」
師がそう言い終えた時、空から雨が降り始めた。