信行暗殺2
信行と佐々が酒を酌み交わす部屋は、やけに明るかった。だと言うのに、二人の雰囲気は盛り上がってはおらず、口数は少なで静寂に包まれたと言っていい空間だった。
そんな静寂を破ったのは、土田御前の廊下を駆けてくる足音だ。
「信行、信行」
廊下の向こうから名を呼ぶ母の姿に、何か異変があったに違いないと感じ取った信行が、慌てて立ち上がった。かがり火が障子に映し出す廊下を駆ける土田御前の影はパタパタと動きが速く、急な知らせであることを物語っていた。
「信行、大変じゃ」
障子を開けて、姿を現した土田御前の顔は、ほのかに暖かいろうそくの炎に照らし出されているのにも関わらず、青ざめていた。
「兄上が攻め寄せて来たのですか?」
信行の声は少し震え気味で、内心の恐怖が肉体を支配しているのを露呈していた。
土田御前は、信行の問いに素早く首を横に振って否定すると、部屋に飛び込み、悲し気な声で、信行に訴えた。
「信長は、信長は、死出の旅に出ようとしています」
土田御前の口から出たのは、信行が予想した最悪の事態とは真逆の言葉だった。その言葉に、信行は自分が攻められる事が無くなると言う安堵感と、家督が自分の所に転がり込んでくると言う満足感を一瞬抱いた。これまでの私の経験から、事ある時に最初に抱くものこそ、動物的な感覚なのに違いない。そして、その後に人として感情的なものが続いてくる。
信行が放つ気は、安堵感を抑え込み、その話が真なのかどうなのかと言う猜疑の色を深めつつあった。
「清須から、新たな使者が訪れたのですか?」
「いいえ。
信長が、私の前に現れて、一目会いたいと訴えたのです」
「兄上がこの城に現れたのですか?」
信長本人が現れたと誤解した信行の声は戸惑いで震えていたし、佐々は刀を手にし、柄を握りしめ、辺りの気配を探ろうとしていた。天井裏に潜み気を読み続けている私の存在すら気づくことができぬ凡人には、所詮視界に捉えられぬ敵を探ることなどできやしないと言うのに。
「いいえ。声だけで、語り掛けて来たのです。
もう死が近いようです。
清須へ、清須へ参りましょう」
「母上、承知いたしました。
清須の様子を調べさせますので、今しばし、お待ちください」
信行はそう言うと、佐々に清須に探りを入れるよう顔を振って合図をした。
「いずれにしましても、今日は遅いですので、清須に向かうのは明日以降に。
ささ、今日はもうお休みください」
土田御前の背中を押すようにして、信行は母を部屋の外に連れ出した。
パタン。そんな音を立てて、障子を閉じると、信行は再び座って、杯に残っていた酒を一気に飲み干した。
「まことであろうか?」
口からこぼれた言葉どおり、信行からは猜疑の色をした気が強く放たれていた。
音を立てずに隣接する廊下側に移動すると、辺りの気を読む。近くにいるのは、少し離れた場所にいる警護の兵。それも、外に向けて警護についているため、廊下側には背を向けている。人目が無い事を確認すると、天井裏から板を少しずらし、廊下側から信行の部屋の障子に、声分身の糸をこっそりと取り付けた。
「信行っ!」
低めで、強い口調でその名を呼びかけた。
「な、な、何者っ!」
信行が慌てて刀を手にすると、辺りを探り始めた。
「わしじゃ。信秀じゃ。
忘れおったか!」
「ち、ち、父上?」
「よいか、よく聞け! 信行!」
「は、は、はい」
この男も想像通り御しやすかった。もう後は、私の手のひらの上である。
「信長に家督を継がしたのは、誤りであったわ。
わしが葬儀において、香を投げつけるとは不届き以外のなにものでもないわ」
「父上、では私が」
「じゃが、信長が清須でひっそりとみまかれば、織田家は乱れるやもしれぬ。
信行、お前が清須に乗り込み、信長に引導を渡し、家中を掌握するのだ」
「し、し、しかし、清須は」
「虎穴に入らずんば、虎児を得ずと申すではないか。
供を連れて参ればよかろう。
それに、いざとなれば、わしがあの世から今のように力を貸そうではないか」
「わ、わ、分かりまた」
信行から放たれている気には、まだ迷いがあったが、きっと城の雰囲気に流され、清須に向かうに違いない。私はそう確信し、障子に取り付けていた糸を切った。
末森の城は、一気に騒がしくなった。佐々が清須に遣わした使者は、ただ「信長の容態はすでに手の施しようがなくなっている」と言う、これまでと同じ情報しか得られなかったけど、信行が聞いたと言う信秀の言葉に、佐々は興奮を抑えきれていない。
「もし信長の殿が快復するような事があれば、いずれは信行様に襲い掛かって来るは必定。その前に、先手を打つが肝要かと」とか、
「御前様も信長の殿は長くないと申されていたではありませぬか、ましてや亡き殿まで、信行様に家督を盗れと下知なされているのですぞ」は、よいとして、
「あの大うつけが病の床に伏し、清須の統率は乱れており、乗り込むは今ですぞ!」と、根拠の無い話をしたりしたばかりか、
「今こそ、好機。信長の殿を取り除き、織田家の全てをわれらの手に入れましょうぞ」と、私の想像どおり、佐々は信行を唆した。この言葉は、織田家の全てを手に入れると言う野望を抱いていた信行の心を再び大きく揺さぶった。
「私どもや、御前様もお供いたしまする故、間違いは起こりえませぬ」
そして、絶対成功するとまで言い切った言葉に、信行は清須行きを決心した。根拠もない家臣の言葉を信じ、決断をするとは、信行では尾張一国どころか半国でさえ治めきれないに違いない。
次の日、信行は母 土田御前や佐々たちを伴い、清須の城に乗り込んだ。
母親がいる以上、万が一、それが罠であったとしても、信行の身に危険は及ばないだろうと言う考えと、信長は弱り切っていて、今こそ信長を亡き者とし、家督を奪う好機と、意気揚々として、本丸の信長が伏せっていると言われる部屋を目指して行った。
そして、そのまま信行は帰らぬ人となり、尾張は全て信長の手に渡った。