崩れた城壁
大うつけとの評判高い信長と、美濃一国を乗っ取り、世間から蝮と呼ばれ恐れられるほどの道三との対面。
その場で信長は暗殺されるとか、そのまま道三の軍が尾張までやって来るとか、巷では尾張の未来を悲観する噂が満ちていたけど、結果は全く逆となった。信長は無事に尾張に帰還して来たばかりか、道三から支援の約束まで取り付けて来た。
完全に信長の勝利である。尾張の民衆は、一安心と言ったところだ。
だが、それはつかの間の平和でしかない事は、下々の者たちでさえ知っている。
尾張の民衆に漂う不安の元は、尾張を東から圧迫しつつある今川である。
その今川は、師がこの乱れた世を治めてくれると期待しているのだが、異常な才を持つ信長と、勢いのようなものを纏っているらしいサルとねねに、もしやとの思いを師は抱いていた。
「だが、やはり所詮、尾張では話にはならぬのやも知れぬな」
横に立つ師が、ほんの少し残念そうな口調で言った。
その師の視線の先には、崩れた城壁を修理する人足たちの姿があった。
崩れた城壁では、攻め寄せてくる敵を防ぐことができないばかりか、壊れていると言う事実が敵をおびき寄せる可能さえあると言うのに、修復作業が遅々として進んでいない。
「信長にどれだけの才があろうと、木下藤吉郎やねねと言う得体の知れぬ気を纏った者たちがいたとしても、それだけで生き残れる乱世ではない」
「下の者たちに、才が無いと言う事ですね」
私の言葉に師は静かに頷いてみせた。
遅々として作業が進まぬと言う事は、指揮する者に計画力や統率力などが無いと言う事を示していると、師は言っているに違いない。
「城壁を壊して、尾張衆を試した甲斐があったと言うものですね」
そう私は付け加えた。
そうなのだ。嵐で壊れたと言う事になっているが、この城壁を壊したのは師なのだ。壁崩しの術と言うもので、時間はかかるけど、長く延びた壁などを信じがたい事に、人の手一つで崩してしまうのだ。
私はまだその感覚をつかめていないため、使えないけど、師が言うには、壁の上を押すと一旦ほんの少し押し込まれた壁が反発し押し返って来るらしい。その押し返って来た壁は再び元の位置を目指して、引いていく。そこに力を加えると言う事の繰り返しを行うと、最初は目に見えないほどの揺らぎが、次第に増幅され、巨大なうねりとなっていく。
実際、この目で見た事のある私でさえ信じられない事だけど、壁がゆらゆらと波打ちはじめ、やがては師の一押しで、頑丈な城壁が瓦解してしまうのだ。
師は嵐の騒動に紛れて、この術で清須城の城壁を破壊し、信長ではなく、家臣たちの力を見極めようとしたのだった。
「おい。乾いたなら、中塗り始めるぞ」
「もう少し藁を入れてこねておけ」
城壁の修復作業を進める男たちの声が聞こえはするけど、真剣に作業をしているとは思えない。
「今川が進軍してくれば、やはり尾張は踏ん張れそうにないですね」
師に同意を求めようと、師に視線を向けた時、師がその視線の先にサルを捉えている事に気づいた。
「あの者、何やらここに引き寄せられた感がある」
師はサルに何かを感じてはいるらしいけど、私は生理的に無理! かかわりたくない。視線をサルから逸らした時、ねねもいる事に気づいた
「あちらにはねねの姿も」
「あの二人、赤い糸で結ばれているようじゃから、赤い糸に誘われてきたのか?」
赤い糸。私が初めて聞く言葉だった。
「赤い糸って、なんですか?」
「いずれは夫婦になる二人を繋ぐ運命の糸だ。
普通の人には見えぬものだが、気を読み取る力を高めれば、それも見えるようになる」
「あの二人が夫婦になるのですか?」
「らしいな」
小柄で猿のようなしわくちゃな顔は、はっきり言って猿、猿、猿。関わりたくもない。
そんな相手と、可憐なねねが結ばれるなんて、思わず背筋が凍り付いてしまう。
「私は嫌なんですけど、その赤い糸って、刀で切れます?」
「それは無理だな。
気のようなものでつながっておるのだからな」
「ではどうすれば、それを切る事ができるのですか?」
「ふむ」
そう言って、師は視線をサルに向けた。
サルは立ち止まり、作業をしている者たちの姿を見ている。そこから放たれている気は、あのサルの容姿には似つかわしくない、悩まし気でもあり、真剣でもある不思議な感じだ。
「あの男は、かなりの女好きのようじゃ。
着物の裾を短めにして、藤吉郎の目のつく場所で、作業をしておけ」
「さすれば、サルとねねの赤い糸は切れるのですか?」
「可能性としてだな。
名付けて、見えざる、隠さざる、やはり見えざるの術と言ったところかな」
「意味分かんないんですけど、赤い糸が切れるのなら、やってまいりましょう」
そう言うと、私は着物を帯のところで折り返し、膝のあたりまで着物の裾を上げた。
「この辺りまでは必要であろうな」
師は私の太ももの中ほどあたりを指さしながら言った。その場所の意味は分からないけど、師が言うのだから、そうするしかない。
「では」
そう言って、さらに裾を上げると、私は男たちの中に飛び込んで行った。
長く崩れた城壁の前に座り込み、土をこねている男たちの前を通り過ぎ、修復中の壁の前に立つと、周りの人と同じ作業を始めた。
目の前の竹で編んだ格子のようなものに、藁が混ぜられた土を塗り付けて行く。
そんな作業をしながら、背後の気を読み始めた時、サルの気を感じ、思わず背筋が寒くなった。それは、信長のような突き刺さる気ではなく、体中を舐めまわされるような嫌な感じで、時折お尻の辺りにその気が集中してきているのを感じた。
いや、サルだけではなかった。サルに比べ、大きくないため、あまり気づかなかったけど、他の男たちの気も私に向けられている。
嫌な時間。これでねねとサルの赤い糸が切れればいいんだけど。
そんな事を思いながら、背後の様子をうかがう。
私に向けられていたサルの気が他に移ったかと思うと、サルの声が聞こえて来た。
「とのぉぉぉ」
サルが信長を見つけたらしく、馬上の信長とその横に立つねねに向かって駆けだした。
一瞬、ねねから放たれた嫌悪感のようなものは明らかにサルに向けられている。
どうやら、ねねはサルの事を嫌悪しているらしい。もしかすると、この術がうまくいったのかも知れない。なんて思った瞬間、ねねの心の奥底からサルへの恋慕の芽のようなものがある事に気づいた。それはまるで。別の二人の想いのような気がするけど、好きと嫌いは遠いようで近い感情なのかも知れない。
そんな複雑な感情をサルに抱いているねねは、サルを無視して信長に、サルにやらせれば一昼夜で終わらせると言っていた。
なんの根拠が? なんて、思う間もなく、信長はサルに任せると言って立ち去ってしまった。それだけ信用されていると言うはずなのに、サルには自信のかけらも感じられない。
呆然と立ち尽くしているサルに、ねねが授けた「褒めてくれるなら、金をくれぇぇぇ」と言う作戦の効果はてき面で、城壁を修理していた男たちはさっきまでとは別人であるかのように、汗水たらして働き始め、夜になっても休まずに働いている。
赤々と夜空の下を焦がす揺らめく炎の向こうに、何人もの男たちが城壁に群がっている。
「おい、急がないと、負けちまうぞ!」
「いいか、一気に上まで塗り固めちまうぞ!」
本来なら静寂に包まれるはずの、夜の町は男たちの喧騒に包まれていて、そんな男たちの周りをあのサルがうろうろとうろつきながら、「恩賞はもうすぐそこじゃ!」と喚いては、さらにこの空間を騒がしくしている。
「あのねねと言うおなごは、何やら不思議な勢いの気を纏っておるとは感じておったが、頭もよいようだな」
師はそう言うと、私に視線を向けて、言葉を続けた。
「人はのう。自分の立場によって、欲しいものが異なるのだ。
衣食足りて、名誉が欲しい者に食べ物を与えても、やる気など出るはずもない。
逆もしかり。食べ物が欲しい者たちに、名誉をやると言っても、やる気なのど出るはずもない」
「つまり、あの男たちは日々、貧しい暮らしをしており、十分な食べ物も安定して食べていない。そんな彼らに食べ物が買える銭を餌にすると言う作戦は、理にかなっていると言う事ですね」
私の言葉に師は静かに頷いて見せた。
どうやら、ねねはこの乱世を切り開く人物なのかも知れない。
「でも、サルと結ばれるんですね?」
ちょっとがっかし気分で、師にたずねると、師は静かに頷いて見せた。
私がお尻を見えそうで、見えそうでない姿をした効果は無かったと言う事だ。と、思いついた時、私はあの姿は恥ずかしい姿だったんじゃないかと気づいた。
「私の赤い糸って、どうなっているのですか?」
私の問いに、師は何も答えなかったけど、心の中にちょっと寂し気な気の揺らぎが発したのを感じ取った。もしかすると、私はあの姿が原因で、もうお嫁にはいけないのかも知れない。まあ、師の下で、無想流を極めようとしている私にしてみれば、それはどうでもいい事なのだと、自分を納得させるように、一人頷いた。