敗北
過去のどんな城よりも壮大で金蘭豪奢な安土城が、琵琶湖を見下ろす場所に出現した。
その城の威容に人々は信長の力を畏怖し、実力だけでなく、権威の面からも、天下人の座を固めつつあった。
そんな築城したばかりの天守に私は呼び出され、信長と共に眼下に広がる琵琶湖と安土の町の様を見つめていた。
長閑な水面と周辺に広がる町。町の華やかさと人々の賑わいは京に勝るとも劣らず、信長の支配域は信長の治世による平和と豊かさを享受する人々で溢れていた。
信長を担ぎ上げ、天下を治めさせると言う考えに誤りは無かった。そう思わずにいられない。
「今日、ここへ呼んだのは他でもない。
信雄が伊賀の丸山城を改修しようとして、伊賀者どもの奇襲にあい敗走したのは知っておろう。
どうやら、信雄のやつは我が命による摂津出陣に従わず、今度は自ら軍勢を率いて、伊賀に攻め込む気のようじゃ」
そこまで言ってから、信長は私に鋭い目を向けた。
伊賀に攻め込む動きを感じ取った信長は、独断で伊賀に侵攻しようとしている信雄に対する怒りがある。そう私は感じた。
「で、私に何を?」
「信雄の軍勢はすでに動き出し、三方に分かれておる。
もはや、止める事はできぬ。
が、勝てるとも思えぬ。
いや、それどころか下手をすれば、命を落としかねん。
そこでじゃ、万が一の時、信雄を救ってやってくれ」
「承知」
すでに軍が動いているとすれば、一刻を争うやも知れない。
私はその言葉だけを残して、すぐさま伊賀に向かった。
忍びは概ね夜目が効く。前回の丸山城への攻勢も夜襲で始まっている。
日が暮れる前に伊賀に。そんな思いで駆け続けた私だったけど、伊賀にたどり着いた時には、日は暮れており、戦は始まっていた。
夜目が効かない信雄の兵たちは、松明の灯りを頼りに敵の姿を探ろうとする。夜の闇に紛れている伊賀者たちにとっては、的はここですよと自ら言っているようなのである。
暗闇の中から飛び道具で襲い掛かる伊賀者たちの前に、信雄の兵たちは次々に傷つき倒されていく。かと言って、松明の灯りが無い状態では、信雄の兵たちは敵の伊賀者たちの姿はおろか、足元の道すら視認できやしない。
月明りの下で忍びと戦うと言う事は、普通の兵たちにとって勝ち目など最初からないのだ。
逃げ惑う信雄の兵たち。
その中に、私は信雄の姿を探す。
慌てふためく武将たちが向かう先、そこに自分たちが守るべき信雄がいるに違いない。
そんな思いで、武将たちの先に向かう。
そんな時だった。
私の前に、黒装束を身に纏った人物が突如現れた。
私よりも背が低い。私自身低い方なのだから、きっと私と同じくノ一に違いない。
西国無想流に伝わる宝刀 闇斬りを抜き、相手にその切っ先を向けた。
「どきなさい。
邪魔すると、容赦ないよ」
相手が手にしているのは小刀で、しかも私よりも体が小さい。となれば、戦わずとも勝敗は決まっている。相手に刀を納め、私の前から立ち去る機会を与えようとした。
しかし、相手は逃げる気配を見せるどころか、私に向かって駆けだして来た。
仕方がない。どんな相手であろうと、向かって来る相手は斬る。それだけだ。
敵が間合いに入って来た瞬間、上段に構えていた闇斬りを振り下ろした。
敵の動きはそれなりに速かったけど、どうって言うほどではなかったはずなのに、私が降り降ろした闇斬りには、相手の体を切り裂く感触がなかった。
すかっとしたただ空を斬った時のような感触。
逃した?
そう思った瞬間、キンと言う音と共に、腹部に痛みを覚えた。
くっ!
相手が忍び。気を消す強者もいるだろうし、どこから攻撃を仕掛けてくるか分からない。そう言う万が一を考え、鎖帷子を着こんでいたけど、それが功を奏し、敵の刃から私の身を守ってくれたらしい。
とは言え、正面からぶつかって来る相手に、こんな事になるとは、予想だにしていなかった。
ちっ!
背後で敵は舌打ちしながら、小刀を左手に移し、右手に苦無を握りしめていた。
私に向けて放たれる苦無。
さっきは不覚を取ったけど、そうやられたりはしない。
一つ、一つ苦無を地面に叩き落とす。
ぐさっ。ぐさっ。
苦無が音を立てて、地面に突き刺さる。
全てを叩き落とした。そんな思いを抱いた瞬間、どうやら、敵は最後の苦無を放つと同時に、私に向かって来ていたらしく、敵はすでに私の目の前に迫って来ていた。
長い闇斬りでは、すでに敵を襲う事が出来ない距離。
しまった!
そう思った時、敵との背の高さの違いから、敵が突き出して来た小刀が左下方から私の顔面に向けて、向かって来ていた。
押されっぱなしだけど、動きの素早さでは、まだ私の方が勝っている。
間一髪で小刀をかわすと、敵の側面に回り込み、闇斬りを振り下ろした。
これで決める。
そんな気合を入れた私の一撃だった。
と言うのに、敵は私の一撃をかわしつつ、また私の懐に飛び込んできた。
この間合いでは、また私には打つ手が無い。
攻撃の手段を持たない私の顔面に向けて、再び小刀で襲い掛かって来た。
間一髪、再びそれをかわし、間合いを取ろうとした時、再び腹部に痛みが走った。
一度目の痛みが打撃による鈍い痛みとすると、今度は鋭い痛みだ。
敵との距離を取りながら、腹部に目を向けると、黒装束に血が滲んでいた。
見ると、敵は右手に小刀を持ち、左手で苦無を構えていた。
どうやら、右手に持つ小刀に気を取られている内に、左に握られた先の鋭い苦無で鎖帷子の隙間を狙われたらしい。
小さい相手。簡単に勝てるはずだったのに、全く形勢は逆で、このままでは負けてしまう。
逃げるか?
そう思った瞬間、目の前は爆音と煙に包まれた。
煙玉?
誰が、何の目的で投げたのかは分からない。だけど、これは逃げる好機。
動きは私の方が断然速い。
煙玉で敵が視界を奪われている間に、私はその場を離脱した。
難敵から苦れた私はとりあえず、信雄たちを守る事に成功はしたけど、この伊賀攻めは私にとっても苦い負け戦となった。
気も放たず、小さな体で、私を翻弄する伊賀のくノ一。
織田軍だけでなく、私にとっても伊賀は難敵なようだった。