消えた官兵衛
織田の水軍は、毛利水軍に大敗し、壊滅的な損害を被った。もはや、海上は毛利の思いのままであり、本願寺を干上がらせると言う作戦は、振出しに戻ったと言ってもよかった。
この衝撃は大きく、信長をもってしても、天下統一が容易ではないと言う事を世間に知らしめることとなり、その影響は徐々に信長の家臣団にも及び始め、一部の雑兵たちの軍紀に乱れが生じていた。
その最たるものが、荒木村重の家臣による本願寺への兵糧の横流しだった。自分の家臣が横流しをしたと言う事実が発覚すれば、信長に許されるはずもない。
そう考えた村重が、サルと共に臨んでいた中国攻めの最中に謀反を起こし、有岡城に立て籠もった。
前面の毛利だけでなく、後方に新たな敵を抱える事になったサルは、村重を説得するため、官兵衛を遣わしたけど、官兵衛も戻って来なかった。
裏切りに敏感で人を信じ切れない性格と、冷徹な性格を併せ持った信長は、官兵衛は村重と共に自分を裏切ったと考え、サルに官兵衛の嫡男松寿丸の殺害を命じたのだった。
「燐殿。
子細はそう言うことでござる」
姫路城の中、私の前に座る半兵衛が、これまでの経緯を語った。
「して、私に何をお命じに?」
「官兵衛殿はかけがえのない人物であるだけでなく、私は官兵衛と言う人物をよく知っております。官兵衛殿が裏切ると言う事はあり得ないと信じております」
「つまり、村重に斬られたと?」
「考えたくはない話ですが、そう言う可能性が高いかと。
もし、官兵衛殿が裏切っていなかった場合、松寿丸を殺したとあっては、あの世で官兵衛殿に会わす顔がござらぬゆえ、松寿丸は殿のあずかり知らぬところで、私が匿おうと考えております」
「では、有岡城に忍び込み、官兵衛殿がどうなったのかを探って来いと言う事ですか?」
半兵衛が静かに頷いたのを確認すると、私は姫路城から姿を消した。
有岡城。川を要害とし、堀を巡らした総構えの堅牢な城だ。ここに籠れば織田軍と言えど、そう簡単に落とせそうにはない。毛利が手を貸し、サルの軍を打ち破れば、毛利と合流でき、一気に天下の形勢をひっくり返す事ができると言える。
村重もそう読んだに違いない。
深夜の闇の中、黒装束に身を包み、堀を飛び越え町家を駆け抜け、堀を飛び越え侍町を駆け抜ける。
さすがに敵に囲まれている戦真っ最中の城内だけあって、三つの砦をはじめ村重の兵たちが警戒は厳重だ。だけど、明らかにそんな気を放っている者たちを予め避けて道を進めば、問題はない。
要害であっても、兵たちが警戒していようとも、私にとっては忍び込むことなど造作もなかった。
三日月の弱々しい光が降り注ぐ城内。闇夜での活動に慣れている私には最適の環境。
本丸の城壁近くまでたどり着くと、目を閉じて官兵衛の気を探る。
一度、官兵衛とは会っており、おぼろげながら、その気を私は覚えている。
警戒感を纏った気。眠気を纏った気。不安が混じった気。
どれも見知らぬ気。
官兵衛が殺されたかどうかをここの兵たちに直接たずねると言うのは難しいだけに、城内に官兵衛の気が無い事を確認するしかない。
場所を移して官兵衛の気を探す。
何度目かの場所で、私は官兵衛に近い弱々しい気を感じ取った。
辺りに目を向け、気が放たれている場所を探す。
城の内部?
その感触に、私は城壁に目を向けた。石垣が続き、城はその上にある。
だけど、その気は私が立っている地面より下っぽい。
石垣に沿って、その気に近づいて行くと、石垣に小さな隙間を見つけた。
月夜の明りで目を凝らすと、元々人が通れるとは思えない小さな隙間に、念入りに鉄格子が設けられていた。
内部を見ようと、顔を近づけると、その内部に充満した臭いにおいが鼻についた。
その内部は清潔な場所ではないらしい。
じけっとした湿気が肌に感じられただけあって、中は水がためられていた。そして、見つめる私の瞳の中に、髪がぼさぼさで、髭もぼさぼさな男の姿がぼんやりと浮かんだ。
「官兵衛殿?」
私の問いかけに、その男の閉じられていた瞳がゆっくりと開いた。
目から放たれる鋭い眼光は、すでに朽ち果てるのではと言うほどの風体とは不釣りで異様と言うしかない。
「どなたか?」
「一度、半兵衛殿と一緒にお会いいたしました燐でございます」
「燐殿でござったか」
やはりこれが黒田官兵衛らしい。見るからに不衛生な水牢に閉じ込められていて、体力は限界なんだろう、声はやはり弱々しく、眼光だけが鋭いと言う事は、精神力だけでもっているにちがいなかった。
「今、お出しいたします」
そう言って、城内に侵入するため、立ち去ろうとした時、官兵衛が言った。
「お待ちを」
「何でしょうか?」
「私はこのままでかまいません」
「しかし」
「信長様は疑り深い方故、今私がここで救出され、城を出て行けば、村重殿を裏切って一人逃げ出して来たと思われるに違いありませぬ。
有岡城落城のおり、信長様の軍勢の手により救出される。でなければ、信長様は私の無実を信じますまい」
信長の人に対する疑い深さを官兵衛は感じ取っているに違いない。
そして、その読みは正しいと言わざるを得ない。
「分かりました。
とりあえず、半兵衛殿に官兵衛殿のご無事を伝えてまいります」
そう言い残すと、私は半兵衛の下に向かった。
私の話を聞いた半兵衛は、松寿丸を自らの判断で匿う行動に出た。
松寿丸の首を刎ねたと半兵衛は信長に嘘をついた訳で、疑り深い信長にばれた時が心配だけど、半兵衛の行動は私的には立派だと思わざるを得なかった。
しかし、信長は私の事もどこまで信じているのだろうか? そんな疑念も沸いては出たけれど、その答えはどうでもいい事だとすぐに思い至った。
信長は私の事を実は信じておらず、ただの道具としか思っていないかも知れない。
でも、私も信長に心酔している訳じゃない。ただ、師の宿敵だった毛利討伐を行ってくれればいいだけで、私にとってみても、信長は道具なのかも知れなかった。
お互い利用し、利用される間がら。そんな関係でもいい。そう私は思った




