信玄暗殺
信玄軍の行状は夜盗、物盗りの類と変わらず、このような軍をこれ以上先に進めさせる訳にはいかない。兵たちの横暴や戦で一般の人たちが苦しむ姿は見たくはないのだから。
そして、三方ヶ原の戦いで多くの戦力を失った家康はもちろん、周囲を敵に囲まれ、三河に兵力を割くことができない信長の現状を考えれば、この武田の軍を止めるには、信玄を暗殺するしかない。それが私が出した結論だった。
ただ、暗殺は禁忌。それだけに、師にその事を知られる訳にはいかない。破門と言う事もそうだけど、嫌われたり、一緒にいられなくなることは絶対に避けなければならない。
それには、ねねが言った病死と言うのは、私にとっても最適な偽装だ。
野田城を攻囲している信玄はと言うと、近くの寺を仮の居としていて、戦陣には時折顔を出しはするものの、状況の報告を受けるだけで、攻めの指示を出してはいない。どうやら、本国の甲斐より呼び集めた金堀人夫に地下道を掘らせ、城内の水を断ち、力押しではなく、熟した柿が勝手に落ちるのを待っているらしい。確かに信玄が本当に上洛を目指しているのか不明だけど、もしそうだとしたら、兵力の損耗はさけなければならないし、信長の援軍が来ないなら、賢明な選択に違いない。
兵たちも戦場にいると言う緊張感は持ちつつも、生死をかけるほどの緊迫感を抱いてい無さそうなのは、そんな信玄の考えを感じ取っているからに違いなかった。
ならば、私も長期戦で挑めばいい。
じっくりと、信玄を死の淵に追い込んでやる。
そう考えた私は、全てを夜の闇の中で行う事にした。
そう大きくない寺の二辺を障子に囲まれた角部屋を寝所にした信玄。庭に置かれたかがり火が、部屋に面した廊下で警護する男たちの影を障子に映し出している。
信玄の寝所に近づく者を警戒するには、最適な人員と灯りの配置だろうけど、一度、建物の中に入ってしまえば、かがり火が映し出す影によって、男たちの動きは筒抜けになっていて、私には都合がいい。
天井裏から、男たちの動きに注意を払いつつ、信玄の顔を注視する。
静かに眠っていた信玄の瞼の下の目がくるくると勢いよく動き始めた。
夢を見ているのだ。そして、この時、外部からその夢に干渉する事ができる。
音を立てずに、飛び降りると、信玄の耳元に小型の声分身の忍具を置く。
これは声の方向を極力絞ったもので、忍具を向けられた本人しか聞き取れないようになっている。
信玄は今川の姫を嫡男義信に迎えはしたものの、桶狭間の合戦で勢いを失った今川に見切りをつけ、信長に乗り換えている。その際、今川との関係で邪魔となった義信を幽閉し、自害に追い込んだと言う過去がある。平然としてはいても、心の奥底で良心の呵責の苦しまずにいられる訳もない。
「父上ぇ。父上ぇ。
私を捨て、信長を選んでおきながら、今度は信長を捨てるのですかぁ」
囁くように繰り返すと、信玄がかすかに呻き始めた。
「私の死はなんだったのですか?
お教えください。
私の所まで来て、お教えくださいぃぃ」
何度となく繰り返す内に、信玄が覚醒した。
「はぁ、はぁ」と、大きな息をしながら、上半身を起こしたかと思うと、辺りを見渡している。きっと、義信の姿を探しているに違いない。
けど、そんなものは元々ありはしないし、忍具もすでにつながっている糸を引っ張り、私の手元まで回収している。
「ゆ、ゆ、夢であったか」
「いかがされましたか?」
信玄の異変に気付いた警護の者が、障子を開けて、声をかけた。
「いや、何でもない」
信玄はそう言うと、布団に再び入った。
幾度となく、何日となく繰り返していく。信玄は精神的に参って行く。
家臣たちの前では、そんな素振りを見せてはいないけど、焦り始めているらしい。
「まだ、やつらは開城せぬのか!」
何日かすると、信玄は軍議に顔を出しては、いらいらした口調で、家臣たちに問うようになってきた。
信玄に精神的に参り始めてしばらくした頃、ついに野田城は開城した。
私も仕上げに入らなければならない。
昼間どんよりと曇っていた空から陽が西の地に消え去り、武田の軍を夜の闇が包み込み始めた頃、私は少し離れた場所に立っていた。
唾で濡らした人差し指を立て、風向きと風の強さを確かめ、自分が武田の軍の風上に立っている事を確認すると、何もない冬の田んぼの中にいくつもの焚火を作り、そこに雨の種を仕込む。
夜の闇の中、点々と灯された焚火から、空に向けて雨の種がまき散らされる。昼間に空を覆っていた雲の中で、それは育ち、雨となって降り注ぐ。
目指すはこの季節には少し不釣り合いな大雨。それだけに、使った雨の種の量は、桶狭間の合戦の時とは比べ物にならないほど多い。
さすがの私も夜の空で、雨の種がどれほど育ったかは確認する事はできない。大雨になるのを信じつつ、信玄の寝所に場所を移した。
信玄が布団に入った。外は雨が降り始めているらしく、雨音が天井裏にも響いてくる。
信玄の閉じた瞼の下で、寝入ってすぐに目の玉が激しく動き始めた。普通なら、もっと時間が経ってから起きる現象が、すぐに起きているのは、精神的に信玄が参っている証拠だった。そして、この時こそ、私が信玄を病死に見せかけて暗殺する絶好の機会だ。
音を立てずに、信玄の枕元に飛び降りると、懐から水に濡らした柔らかい紙を一枚取り出す。
ゆっくりと、そして確実に信玄の鼻と口を覆うように紙をあてがうと同時に、耳元で囁く。
「さあ、父上、参りましょうぞ」
突然、顔に触れたひんやりとした感触と、義信の言葉と思しきささやきに、信玄は突如覚醒した。
「うっ、うっ、うぅぅぅ」
紙が口と鼻に張り付いている事に気づいているかどうかは分からないけど、息ができない事だけは当然気づく。その事に驚き、大きく息をしようとしているのが、うめき声のようになって、聞こえる。
その頃には、大粒の雨が降り注いでいた。
廊下で背を向け、警護についている者の耳には、信玄の呻き声など聞こえやしない。
しかもだ、精神的に参った状態で、眠りにつき、すぐに目の玉が激しく動き出した状態で一気に覚醒させると、金縛りにあうのだ。
師が言うには、頭の中の思考部分だけが起きており、運動を司る部分は眠ったままの時に金縛りが起きるらしい。そこに幽霊の仕業とか言うものはなく、ただの生き物としての作りからきているらしいけど、あの世というものを信じている者にとっては、まさにこれは霊の仕業である。
手足を動かす事もできず、息もできない信玄は、目を見開き、きょろきょろと目玉を動かし、辺りの様子を確かめようとしている。きっと、義信の姿を探しているに違いない。
「うっ、うっ、うっ、どじどぶぅぅぅぅぅ」
義信の姿を信玄は見たのかどうかは分からないけど、口を開けられない信玄が最後にした言葉は
義信の名だった。
息絶えた信玄の顔から、張り付いていた紙を剥がすと、私はため息を一つついた。
さっきまでの私と今の私は大きく違う。師の教えでは許されていない禁忌の暗殺を行ってしまったのだ。さらに激しさを増してきた外の雨音。それは、私の涙雨なのかも知れなかった。




