あの日のはじまり
信長の上洛戦の障害は、南近江の六角承禎と京を実質的に支配してる阿波の三好三人衆と、大和の松永久秀であったが、姻戚となった浅井長政の軍勢と三河 徳川の軍勢を引き連れた信長の前に、六角は頼りとする箕作城をあっさりと落とされ、本城の観音寺城から追放された。
京で我が世の春を謳歌して来た三好勢だったが、予想外の信長の勢いにぶつかるのは得策ではないと判断し、信長が侵入してくる前に京から撤退した。
もはや遮る者のいなくなった京に信長が入ったのは、暑い日だった。
この街はこの国の中心であり、都であると言うのに、その状況は辺境の村よりも悲惨だった。立派で華麗な建物はほとんどなく、大半が急造のやっつけ仕事で建てられたものと言っても過言ではないもので、あえて立派な建物と言えば、力を持つ寺社仏閣や、一部の有力者の屋敷だった。
通り行く人々の多くも貧しさから、目だけがぎらぎらと輝くやせ細った者が多く、地面に座り込み動かない者は、すでに死んでいるのかどうかさえ分からない。
いかにも死んでいますと言う者は、かつて体だった部分を虫に食され、暑さで腐臭を放っていて、そんな者がいたる所に転がっているが、誰も処理しようともしない。
立派な寺社仏閣の中に暮らす者たちは、仏に仕える身であり、その骸の魂が御仏に救われるよう力を尽くせばよいものを、それすらしていない。力なき者にとって、ここは都ではなく、この世にある地獄なのだ。
そんな思いを抱きながら、目の前を通り過ぎる信長の軍勢を見ていた。
豊かな尾張を地盤に抱え、美濃を併呑し、商才にもたけた織田の軍勢は、まさに天から舞い降りた軍勢のようにきらびやかだった。
が、それをこの目に見ようと言う京の者は多くなく、通りでその軍勢の姿を見ているのは、ほとんどが住む家も無くした貧しい者たちだけだった。
そして、それなりの暮らしができている者たちは、家に籠り、ひっそりと息をひそめているのだ。その理由は、どこでもそうなのだけど、新たに力で入って来た軍勢と言う者は、乱暴狼藉を働くのが常であったからである。
だが、ただひたすら前を向き、歩を進める信長が率いる軍勢には、そんな軍紀の乱れの気配すらない。暑さに汗をたらしながらも、ただただ、前進している。
織田の軍勢は一銭切りを掲げている。つまり、一銭、一文だろうと他人の物を盗んだり、乱暴狼藉を働いた者は、誰であろうと斬り捨てると言う規律を持っているのだ。しかも、率いているのは信長である。躊躇なく実践する人物だけに、誰もそれを破ったりはしない。
やがて、馬上の信長が目の前にやって来た。
いつだったか見た、自らがいつかは天下を盗る意思を表しているに違いないと私が感じた、お○ん○んが逆を向いた風変わりな服を着ていた小汚い信長の姿は想像できないが、その野望を果たしつつあるようでもあった。
私と師の姿に気づいた信長が、にんまりとした笑みを向けながら、通り過ぎていく。何万と言う軍勢を率いる信長の姿は、もはや天下人の風格を備えている。
「師よ。信長なら、この世を平和に、皆が安心して暮らせる世を作ってくれるのではないでしょうか?」
横に立つ師に問いかけた。
「このまますんなりと信長が天下を盗れるとはいくまいな。
が、信長が天下を治めれば、世の乱れは収まるであろうな」
「そんな世がくれば、みな幸せになれるでしょうに」
私は目の前を通り過ぎていく軍勢の向こう、通りの反対側でしゃがみ込み、櫛も長い事通していないとしか思えない埃にまみれ、ぼさぼさの髪をし、何日も顔を拭ってもいないと思われす薄黒い肌の痩せこけた少女を見ながら、そう呟いた。そこには、自分の姿と重なる物があった。もしも、あの日、師に拾われていなければ、私は殺されていたか、あの少女のようにひもじさと死と隣り合う日々を過ごしていたに違いなかった。
あの日、小さく、粗末ながらも、私には家があった。両親、そして兄妹たちと過ごす日々は、貧しかったけど、温かさはあった。
それを奪ったのが、夜盗の類なのか、落ち武者のような者たちだったのか、私には分からない。ただ、やつらが襲って来たのは、ほんのりと空が白みはじめた冷たい夜明けの頃だった。
突然沸き起こった怒声と悲鳴が、私の幸せな眠りを破った。
「なに?」
幼かった私には、眠りの中から突然引き戻されたと言う事もあって、何が起きているのか思いもつかず、横にいた母にたずねた。
「大丈夫だから」
そう言って、私を抱きしめてくれた母は震えていた。そして、父も母の横で辺りの様子をうかがっているようだった。
「食い物を出せぇ」
「お、お、女だぜぇ」
害意があるとしか思えない男たちの声は、徐々に大きくなってきて、外で騒ぎを起こしている者たちが、近づいてきているらしかった。
そして、それからすぐ薄い木の板で出来ている家の壁や扉の向こうが、大勢の駆けて行く足音で満たされ始めた。その足音の一つは私の家の前で止まったかと思うと、扉を力づくで開けようとしているのか、扉がカタカタと軽い音を立てた。
「大丈夫だから」
母はそう言った。兄妹たちも母に抱きつきながら、扉に目を向け、そのまま立ち去ってくれるのを祈っていた。そこにはつっかえ棒がされており、開かない扉に諦めて立ち去ってくれる。そう祈っていたし、思ってもいた。
でも、外の男は扉を蹴破って中に入って来た。その時、私は薄い木の板でできた扉や壁が自分たちを危害から守ってくれる完璧なものではないと知った。
「おらぁ、食い物を出せ」
男は手にした松明の灯りで、家の中を照らしながら言った。
お金はおろか、貧しい村の百姓の家に差し出すほどの食料などもある訳はない。
「こ、こ、こ、ここには何もねぇ」
震え気味の父の声に男は何も答えず、私たちのところに松明を向けた。薄暗い中に、抱き合う私たちの姿が浮かび上がった。
「ほう。なら、この女もらった。
来い!」
そう男は言ったかと思うと、私の母の体を引っ張った。
「止めてくれ」
父はそう叫んで、男の腰の辺りにすがりつき、男の動きを封じようとした。
男はすぐさま母を離したかと思うと、右手で刀を抜き去り、すがりつく父をその刀で突き刺した。




