桶狭間の合戦 中
今川勢の攻撃で燃え上がる、いえ、丸根峠は私が燃やしたんだけど、ともかく燃え上がる砦の炎が空に巻き上げた「雨の種」は、ついさっきまで青かった空を灰色の雲となって覆い、雨をふり始めさせた。
手を差し出し、雨を受け止める。ぽつり、ぽつり。この程度なら、まだ今川の軍勢の視界を邪魔するほどにはならない。尾張の方角に目を向ける。まだ、信長の軍勢の姿は無い。
「本降りには、まだ間がありそうだが、この間が逆に今川勢に不運を招くやも知れぬな」
横に立つ師が言った。
体を包み込む湿気は、ねっとりとしていて重く、不快感を抱かずにいられない。本降りになれば、一気に気温が下がるだろうけど、この不快な時間が続けば、兵たちは身につけている甲冑を脱ぎたくもなろうと言うもの。甲冑を脱いだところを信長に襲われれば、今川勢の被害は大きくなるに違いない。
「では、信長に運が?」
「それはまだ分からぬ」
しばらくすると、天空を轟かす雷鳴と雷光が辺りを包み込んだ。その雷を合図にしたかのように、大粒の雨が降り始めた。
ざーっと言う辺りの音をかき消すほどの雨音と、すぐ先の光景すら隠してしまうほどの大雨。さらに、強い風が辺りの木々をゆすり、ざわざわと大きな音を立て、時折雷鳴までが轟く中、師が言った。
「気を感じてみろ」
五感が役立たないこの状況で頼りになるのは、無想となり、気を読む力。師はすでに何かを感じているに違いない。
目を閉じ、周囲の気を読む。
過去に感じた事のある強い気が、近づいてきている。信長である。
「師よ。信長ですね」
「時の運も、信長に味方したらしいな。
あとは、今川と信長の力比べだな」
滴る雨を顎から垂らしながら、師は信長のいる方向に鋭い視線を向けていた。師や私はその先に信長の軍勢がいる事を感じていたけど、降りしきる大粒の雨が邪魔をして、その姿を視界に捉える事はできていない。私たちの場所よりさらに遠い所にいる今川勢がその事に気づいていない事は、気の乱れが感じられない事からも明白だ。
「近づいてみるか」
師はそう私に言うと、姿を消した。私も遅れまいとその後を追って、おけはざま山を目指した。
幔幕の中で翻る赤鳥紋の馬印を近くに臨む木々の近くに身を潜める。
警護の兵たちは、予想通り甲冑を脱ぎ、天から降り注ぐ雨の中、舞いを舞うかのようにして、自身の体に纏わりついていた汗を洗い流し、蒸し暑さから解放された喜びに浸っていた。
一方のおけはざま山を目指す信長の軍勢は、すぐそこまで近づいている。
「そろそろおぼろげながらも、姿が見えるはずだ」
師の言葉に、雨煙の向こうの光景の分析に、全神経を集中させると、確かにうごめく何かが存在している事が、見て取れた。そこに軍勢がいると知っている私には、それが人馬を伴った軍勢だと、辛うじて判別できたけど、何も知らない今川勢の見張りには、それが軍勢だとは分からないはず。
喊声も上げず、ひたすらおけはざま山を目指して迫りくる信長の軍勢。やがて、今川勢も、その事態に気づいたらしい。
「どこの軍勢だ?」
少し弱まった雨の音の中、今川勢の中から声がした。とは言え、まさかその軍勢が敵だとは気づいていないばかりか、その疑いすら抱いていないらしく、その男が放っている気には全く警戒の色が纏わっていない。勝ち戦の最中、敵が本陣の中心に奇襲をかけてくるとは、想像もしていないらしい。
常在戦場。と言うか、まさに今は、その戦場の中だと言うのに、その事すら忘れている今川勢。これは、運だけでなく、戦の流れまでもが、信長に味方しているのかも知れない。
今川と信長の戦い。その決着に固唾をのむ。
さらに小降りになった雨が、信長の軍勢の姿をはっきりと映し出し始めた。
鬼気迫る形相で駆け寄って来る槍を構えた足軽たち。刀を抜き去り、馬を駆る武将たち。その先頭は、あの信長である。
灰色の雲の隙間から少しばかり顔を覗かせた太陽が、信長の刀を輝かせた。まるで、信長が輝く運勢を手にしているかのようだ。
「何事だ?」
明らかに襲い掛かってこようとしている謎の軍勢の接近に、今川勢が戸惑い始めた時だった。
「ふむ。
まだ信長の兵より、義元の方が多いようだな。
少しばかり、手助けしてやるか」
師がそう言って、姿を消した時、信長たちの先鋒が、今川の軍勢に斬りかかっていた。
「ぎゃあー」
最初の犠牲者の悲鳴が響いた。異変が起きた事は、幔幕の中の義元も気づいたはずだ。
「謀反じゃ」
続いて響いたのは、さっき姿を消した師の声だった。師は今川の軍勢に紛れ込み、襲って来た軍勢を信長ではなく、謀反の軍勢だと、今川の者たちに認識させようとした。
敵と謀反では、敵の戦意も変わって来る。今川方の戦意を落とす事で、信長側の兵数の不利を補う助けしたのだろう。
その師は今川の兵の姿で、すぐに私の横に戻って来た。
「さて、後は信長のお手並み拝見だな」
そう師が言った時は、すでに戦いは乱戦状態に突入しようとしていた。
今川の軍勢に襲い掛かる信長の兵たち。当然、それに抗する今川の兵たち。入り乱れての斬り合い。悲鳴と怒声、そして止んだ雨に代わって辺りに降り注ぐ真っ赤な血しぶき。
「うん?」
師が怪訝な顔をした。いくつもの戦をくぐり抜け、時には自らその手で人の命を奪って来た師が、多くの人が傷つき、殺されていく光景に動揺する訳はない。
「どうかされましたか?」
「藤吉郎は、戦が苦手なようだな。
と言うか、それ以上に、人が死ぬことに恐怖しておる」
師の言葉に、乱戦の中からサルの気を読んでみる。
戦の最中だと言うのに、敵兵を殺す気概もないどころか、目の前で起きている命のやり取りに完全に戸惑っている。
「あの男、何かを持っているだけではなく、この世を鎮めるには、あのような平和ボケした男の方がふさわしいのやも知れぬな。
燐。藤吉郎を守ってやれ」
師の意外な言葉に、戸惑いの表情を向けた。
「あの男は、真にこの乱世を鎮めるために、必要なのでしょうか?」
それは建前であって、本音は好きになれないサルを守りたくない。
「我が命だ」
そう言われれば、従うしかない。
「分かりました」
そう言って、サルの下に向かおうとした時だった。
「持っていけ」
そう言って、師が差し出したのは、西国無想流に代々伝わる宝刀 闇斬りだった。いつかこの世に魔王が降臨した際、闇の中で、その魔王を葬ると言われている斬魔王の刀。
「これを私に?」
黙って頷く師からその刀を受け取ると、私はその場から離れて、戦場近くに移動した。