ナイフと小指
※※※お読みになる方によっては不快に感じる表現があります。※※※
※他サイトに掲載していたモノを引っ越しした作品です。
■■■■Act1■■■■
松山ハジメは浴槽に張り付いた小魚を剥がしている夢の途中で目を覚ました。
昨晩サークルの打ち上げで飲んだ味気のないビールの残り香が全身にまとわりついている。周りの雰囲気に流されやすいハジメは、先輩の過剰な囃したての洗礼を断り切れず、つい自分の許容値を超えるアルコール量を摂取してしまった。その結果、二日酔いである。ハジメは酒漬けで重くなった体をゆっくりと持ち上げ、トイレで用を足しながら思った。
結局昨日はいつまで飲んでいたんだろう?
2次会のカラオケまでは憶えている。その後は寝てしまったのだろうか?飲みの席では毎回損な役を当てられている近藤が今回も俺を部屋まで運んでくれたのだろうか?飲酒後お決まりの無駄な追憶。
ハジメは排泄物を水で流し捨てた頃にはその考えも一緒に記憶のスミに追いやっていた。ハジメの住処は家賃月々6万3千円、築30年のボロアパート。1LDKの散らかり呆けた部屋のフローリング床に、ハジメは未開封のガムが落ちているのを発見した。口の中を潤そうと手を伸ばすも、誤って踏み出した右足でガムを蹴り飛ばしてしまった。
「ああ!もう!」と、つい声に出しながらベッドの下にスライディングしてしまったガムを救出すべく、幅180㎝・高さ15㎝の真っ暗な空間に手を差し込んだ。
腹ばいになり、肩のあたりまでスキマに突っ込んだ手を左右に振るも、ガムの気配は見つからない。次第にイラつきをつのらせ、ガムを見捨てようと思ったその時、確かな手ごたえを感じた。
しかし、その手ごたえはガムにしては大き過ぎるし、爽快感とは程遠い感触をハジメの指先に与えた。
ベッドのスキマから顔を出したその物体の正体は黒いビニール袋だった。
袋の中身がビニールの外膜を突き出し、出来の悪い金平糖を彷彿させる。
2週間ほど前に掃除した時はこんな物は無かったぞ?ハジメにはそのビニール袋に全く覚えがなかった。
その袋の中身を確かめるべく、ハジメは結び目を強引に引き破り、開けてしまった。そしてハジメに激しい後悔の念が湧きあがった。
その中身を見て、パニックになってしまったハジメ、なぜか部屋にある窓に全て施錠を、玄関にはノブとチェーンの二重ロックを、携帯電話にはマナーモードの設定を。1分とかからない早業だった。
なんなんだよ!これは?ハジメは二日酔いのことなどすっかりと忘れてしまった。心臓の鼓動が高まり、脇の下を汗が伝わるのを感じた。
ビニール袋の中身は新聞紙に包まれた赤い染みのついた一本の果物ナイフ。
それには見覚えがあった。そのナイフはかつてハジメがこのアパートに引っ越した際に100円ショップで購入した物でありハジメの私物であることは間違いなかった。
キッチンの引き出しにしまっておいてそのまま一度も使うことなく放置していたハズだった。そしてこの赤い染みは…!信じたくはないが大方の予想はついてしまった。
ビニール袋の中にはそれを証明する為の、もう一つの決定的なモノが混入されていたからだ。
それは誰の物とは分からない、切断され、血に染まった指先だった。
■■■■Act2■■■■
「…おお、近藤、今大丈夫か?」
「ああ、昨日は大変だったねぇ、部屋まで君を送ったんだけどちゃんと寝れた?」
やっぱり昨晩は近藤が送ってくれたんだな…。
全く見覚えがなく、血生臭いナイフと指先を目の当たりにして、とにかくハジメは昨晩、記憶を失くしてからの行動を確かめずにはいられなかった。
ベッドの下にあった物騒な物を即刻警察に届けるという発想も頭にはあったが、なにしろ発見した場所が自宅で、さらに凶器は私物という点で、容疑者としてハジメが捕えられてしまうことは火を見るよりも明らかであった。
もしかしたら酔っぱらった自分が誰かの指を切り取ってベッドの下に放り込んだのかもしれない。そんな最悪な発想も脳内に浮かび上がる。
そこでハジメはとりあえず、自分をこの部屋まで送った(と思われる。)近藤に、電話で昨晩自分が何をしたのか?詳細を聞きこむことにした。
「ああ、助かったよ、ところで…俺、昨日なんかおかしなことしなかった?」
「おかしなこと?ああ、アレ?」
「アレ?アレって何だ?俺が誰にアレしたんだ!」
つい声が裏返ってしまうほどに動揺して喋るハジメ。
「憶えてないの?2次会のカラオケでいつの間にか知らん人達の部屋に乱入した事。」
ハジメは一瞬、強い緊張を覚えた。思わず右拳を強く握る。
「それで…どうなった?」
「どうもこうも、その人達がすごい迷惑していたんで、オレ達が必死に誤って君を部屋から引きずり出してさ…大変だったぞ。君がビールジョッキ片手になぜか円周率の暗証をし始めてさ、ちょっとした戦慄を覚えたよ。」
そんなことがあったのか…ハジメは酩酊すると世間知らずの勘違いセレブ娘のように予測不可能な行動を取る。そのことについてはハジメは自覚、自認をしていて、未だに彼女が出来ない一因でもあったが、これほどとは…と自分自身にあきれ果ていた。
「それで、その後は?」
「そのあと…?その後はもう、なんか死んだように眠っちゃったよ。だからオレがタクシー呼んで君を家まで送ったんだよ。今度タクシー代払ってくれよ。」
どうやら飲んで記憶を失い、自宅まで戻る間には特に犯罪じみた事態には陥ってはいないようだった。…となると部屋に戻った後か?
「悪い悪い、今度払うよ。それで、俺の部屋、なんかおかしくなかった?」
「うーん…別に、いつも通りちらかり放題の部屋だったけど……あ、松山、ちょっと話は変わるけどさ、今日のニュース、見た?」
ハジメは心臓にドス黒い靄がかかるような緊張を感じた。
「見てないんだったらすぐテレビつけてみ?うちの大学が映ってるぞ。」
もしかして、イヤ、そんなハズは…と込み上げる予感を振り払いながらハジメはリモコンを手に取り、テレビの電源をつける。そこには見慣れた建造物が映し出されている。ハジメと近藤が共に通うR大学の東側校舎だ。そして左下のテロップにはデカデカとこう記されていた。
[R大女学生惨殺!猟奇的犯行か?]
ハジメは胃袋の中からヤリが突き出されるような衝撃を受けた。
『被害者はR大学に通う吉澤瞳さん18歳。今年の四月に入学したばかりの大学1年生で。第一発見者H氏の証言によると、今朝午前5時頃、R公園内の公衆トイレの裏にうつぶせに倒れているところをランニング中のH氏が偶然発見し、警察に通報したとのことです。吉澤瞳さんの遺体にはナイフの様な鋭利な刃物で胸を一突きにされていて、おびただしい程の出血の跡があり、警察の調べでは出血多量のショック死であるとのことです。』
自分と同じR大に通っていて、死んだ場所はこのアパートからそう遠くない。しかも、凶器はナイフ。ハジメはテレビ画面から目が離せなくなる。そしてアナウンサーの次の一言でハジメは驚愕、凍りつく。
『不可解なことに被害者の右手小指は切断され、その指が遺体発見現場周辺を捜索するも、見つからないことから犯人がどこかに捨てたか、それとも今なお所持している可能性があるとのことです。猟奇的な連続殺人の可能性もあり、R県警は一刻も早く犯人の身柄を割り出し、殺人の連鎖の可能性を断つことに全力を注いでいます。』
[被害者の右手小指は切断され………]
ハジメの脳内に、機械的に発声されたアナウンサーの低い声が何度もリバーブされ、意識がどこか知らない遠くの場所に飛んで行ったような錯覚を覚えた。
「おーい松山、大丈夫かー?」
電話からの近藤の声で現実に引き戻されたハジメ。…そういえば電話の最中だった…。
「ああ、スゴイ事件だな、びっくりした。」
「多分明日も学校に来るんじゃないかな?マスコミとか警察が、なんかコメントを求められちゃったりして。」
今日は日曜日だ。明日は大学に行かなければならない。
近藤との通話を終え、ハジメは自分に言い聞かせた。とにかく今は落ち着くことだ。気持ちを平常に戻すことだ。頭の中で何度も囁き、ハジメはとりあえずシャワーを浴びた。
■■■■Act3■■■■
「妹の吉澤瞳さんには誰かから恨みを買うようなことはありましたか?」
「ありません、あるわけないでしょう。瞳は誰からも好かれていましたよ。高校の卒業式には手に抱えられない程のお祝いを貰っていました。人望のある子です。」
「そうですか…それでは吉澤さん、瞳さんの周りで最近おかしなことはありませんでしたか?例えば知らない人間につけられていたとか?」
「全くありません。そんな話は聞いたことがありません。」
「分かりました、では瞳さんが昨晩殺されてしまうまでのここ2週間ほど、どこで何をしていたかをできるだけ思い出して話をしていただけますか?」
「刑事さん…。こんなことをするよりも、さっさと犯人を見つけて下さいよ。指紋やらDNAやらでスグに見つかるんでしょう?」
「吉澤さん、気持ちは分かりますが、コレは大事なことなんです。目撃者もいない。遺留品もない。そんな状況ではどんな些細な情報でも調べる必要があるんです。犯人を捕らえるにはあなたの協力が必要なんです。」
R公園で変わり果てた姿で発見された吉澤瞳には7歳年上の兄、光一がいた。
光一・瞳兄妹は世間的にも非常に仲が良いことで知られ、その溺愛ぶりは、父母の愛情をも上回るものがあった。もしかしたら光一は妹に対して恋人の様な感情を芽生えさせているのではないか?と周囲からは噂されていた程だった。
そこまで愛していた妹が、突如、何の前兆もなく、何者かに殺され、消えた。光一の心は悲しみと怒りが混在し、破裂寸前の風船の様な、危険な情緒状態に陥っていた。
光一が生きている妹を最後に見たのは事件当日である昨日の夜11時半頃、「ちょっと面棒買ってくる。」とコンビニに向かうべく玄関の扉から外へ出て行く所だった。コンビニは吉澤家から50m程の距離しかない。
ちょっとした買い物であればかかっても15分程で家に戻ってくる、ハズだった。瞳が外出して1時間が経ち、まだ戻ってこない。瞳の携帯電話に連絡を入れるも繋がらない。
いよいよ心配になってきた光一は瞳が向かったコンビニまで足を運ぶが、そこに姿はなく、店の者に訪ねてみても瞳は店には来ていないと言う。光一と父、母が手分けして周辺の捜索、瞳の友人へ聞き込みを試みるも手応えなし。夜12時を過ぎ、さらに時間が経ち、午前2時を回った頃、警察へ捜索の依頼を決意する。
そして3時間後、無情にも彼女が遺体で発見されたことを吉澤家に告げられた。
光一が再び対面した瞳は、子猫のように愛嬌を振り撒くこともなく、温もりを感じることもない、もはや瞳にそっくりな形の何かへと変わり果てていた。
全身は鮮血に染まり、左のあばら骨の隙間に入り込むように切り開かれた横一文字の傷が作られている。さらに何故かは分からないが右手の小指がキレイサッパリと切断されていた。
瞳の遺体を目の当たりにした両親は、ただただ泣くしかなかった。怒るしかなかった。
しかし、光一は違った。
泣きじゃくる両親の後ろにそっと立ち尽くし、茫然としていた。光一の頭の中には疑問しか湧いてこなかった。
なぜ瞳が?どうしてこんなことに?自分がとことん愛してやまなかった瞳が何者かに殺されてしまうなんて、まるで宇宙人が地球に侵攻してくるようなフィクションの物語を聞いているようで、まったく実感が無かった。
警察との取り調べが終わり、光一は疲れた体をベッドに横たわらせた。ポケットに入れておいた携帯電話の電池が切れたままになっていることに気付き、充電器を差し込んだ。起動画面が映し出され、[着信15件][メール5件]と表示されるも、電話やメールの送り主を確かめる気は起きなかった。
光一は今、全てに関して無関心になっていた。空っぽだった。このまま寝てしまおうと思ったが、いくら目を閉じ、睡魔を呼び寄せようも、一向に眠れる気配はなかった。しかたがないので一時は興味を捨てた携帯電話に手を伸ばす。
着信やメールを送ってくれた主は友人や親戚、職場の同僚からだった。事件のことに対して心配して連絡をくれたのだろう。しかし、こんな事態に陥った時に送られる同情の念はハッキリ言って迷惑でしかなかった。着信に対しても、メールに対しても、その返事を送る気は生まれなかった。
こんなことをしていないでさっさと寝よう。と携帯電話を放り投げようとしたその時、一つの違和感があった。5件あったメールのうち、1件は見知らぬ人間から送られたものだったことに気が付いた。無視してもよかったところだったが、光一はそれを見過ごしてはいけないという思いに駆られた。
光一はベッドから起き上がり、マットに腰を掛け、明確な意識を持ってそのメールを開封した。
その直後、光一の体の奥に眠っていた怒りの大輪が一気に開花された。血流は駆け巡り、こめかみが激しく痙攣を起こし、体温の上昇をはっきりと感じた。
コイツを殺さなくてはならない…!警察なんかに引き渡してはいけない…!
光一の心を揺さぶったそのメールには[儀式はまだ終わらない]と一文。
殺害直後の瞳の写真つきで送られていた。
■■■■Act4■■■■
ハジメがベッドの下からナイフと小指を発見してから2日が経った。ハジメは未だにその2点セットを処理できずにそのままベッドの下に隠したままにしていた。
時間が経って心が落ち着いた頃にやっとハジメは『なぜスグにでも警察に届けなかったんだろう…』と自身の犯してしまったミスを後悔していた。
ハジメは事件以来、悩みに悩んだ末、結局大学には行かず、自室でじっと身を潜めていた。
このナイフと小指を何者かが自分の部屋に隠したとなれば、その人物が再び訪れるかもしれない。もしそうなったら自分はどうなるだろう?やはり殺されるのだろうか?
しかしそうだとすれば、その人物はなぜ自分の部屋にあった果物ナイフを使い、さらにまた自分の部屋に隠したのだろうか?どうせ捨てるのなら川に捨てるなり、埋めるなりした方が手っ取り早いし、何者かに見つかる危険も無いだろうに。
となれば、一つ考えられることは、異常なまでに自分に憎しみを抱いた誰かが殺人犯の濡れ衣を着せ、陥れようとしたという可能性。
しかし自分の知る限りではそこまで他人に恨まれるような事はしていないハズだ…。誰かをイジメていたりしていた事も無いし、彼女もいままでいないワケだから、そういう情のもつれがあるワケでも無い。
それを考えるとやはり酔っぱらった自分がナイフを手に取ってあの女子大学生を殺してしまったのか?近藤が自分を部屋まで送った時刻は夜11時頃らしい、そして被害者が殺された推定時刻は11時~12時の間とニュースで発表されている。
R公園付近までここから歩いて20分程だ。十分に犯行に及ぶ事が出来る。しかし、いくら記憶を失くす程飲んでいたとは言え、見ず知らずの人間に突然ナイフを突き立てるようなことをするだろうか?酔っぱらってケンカをし、その勢いでうっかり殺してしまったと言うのなら頷ける。しかし引き出しにしまった果物ナイフを持ち出してR公園まで歩いていくなんて不自然すぎる。
たとえそうしたとしても、殺した後に小指だけ切り取るなんておかしい。
いくら考えても答えに辿り着かない。
ハジメは全てにおいてハッキリとした説明がつかないこの状況に腹立たしさを感じていた。
自分が犯人であったとしても、知らない誰かが犯人だったとしても、おかしな点が多すぎる。
日もすっかり落ち、世界が濃厚な紫に染まった頃、ハジメは新聞紙でくるんだナイフと小指をコートの内ポケットに忍ばせ、R公園からそれほど離れてはいない川沿いの土手を歩いていた。
ハジメは悩みぬいてナイフと小指を人知れず処分する事に決めたのだった。日があるうちは人目に付き過ぎるし、あまりにも遅い時間に出歩くのも怪しすぎると考慮した結果、午後9時に夜空を見ながらの散歩中を装い、さりげなく川に捨てるプランに落ち着いた。
冬の突き刺すような冷たく、乾いた空気がハジメの頬を強張らせる。ハジメの横を犬と共にランニングする男や、何が楽しいのかやたらと笑いながら散歩しているカップルとすれ違った。
ハジメの予想以上にこの土手は夜間にも関わらず、人気が多かった。次に人気が途絶えたら川に近づいてナイフと小指を投げ捨てようと思っていたが、なかなか人の流れが止まらない。一定のリズムでハジメの視界に次々と老若男女バラエティに富んだ人々が現れては横切っていくものだから、なかなか捨てるタイミングが掴めないでいた。
歩きながらさりげなくゴミを捨てることがこんなにも難しいものだなんて…。いざとなったら必要以上に慎重になり過ぎる自分の小心な性格に自分自身であきれてしまった。
そして挙動不審を続けながら土手を10分以上程歩いた頃、ようやくチャンスの刻が巡ってきた。未だ!この機会を逃すワケにはいかない!ハジメは内ポケットに右手を突き刺し、新聞紙の包みを手に取った。
周囲には誰もいない、あとはコレを川に投げ捨てるだけ!ただそれだけ!川に近付き、アンダースローの構えに移る。あとは腕を大きく振る。たったそれだけの動きだったが、ハジメの耳に突如入り込んだ音がソレを急停止させ、右手の包みは再び内ポケットに帰還した。
「ハジメちゃん?」
ハジメの証拠隠滅行為を妨害したその音の正体は「声」それもハジメにとって心を躍らせる女性の声だった。
「ハジメちゃんでしょ?こんな所で何をやってるの?」
「み…美里か?」
神崎美里はハジメと同じくR大学に通っている。
そして小学生の頃からお互いを知り合う幼馴染であり、親友でもあり、ハジメの初恋の相手でもあった。
「こんな時間に一人で何してるの?怪しいことでもしてたの?」
パニックに陥っているハジメ。かつてハジメが中学生だった頃、思春期真っ盛りな内容のメールを友人と間違って母親に送ってしまった時と同じくらいに動揺している。
「散歩してたんだ…。ちょっと…。」
思わず声が裏返ってしまった。怪しまれたか?どんなことがあっても内ポケットの中にあるナイフと小指だけは見られてはいけない。
「こんな時間に…散歩?」
「ああ…。」
「一人で?」
「うん…好きなんだ…一人で歩くのが。」
「ふ~ん…。」
疑っている、怪しんでいる。イザとなったら駆け出して逃げる覚悟でいたハジメ、かつての幼馴染がタチの悪い警察官のように見えた。疑心暗鬼がハジメの体内で暴れている。
「私も。」
「え?」
ハジメは美里の言葉が一瞬理解できなかった。「私も。」とは何に対しての同調なのかサッパリ分からなかった。
「私も好きなの、一人で散歩するの。」
「散歩?」美里の言葉を聞いて、ハジメの心にピンと張りつめた糸が一気に緩み始めた。
「じゃあ美里も今、散歩中ってこと?」
「まあね、この辺りはよく歩いてるよ。家、近くだしね。」
この3日間、ハジメには恐怖と不安しかなかった。そんな絶望の中、一点の光の様に現れた美里の姿に、少しの間忘れていた喜びの感情が湧きあがった。
「ハジメちゃん、こんな所を一人で歩いてるってことはヒマだよね?」
「ん?まぁ、そうだけど?」
「飲みに行こうよ!近くにお店あるから!」
ハジメはちょっとした衝撃を受けた、美里とは幼馴染みとはいえ、高校生になってからはお互いに少しずつ疎遠になっていき、たまたますれ違った時にちょっとしたあいさつを交わすだけの関係にまで落ち着いていたせいで、ハジメの記憶の中の美里は、炭酸飲料と甘い物が苦手で無糖の紅茶ばかり飲んでいて、食が細く、給食もしょっちゅう残していた中学生の頃から止まっている。
それ故に、美里の口から居酒屋に行こうなどと飛び出した事は、[暴走族のリーダーがユーゴ―の作品を愛読している]くらいに意外だった。
「マジで?美里、酒飲めるの?」
「もう未成年じゃないしね…ひょっとしてハジメちゃん、お酒ダメ?」
「いや…大丈夫!ちょっと前まで二日酔いだったし。」
酔っぱらうと暴走してしまうクセがあることは伏せておくことにした。
「ふふ、じゃあ行こうよ! 店、すぐソコにあるから、5分くらいで着くよ。」
ここしばらくここまでハッキリと「楽しい」と感じたことはなかったハジメは、距離が離れてしまった幼馴染みとの運命的な再会がハジメの心を興奮させ、美里との会話の一つ一つにジェットコースターの様な熱狂を覚えた。
美里の案内で居酒屋に向かうハジメ。今日はツイているな。ハジメは今から美里と二人きりで話が出来るということで頭が一杯になって、自分がナゼこの土手を歩いていたかを記憶の片隅に追いやってしまった。
「乾杯!」
ビールジョッキを鉢合わせ、心地良い音色を奏でる。目を閉じて鉄のように冷えた液体を流し込むハジメ。乾いたノドの上を通り抜けるビールの冷たい感触が心地良い。一気に中ジョッキの中身を半分にした。
「フゥー。」ハジメが至福の溜息と共に目を見開くと、同じく至福の表情で笑顔を作る美里の顔があった。その顔に見とれるのと同時美里のビールジョッキがすでに空っぽになっていることに軽い衝撃を受ける。
「すげぇ!もう飲んじゃったの?一気で?」
「10杯は余裕。」
美里は今年の夏にハジメと同じく20歳になった。(美里が法律に違反していなければ。)酒を覚えて1年と経たずに、この飲みっぷりは脅威であった。あの美里がここまでとは…。ハジメの中に湧き上がる感嘆と、ほんの少しの敗北感。美里に遅れて2二口目でジョッキを空にした。それを見計らったかのように料理が運ばれる。
「私ね。」
焼鳥の串を手に取りながら美里はやや神妙な顔つきで話始めた。
「私、ずっとハジメちゃんとこうやって飲みたかったんだ。」
「ほぇ?」
まさかの発言をされてハジメは口の端から焼鳥のカケラをこぼしてしまった。
「ハジメちゃんさ、高校も一緒だったけどなんかその頃からあんまり話すことも減っちゃったよね。」
その通りだ。と心の中でつぶやくハジメ。高校生になってkら2人が疎遠になってしまった原因は、美里がハジメを避けたワケではない。むしろ逆で、ハジメの方から避け始めたことにある。
美里は中学生の頃まではあまり社交的ではなく、風貌も割と地味な方で、素材は良いのだが洗練はされていない。という印象だった。しかし美里はハジメに対しては集団の中にいる時とは違う、愛嬌のある振る舞いで、明るい笑顔を発散させていた。
そんな美里にハジメは幼少の頃から心底惚れ込んでいた。だが、高校に上がってから、劇的な変化が起きた。美里の外見はどんどん美しくなっていった。もともとの顔立ちは良いので、髪型や服装に気を使うようになった美里はたちまち注目を浴びるほどに変身した。
いわゆる高校デビューだ。それをキッカケに、美里は誰にも明るく振舞えるようになり。同棲異性、共に人気を得て、常に周りには取り巻きが耐えることがなかった。そうなってしまってからハジメにとって美里は自分の手に届かない高嶺の花の様な存在になってしまい、近寄り難くなる。
売れない頃から贔屓にしていたロックミュージシャンが突如売れ出してしまった時の様な、うれしい反面、もう自分だけのものではなくなってしまったという、消失感。そしてほんの少し、「美里に裏切られた。」という風に的外れな憎悪を抱いてしまった。
ハジメが美里から距離を置いてからも、何度か美里の方から接触してきたにも関わらず、ハジメはそっけなく対応して、さらに遠く長い距離感が生まれてしまった。しかし、完全に縁は切りたくないという本心があった。地元から遠く離れ、偏差値もハジメにとっては分不相応なR大学を美里が受験すると聞き、決死の思いで努力し、滑り込むように合格を掴み取り、入学し、今に至っている。
しかし美里との深い溝は一向に埋め立てることは出来ないでいた。
「まぁ、色々あってね…。」とハジメは濁した。
「私も、そう思っていたから、なんか別にやることが出来て忙しいのかな?って。」
「いや、そんなことは…そんなことはないよ。」
今、自分の素直な気持ちをそのまま真っ直ぐにぶつける度胸があれば、どんなにも楽になれるだろうか?このまま幼馴染みとして長く平坦な道を歩くのもの良い。だがハジメは越えたかった。幼馴染みとしての、友人としての一線を乗り越えたかった。
「俺もこうやって美里と飲めてうれしいよ。」
「ホント?」
またもや見計らったかのように、ビールの第二陣が運ばれてきた。
「やったね、今日はなんかいい日になりそう!」
美里がビールを受け取り、無邪気で、快活な笑顔をハジメに向ける。ハジメは心臓を握り締められるような気持ちになり、目の奥に熱を帯びた何かが湧いてきたのを感じた。
「俺も!」高まった感情をビールジョッキの衝突で表現する2人。今度はハジメも一気飲みでジョッキを空にする。
美里も負けじと、それに続いた。毎日この娘といたい。隣にいたい。俺にはその挑戦権がある。俺の中に強気で行動力のある別の人格がもしいるとしたら、出て来てくれ。その為に俺は眠りにつこう。酒に酔い、臆病な自分が寝てしまった時、現れてくれ。全てを任せる。
ハジメは瞬間的に悟った。この場を逃がしてはいけない。幼馴染みとしてのステータスを失ってでも、この場は攻め込むべきだと。しかしその勇気を振り絞るには酒の力に頼らざるを得なかった。ハジメは酔った自分に全てを託した。
ハジメは延々と長い砂利道を、リヤカーを引いて歩いている夢の途中で目を覚ました。
つい4日前に味わった二日酔いを再び味わうことになった。あれから…どうなったんだっけ?頭の中で小人がレスリングをしているようだ。ズキズキと痛む。
ハジメはまず自分が自宅アパートのベッドの上にいることを確認した。美里は、どうなったんだ。
辺りを見回してガラスの応接テーブルの上に一枚のメモが残されていることに気付く。
[今日は楽しかったよ。まさかハジメちゃんが酔うとあんなになるとは…起きたら連絡してね。気分悪かったら薬置いとくから飲んでクダサイ。そんじゃね!]
よく見るとメモ用紙の側には緑色の包装の胃薬と500mlペットボトルのミネラルウォーターが置いてある。このメモの様子ではまたいつも通り酔い潰れてしまったんだな…と一縷の期待も打ち砕かれ、少々残念な気持ちにもなったハジメだったが、昨晩の一見で美里が自分に対して(ベクトルは違うかもしれないが。)好意を持っていてくれているということが分かり、ちょっぴり幸せな気分に浸っていた。
午前6時。メモ用紙の右下の端に記されている11桁の番号。念願だった美里の携帯電話の番号が手元にある。[起きたら連絡してね。]とは書かれていたものの、こんな時間には掛けられない。礼は大学で直接会ってからにしよう。
ハジメは胃薬をミネラルウォーターで流し込み、同時にのどを潤した。そして何の気もなくテレビの電源を入れた。
それをBGMにハジメは美里の電話番号を自身の携帯電話のアドレス帳に登録する。番号を入力して、[神埼美]まで入力し終わった時、指が止まった。テレビから聞いてはならないワードが発せられた気がしたからだ。
『…小指が…』確か、『小指が』と聞こえた。
ハジメは全身の毛穴から汗と尿の中間物が噴出してくるような錯覚を感じた。この時、ハジメはやっとのことで思い出した。
自分が何故、昨晩あの土手を歩いていたのか。何故美里と偶然再会出来たのか。床に放り投げられていたコートの内ポケットを探るも、信じられないことに、無かった。あの忌々しいナイフと小指が見つからなかった。
もしかして…とハジメはベッドの下のスキマに右腕を突っ込む。そしてそこにあった手ごたえに、血の気が引いた。何かが確実に入っている黒いビニールがあったからだ。泣き出しそうになりながらも、ビニールの結び目を一気にほどく。
増えてる…。その中には3点、血の匂いのついた果物ナイフ。そして人間の指が2本。
『死亡推定時刻は昨晩深夜11時~12時頃とのことです。死体の遺棄されていた土手はその時間、人通りが少なく、目撃者もいないことで、捜査は難航するだろうとのことです。被害者の横島恵理さんは先日殺害された吉澤瞳さんと同じく、R大学に通っていました。それらを踏まえると、犯人はR大学にゆかりのある人物だと推測されています…』
また一人…死んでしまった。
■■■■Act5■■■■
瞳の葬儀も終え、肉体的な苦痛からは少し解放されつつあった。吉澤光一は最愛の妹を亡くし、今日までの4日間。警察の取り調べや、葬式の準備等に駆られ、疲労はピークに達していた。
そんな状態にも関わらず、光一は燃えていた。その情熱はキャンプファイヤーの様な力強さを帯びた炎ではなく、魔女狩りの火刑の様な醜悪な炎だった。
光一は犯人からと思われる無残な写真付きのメールは結局警察には届けなかった。警察に届ければ、犯人の行方を辿る有力な手掛かりになることは間違いない。
しかし、そんなことは百も承知。光一は犯人を警察に引き渡したくなかった。この手で捕まえ、そしてこの手で瞳が味わった以上の苦しみを与えたかった。
警察に捕まってしまえば犯人は10年も経たずして出所されるだろう。瞳のことなど道端に落っこちている雑巾を蹴り飛ばした。くらいにしか心にとどめず、後は悠々自適に暮らしていく。そんなことを想像すると、光一の怒りは留まる事を知らなかった。
何が何でも犯人に苦しみを与えなければならない。光一はまず、犯人から送られてきたメールを分析し、個人を特定できるかどうかを試みた。
が、送られたメールは携帯電話かららしく、その場合、持ち主を特定することは難しかった。警察の力を借りればそれも容易いが、それは自分の復讐計画を断念したその時だけにしたかった。
ひとまず光一はメールに添えられていた一文に着目した。[儀式はまだ終わらない。]この文章が、瞳だけで殺人が留まらないことを意味するのは容易に汲み取れる。
問題は次の標的が誰なのか?だ。殺人のターゲットを決定付けるルールが何かがあるハズ…。犯人は瞳の殺害を儀式と称している。生贄は闇雲に選ばない。あと一人、犠牲者が増えれば瞳との共通点を割り出すことができる…。
妹を殺された怒りが皮肉にも光一の心をある意味安定させる残酷な平常心を生み出し、人道に外れた発想もたやすく浮かべることが出来てしまった。そんな中、それとなく電源を付けっぱなしにしていたテレビから突如朗報が舞い込んできた。
『四日前にR大生の惨殺死体が発見されたR公園の近くである、S川に面した土手で、再びR大生が惨殺されました。被害者の名前は横島恵理さん19歳、今回も右手の小指が切断されています…』
遂に来た!光一の頭にはもはや、妹の仇を討つことのみが正義として成り立っている。妹と同じ目に遭ってしまった横島恵理に対して、「かわいそうに…」などという最低限の感情すら湧いてこなかった。妹の死が、光一を悪魔へと変えてしまった。
現在時刻は午前7時16分。S川の土手は光一もよく知っていた。自宅から歩いて20分程の場所だった。
はじき出されたように家を飛び出して事件の起きた場所へと走り出した。なんとしてでも警察が掴むより早く。なんらかの手掛かりを現場からおさえておきたかった。
全速力で走り、呼吸が苦しくなっていくことすら感じなかった。外は寒く、普段なら早朝ランニングを日課とする人間、もしくは犬の散歩をする人間ぐらいしか視界に入ってこないこのS川の土手にも、今日は大小様々なテレビ局の看板を背負った車両やパトカーがひしめき合っている。
その自動車の群れを取り巻く様に、20人程の野次馬が周囲の温度を上げている。部外者の介入を固く拒む黄色いテープがグルリとリングを作り、その真ん中に青いビニールシートで組み立てられた小屋の様なモノが出来ていた。光一は少しでも近くに寄って現場の状況を探ろうと野次馬達をかき分けた。
足を踏み入ることが出来るギリギリのところまで近付くも肝心の被害者の姿はやはり青く薄いビニールの膜にシャットアウトされ、確かめることが出来なかった。興奮した光一は思わず転びそうになり、[立入禁止]のプリントが施されたテープを引き裂いて、境界線の内側へと、足を踏み入れてしまった。
「コラァ!!何やってんだ!!」
当然、光一へ怒声が向けられた。後ろの方で何人かの野次馬がクスクスと光一の姿を見て笑っていた。この状況では無理かと諦めかけていた時、一人の男が光一の元へ近付いて来る。
「吉澤さんじゃないですか?」
光一は自分の元へ近付いてきたその男の名を知っていた。一条司。光一の事情聴取を担当していた刑事だ。
「一条さん?あ、…その節は…。」
予期せぬ再会に、歯切れの悪い返事で対応する光一。
「吉澤さん、こんな所で一体…。」
一条は途中まで言いかけて大体の察しがついたらしく、言葉を切った。妹を殺した犯人と同一の人間の仕業かもしれない事件が近くで起きたとすれば、何らかのつながりがあるとみて、興味を抱くのも無理はないと悟ったのだ。
「吉澤さんの協力をフイにしてしまい…申し訳がありません。我々としては情けない限りです。連続殺人の線が見えていたのにも関わらず、第2の犠牲者を出してしまった。」
「いえ、そんなことは…そんなことはありません。」
実は警察が喉から手が出るほどの情報を隠し持っていることなど、今の光一は口が裂けても言うことはできなかった。
「それでは、私は持ち場に戻りますので。何かあったらスグに連絡を下さい。名刺に書いてある番号でいいので。」
一条司は一礼を済ませると、コートを翻し、元の場所へと去って行った。光一はしばし茫然とし立ち尽くした後、来た時とは逆に野次馬の波をかき分けてその場を離れた。自分一人の力では到底犯人の足元にもたどり着けないのかもしれない、という諦めの念と、マスコミに自分の存在を見つけられてしまったら面倒だという不安が重なったので、スグにその場から去ろうとした。
何の手掛かりも得られないまま帰ることになろうとは、家を飛び出したその時は考えもしなかった。自分には犯人を突き止めることのできる第6感の様なモノが備わっていると勝手に思い込んでいた。負け犬の歩みで家路へと向かう光一だったが、ふと、いつもなら絶対に見逃すであろう一つの物体に目を奪われた。
その物体は土手に群生している何かは分からないが雑草の様な植物の根元に放置されていた。ゆっくりと近寄ると、その物体は一枚の白くて小さな紙キレが丸まったモノだった。手に取り広げてみるとそれは、レシートだった。そのレシートは大手居酒屋チェーン店のモノであると分かった。
生ビールや料理の品目が記載され、支払は1万5千円であることが読み取れるが、注目すべきは会計の時刻だった。昨日の日付の午後11時32分。瞳が殺された時刻は確か11時~12時の間だった。これは何かある。と感じた光一は、それをハンカチに包みポケットに忍ばせた。
復讐の女神は僕を見捨てなかった。僕にはまだ、資格がある。
再び青黒い闘志を燃え上がらせる光一。その顔には悪魔と形容するしかない程の邪悪な笑みが浮かびあがっていた。
■■■■Act6■■■■
ハジメには今、信じられない事が2点あった。一つは最初の事件からすでに5日も経っているのにも関わらず、例の果物ナイフと2本の小指を捨てることが出来ずに、未だにベッドの下に隠しているという事実。もう一つは程良く夜の深みが増した現在午後10時20分のアパートに、神崎美里がいるという状況。
「前にハジメちゃんを送った時はよく見てなかったけど…やっぱ散らかってるね。」
おもちゃ売り場にいる子供の様な無邪気な笑みで部屋を徘徊している美里。突然決定された彼女の来訪。部屋を片付ける余裕などなかった。不意打ちだった。
昨日、本来なら大学へ顔を出すつもりが、例の黒いビニール袋を見つけてしまい、ショックを受け、美里に連絡することも一切忘れてしまっていた。そして今日、大学で美里はハジメの友人である近藤から、ここ数日休んでいることを知り、つい今から5分程前に、アポイントメントもなしに美里がアパートに乗り込んできたのだった。
「いや、いつもならもっとキレイなんだ…はは、いやちょっと具合が悪くてね…。」
「ひょっとして昨日も具合悪かったの?」
「いやいや、全然!そんなことないって!時々あるんだ、こう、ゲリラ的に風邪ひいちゃう時が。よくあることさ…。」
まさか美里が自分から我が家に足を運んでくるとは夢にも思わなかった。だけど素直に喜べるハズがない。
何故なら今、自分が腰をおろしているベッドの真下には、絶対に触れられてはいけない[バクダン]があるのだから。
感激と不安が同居した状況に悩まされるハジメ。吊り橋の上で三ツ星レストランのフルコースを食べているようなものだった。
「とりあえず、この前はありがとう、ここまで送ってくれたみたいで…。」ハジメはとにかく言いそびれたお礼を済ますことで会話の流れを持っていこうとする。
「いいよいいよ、でも大変だったんだよハジメちゃん酔ったら手に負えないんだから。」
本棚に並んでいるマンガ本やCDケースを色々と手に取りながらワザと皮肉った言葉遣いで美里は言う。
「なんか、変なこと言ってた?」ハジメにはもしかしたら酔った勢いでナイフと小指に関する事を口走ってしまったのではないかという不安があった。
「言ってたよー、何か急に、俺は円周率を50桁まで暗唱出来るんだぜーってね。」
またそれか…。ハジメは安心と同時に、酔うたびに同じパターンで暴走してしまう自分がだんだんと痛々しく感じた。
「ハイ。」と美里は右手に下げていたビニール袋からペットボトルを2本取り出した。
「飲んで、私のオゴリ!」
ボトルを手に取るとそれは温かい緑茶だった。ハジメは美里の気遣いに感動すら覚えた。
「悪いね、いただきます。」
ゆっくりと緑茶を喉に流し込むハジメ。
「そういえば、居酒屋の代金ってどうしたんだっけ?」
ハジメは酔い潰れて目を覚ました昨日の朝に、一応財布の中身をチェックしていた。しかし事前にいくら持っていたかを見ていなかったので、金額が減っているのか、そのままなのかが分からないでいた。もしかしたら美里に全部払わせてしまったかもしれない。
「ご心配なく、ハジメちゃんの財布から割り勘の分、しっかりもらっておきましたよ。」
その美里の言葉で安心したハジメ。家まで送ってもらって酒代まで出させたとなったら情けないにも程がある。しかし人の財布から勝手に金を抜き取るとは大胆なことをする…。
「でも確かハジメちゃん、レシートを自分で持ってたじゃない。忘れないようにって。」
「え?ホント?」とハジメは財布の中や、その時着ていたコートのポケットの中を捜して見るも見つからなかった。
「無いな~…、失くしちゃったみたい。」
「ダメじゃん。」
夜中だというのに2人とも笑いだしてしまった。美里の一言でハジメの心にピンと張りつめた緊張感が一気にほどかれ、吹き出し、美里もそれにつられて笑い出してしまった。
「でも昨日はホントに面白かった。小学生の頃に戻ったみたいで。」
「俺もだよ、あの時土手で散歩してホント良かったと思ってる。」
「私も!…でもね…。」
つい先ほどまで陽気に会話を続けていた美里の顔に突然影がさし込んでしまった。
「あの時、私、ホントはかなり落ち込んでたの。」
「何かあったの?」
ハジメは美里の落ち込む理由なんて、ハンバーガーショップでセットメニューを頼んだらポテトが付いていたかった。程度の悩みだろうと、軽い気持ちでその理由を尋ねた。
「ハジメちゃんももちろん知っていると思うけど、…あったじゃん、殺人事件。」
ヤバイ。ハジメは足先の血液が脳みそに上昇していくのを感じた。
「あの殺人事件で死んじゃった吉澤瞳って娘、ちょっとした知り合いだったんだ。」
この話題はアウトだ!ハジメは必死で平静を保とうとするも、視線は泳ぎまくり、息づかいは荒れ放題、あからさまに動揺していた。
「へ、へぇ…そうだったんだ。」
もう空になっているペットボトルを口に近付けては戻し、近付けては戻しを繰り返しつつも、相槌を打つハジメ。
「特別仲が良かったってワケじゃなかったけど、友達の友達って感じでね、何度か一緒に遊んだことがあるんだ…。それでね、こんなこと言うべきかどうかわからないけど…。」
「それでね」ってなんだ?言うべきか迷うことってなんだ?ハジメは恐ろしくとも、そのことを聞かなければならないと感じた。
「い…言ってくれ。」
「うん、じゃあ言うね。瞳ちゃん…。あの娘。ハジメちゃんの事、好きだったんだよ。」
美里の言葉にハジメは軽く目眩を感じた。ここにきて、初めて生まれてしまった。吉澤瞳と自分とをわずかでも繋ぐ接点が。ハジメは吉澤瞳なんて娘は名前すら知らなかったし、自分とは全くの無関係の人間だと信じていた。そうすれば、警察の捜査が自分に周ってくることも無いだろうと思えるからだ。
しかし、ここに来て、幼馴染みの口から自分と瞳を線でつなぐフローチャートの構造を告知されてしまったのだ。おそらく瞳は美里以外にも周りの友人にそのことを公言していただろう。
「俺のことを…?なんで?」
3秒程の間が空き、ようやくのことで口を開くことが出来たハジメ。
「何度か大学の食堂で見かけて気になっていたんだって。でもあの娘、なかなか自分から行動に移せなくって…それで何回か私に相談しに来たことがあるの。」
そんなことが…女の方から好意を持たれるなんて…案外俺ってモテるんだな…。などと一瞬事件のことをすっかりと忘れ、ハジメは自画自賛に浸ってしまった。
「ハジメちゃん…本当にゴメン、今私が言ったこと、秘密にして…お願いだから。」
故人とはいえ、他人の秘密をバラしてしまった様なモノだからやっぱり気が引けたのだろう。美里は昔から、そうだった。一途で、まじめな娘だ、今も変わらない。そんな美里の事を思うと、ハジメはまた胸が締め付けられるように痛み出した。美里の知り合いを殺してしまったかもしれないのだ。
「分かった、約束する。」
「じゃあ…しよう…久々に。」
「え?しよう?何を?」
「昔よくやったじゃん。指切り。」
「ああ…指切りね…分かった。」
ハジメは思い出した。そういえば自分が小学生くらいの頃、何か美里と約束事があれば、決まって指切りの儀式を行っていたことを。
「なつかしいよね!嘘ついたら小指一本ちょ~ん切るってヤツ。」
その瞬間ハジメは心臓に直接膝蹴りをお見舞いされたような衝撃を受けた。
『小指一本ちょん切る?』
「美里!」
思わず怒鳴るような声で詰め寄るハジメ。
「えっ?どうしたの?」
「その歌…なんなんだ?指切りって針千本だろ?」
「それは…だって、昔ハジメちゃんが、もし針千本飲むことになったら気持ち悪いって言って…今の言葉に変えたんじゃない…。」
偶然とは思えなかった。今回の事件で切断された死体の小指。そしてすっかりと忘れていたハズの指切りの替え歌。美里の言葉でハッキリと思い出した。確かに自分は針千本を飲むという行為を想像して気分が悪くなったことをキッカケに今の歌詞に変えたのだ。
「ハジメちゃん?どうしたの?顔色悪いよ…?」
ハジメは急に立ちくらみを感じた。美里が何かを喋っているが、その声がだんだんと遠のいて行って、底なしの沼に飲み込まれていくような、自分がさっきまでいた世界がどんどん頭上に遠のいていくような奇妙な感覚に襲われ、遂には意識を失ってしまった。
■■■■Act7■■■■
「あー、多分あのお客さんかな?酔っぱらって円周率を50桁まで言えるぞっ!って突っ掛れたんでよく覚えていますよ。」
「その人の風貌について説明できますか?」
「そーっすねー…。歳は若かったですよ。20歳になったばっかりって感じですね。髪は短めで、前髪を立たせている感じですね。顔はやや日焼けした感じでしたね。」
「服装は?」
「服は…グレーっぽいセーターに茶色のチノパンって感じでしたねぇ。そうだ!出る時は黒いコートを着ていました。靴は見ていなかったんで分かりませんでしたけど。」
「そうですか…他に何か覚えていることはありますか?」
「そーっすねー…。一緒に同じ歳くらいの女の子がいましたね~。」
「女の子?」
「ハイ。タレントかと思うほど可愛い感じの娘でね、仕事中じゃなかったら番号聞いてたんですけどね~。」
「その娘についても覚えていることを教えて下さい。」
吉澤光一は今朝拾ったレシートを頼りに、居酒屋チェーン店N暮屋にて聞き込みを行っていた。しかも、偽の警察手帳を作り上げ、私服警官のフリをして。無論犯罪行為だ。しかし光一には罪を犯してまで情報を集める理由がある。もう少し、もう少しで瞳を殺した犯人の元まで辿り着ける。
「…とまぁこんなところでしょうか?」
「ご協力ありがとうございました。」
「で、あの…刑事さん。その男は何か犯罪に関わっているという事ですか?」
「今は何とも言えませんが、重要な証人なんです。もし再びその男か女が現れたら、この名刺の番号に連絡をお願いします。」
光一はこの為に名刺まで自分で作っていた。一条司刑事の名刺を元に作り上げたので、怪しまれることは無いだろうと踏んだ。
聞き込みを終え、家路へと向かう。昨日、殺人現場として盛り上がっていた例の土手を通るも、今はその場も消沈としていて何人かの警察の姿が点々と確認できるだけだった。
世間はもう凶悪な所業により、何ら罪のない一人の女子大生が命を落としたことなど、記憶の片スミに追いやって、毎日を楽しんでいることだろう。風化されてしまったのだ。
それもいいだろう。世間なんてそんなものだ。しかし、光一にはこの事件の記憶を風化させることは、何十年経っても不可能であった。
ただ一つ、心に引っ掛った針金を取り除くことは、犯人にこの手で制裁を与えること他は無かった。これは光一が自身の人生にけじめをつけるという個人的な問題であるのと同時に世間に思い知らせたいという思いもあった。
鬼畜には必ずそれ相応の制裁が下るという事を。それをやり遂げる人間が必ずいるという事を。闘志を燃やした光一が自宅の10m手前まで辿り着くと、一人の見覚えのある女性が玄関の前に座り込んで誰かを待っているようだった。
確か、あの娘は瞳の通夜で焼香に並んでいた娘だ。その時と同じ特徴的な黒いアンダーリムのメガネをしている。その女性の5m手前まで近付いた時、その娘の方から光一は声を掛けられた。
「光一さんですね?」
と、半分しゃっくりをしながら喋るような声で光一に呼びかける。
「そうだけど、君は?確か妹の通夜に来てくれたよね?」
「ハイ、私は瞳の友人で、佐藤って言います。」
「佐藤さん…そう、通夜で焼香を上げてくれてありがとう。妹も喜んでいたと思うよ。」
「いえ、そんなことは…。」
佐藤はどう返答して良いか分からないようで、そのまま顔を伏せて黙ってしまった。
「ところで、どうして家の前に?」
光一の言葉に反応し、素早く顔を上げ、神妙な表情で口を開く佐藤。
「実は、瞳の遺品を持って来たんです。」
彼女の言葉に光一は非常に深い興味を抱いた。事件の関連性にあるなしに関わらず、瞳が生前に残した物とあれば、大金を出してでも自分の手元に置いておきたかった。佐藤は肩に下げていたバッグの中から一冊の手帳の様な物を取り出した。
その手帳の表紙には宇宙服を着込んだ猫のキャラクターの立体的なシールがスキマなくビッチリと張り乱されていた。瞳が大好きだったキャラクターのシールだ、間違いなくこれは瞳の物だった。光一は確信する。
「どうして君がこれを?」
「前に瞳が私の家に遊びに来た時に忘れていったんです。今度会った時に返そうと思っていたんですけど…あんなことになっちゃって…。」
今にも泣き出してしまうような震えた声だった。
「そうか…わざわざ持って来てくれてありがとう。」
そう言って光一はパラパラと手帳をめくって見る。その手帳には今後のスケジュールやその日にあったエピソードを日記のように記していたりと、雑記の用途として使われていたようだ。
中には友達と撮った写真のシールが貼られて、鮮やかな雰囲気を醸し出していた。それらを眺めているうちに、生きていた瞳との思い出が再びフラッシュバックとして現れ、涙腺を刺激されてしまった。
視界が若干ぼやけながらも、ページをめくる手が止まらない。こんな形で、瞳の大きかった存在感を知りたくは無かった。しかし、ある1ページに挟まれていた写真が光一の目に飛び込み、妹の死を悲しむ兄の顔は一変する。
「これは…誰の写真だ?」
光一は手帳に挟まれていた写真を手に取り、佐藤の顔面にかざした。
「それは…あの、瞳が好きだった人の…。」
「付き合っていたのか?」
「いえ!付き合ってはいなかったんです…片思いで話すらしたことなかったと…。」
佐藤は突如変貌した光一の様子に、恐怖すら感じていた。
「そうか、名前は?」
「え?…えーと、確か松山センパイって…下の名前は…確か、ハジメです…。」
しっかりと答えなければ殺されてしまうのではないか?と思うほどの光一の迫力に、佐藤は圧倒される。
「…あ!確かその松山センパイ…同じR大に通ってるって言ってました…。」
「R大の…松山ハジメか!」
光一の脳内に、とうとう犯人のシッポを掴んだ!という喜びの感情と愛する妹の心を惑わせた気に食わん男への怒りの感情が二重の螺旋となって渦巻いた。
「あの…光一さん…?」
写真を凝視し、眉間にシワを寄せて黙っている光一に、恐る恐る佐藤は声を掛けた。その言葉にやっとのことで我に返った光一。
「あぁ…ごめん、つい妹の事を思い出しちゃってね…。」
光一の顔は妹思いの優しい兄貴の表情に戻っていた。
「それじゃあ、私はこれで…。」
軽く一礼し、逃げるように去って行った佐藤だったが、光一の頭にはスデに佐藤の存在など霧のようにキレイに消えてしまった。
王手だ。瞳の手帳に挟まっていた写真には一人の男が楽しそうに友人らしき人物と歩いている様子が映し出されていた。黒いコートに茶色のチノパン。髪は前髪を立たせていて肌は浅黒く日焼けしている。
居酒屋で聞いた男の特徴とガッチリと一致していた。この男に間違いない。しかし光一はこの写真の男、松山が犯人だと決めつけてはいるが、その証拠は何一つ無いのだ。第2の事件現場の近くにあった居酒屋に、事件発生時刻直前までいた可能性がある。というだけの事しか分かっていない。
しかし光一は、一発勝負のある「賭け」を思いついていた。そいつこそが犯人だと一発で分かる秘策があった。
それには、犯人と思われる人物を目の前にして行う必要があった。しかもそれは一度失敗すれば、2度と実行することが出来なくなるかもしれない欠点がある。しかし光一は復讐者にのみ備えられる、第6感を信じていた。松山こそが最有力の殺人者候補だと、写真を見た瞬間に、レーダーの様に感じ取ったのだった。
■■■■Act8■■■■
自分の脳みそを何者かに盗まれ、それをトロッコで追いかける夢の途中で松山ハジメは目を覚ました。
おぼつかない意識の中、ぼんやりと現れた目の前の光景、意識を失った時と同じく、場所は自分の部屋だという事は分かった。
…がその2秒後、とてつもない戦慄を覚えた。
それは「赤色」だった。郵便ポストのように哀愁を漂わせる赤ではなく、よく熟成させた赤ワインの様な、一種残酷性を帯びた「紅」だった。
その紅が点々と床に染みを作っている。紛れもなく、血痕だ。タピオカの様な粒の汗が湧き出すのを感じ、その直後、目の前の鮮血がどうでもよくなるほどの悪寒を右手の触覚から感じ取った。
何かを握っている。転んですりむいた傷を見るように、恐る恐る右手に視線を向けた。案の定だった。右手が握っていたのは紛れもなく、ベッドの下に隠しておいたあの果物ナイフだった。
オマケにその刃には床にまき散らかされた紅い血液がたっぷりと付着している。
「まさか… や っ て し ま っ た のか…!?」
ハジメは深く、大きく息を吸い込んだ。その次にやることはただ一つ。
「ミ サ ト ォォォォーーー!!」
ハジメは叫んだ。好きだった、愛していた無二の幼馴染みの名を場所、時間など念頭に無く叫んだ!床の血痕を辿る。ラズベリーソースの様な点々を道標に辿る。
点々が途切れた場所はトイレだった。ノブをひねると、ドアの向こうから何かが動く音が聴こえた。そこにいる何かは美里に間違いなかった。
「美里!頼む!開けてくれ!」
必死に説得しながらノブを何度も回すも、一向にドアの錠が下りることは無く、美里の嗚咽が痛々しく聞こえてくるだけだった。
床の血痕と血まみれのナイフ、美里は確実に体のどこかに傷を負っているハズ、ひょっとしたらかなりの深手で出血多量死等も考えられる。
手当をしなければならない。かと言って救急車を呼ぶワケにもいかない、自分が逮捕されてしまうのは明らかだった。
こんな緊急事態にも関わらず、美里の安全を第一に考えられず、保身だけはしっかりと冷静に念頭にあることにハジメは腹を立てた。
ここで全てをあきらめて美里を救う勇気が無い自分自身に腹を立てた。何とか美里を安心させる方法は無いかと考えたハジメは、以前、何かの役に立つかも、と100円ショップで買い込んだAV機器を束ねる結束バンドを引っ張り出した。
そしてハジメはその結束バンドで自らの両足を縛り付け、さらに両腕も動かせなくするように縛り付けた。
「美里!ホントに悪かった!…今俺はトイレのドアから2m以上は離れている。ドアの隙間からのぞいて見てくれ!鍵を掛けてもそのドアは数mm隙間ができるんだ…。」
ひどく無様な光景だった。美里を助けたい。だけど自分も助かりたい。二択を責められ、どちらもにも決めることが出来ないワガママな精神が、この醜い行動に反映されていた。
「美里!俺は今、自分で手足を縛った!だから…お願いだ…そこから出て来てくれ…。」
もはや目も当てられない状況だった。大の大人が自分で手足を縛り付け、泣きながら懇願している。だがハジメには、そうするしか方法が見つからなかったのだ。冷静に考えることが出来れば、もっといい解決策があったハズ。でも今のハジメにはそれが限界だった。
10秒程の静寂があった。ドアからかすかに軋む音が聴こえ、そしてゆっくりと、慎重にノブの錠を開ける金属音が部屋に響き、堅く、重く閉ざされていたトイレのドアが開かれ、美里の姿が現れた。
「美里!?大丈夫か!?」
美里の顔は青白く冷め、涙で瞼が腫れ上がっている。そして何よりハジメが視線を奪われたモノは真っ赤に染まった美里の右肩だった。
「ハジメちゃん…。」
「早く手当を、消毒しよう!」
「ハジメちゃん…私は…私は大丈夫…。だけど…。」
「だけど…?」
大丈夫だという美里の言葉に若干の救いを覚えたハジメだが、美里の言葉の先に言いようのない不安を抱いた。
「ハジメちゃん…いるよ…もう一人…やっぱりいるよ…。」
「もう一人?」
「ハジメちゃんの中に、もう一人のハジメちゃん…。」
「それって…?」
「二重人格…。」
■■■■Act9■■■■
美里のケガは出血量こそ多かったものの、傷は思ったよりも浅く、消毒と包帯での処置で間に合った。多少の落ち着きを取り戻した後、美里はハジメが意識を失ってから、自分に襲いかかるまでの経緯を説明した。
「指切りしようって言った後…ハジメちゃんイキナリ倒れちゃって…必死に呼び掛けた…。だけど全然反応がなかった…。」
「それで…?」
ハジメは依然、両手・両足を束縛されたままだ。
「それで…怖くなったから、救急車を呼ぼうとして…電話を掛けようとしたら…。」
美里が再び嗚咽を漏らし始めた。
「ハジメちゃんが…急に立ち上がって…ナイフを持ってた…。私が話しかけても…なにも、何も言わなくて…そしたら…そしたらイキナリ…。」
「…切りかかった…。俺が…。」
美里はハジメの言葉に黙ってうなずいた。
「ごめん…。」
ハジメの言葉に反応することなく、間を置いて美里が話しを続ける。
「だから…ごめん、ハジメちゃん…私、ハジメちゃんを思い切り押し飛ばした…そしたらハジメちゃん、転んで頭をぶつけたみたいで、思わずトイレに逃げ込んだの…。それから1時間ぐらいトイレの中にいて…怖くて、動けなかった…。」
1時間も…。心の許せる人間に、突如牙を剥かれ、ケガを負わされ、逃げ場の無い密室に閉じ込むなんて…ハジメは悔しさ、情けなさ、申し訳なさ、恥ずかしさ等、様々な負の感情を身に纏い、心が押し潰されそうになった。それも全て…全てがもう一人の自分。ハジメの別人格が原因なのだ。
「美里…ホントに俺、二重人格なのかな…。」
「…信じられないけど…それ以外に説明出来ないよ…心理学の講義で習った解離性同一性障害の似てる気がするの。」
美里の説明によれば、解離性同一性障害、つまり多重人格という症例は現実に何件もあり、例えばAの人格が表れている時はBの人格は眠ってしまうように意識が無くなってしまい、再びBの人格が目を覚ました時には、Aの人格が行動していた記憶は一切消滅されてしまうというように、まるで1つの肉体に2つの魂が宿るような状況に陥るのだと言う。
「そういえば俺、親から聞いたことがある…小さい頃、よく動物の死骸を集めるクセがあったらしい…俺は覚えていないけど…。」
「ひょっとしたら…そのハジメちゃんのもう一人の人格が今になって…。」
もはや確信的だった。ハジメの気が付かないうちにナイフや小指が隠されていたことや、美里がケガを負ったことなど、二重人格であるという前提であれば、全て辻褄が合う。
「…美里。」
「なに?」
「…美里、実はさ…俺。」
ハジメは決意をした。腹をくくった。
「殺しちゃったかもしれない、人を…。」
遠くの方で犬が吠えるのがハッキリと分かった。今、2人の間に、静寂よりも静かで、空っぽな空気が漂っていた。
■■■■Act10■■■■
吉澤光一はR大学で経済学の講師をしていた。R大生の名簿データを不正に入手すること。それは簡単に行うことが出来た。
佐藤から授かった写真。妹が思いを寄せた男の顔と名簿データに添付された人物画像を見比べ、定め、凶悪犯を探し出す。
「松山ハジメ…。」
画面上にディスプレイされた一人の男の顔。光一の瞳孔が大きく開き、全身が硬直する。
怒りと共に奇妙な喜びとも言える興奮が光一の全身を包み込む。名簿の写真と手元にある写真の顔が見事に一致していた。
「現住所は…近い!こんな近くにいたのか。」
犯人と思われる人物の名前、顔、居所。全てが分かった。光一は情報を一瞬で頭に叩き込み、パソコンの電源を落とした。モニターの光源も消え、部屋全体が漆黒に包まれた。
「瞳…もうすぐ終わるよ…力を貸してくれ…。」
光一は妹の形見の手帳をしっかりと握りしめて、上着の内ポケットに忍ばせた。その時、軽やかな機械音が闇の中に響き渡った。
『こんな時間に…?』
その音は携帯電話のメール受信を知らせるメロディだった。光一は一つの期待の中、受信されたメールを開き、確認し、思わず笑みがこぼれる。
「松山ハジメ…待っていろ、復讐の時間だ。」
ただ一言、たった一言の文章がメールに添えられていた。
「今宵、儀式は完成する。」
■■■■Act11■■■■
目覚まし時計の針の音、遠くどこかで聞こえる自動車の走行音、美里のすすり泣く声、ハジメが鼻をすする音。それらの音が永遠とも思われる時間がアパートの一室を支配していた。
告白した。
ハジメは美里に全てを打ち明けていた。
ハジメの中のもう一人の人格が、2人の女性の命を奪い、小指を切り落とし、それを今なお、所持していることを。
2人はお互いに背を合わせながら、語った。
「こんなのって…こんなのってないよ。」
「そうだな…。」
「ハジメちゃん。私ね、もっとハジメちゃんと色々したかったんだよ…。いったん距離が離れて、でもまた近づけて…。運命かなって思えた。」
「運命?」
「ハジメちゃんは、どう思っているか分からない、でも私にとってハジメちゃんはとっても大きな…優しくてあったかい…そんな存在だった。」
美里の柔らかな手がハジメの拘束された拳に触れる。
「ハジメちゃん、覚えてる?」
「何を?」
美里の体温を感じ、同様を隠しきれないハジメ。
「私がさ…小5の時、男子に暗い事をからかわれて、泣きながら家まで歩いてた時、ハジメちゃんが言った言葉。」
「なんて言ったっけ?」
「美里は泣いてちゃダメだよ、俺も泣きたくなっちゃう。って。」
ハジメは全身が沸騰するような感覚に襲われた。小学生の時に書いた作文を、たまたま発見した時のような、胸がくすぐったくなるような気分だった。
「俺がそんなことを?」
「私は、今もハッキリと覚えてるよ。その時のハジメちゃんの顔。悲しそうな…。でも楽しそうな顔。」
「俺は忘れちゃったよ。」
「でも私にとっては、その一言でどんなに救われたか分からない。私の為に悲しんでくれる人がいる。それだけで、私は笑顔を失わずにすんだ。」
「美里…。」
「ハジメちゃん…大好きだよ。昔も、今も変わらない。」
美里の言葉が、気持ちが、想いが、ハジメの全身を駆け回った。そしてそれを頭で理解した時。泣いた。ハジメの涙は止まらなかった。
「俺も、俺もずっと好きだった。美里のことが、大好きだった。今も、この瞬間も…。」
後ろ手に縛られたハジメの背中に美里は埋めた。いっぱいに溢れる涙に濡れたその顔を。
「ハジメちゃん。 ありがとう。」
消えてしまいそうな美里の声。その声をキッカケに、ハジメは心を決めた。
「美里、ごめんな…。俺、自首するわ…。」
一番初めにこうしておけばよかった、ナイフと小指を見つけたその瞬間に。そうすれば、今、ここまでにも重い悲しみを背負い、背負わせる事は無かった。
「ハジメちゃん…ハジメちゃん。ゴメンね…。」
「美里…なんで美里が謝るんだよ…。」
「止めたい…自首するのなんて、ホントは止めたい…けど…止めちゃ…止めちゃいけないんだよね…。」
「美里、ゴメン。ゴメン!」
「悪いのはハジメちゃんじゃないよ!」
より強く、厚く、美里はハジメの背中を濡らした。それに対して、ゴメンと謝ることしか出来ない自分自身にハジメは憤りを感じた。すると美里はハジメの背中からそっと離れ、テーブルの上にあったハサミを手に取り、ハジメの両手両足を動けなくしていた結束バンドを一つずつ断ち切った。
「駄目だ!美里!またもう一人の俺が出てきたら…。」
振り向きながらしゃべるハジメだったが、その瞬間、生温かい、柔らかな…そして心地良い香りを口の中に感じ取った。美里の顔が目の前にあった。
5秒が経った。ハジメにとって人生最長の5秒が過ぎ、涙でぼやけた視界の奥で美里の声を聞いた。
「明日の朝…一緒に行こう…。警察のところに…明日の朝だよ。」
「美里………………ありがとう。」
■■■■Act12■■■■
自動車の通り抜ける音が、静寂な空気を振動させ、喧騒が始まる予兆を醸し出していた。
午前5時30分。ハジメと美里は、2人でいられる1分1秒をしっかりと噛みしめ、咀嚼し、味わいながら例の事件があった、いや、ハジメが起こした事件現場に近い土手の上を歩いていた。ハジメは朝起きたその時間にまっすぐ警察署に向かおうと考えていたが、結局のところ眠ることなど出来なかった。
自ら犯行を認め、その報いを受けに行くことなど、怖いに決まっていた。恐ろしいに決まっていた。その緊張に加えさらに一つ、再びもう一人の人格が現れてしまうのではないかという不安。睡眠などできようがない。
仕方がないので2人で散歩をすることに決めた。突かれる様な凍てつく空気の中だったが、左手にある美里の温かさをより一層強く感じる事ができ、ハジメの気持ちは少し和らいでいた。
「ここで、私たち会ったんだよね?」
「ああ、この辺りだったよな。」
3日前にハジメはナイフと小指を棄てようと挙動不審中、美里と偶然の再会を果たしていた。この事件を起こさなければ、もしかしたらこうやって美里と2人で並んで歩くことなど永遠に無かったかもしれない。
だけど、その為に負ってしまったリスクはとてつもなく巨大過ぎる。こんな罪も負わず、美里とも一緒にいられたら、それ以上に幸福なことなんてないのに…。ハジメの目に映るすべての景色は脳内に記憶することなく、フェードアウトされ、夢の中を歩いているような気持ちになっていた。それほどに精神衰弱していた。
「ハジメちゃん、ちょっとあそこで休もうよ?」
美里は高架下の静かな、人気の無い空間を指差した。ハジメの張りつめた空気を察したのかもしれない。高架下の湿った地面の上にぼんやりと川の流れを見つめるハジメ。
これから待ち受ける運命が、徐々に現実味を帯びて胸の高鳴りが抑えられなくなっていた。しばし無言で立ち尽くしていると、ハジメは腰の辺りに突如の振動を感じた。携帯電話だった。ハジメの携帯電話が振動していた。こんな時間に電話か?何か不吉な物を感じ取りながら、ハジメは携帯電話の画面をおそるおそる確認する。
[Eメール1件]メール?差出人のメールアドレスにハジメは心当たりがない。
「どうしたの?」
ハジメの動揺が美里に伝わった。
「メールだ…。誰だろう?」それが不幸を呼ぶものなのか、何の変哲もないものなのか?全く予想できないまま、ハジメはメールの内容を確認する。
[後ろを見ろ]
一文、たった一行の文章だけが添えられていた。誰が何の為に送ってきたのか分からない。しかしハジメはそれを目にした瞬間、条件反射的に思わず後ろを振り向いてしまった。
「ようやく会えたな。」
そこには男がいた。身長は180cmはありそうな体育会系の体格を持った1人の男がいた。吉澤光一と松山ハジメ。殺人鬼と復讐者の初めての接触だった。
「松山ハジメだな?なぜ今振り向いた?」
三人が固まった。美里はハジメが受け取ったメールの内容を見ていないが、R大学で講師をしている吉澤光一がハジメによって殺された吉澤瞳の兄だということは知っていた、なので、今、この状況がいかに血みどろな可能性を秘めているかは瞬時に理解できた。
「なぜ今、僕に妹のむごたらしい写真を送ってきたアドレスにメールを送ったら君が振り向いたんだ?」
「どういうことですか?」
ハジメは光一の言っていることがよく分からなかったが、大体の予想はついた。何を思ったのかハジメのもう一人の殺人鬼としての人格が、わざわざ殺した人間の写真を自分の携帯電話で光一の元に送っていたという事だ。
「しらばっくれても無駄だ!何故!お前が!振り向いたか!」
「たまたま振り向いただけです!」
美里がフォローするも、光一の耳には入らない。
「お前が!瞳を殺した張本人だからだろう!」
「ち…違う!」
「なら、お前の携帯を見せろ。」
万事休す。腹をくくったハジメは光一に全てを白状しようとしたその時、横目で素早く動く物体を認識し、次の瞬間に信じられない光景を目の当たりにした。光一の体が吹っ飛んでいた。渾身の力で体当たりし、180cmの体を地面に叩きつけた美里の姿だった。
「逃げて!」
ハジメは無言で回れ右し、走った。とてつもなく情けない行動だった。幼馴染みの小柄な女性を楯にして逃走を図った。今、ハジメに理性や道徳は残っていなかった。ただ一つ、吉澤光一、この男からは離れなくてはならない、その一心だった。
「ま つ や ま ァァァァァーーー!!」
狂気に満ちた光一の絶叫が後方より近付いてくる。愛情の類など一切感じ取れない憎悪の咆哮だった。とにかく全速で、全力で掛け逃げるハジメ。疲れを感じさせない疾走だったが、それも長続きはしなかった。突然、地面がハジメの顔面に突っ込んできた。強い衝撃が全身を襲った。地面の窪みにつまづいて転んでしまった。
「くるなっ!」
ハジメは倒れながらも体の向きを変え、ちょうど尻もちをついた形になり、目の前に立ちはだかる光一を見上げた。
「松山、おめぇはこれで終わりだ!川に流れるゴミになるんだ!」
光一は厚手のダウンジャケットの内側に手を差し込み、新聞紙に包まれた25cm程の長さの物体を取り出した。新聞紙にパッケージされた物体が何なのかは容易に想像が出来た。それは包丁だった。
「すみませんでした!自首します!やめて!」
ただひたすらに、自分の命が可愛かった。ハジメは自分で自分が何を喋っているのか分からなくなる程に混乱していた。光一は新聞紙で作ったサヤを投げ捨て、鈍く光る物体を露わにする。
「やめて!ホント、お願いだから…!」
光一は包丁を逆手に持ち、振りかぶった。これまでか…全てをあきらめかけたその瞬間。
「やめてぇぇぇ!」
美里が光一の振りかぶった右手にしがみついた。しかし悲しいことに体格の差。美里は難なく振りほどかれ、地面に叩きつけられ鮮血が飛び散った。ハジメの体が震えた。美里は光一に振りほどかれた際、包丁の斬撃を受けてしまった。
「きさまぁぁぁぁぁぁ!」
ハジメの中で、何かが燃え上がった。胃液が沸騰するような感覚が湧きあがった。
気が付いたらハジメの右拳は光一の顎を貫いていた。光一の右手から血のついた包丁がこぼれ落ち、間髪いれずハジメはその包丁を拾い上げ、両手に握りしめ、そのまま光一の体目掛けて突っ込んだ。
遠くでスズメの鳴き声が聞こえた。辺りは一気に静寂に包まれた。
■■■■Act13■■■■
『まさかの結末を迎えました。6日目に起きたR大生連続殺人事件の犯人と思われる人物が、本日早朝、殺された吉澤瞳さんの兄である吉澤光一さんを刺殺したところをR県警により現行逮捕されました。犯行に及んだ人物はなんと同じR大学の生徒であり、未成年です。県警は、これから取り調べを行い、先2件の殺人との関連を調べていく方針とのことです。…なお………………………………』
「あなたの取り調べを担当する事になった一条だ。まず、最初に君には黙秘権があることを伝えておく。言いたくない事があれば喋らなくてもいいからな。」
「はい。」
「単刀直入にまずは質問だ。君は2件の殺人。吉澤と横島の件に関わっているのか?」
「はい、両方とも自分がやりました。」
「本当か?誰かを庇っているんじゃないのか?」
「いいえ、自分がやりました。」
「では順を追って事件についての質問をするから、それに答えなさい、まずは改めて、名前を言ってくれ。」
「神崎美里です。」
■■■■Act14■■■■
「一条さん、神崎はどんな具合でしょうか?」
一条の直属の部下である河本が、休憩室で缶コーヒーをすする上司の元へと歩み寄る。
「ああ、怖いぐらいに落ち着いているよ。こっちの質問にテキパキと答えてくれる。」
「あっちは大変らしいですね…。」
「あぁ…松山ハジメの方か…。ひどく取り乱しているみたいだな、やっぱりこういう時は女の方がキモが据わっている。」
今朝、午前5時半頃に突然、一条司の携帯電話に一件の着信があった。その送り主は、殺された吉澤瞳の兄、吉澤光一からだった。
その着信に応答すると、スピーカーから誰かが大きな声で会話しているのが聞こえた。1人は光一。もう一人は誰かは知らないが男の声。それと女の声も聞こえた。
こちらからもしもし?と声を掛けても返事がない。瞬間的に一条司は危険を感じ取った。スグに本部に連絡を取り、光一の元へ掛けつけようとした。
その際、携帯のスピーカーからS川というフレーズが聞き取れた。おそらく今いる場所は、2度目の殺人が起きたS川の土手。一条は車を走らせた。10分ほどで辿り着いたが、時スデに遅し、その場には血まみれで横たわる光一と、混乱した松山ハジメ。そしてそれをどうにか落ち着かせようとする神崎美里の姿があった。
「吉澤光一を殺ったのは間違いなく松山だろう。通話状況から察しても明白だ。」
「だけど一条さん。松山は前の2人を殺ったことに対しては、自分のもう一人の人格がどうとか言っていますね。」
「そこが恐ろしいところさ、今回の事件の…神崎美里のな。」
「どういうことですか?」
一条司は空になったコーヒーの空き缶をゴミ箱に放り投げた。煙草に火を着け、一呼吸置いた後、ゆっくりと口を開く。
「河本、久々だよ…ここまで戦慄を覚えたのは…鳥肌も久々に立った。」
「一条さん…一体何があったんですか?」
「神崎との取り調べのやり取りを録音してある。後で聞いてみろ。」
まだまだ長さが残っている煙草を灰皿に押し付け、そのまま一条司はゆっくりと立ち去った。何かに恐れている。何かに絶望している。
河本の前から遠ざかっていく一条司の背中にはそんな感情を読み取れた。一条司と行動を共にして3年半。河本は上司のそんな姿を初めて目の当たりにした。
■■■■Act15■■■■
《音声記録 11月9日 午前9時14分開始 神崎美里 (担当:一条司)》
「全てはハジメちゃんを二重人格と思わせる為でした。」
「二重人格に思わせる?」
「そうです、ハジメちゃんは昔から思い込みが激しい人でした。子供の頃に虫の死骸を集めるクセがあったことも、ただ本人が覚えていないだけなのに、あたかも自分の中にもう一人の人格があると思い込んでいました。」
「君は、そこにつけ込んだのか?」
「はい。まずハジメちゃんが酒を飲む機会に合わせ、瞳を殺す事を思いつきました。」
「ちょっと待った。松山が酒を飲む情報を事前に知ることは出来る。だけど松山が何時に酒を飲んで、泥酔するかどうかなんて、どうやって知った?」
「それは簡単です。ハジメちゃんの携帯に細工をして盗聴器をしかけましたから。」
「細工なんて…いつしたんだ?」
「ハジメちゃんのアパートの鍵を持っているんで、簡単でした。夜に忍び込んでね。」
「鍵をコピーしたのか?」
「はい。そして盗聴でハジメちゃんが寝た事を確認して、私はR公園に行き瞳を呼び出しました。あの娘ハジメちゃんに目を付けてたから、今R公園にハジメちゃんを呼んだから来なよって言ったら2つ返事でホイホイ現れましたよ。」
「それで…殺した?」
「はい。心臓を一突きでしてやりました。ナイフを縦に構えたらアバラにぶつかって心臓まで届かないって知っていたんで、ちゃんと横にして刺しました。」
「…じゃあ何故殺した後に小指を切り取った?」
「これもハジメちゃんに自分の犯行と思わせる為。嘘をついたら小指をちょん切るって言うのがハジメちゃんのクセだったから。小指とナイフは部屋に忍び込んで隠しました。」
「…じゃあ、何故吉澤瞳を殺した?他の人間じゃ駄目だった理由は?」
「それは3つあります。1つは瞳がいっちょ前にハジメちゃんに色気を撒き散らそうとしていてムカついていたこと。2つ目は少しでも繋がりのある人物を殺ることでハジメちゃんに自分が殺したと思わせやすくする為。最後に、あのシスコンの兄を利用する為。」
「吉澤光一のことか?」
「そうです。ハジメちゃんには最終的に本当に殺人をしてもらわなければならなかったんで、それにはハジメちゃんを心底憎んで復讐に走ってくる人間が必要でした。それにはあのシスコンの兄がうってつけだったんです。」
「なぜ松山には殺人をしてもらわなければならなかったんだ?それで、何故吉澤光一がそのターゲットにふさわしいと思ったんだ?」
「殺人をしてもらう理由は後で話します。吉澤光一がターゲットにふさわしい理由はあの男が妹の事になると理性を失って、ただのバカになることを知っていたからです。だから私は瞳の死体をカメラに収めて、メールを送り、挑発しました。案の定警察に一切報告することなく、犯人を自分の手で探し当てようとしてくれました。ちなみにメールは全部ハジメちゃんの携帯から送りました。送信履歴も消して。」
「全て計算していたと?」
「はい。でも、横島恵理を殺したのは計画とは違います。あの夜、ハジメちゃんと居酒屋で飲んだ後、酔っ払ったハジメちゃんをアパートまで送って行きました。だけどその時、ハジメちゃんのコートの内ポケットにあるハズのナイフと切断した小指が無いことに気付いたんです。」
「帰る途中に落としてしまったというワケか。」
「はい。それで私、急いで例の土手に戻ったら、ちょうど横島が新聞紙に包まれていたナイフと小指を見つけてしまったところだったんです。」
「だから…殺したのか?口封じに?そして小指も切った!?」
「はい。横島からナイフを奪って。予想外とはいえ、ハジメちゃんや吉澤光一に追い打ちのプレッシャーを与えるいい機会だと思って。」
「いい機会…。」
「横島を殺したおかげで自然とハジメちゃんのアパートへ押し掛ける事が出来ました。ただ、ハジメちゃんが居酒屋のレシートまで失くしていたことは気が付きませんでした。」
「松山の家へ押し掛けた時は何をした?」
「まずハジメちゃんに睡眠薬入りのお茶を飲ませ、強制的に寝てもらいました。その間に私は1つやることがあったのでアパートを出ました。前もって用意しておいた服装やウィッグ、メガネを使って変装し、吉澤家に向かいました。実はあらかじめ同じ変装をして瞳の通夜に顔を出し、吉澤光一と面識を作っておいたんです。そして別の人間になりすまし、ある物を吉澤光一に渡しました。」
「ある物だと?」
「瞳の使っていた手帳です。佐藤という偽名を名乗り、それを渡して瞳とハジメちゃんとの繋がりを彼に教えてあげました。ちなみに手帳は瞳を殺した時に奪っておきました。」
「吉澤光一が松山を犯人だと思い込ませる為か…?」
「その通りです。手帳を渡し終えたら、変装に使った道具を捨てて、またハジメちゃんのアパートに戻り、ハジメちゃんに対する最後の仕上げをしました。」
「最後の仕上げ?」
「まずアパートに戻り、深過ぎず、浅過ぎない程度にナイフで自分の肩を斬りました。」
「自分で自分を斬っただと?」
「血だまりを作ってトイレに隠れ、ハジメちゃんが目覚めるのを待ちました。そして目覚めたハジメちゃんに、あたかも別人格が私に襲いかかったように芝居を打ったんです。」
「それで松山は完璧に自分が二重人格だと思いこんだ…。」
「はい、自分でも信じられないくらいに上手くいきました。」
「それじゃあ…その後、松山と2人で土手を散歩していたな?その時吉澤は君達の居所を突き止めて尾行していた。それも知っていたのか?」
「もちろんです。吉澤光一に渡した手帳に発信機を仕込んでおきましたから、全て筒抜けです居場所は私の携帯から常に確認することが出来ました。」
「…そろそろ教えてくれ、なぜ松山に本当の殺人をさせたのか…。」
「彼に、ハジメちゃんに…重い十字架を背負ってもらわなくちゃならなったから。」
「十字架…?」
「ハジメちゃんは自首するとは言っていたけど、そんな事を言えるのは…本当に人を殺してしまったという実感がないからです。実際に人を殺してしまえば…まず思うハズです。逃げようって。一緒に時効が来るまで逃げようって…。」
「お前の…お前の目的はなんだ?」
「ハジメちゃんの支えになりたかった…罪を分かち合える仲だと思われたかった…。」
「意味が分からない…。」
「私はハジメちゃんの女神になるハズだった…。共に茨の道を歩きたかった。」
「つまり…お前が3人もの命を犠牲にしてまで得たかったのは…。」
「そう。だってこうすれば、ハジメちゃんはずっと…私から離れられなくなるでしょ?」
終わり
自分は大学に行ったことがないのでその辺の描写がちょっとアレですね(笑)