召喚獣
『不死鳥の伝説』
二十八頁
…………
しかし、大好きなおばあちゃんが亡くなったことを悲しむ時間は、ルビーにはありませんでした。おばあちゃんと同じ病に、ルビーもすぐにかかってしまったからです。
始めは、お腹の調子が悪くなりました。そのうちに痛むようになり、食べたものを戻すようになり、最後には水も満足に飲めない体になってしまいました。
ルビーは見る見る内にやせ細っていきました。ほおはくぼみ、肌はかさかさになり、以前の明るさは見るかげもなくなっていきました。
布団に寝たきりになったルビーは、一人きりになるといつも、死んだおばあちゃんのことを思い出していました。死ぬときまでずっと苦しそうにしていたおばあちゃん。自分も同じようになるんだと思うと、ルビーは悲しくて怖くてたまりませんでした。人知れず涙を流したことは数え切れませんでした。
そんなある日、ルビーはふいに、あの女の人の言葉を思い出しました。ルビーの本当の母親だと言っていた、あの女の人です。
村から出ていくとき、女の人はルビーにこう言いました。
「あなたが私の言うことを信じられないのは仕方がないわ。だけど次に私がこの村に来るとき、手遅れになっていないように、今あなたに伝えておかないといけないことがあるの。
ルビー。あなたはまだ完全な不死鳥にはなりきれていないわ。あなたがそうなるには、一度死ななくてはならないの。でも、ただ死ぬだけではだめ。あなたは死ぬ前にしないといけないことがあるの。
それは、あなたの一番大切な人に、自分が不死鳥だと打ち明けること。それもできるだけ、死ぬまぎわがいいわ。
相手の人がそれを信じてくれれば、あなたは本当の不死鳥になれる。病気にもならなくなるし、年も取らなくなるわ。でも信じてもらえなかったら……残念だけど、あなたはそのまま死んでしまうわ。
だから、間違えないで。大切なのは打ち明ける時と、その相手よ。」
…………
* *
アミカがいない。
そのことに気づいてから、俺は街中を探し回った。正直、気が気ではなかった。
ユリガンダたちがこの街に来ているという話を聞いたのはつい数日前だ。まだあいつらが街にいる可能性は高い。もしもアミカが死神に見つかれば、その瞬間にアミカは殺されてしまうだろう。
そうじゃなくても、アミカには時間制限がある。魔力の供給なしにアミカが動ける時間は一体どれくらいだ? 一週間? 三日はいけるか? それとももう危ないのか?
わからない。更にわからないのは、アミカの魔力が切れた時、アミカがどうなるのかということだった。
俺が見つければ、また元に戻るのか? 戻らないのか? もしもアミカを他の人間が見つけていたら? そいつの魔力が優先されたりしないか?
不安に苛まれながらも、俺は街を駆け廻る。ある程度時間が経ったところで、俺は一度宿に戻り、カウンターで新聞を読む店主に詰め寄った。
「連れは……連れはまだ戻りませんか……!」
「いや、見てないね」
「くっ……!」
念の為に自分でも部屋を確認したが、やはりアミカはいなかった。
「どこに行ったんだ……」
近場は粗方探した。次はもう少し範囲を拡げるか、細い道や路地裏までくまなく探すか。
だがそうしたところで、アミカが人目のつきにくい場所にいれば俺には見つけることができないだろう。最悪、建物の中にいたりでもしたらお手上げだ。
それに比べて死神は、魔法で召喚獣を感知できる。圧倒的に不利な状況だった。
「……考えていても、仕方ない」
今の俺に出来ることは、とにかく探すことだけだ。俺は宿屋から出ようとして……
しかし出口の扉は、向こう側から開かれた。
その、扉の向こうにいたのは、
「あ……アミカ!?」
「ロゼさん!」
なんと、アミカだった。
よりにもよってユリガンダに抱きかかえられたアミカは、俺を見るなりその腕から飛び降りて、泣きそうな顔で俺に抱きついてきた。
「ロゼさん! ロゼさん! ロゼさん!」
掠れそうなほどに声を張り上げて泣きじゃくるアミカ。
その服は全身血まみれの泥まみれで、しかもすぐそこにはどういうわけか死神もいる。どういう状況なのか、俺にはさっぱりわからなかった。
……が、とにかく、今は。
「良かった。無事だったのか……」
アミカの無事に安堵する気持ちが、何よりも大きかった。
「やあ、ロゼ。久しぶり。君じゃないかって思ってたよ」
「ユリガンダ……」
旧友が声をかけてきた。
ユリガンダとこんな風に話をすることは、もうないと思っていた。アミカと共に過ごしながらその覚悟を決めていた。なのにこの男は、前と変わらない親しみのある声で話しかけてくる。
それが、俺には理解できなかった。
「お前が、アミカを助けてくれたのか?」
「どっちかと言うと、助けたのはレイのほうかな」
レイ……死神の名前か。
その死神は今もユリガンダの横にいて、キョロキョロと辺りを見回していた。否、その目は包帯で巻かれているから、おそらく見えてはいないのだろう。
その包帯の下には、アミカを一瞬でただの死体に変える『魔眼』が備わっている。俺の知る死神なら、今この瞬間にも包帯を外してその眼をアミカに使っているはずなのだが……。
「どういうこと――って、聞きたそうな顔してるね」
ユリガンダが少し得意気にそう言った。相変わらずの憎めない顔つきだった。
「だけどそれは僕も同じ。先にこっちを済ませてもいいかい?」
「……ああ」
俺はアミカの頭を撫でながら、ゆっくりと身体を離した。アミカは嗚咽を漏らしながらも、しっかりと自分の足で立った。どうやら身体には異常ないらしい。
「身体はもう平気そう?」
ユリガンダがアミカに尋ねる。その問いかけ。そしてアミカが抱きかかえられていたこと。やはりもう魔力切れを起こしていたのか。
「……は、はい。あの、ユリガンダさん。本当にありがとうございました」
「いいよいいよ、気にしないで。君は悪くないし」
「でも……」
「本当に気にしなくていいんだよ。アミカちゃんは少しも悪くないんだから。そう、悪いのは……」
スッと――
ユリガンダの目が細められた。部屋の空気が、震える。
射殺さんばかりのその鋭い視線は、まっすぐに俺へと向けられていた。
「君だよ、ロゼ」
* *
「うおぉぉおあああああああアア!」
躊躇わなかった。
走る。銃を出す。撃つ。二発。
命中。ディーネの背中に刃物を突き立てていた女の腕に穿孔が穿たれる。なぜか血は出なかったが、怯ませ、ナイフを引き抜かせることには成功した。
女を突き飛ばし、地面に崩れ落ちようとしていたディーネの身体を、俺は抱き止めた。
「ディーネ!」
「あ……ろ、ぜ……」
息は……している。
だがマズイ。この位置にあの刺さり方はマズイ……!
「く……!」
すぐそばには魔獣。動いてはいるが、片前足を失い体勢を崩している。これならすぐには向かってこられない。
女は、座り込んで腕を押さえている。こちらに目すら向けていなかった。
なら――
「逃げるぞ、ディーネ!」
俺は銃を収め、ディーネを背負って走り出した。
荒い息遣い。冷たい身体と夥しいほどの血が、その傷の深刻さを物語っていた。血が俺の服にまで染み込み、それと共に恐怖が全身を蝕んでくる。すぐそこにあるはずの曲がり角が、どこよりも遠く感じる。
「ろ、ぜ……」
「喋るな! 俺が何とかする! だからお前は静かにしてろ!」
何とかする? 何とかなるのか?
この村は滅んだ。近くに他の村はないから、当然医者もいない。安静にできる場所もあるかどうかわからない。そしてすぐ後ろには魔獣がいる。
ディーネの出血は既にいつ死んでもおかしくない量だ。こんな状況から、何とかする方法があるのか?
何ともならなかったら……どうなる?
「ロゼ……きい、て……」
「…………!」
ディーネの声に、俺は何かを感じた。
無理に話そうとすれば命に関わる。それはわかっていたが、俺はディーネの声に耳を傾けた。
「なんだ、ディーネ」
「せ……なか……」
「背中?」
「みて……」
手当して欲しいということだろうか。確かにあいつらが追ってくる様子はないし、姿が見えないところまでは逃げられた。何よりディーネの怪我は一刻を争う。
「わかった」
俺はディーネを石畳の上に横向きに寝かせた。胸当てを外して、背中の服を捲る。
「え……?」
一瞬、自分の目を疑った。
傷は、なかった。
服は血の色に染まっていて、ディーネの背中も血まみれだ。返り血なんて量じゃない。絶対にこれはディーネの血だ。
だが、それだけだ。
それ以上血が出てくる様子はないし、刺された傷は既に傷跡のようなものに変わっていた。
「ディーネ、これは……」
「不死、鳥……」
途切れ途切れに、ディーネは言った。
「不死鳥の、伝説……。覚えてる……?」
「あ、ああ」
『不死鳥の伝説』。俺たちの故郷フェネキアに古くから伝わる童話。俺も勿論知っている。怪我が一瞬で治り、死ぬことはなく、年も取らない、不死鳥の子供ルビー。そのルビーが人間の村で育ち、苦悩する物語――。
ディーネが仰向けになり、自ら服を捲った。顕になった彼女の腹部、そこには……
「鳥の形の、痣……」
絵本で見たルビーの腕の痣。それと全く同じ形の紋様が、ディーネの脇腹にも刻まれていた。
「まさかお前……自分が不死鳥だって言いたいのか?」
ディーネが緩く微笑み、頷いた。
俄には信じられなかった。
あれはおとぎ話だ。不死鳥なんて実在しない。勿論死なない人間なんていないし、怪我が治ることだって有り得ない。
そう、有り得ないんだ。怪我が治るなんて。長年の研究が証明している。生物に直接働きかける魔法は、治癒魔法も攻撃魔法も強化魔法も探査魔法でさえも成立しない。
それが、どういうことだ。
今、目の前で、確かにディーネの怪我が治った。傷が消えた。これはどう理解すればいいんだ?
「しん……じて……」
ディーネが言う。弱々しく。縋るように。
その声が、この状況はまだ安心できるものではないということを物語っていた。
傷は塞がっている。血も出ていない。なのになぜだ? ディーネの顔は今も見る見る血の気が失せていく。目はもうほとんど開いていない。
「おねがい……ロゼ……」
何だよそれ。お前そんな奴じゃないだろ? もっと偉そうで、自信たっぷりなのがお前だろ? そんな泣きそうな声出して、お願いって、それじゃあお前まるで――
もう嫌だった。大切な人を喪うのは。次に同じことがあれば何が何でも助けてみせると、そう心に決めていた。
「わかった」
俺はディーネの手を握り締めた。氷のように冷たい、その手を。
「お前を、信じるよ。そうしたらお前は完全な不死鳥になれるんだよな? そういう話だもんな?」
それは、どちらかと言えば願望に近かったのかもしれない。俺はディーネに死んで欲しくなかった。
信じるに決まってる。それでディーネが死なないで済むのなら、俺は神でも悪魔でも信じる。何としてでも俺はディーネを死なせたくなかった。死んで欲しくなかった。
ディーネは死なない。生き返る。生き返る、絶対に。だから信じろ。生き返る。生き返るんだ。
ただただ念じた。一心に。全力で。すべてを忘れて、俺はそれだけを念じ続けた。
ディーネはもう、何も話さなかった。限界が来たのだろう。ただほんの僅かに、俺の手の中で指先を動かした。それが最後だった。
ディーネはそっと、瞼を閉じた。
そして――
青い炎が、ディーネの身体を包んだ。
「…………これは」
まるで、白昼夢でも見ているかのようだった。
すぐ近くで炎が燃え盛っているのに、熱さは感じない。少し遅れて、俺はこの炎が『不死鳥の伝説』でルビーが不死鳥になるときの描写と同じ現象だと気づいた。
風を生まず音も立てない炎は、少しずつディーネの身体に吸い込まれるようにして消えていく。
そうして、すべての炎が消え去ったとき。
そこには、傷一つ、汚れ一つないディーネの身体が残されていた。
* *
「――あとはアミカ、お前も知っての通りだ。俺とディーネ……いや、俺とお前はそのまま村を出て、山道を降りて、この街まで戻って来た」
そこまで聞いてようやく、ロゼさんの話と私の記憶が繋がった。
ここは、私の部屋。
ユリガンダさんたちのお陰でロゼさんと再会できた私は、そのまま四人で部屋まで移動して、ロゼさんから話を聞かせてもらっていた。私が記憶を失う前――ロゼさんと、ディーネさんの話を。
だけど、話が記憶と繋がっても尚、私はどこか腑に落ちないものを感じていた。
だって、ロゼさんのその話が本当だとすると、私は……
「私が……ディーネ?」
そういうことに、なる。
でも、本当に? だってロゼさんの話のディーネさんは、私とはまるで違う人で……私がそんな魔獣と戦えるような強い人だったなんて、少し信じられなかった。
「いい加減にしなよ、ロゼ」
隣で話を聞いていたユリガンダさんが、険のある声を出した。
「君はまだ、誤魔化そうとしてるのかい?」
「違う。誤魔化そうとなんてしていない。順序立てて話そうとしてるだけだ」
「なら、早く話してやりなよ。さっきの話だと、まるでアミカちゃんが不死鳥みたいに聞こえるだろう?」
「え……、違うんですか?」
そう、思っていた。絵本にあった不死鳥の一族。それが実在して、私は不死鳥なんだって。だから怪我がすぐに治るんだって。
そうじゃ、ないの?
それじゃあ、どういうことなの?
「ロ、ロゼさん……」
「…………」
恐る恐る呼びかけると、ロゼさんは目を逸らした。その気遣うような仕草が、余計に私の不安を掻き立てる。
「……騙されたんだ。俺も、ディーネも」
「だ、騙されたって……誰に、何をですか?」
「…………」
* *
――なあ、見たか? 新しいお触れ。
――ああ、見たよ。『不死鳥の伝説』だろ。
――『フェネキア王国に古くから伝わる童話として子供たちに伝えろ』か……。いったい何の意味があるんだろうな。
――知らないし、興味もない。どうせまた女王様の気まぐれなんだろうよ。
* *
「御誕生召されたばかりの姫君に鳥の刺青……で、ございますか?」
「うむ、そうじゃ。場所は、普段人目につかぬところが良いの。生まれ持った痣のように見えれば尚良い」
「はあ……。見えない場所に刺青でございますか……」
「余計な詮索はするでないぞ? 無論この事は他言無用じゃ。他で口にすればお主の首は飛ぶと、そう思うが良い」
「……! ははあ! 肝に銘じさせて頂きます!」
* *
「ロキ先生! やりましたぁ! ついにディーネ様が、ご自分の怪我を治されるようになりましたぁ!」
「そうか。これで仕込みは大体オッケーだな」
「すごいです奇跡ですロキ先生ぇ! まさか、まさかこの目で治癒魔法を拝めるだなんてぇ……!」
「あのなぁ……。何度も言ってんだろ、治癒魔法なんかじゃねえって。血を魔具にして傷口を焼いて、血止めしてるだけだ。身体ン中の傷は治んねえし、焼いた傷はちゃんと処置しねえと、腐ってタダの怪我より酷いことになんだよ」
「でもぉ! 知らない人が見たら治癒魔法にしか見えないですよぅ! それにそんな難しい魔法をディーネ様みたいな子供に覚えさせられるなんて、やっぱりロキ先生すごいですぅ!」
「馬鹿か。ヘタに知識のある大人より、子供のほうが仕込みやすいんだよ。なんせ魔法ってのは、出来るって感覚さえ掴ませれば出来ちまうんだからな」
* *
「魔力は、思い込みだ。魔法はその思い込みが現実になることだ。魔法使いは、起こしたい事象を強く心に思い浮かべ、それを現実だと思い込み、また他者にも思い込ませることで、魔法を発現させる」
ロゼさんがこれまでにも何度か語ってきた、魔法の話。
それがこれまでにない重さでもって、私の胸に圧しかかってきていた。
「ディーネは、自分が不死鳥だと思い込んでいた。それを俺に黙っていたのは、『不死鳥の伝説』を心から信じていたからだ。俺も一時とは言え、ディーネを不死鳥だと信じた。『思い込ま』されたんだ」
思い込み。
つまり、魔力。
「ディーネは確かに死んだ。青い炎に包まれたあの瞬間に。だがその時、俺はディーネが生き返ると信じ、思い込んでいた。すると――どうなると思う?」
「それは……」
どうなるんだろう。
魔法で、人が生き返る? そんなことがあるの? そんな無茶苦茶なことが……
「生き返るなんてことは、有り得ないんだ」
「…………!」
じゃあ、私は……?
「落ち着いて聞いてくれ、アミカ」
ロゼさんが、私の肩に手を置いた。
その手が、少しだけ、震えていた。
「どんなに強く思い込んだところで、死んだ人間は生き返らない。魔法はそんな、何でもアリな代物じゃない。それでも、人が生き返ると念じ続けたら、どうなるのか――」
駄目だ。
これ以上は、もう聞いちゃ駄目だ。聞いたらもう、戻って来られなくなる。
私は、私は……
「死体が」
「動き出すんだ」
* *
『魔法とその効能』 リカルド・アキレス/著
一〇八六頁
【召喚】(しょうかん)
死体を魔具とする魔法の総称。生前の動きを模倣するため比較的魔力が込めやすく、且つ、第三者からの魔力供給に頼った半自律運動も可能となる。
しかし倫理的な観点から、多くの国で禁則魔法として指定されている。特にヒトの死体を用いた召喚魔法は、国によっては計画することさえも刑罰の対象となる。
死霊術と呼ばれることもある。
* *
「悪かったな、ユリガンダ」
見送りがてら、俺は運転席に座る旧友に謝罪した。
召喚魔法に手を出してしまったこと。アミカに真実を伝えなかったこと。死神を信用しなかったこと。色々な『悪かった』ことへの、それは謝罪だった。
「まったくだね。君らしくもない失態だよ。もっと反省するといい」
「……相変わらずだな」
歯に衣着せぬ物言いといい、年齢に似つかわしくない口調といい。本当にこの男は、昔から変わらない。
「今回は、レイがすぐにアミカちゃんを見つけたから良かった。だけどもしも誰にも見つけられずにそのまま魔力が切れてたら、どうなったと思う?」
「……魔獣化」
「わかってるなら良いんだよ」
つい先日カムガッタで見た犬型魔獣の姿が、頭を過ぎる。
身体は崩れ、最早犬とは呼べない姿になっても動き続ける、悪夢のような存在。
心の壁を持たない召喚獣は、己を保つ為に安定した魔力供給を必要とする。魔力を失ったり、第三者からの不安定な魔力――つまり、勝手な思い込みによる誤解を受けると、自我を失い、暴走する。暴走した召喚獣は魔獣と呼ばれ、一度魔獣化すれば、例え召喚士本人であっても簡単には元に戻せない。
「君がさっき話してた、カムガッタの魔獣だけど……」
まるで何てことない調子で、ユリガンダは言った。
「レイが殺しちゃった。飼い主と一緒に」
「そうか……」
もっと、清々するものかと思っていた。ディーネを殺した憎い仇が、死んだという事実は。
呆気なく俺の心に落ちて、何の感動も生まずにゆっくりと沈んでいった。
「君の大事な人を刺したっていう、あの女の人。あれで生前通りなのかどうかは定かじゃないけど、とりあえずあの子は、魔獣化しても(・・・・・・)犬のことが大切だったみたいだね」
「…………」
「ロゼ。もしもアミカちゃんにも、その時が来たら……」
「ユリガンダ」
言葉を遮る。
聞きたくなかった。そんなもしもは。甘いと言われようがなんだろうが、絶対に。
ユリガンダが、ニッと笑った。それは相変わらずの憎めない顔つきだった。
「その時は、また会いに来るよ。レイを連れて、ね」
そんな皮肉めいた捨て台詞を残して、ユリガンダは車を発進させた。
「ろぜー、ばいばーい」
遠ざかる車の助手席から、死神が手を振っている。『その時』にアミカを殺すであろう死神が。
俺は手を振り返さず、最後まで車を見送ることもせずに、宿屋へと戻った。
* *
嘘だ。
こんなの、嘘だ。
信じない。私が死体だなんて、そんなこと、あるはずない。だって、私の身体にはちゃんと体温があって、汗もかくし、血だって……
血、が……
蠢いて……
――動く死体。それがお前だ、アミカ。
――だが気にするな。お前ほど完成度の高い召喚獣は他にいない。血は流れてるし、食事も摂るし、呼吸もする。
――怪我が治ること以外、お前は生きた人間と何も変わらない。
――だから気にするな、アミカ。
ふざけてるのかと、言いたかった。
変わらない? 変わらないわけがない。首が飛んで生きてるなんて、普通じゃない。
ロゼさんはいつもそうだ。勝手なことばっかり。外には出るな。何も聞くな。
あまつさえがこれだ。バカにしてる。私をなんだと思ってるんだ。私は、
私は……
「…………ちがう」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
ぜんぶ嘘だ。私が、そんな、私が……
「嫌だ、違う。私は、私は……」
窓ガラスに、自分の顔が映りこんでいた。
その顔は綺麗で、自分でも気に入っている顔だった。だけど今では、おぞましさしか感じない。
だってそれは、見た目だけ。
本当の私は、見るに堪えない化け物で。
「ああぁああぁああアア!」
私は、窓ガラスを叩き割った。
ガラス片が皮膚を突き破り、手から血が流れ落ちる。ぽたぽた、ぽたほたと。
その血が、まるで時間を巻き戻すように、すうっと空中を這いあがってきた。
「い、いや……ぁっ……!」
私は、その血を追い払った。
でも、払っても払っても赤い液体は私の身体を追ってくる。手の甲が有り得ない動きをして、ガラス片を追い出した。代わりに血がぬるりと入り込んで、まるでファスナーを閉じるみたいに傷口が塞がる。
そのあとには、まるで何事もなかったかのような綺麗な肌があった。
「あ……あぁ……ぁああ……」
もう、嫌だった。
逃げても、目を塞いでも、どこまでも現実が追いかけ、突き付けてくる。お前は普通じゃないんだと。化け物なんだと。
もうやめてほしい。許してほしい。もう、何も聞きたくない。
そんなとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
『おい、アミカ? 大丈……』
「入らないで!」
私は叫んだ。
「入らないで! もう、放っておいて!」
『…………』
部屋から離れていく足音が聞こえる。その音さえも今は憎らしい。ロゼさんも、自分も、何もかもが憎らしい。
どうして私がこんな目に遭うんだろう。どうして私は人間じゃないんだろう。
私は、何も悪くない。何もしていない。
なのに、どうして……
悪夢だと、思っていた。暗い路地裏。痛み。蠢く血。ぜんぶ、悪い夢だと。
この部屋まで戻ってくれば。ロゼさんに会えれば、ぜんぶ元通りになると思っていた。また、あの幸せな時間が戻ってくるんだって。
だけど、悪夢だと思っていたものは、どうしようもなく現実で。
現実は、悪夢よりもずっと悪夢だった。
「…………うぅ……、ひっ、……、……」
もう、ない。
私にはもう、逃げ道も、頼れるものも、何もない。
この手も、この顔も、全部。全部偽物だった。ただの、人形だった。
私は、偽物。私は、化け物。私は……
動く、死体。
「うぁ……、あ、あぁぁ……、あぁ、あぁぁあぁ……!」
* *
ここは、どこだろう。
星が見える。綺麗な星空。少しだけ欠けた月があって、星があって、風が少し、冷たくて。他には何もない、雲一つない綺麗な星空。
顔を下ろすと、少し離れた場所にいくつもの四角い光が見える。窓から覗く光。人が造った光。同じ光でも、こっちはあまり好きじゃない。
「なんだ、飽きたのか? 星」
後ろから声が聞こえた。振り返ると、そこには男の子がいた。小生意気そうな、よく知っている顔だった。
「いえ、そうではありません。ただ、ずっと上を向いていたので首が疲れたのです」
私が言う。滑稽なほどに澄ました口調で。時々自分で笑ってしまいそうになるけど、そんなことはおくびにも出さない。
「そうか。俺は飽きた」
男の子は無愛想にそう言った。それは正直とか純粋とかいうのを五段階ぐらい飛び越えて、図々しいとか気遣いがないとか言われるレベルだった。
「先に戻っても良いのですよ?」
「あー……そうしたいんだけどよ。なんか一人でダラダラしてると、そこら中から睨まれるんだよな。まだここでお前と星観てたほうがマシだ」
私は思わず笑っていた。そんなに面白い話じゃないはずなのに、どうしてか彼と話していると楽しいし、笑ってしまう。こんな時間が、私は好きだった。
「俺もお前みたいに、星観てて楽しいって思えたらいいんだけどな」
「本当に私が、星を観るためだけにここへ来ていると思いますか?」
その言葉は、意図せずに口から溢れていた。
そして言ってから、気づいた。
以前の私は、荒んだ心を癒したり、寂しさを紛らわすために星を観ていた。だけど最近は悩んでもいないし、寂しくもない。だけど私は、夜になるとここへ来る。
それは、ここにいれば必ず、一人の少年が探しに来てくれるから……
「なんだよ。どういう意味だ? それ」
私の言葉の意味は、彼には通じなかった。相変わらず、鈍い。ちょっと腹が立つくらいに。
「教えてほしいですか?」
「は? なんだよそれ」
「教えてほしいのでしょう? 私が何のためにここへ来ているのかを」
「いや、そこまで知りたくもないけど」
「教えてほしいのなら、交換条件があります」
「いや、だから……」
「私のこと、名前で呼んでくだしゃい」
あ、噛んだ。
「…………」
「…………」
消えてしまいたい。
「あー、えーっと、……なんて?」
「私のこと、名前で呼んでください」
「あー、うん、そうだな。名前な、名前」
このクソガキ、こんな時だけ優しいんだから。
「いや、だけどさ、お前一応お姫様だし、名前呼びはまずくないか?」
「お前呼ばわりのほうがよほど失礼ですよ。それに何も、公式の場で呼べと言っているのではありません。今この場で呼んでほしいのです」
そこまで言っても彼は、「あー」とか「うー」とか言って誤魔化していたけど、やがて覚悟を決めたのか、私の顔をじっと見つめた。じっと見つめて、唾を呑みこむ。私も釣られるようにして向かい合い、唾を呑んでいた。
……ううん、待って。
なんで見つめ合う必要があるの? 普通に呼べばいいのに、なんでわざわざ間を空けるの?
なんだか、こっちまで緊張してきた。ど、どうしよう、顔が赤くなってたら……あ、暗いから大丈夫か。でも、どうしよう。彼に名前を呼ばれて、そのあと私はどうしたらいいんだろう。
考えはまだ纏まらないのに、彼の口は少しずつ開いていく。
そして、呼ぶ。私の名前を。
「…………ディーネ」
* *
…………。
…………、…………。
「…………………………………………『ディーネ』?」
* *
気づけば朝だった。
アミカはまだ部屋から出てこない。昨日部屋に入ったきり、一度も出てきた様子はない。
だがそれも、仕方のないことだと思えた……昨日、アミカにはあんなことを言ったが、正直『気にしない』なんてことは無理だとわかっていた。
人間と変わらない。確かにそうかもしれない。理屈の上では。だが何もかも理屈だけで考えられるなら、この世界は今よりももっと平和になっていたはずだ。
「……飯だけでも食わさないとな」
餓死はしないのだろうが、弱って歩けなくなる可能性は十分にある。今後のことを考えると、今ここで倒れられるのは――
と。
『ロゼさん? 入ってもいいですか?』
考えていたところに、扉をノックする音と共に声が聞こえた。
「あ、アミカ?」
驚いた。今日一日ぐらいは、部屋から出てこないものだと思っていたのに。
立ち直りの早さに呆気に取られながらも、俺は扉を開け、アミカに部屋へ入るよう促した。
「すみません、こんな朝早くに」
「い、いや。俺も起きていたから構わないが……」
当たり前の会話が、滑稽だった。
「もう、大丈夫なのか?」
その質問も、滑稽な質問に違いなかった。
大丈夫な訳がない。顔を見ればわかる。追い詰められ、今にも倒れてしまいそうなところを辛うじて立っているのだというのが、顔色でわかった。
それでも、そうまでしてでも俺の部屋まで来た理由。
俺は、嫌な予感がした。
「私、まだわからないことがあるんです」
立ったまま、椅子に座りもせず、また俺の滑稽な質問に答えることもなく、アミカはそう切り出してきた。
「わからないこと? 必要なことは全部話したつもりだが……」
「いいえ、まだです」
アミカは強く断言した。その気迫に、俺はどこか追い詰められたような感覚を覚えた。
「さっき、夢を見たんです」
「夢……?」
「はい。星空の下で、男の子と二人でお喋りする夢です」
「!」
それは……
「夢じゃ……ないんですよね?」
覚えはある。否、あるどころじゃない。それは今でも何よりも大切な、絶対に忘れたくない思い出の一つだった。
まさかアミカ、記憶が……。
「その夢の中で、男の子――ロゼさんが、私の名前を呼んだんです。『ディーネ』って」
「アミカ。お前……」
「昨日のお話でも、ロゼさんのお話に出てきたのはずっと『ディーネ』さんでした。『アミカ』なんて名前は、一度も出てきませんでした。だけど私は『アミカ』です。これは目が覚めた瞬間から、私自身が私自身のことを『アミカ』だと思っていたからです」
アミカが歩み寄り、至近から俺を見上げてきた。その、宝石のように澄みきった瞳で。
「ねえ、ロゼさん」
しかしその瞳には今、揺らめきがあった。熱く静かな、あの時に見た青い炎のような、揺らめきが。
空気が、揺れる。
「アミカって、誰ですか?」




