魔獣
その日、ローズマリーは父親に連れられて王城を訪れていた。
歳の割に卓越した魔法の知識を見込まれてのことだったが、一方で当時13歳になったばかりのローズマリーは、まだ精神的には子供でしかなかった。
だからこそ、大人たちの目を盗んで王城を一人散策するなどという暴挙にも、及ぶことができたのだった。
命知らずなその行動に、深い意味などなかった。ただ、初めて足を踏み入れた城の中が気になったから。見つかっても嫌いな父親が怒られるだけだろうと、そんな楽観的すぎることを考えていた。
子供ならではの身体の小ささと下町で鍛えたすばしっこさを活かして、ローズマリーは何人もの使用人の目を掻いくぐる。これなら泥棒も楽勝だなと、そんな風に考えるローズマリーは心底大人を舐めきっていた。
その内に、人気の少ない廊下に出た。他の場所よりも薄暗くてどこか不気味な空気に、ローズマリーは思わず身を震わせる。
慎重にその廊下を進んでいくと、やがて一つの大きな扉が目に留まった。明らかにそこだけ意匠が違う。触れてみると、扉はひんやりと冷たかった。
「…………、」
ごくりと、息を呑んだ。
普通なら、開けないだろう。まともな判断ができる大人であれば。しかしその点、ローズマリーはやはりまだ子供だ。どうせここまで来たんだからという訳のわからない理由で以て、いとも容易くその扉を開いた。
中を覗くと、そこも廊下と同じように薄暗い部屋だった。
まず、豪華な寝台が目についた。次にカーペット、シャンデリア、机……。どれも一目見て高価とわかる代物だ。無駄に広い空間に、そんなものがぽつぽつと置かれていた。しかし如何に高価でも、それらがローズマリーの冒険心を満たしてくれることはなかった。高価なのは当たり前だ。王城なのだから。それよりももっと煌びやかな宝石とか、隠された城の秘密が見たかった。
気落ちしながらも、ローズマリーは部屋に入った。せっかく勇気を出して覗いたのだから、もう少しじっくり見ておきたいと思っての行動だったのだが……
「誰、ですか?」
そんなローズマリーに、闇の奥から声がかけられた。ローズマリーは文字通り飛び上がる。
それは、幽霊のように消え入りそうな声だった。怖々と目を向けると、そこには椅子に腰かけた、ローズマリーと同じ年の頃の少女がいた。
少女は、ドレスに身を包んでいた。派手ではないが、この部屋にいて見劣りのしないドレス。顔はよく見えないが、たぶん気品ある顔立ちをしているのだろうとローズマリーは思った。
「あの、誰ですか」
再度、訊ねられた。先程よりも警戒の強い声で。
そこへ来てようやく、この状況が相当に危ういものであることにローズマリーは気づく。少女が叫べばすぐさま人が駆けつけ、自分は大人たちに手酷く叱られることだろう。……実際には、それだけで済む訳がなかったのだが。
ローズマリーは、咄嗟に嘘で誤魔化そうと考えた。だが相手がどういう人間でここがどういう場所かもわからない状況下では、機転の利いた嘘は思いつかない。また、服装も悪かった。ローズマリーは決して裕福なほうではなかったから、その服も正装とは言え、目の前の少女の物と比べれば明らかに貧相だった。
「あー、うん、えっと、お、俺は、神使見習いでな。今日は城に来てて、その、親父と一緒に……」
話すうちに良い嘘が思いつくか、それか相手が都合の良い解釈をしてくれることを期待していたが、そんなことはなく。
「つまり、どういうことですか?」
「あー……」
小首を傾げる少女に見つめられ、仕方なく白状する。
「実は、忍びこんできたんだ……」
「忍びこんで?」
「ああ。その、なんか面白いもんが、あるかなって……」
言ってから、ローズマリーの頬がカァッと赤くなった。
その理由が如何に子供じみたものか、遅まきながらに自覚したのだ。
「…………」
その様子を見て何を思ったのか、少女は楚々として立ち上がり、ローズマリーのほうへとゆっくりと近づいた。薄明かりに照らされたその顔は、ローズマリーが思っていたよりもずっと幼く、宝石のような無垢な瞳をしていた。
少女はローズマリーの俯けた顔を下から覗きこむと、興味深そうにまじまじと見つめる。悪意のなさそうなその目に、ローズマリーの羞恥心は更に掻き立てられた。
「な、なんだよ……」
「いえ、面白そうな人だなと思いまして」
からかわれたと、そう思った。ローズマリーの顔が更に赤くなる。本当は、少女にまったく他意はなかったのだが。
しばらく続いた気詰まりな沈黙を、先に断ち切ったのはローズマリーのほうだった。
「そ、そういうお前は、誰なんだよ。こんな暗いとこで何してんだ」
「私ですか?」
その質問は、泥棒が家主に「何をしている」と聞くようなものなのだが、その珍妙さには二人とも気づかない。
少女は顎に手をあてて、考え込んだ。
「何でしょうか。私が誰か……難しい質問ですね」
「はぁ?」
「ああ、この部屋が暗いのは、私が鏡を見たくないからですよ。苦手なんです、鏡」
ローズマリーにとってそんなことはどうでもよかったのだが、しかしそれを言うなら少女が誰かということも実はどうでもいい。単に質問されたくないから質問しただけなのだ。
となれば、今はこの話に乗っておこうと、ローズマリーは安易なほうへと流れた。
「鏡が苦手って、そんなに不細工か? お前」
「いいえ、私の顔はとても綺麗ですよ。これ以上整った顔を私は知りません」
忌憚なく自分を褒めそやす少女に、ローズマリーは困惑する。どれだけ自分に自信があるんだ、と。だが、さすがのローズマリーもこの状況でそれを口に出さないだけの分別はあった。
「じゃあ、なんで鏡が嫌いなんだ?」
「見たくないからですよ。自分の顔を」
「綺麗なのにか?」
「ええ」
よくわからないながらも「ふーん」と相槌を打つ。繰り返すが、ローズマリーはこの会話自体にさして興味がないのだ。
ただ、ここまでで少女に敵意がないのは見て取れた。襲いかかりでもしない限りは叫ばれる心配もないだろうと見切りをつけたローズマリーは、早速後ろの扉を開いた。
「もう、帰られてしまうのですか?」
惜しむような声をかけられて、思わず足を止める。
振り返ると、少女は本当に寂しそうな顔をしていた。まるで無二の親友が帰ってしまうかのようなそんな顔を向けてきている。不法侵入してきた、自分に。
「…………」
ローズマリーは、俄かに少女のことが心配になった。
今日ここへ来たのが自分だったから良かったものの、もし悪意ある人間だったのなら、この少女は酷い目に遭っていたのではないだろうか。
そもそも、こんな人通りの少ない部屋に一人でいることからして妙ではないだろうか。部屋に鍵はかかっていなかったとは言え、この少女はもしや軟禁状態にあるのでは……
そんな想像が一瞬で頭の中を駆け巡ったが、それでも結局、ローズマリーは何もしないことに決めた。面倒だったからだ。どうして見ず知らずの少女のために自分が行動を起こす必要がある。
「ああ、帰る。人に見つかったら面倒だからな」
「そうですか……。あ、それなら、一番最初の曲がり角には注意したほうがいいですよ。あの先は執事室ですから、人の出入りが多いんです」
「……わかった。ありがとう」
ローズマリーは廊下を覗き、人が来ていないことを確認してから部屋を出た。
慎重に、音を立てないように扉を閉めようとして、その時、部屋の中の少女の姿が目に入った。
少女は、手を振っていた。無邪気な笑みをこちらに向けて。
「…………」
ローズマリーは特に手を振り返すこともなく、そのまま扉を閉めた。
妙な女だったと、帰りの馬車の中でローズマリーは思った。
不気味で、神秘的で、それでいて頑是ない赤子のような無垢な瞳を持った、少女。
あの少女のことが、なぜかローズマリーは気になっていた。
「初めての城はどうだった? ローズマリー」
「その名前で呼ぶな」
反射的にそう応じながら、ローズマリーは瞬時に頭の中を切り替えた。
隣に座る父親からの問いかけ。まるで優しい父親が子供を気にかけているかのようだが、そんな感傷的なことをする男ではないことを、ローズマリーは知っている。
今の自分に求められていること。それは……
「レベルが低かった。国の名高い神使が集まるっていうからどんなもんかと思えば。あれなら部屋で本漁ってたほうがマシだ」
「だよなぁ」
息子の不遜な物言いを、父親――ロキは、咎めようとすらしなかった。
「で、どうする? お前さえ良けりゃあ、次からも連れてきてやろうか?」
「……今俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたか?」
「聞いてたさ。確かにレベルは低い。だが今回のプロジェクトは国が動かしてる。金も権力も馬鹿みてえに使えんだ。こんな機会そうはねえぞ?」
厭らしく笑う父親をつまらなそうに見上げながら、内心ローズマリーは、感慨めいたものを感じていた。
この父親は、利用価値のあるものにしか目を向けない。それが例え自分の子供であろうとも。そんな父親に認めてもらうために、自分はどれほどの苦労を重ねてきたか。
それが今、ようやく報われた気がした。
「……そうだな。行ってもいい、かもしれない」
「うしっ、そうと決まれば、よろしく頼むぜ、ローズマリー」
ロキが手を差し出してくる。「だから名前で呼ぶなよ」と言いつつも、ローズマリーはその手をしっかりと握り返した。
また城に行ける。父親の横で働ける。父親の手の温度に、そのことをより実感した。
そして、同時に。
ローズマリーは、少女の顔を思い浮かべていた。暗い部屋で出会った少女。
城に行くのなら、またあの部屋に行く機会もあるかもしれない。
そんなことを、ローズマリーは頭の片隅で考えていた。
**
「今日も、会いに来てくださったのですね」
「……まあな」
ローズマリーが城に通うようになってから、およそ半月。
あれから何度か、ローズマリーは少女の元を訪れていた。大人たちがローズマリーから目を離す隙を伺って。あまり長く離れると怪しまれるので、短時間しか少女と顔を合わせることはできなかったが。
そうまでして少女に会いに行く理由は、ローズマリー本人にもわかっていなかったし、大人になってからも上手く答えられなかった。「俺も若かったってことだろうな」と、そんな風に後のローズマリーは語る。
少女は、いつでもそこにいた。その部屋の中で椅子に腰かけて本を読んでいるか、ベッドに横になって眠っているのが、少女の常だった。
「お前は……、…………」
「何ですか?」
「いや、何でもない」
少女はやはり軟禁されているのだろうと、ローズマリーは考えていた。
その理由は? 外に出ようとは思わないのか? 色々な疑問が頭の中に浮かぶが、聞くことはできなかった。少女も自分から話そうとはしなかった。
ただ、これぐらいは聞いてもいいだろうと、ローズマリーは口を開いた。
「お前、いっつもこんな暗い部屋にして、飽きないのか?」
「飽きますね。すごく飽きます。毎日限界を感じています。頭がヘンになりそうです」
「そ、そうか」
猛烈な勢いで肯定されて、少し圧倒される。
「えーっと、たまに外に出たりとかは、しないのか?」
「しますよ。毎晩、お城の中庭で星を眺めるのが私の日課です」
「星、ねえ……。そんなもん観て楽しいのか?」
「こんな暗い部屋に閉じこもっているよりはずっといいですよ」
「なるほどね……」
何度か会ってみてわかったのは、この少女は第一印象よりもずっと強かな性格をしているということだった。
話しぶりこそ丁寧だが、こちらに遠慮したり話を合わせている様子が一切ない。こういうところは、やはり王女だからだろうか。
そう、ローズマリーは、少女の正体は王女だろうと予想していた。というか城に住む身なりのいい少女とくれば、それ以外に思いつかなかった。王女が軟禁されているというのは、今まで聞いたことがなかったが……
「ところでローズマリー、あなたはこんな話をご存知ですか?」
考えに沈んだローズマリーに、少女が声をかけた。
「だからその名前で呼ぶなって何度も言ってんだろ……で、なんだ?」
「はい。ある友達から聞いた話なのですが、半月ほど前から、城の奥深くに忍び込んでいる不届き者がいるそうですよ」
「は……? いるそうも何も、それは俺……」
「話は最後まで聞いてください。その人は不敬にも、王女の寝室へ忍び込んでいたそうです。それをある使用人が偶然見かけました。しかしその人は詳しい身なりまでは見えなかったらしく、犯人捜しに城内は一時騒然となりました」
「…………」
「そこへ、王女本人から情報がもたらされたのです。その不届き者がどのような身なりをしていたか。そして偶然にも、その身なりにぴったりと当てはまる使用人がいました。その使用人は王女の寝室へ入ることを許可されていませんでした。その人は、知らない、入っていないと言い続けているそうですが誰にも聞き届けられず、先日、ついに極刑が言い渡されました。そして今も、暗い、この部屋よりも暗い牢獄の中で、自分の首にギロチンの刃が落とされる日を待っています」
「…………」
「――とまあ、このような話なのですが。さて、あなたはこの話について、どう思われますか? 感想を聞かせてください。ローズマリー」
酷薄な笑みを浮かべながら尋ねかけた少女に、ローズマリーは、
「……別に」
素っ気なくそう返すと、そのまま扉へ向かった。
扉を開け、廊下に出る。その行動は素早く、躊躇いはなかった。
「もう、帰られてしまうのですか?」
寂しそうに、少女は尋ねかける。初めて出会ったあの日のように。
その顔が、その声が、今のローズマリーには悪魔の囁きのようにも感じられた。
しかし、もう惑わされない。
「ああ、帰る」
「そうですか……また、来てくださいね?」
「――いや」
ぐっと力を込めて扉を閉めながら、ローズマリーは答えた。
「もう、ここへは来ない」
少女とローズマリーの間を遮るように、扉が音を立てて閉まった。
少女は、覚悟していた。もう二度とローズマリーと会うことはないだろうと。
覚悟して、あの話をした。そもそも考えが甘かったのだ。隠れて自分に会いに来るということがどういうことか、わかっていたはずなのに。甘えていた。少しぐらい大丈夫だろうと。その甘えが、無関係な人を一人殺してしまった。しかしそれもこの際仕方がないと、少女は考えていた。
ローズマリーも、覚悟していた。
しかしローズマリーの覚悟は、少女のそれより数段深い覚悟だった。ローズマリー自身も知らなかった。自分に、そんな激しい熱情が潜んでいたなんて。人が一人死ぬ。そう聞かされたときにはもう、自分のすることは決まっていた。
二人の異なる覚悟は、しかし、もうお互いの顔を見ることはできないだろうと考える点では共通していた。
だが、そうはならなかった。この日から、およそ十日後。
ローズマリーは、また少女の部屋を訪れていた。今度は忍び込むのではなく、真正面から正式に。
**
「あなたが、新しい使用人のローズマリー・シュミッドですね」
「はい……」
「今日からよろしくお願いします。とは言ったものの、私はいつもこの部屋でじっとしているだけですので、していただくことはこれといってないのですが」
「……はい」
「大人しい方ですね。緊張しておられるのですか?」
「…………」
白々しくそんなことを宣う少女を、ローズマリーはキッと睨みつけた。隣にいる指導係にバレないように。
露骨に睨みつけることも、先日までのような失礼な口の利き方も、今この場では絶対にできない。
なぜならローズマリーは、この城の使用人となったのだから。
「どうして、自首なんてしたんですか?」
もう一人の使用人がいなくなった隙を見て、少女は尋ねた。その時、ローズマリーは寝室の掃除をしていた。
「あのようなことをしなければ、あなたは今のような目には遭っていなかったはずです。いいえ、それどころか、下手をすれば死んでいたかもしれないんですよ? ただ黙っているだけで良かったのに……どうして、自首なんてしたんですか?」
堰をきったかのような質問に、ローズマリーは目もくれず手を動かしながら答える。
「あの召使いは無罪だ。犯人ば俺だ。だったら死ぬのは俺じゃないと、おかしいだろ」
「あなたは、何を言っているんですか?」
少女には心底理解できなかった。
おかしいとかおかしくないとか、そんな理由で死ににいくことができるとは思えない。目の前にいる使用人は、いったい何を考えているのか。その言葉の真意はどこにあるのか。
だが、そんな疑問はどうでもいいとでも言わんばかりに、ローズマリーは少女をキッと睨みつけた。
「それより、答えろ。お前はいったい何をしたんだ?」
「何もしていませんよ?」
「嘘つけ。殺されるはずのところを使用人に取り上げられて、しかもお前の傍付きだと? これがお前の差し金じゃなかったらいったい何だってんだ」
ローズマリーは、少女に対して底知れないものを感じていた。
自分はこの女に誑かされた。部屋に来るように誘われて嵌められた。油断しきったところであの話を聞かせて、死に怯える自分を見て心の中で嘲笑っていたのだろうと、ローズマリーはそう考えていた。
「お前、俺に恩を着せたつもりか? 良いことしたつもりでいるのかよ?」
「あなたは、生き永らえて嬉しくないと?」
「嬉しくないね」
少女がゆっくりと首を傾げた。目を二回ほど瞬かせ、宝石のようなその瞳でローズマリーの顔をじっと見据える。ローズマリーは臆することなく、その瞳を睨み返した。
「あなたは、死にたいから罪を告白したのですか?」
「はあ? お前は何を言ってるんだ?」
「私からすれば、あなたのほうが何を言っているのかわからないのですが……」
少女の純粋な問いかけに対し、ローズマリーはふてぶてしく答える。
「生き延びて嬉しくないのと、死にたいのとは違うだろ」
「なるほど……。なるほど」
納得した風の少女を見て、ローズマリーは余計に少女のことが理解できなくなった。
「わかった。もういい。もう聞かない。俺はこれから嫌でもお前のすぐ側にいるんだ。お前が尻尾を出すまで、どこまでも調べ上げてやる」
あからさまな宣戦布告をしたローズマリーに、
「首を斬られることだけはないように、気をつけてくださいね。あなたの尻拭いも楽ではないのですから……」
少女はこれ以上ない皮肉で以て、答えた。
ローズマリーは再度舌打ちすると、荒々しく扉を開け放って、少女の部屋を後にした。
こうして、二人は出会った。
ローズマリーは敵意を、少女はほんのわずかな興味を相手に抱き。その歪な関係は、それから四年間という年月をかけて、少しずつ変化していくことになる。
そして、その関係が。
この先の二人の、ひいては周辺の人々の運命を大きく捻じ曲げてしまうことを、その時の二人はまだ知らなかった。
**
死神が、そこにいた。
暗い路地裏。狭く、細い、一直線の道ならぬ道。その向こうにいる人影は、紛れもなく死神だった。
向かってくる。一歩一歩。私のところへ。
逃げないと。そう思った。
ロゼさんは言っていた。隠れて、逃げろと。でなければ死ぬと。
だけど、すぐに気づいた。
「あ……、」
後ろは、壁。
行き止まりだ。隠れるところも、逃げる道もなかった。
じゃあ、どうする?
何もできない。できなかったら、どうなる?
死ぬ。
「いや……だ……」
さっきの痛みが、脳裏に蘇る。
骨を砕かれ、皮膚を引き裂かれた痛み。あれでも自分は死ななかった。死ねなかった。死神の魔法が本当に死ぬのだとしたら、その痛みは、苦しみは、どれほどのものだろう。
もう痛いのは嫌だ。死にたくない。
やめて。助けて……
「あ、ああ……、あ……」
せめて少しでも距離を取ろうと、私は建物の壁に掴まるようにしながら立ち上がった。そしてそのまま、後ずさろうとして、
「……え?」
不意に、足の力が抜けた。
尻餅をついて、成す術もなく仰向けに倒れる。痛……くない。したたかに打ちつけたはずなのに、腰も、肘も、なんともなかった。
なんともない……それどころか、何も感じなかった。空気の冷たさも、地面の固さも、足の疲れも。すべての感覚が、手足の先から抜け落ちていた。
まるで、そこだけ死んでしまったかのように。
「嘘……」
呆然と、自分の身体を見下ろす。
そこにあるのは確かに自分の腕のはずなのに、自分の腕じゃないような……まるで人形の腕でも見ているかのような、そんな空恐ろしい感覚があった。
「うそ……嘘……そんな、そんなのって!」
かろうじて動く肩と腰でもがきながら、動け、動けと力を込める。だけど動かない。そもそもこれまでどうやって手足を動かしていたのかすら、よく思い出せない。
そんな事実に愕然としながらも、動け、動けと念じつづけた。
だって、動かないと、もう……
死神が。死神が、もう、すぐそこまで……!
「いや……やめて……、こないで。こないでよぉ!」
叫んでも、その歩みが止まることはない。
死神はもう、すぐそこだった。その顔が、立ち姿が、はっきりと見える。
死神は、髪の長い女の子だった。痩せこけた身体を薄汚れた布で包んだ姿。包帯の巻かれた顔は、まっすぐと私のほうへと向けられていた。
その死神が、近づいて、近づいて……
私の真横に、そっとしゃがんだ。
指が、労わるように、私の頬を撫でる。
「――――、」
私は、恐怖に声すら出せなくなっていた。
足掻いても無駄だと、その指の動きが語っているかのようで――激しく波打っていた心臓を、きゅっと掴まれたかのようだった。
もう、駄目だ。
私はついに諦めて、目を閉じ、呼吸を止めた。
せめて、せめて苦しまないで死ねますように。そんなことを祈りながら。
静かに、その時が来るのを、待った。
…………。
「だいじょうぶ、です、か?」
「…………え?」
**
魔獣が出るというカムガッタの村までは、ウルカドルから徒歩で約一日程度かかる――その情報に誤りはなかったようで、日が昇る前から歩き始めた俺とディーネは、まだ空が明るいうちに目的の村へと辿りつくことができた。
だが、残念なことに、そこで俺たちという戦力が歓迎されることはなかった。
否。
そこには既に、歓迎する村人が、一人も残ってはいなかった。
「なんか、いろいろ手遅れでしたーって感じね……」
「…………」
ディーネの心無い呟きを、俺は窘めることすら出来なかった。迂闊に口を開けば胃の中のものをぶちまけてしまいそうだ。
それは、凄惨な有り様だった。
荒らされた畑。陥没した道路。折れた樹木に、半壊した建物。そして――
踏みにじられ、食い散らかされた、無惨なヒトの死骸。
カムガッタは、既にこの世の地獄と化していた。
「こうなってくると、報酬は期待できそうにないわね。首でも持って帰ればウルカドルの人からせびれるかしら」
「あ、ああ……」
「ちょっとロゼ、あなた大丈夫?」
大丈夫じゃなかった。正直、立っているのも辛かった。
情けない。王城育ちのディーネは平気そうな顔をしてるっていうのに。これが現役騎士とインドア神使の違いか。
「ちょっとそこで休んでなさいよ。私はそのへん調べてくるから」
「いや、いい……。お前に任せてると、どんな無茶をされるかわかったもんじゃない」
ディーネがにやりと笑った。「思ったより元気そうじゃない」とでも言うように。いや、軽口とかじゃなくて本気で信用ならないだけなんだけどな……
俺たちは村を歩いて廻った。確認することは主に三つ。生存者の有無と、村の被害状況、そして魔獣はどうなったのかだ。たいして広くもない村だし日が暮れるまでには終わるだろう。
被害状況はどこもかしこも似たようなものだった。生存者も今のところは一人も見つかっていない。
「それだけ凶悪な魔獣だったってことかしら」
唐突にディーネが言った。だが言いたいことは十分に伝わった。
「だとしたら、それはそれで妙なんだ」
「どういうこと?」
首を捻るディーネに、俺は歩みを止めずに答えた。
「魔獣は召喚獣と同じように、魔力で動く。無意識の魔力で動くのもいるが、それでここまでの被害が出るとも思えない」
「ふーん。つまり?」
「誰かが意図的に魔獣を生み出したんじゃないかってことだ」
俺がそう言ってもまだ、ディーネは腑に落ちないような、興味のなさそうな顔をしていた……いや、ディーネはそれでいい。魔獣を倒しさえしてくれれば。そういう小難しいことを考えるのは俺の仕事だ。
「意図的に作られたなら、固有の能力を持ってる可能性が高い。くれぐれも気をつけろよ」
「それって、出会い頭にいきなりぶった斬ったらダメってこと?」
「いや、それは斬っていい」
「それじゃあいつも通りね!」
「…………」
やっぱりお前も少しは考えろと、そう言いたくなった。
**
いったい、何がどうなっているんだろう。
どういう状況なんだろう、これは……
「あみか……だいじょう、ぶ? て?」
「へ? あ、はい。手は、やっぱり動きませんけど。気分は悪くないです」
「そう。よい、よい、です。……ひひっ」
私の隣で屈託なく笑うのは、目に包帯を巻いた女の子――死神だった。ほわほわの笑顔がすっごく可愛い。癒される。
癒されるけど、今はそれに気を取られてる場合じゃない。早くこの状況を整理しないと。
今、私は、道路脇に停車した屋根のない車の助手席に座っている。もちろん死んでいない。そして運転席には死神がちょこんと座っていた。
そう、つい数分前まで私が死ぬほど恐怖していた、あの死神が。
……どうしよう。ぜんぜん整理できる気がしない。
「えっと……、レイさん、でしたっけ?」
「はい、わたし、レイ、です」
「その、レイさんは……本当に、死神なんですよね?」
「はいっ、レイ、しにガミ、です」
「…………」
「あみ、か? どうします……ました、か?」
きょとんと首を傾げる死神。可愛い。殺人的に可愛い。
なんかもう、訳がわからなかった。会ったら殺されるはずの死神に助けられて、しかもそれがこんなに可愛い女の子。訳がわからないからもういっそこの子を抱きしめて頬ずりして袋に詰めて持ち帰って部屋に飾りたい。
腕さえ、腕さえ動けば、それができたのに……
「悪いね、アミカちゃん」
心底悔しがっているところへ、車の前のほうから声をかけられた。
「レイのお守りなんかさせちゃってさ」
「あ、いえ、お守りだなんてそんな……。車のほうは直りそうですか?」
「あー、多分ゴミ詰まってるだけだと思う。すぐ直して宿まで送るよ。悪いね待たせて」
「い、いえ! 私のほうこそ、困ってたところを助けてもらって……」
私を助けてくれたのは死神のレイちゃんと、いま車のエンジンを修理しているユリガンダさんという人だった。二人は訳あって一緒に旅をしているらしい。
私はてっきり、手足が動かなくなったのは死神の魔法のせいだと思っていた。だけどそうじゃないらしい。私がロゼさんから離れたからこうなったとのことだった。魔力切れとかユリガンダさんは言っていたけど、今一つ意味がわからなかった。
それどころか、現状わからないことが多すぎる。いったい何から聞けばいいのやら……
「あの、ユリガンダさん。聞いてもいいですか?」
「ん? なにかな? 僕に答えられることなら」
「はい。えっと……」
「ゆりー、おなかすいたー」
おおっと。
いよいよというところでレイちゃんに持っていかれた。だけど許す。可愛いから。
「おいおいレイ。今話の途中だったろ? ちょっとは遠慮しろよ」
「……えん、りょ? えんりょ……。えんりょ?」
「あー、わかったわかった。そこのパン食べてていいから。大人しくしてろ」
「ぱん!」
ぴょんと飛び跳ねるレイちゃん。なにこの生き物。可愛すぎるんですけど。
レイちゃんはお行儀悪くシートを乗り越えて後部座席へ移動すると、荷物の中からごそごそとパンを取り出した。何となく目で追っていると、それに気づいたレイちゃんがきょとんと私のほうを見た。まあ、目は包帯で隠れてるんだけど……
「あみか、も、食べる、です?」
「え? あ、ううん、そんなつもりで見てたわけじゃないんだけど……」
「食べない、です……?」
しゅんと、今にも泣きだしそうな顔をされた。
「ああっ、ち、違うの! 食べる、食べるから! だから泣かないで!」
「…………にへ~」
途端に悪そうな笑みを浮かべるレイちゃん。してやったり、みたいな。
なんかもう、完全に手のひらで転がされていた。なのにぜんぜん憎たらしく見えない。むしろ小悪魔可愛い。レイちゃんの手のひらの上なら私いくらでも転がっちゃうよ!
「あみか、あーん」
レイちゃんが、一口サイズにちぎったパンを差し出してくる。まあ、手が動かないんだから、そうしてもらうしかないよね。
「あ、あーん……はむっ」
口を開けて、パンを頬張る。柔らかくて風味もある。いいパンだった。少なくともロゼさんが買ってくる安いパンよりはずっと。
レイちゃんにあーんをされながらしばらくパンを食べていると、また一つ新しい疑問が湧いてきた。今更な疑問だけど。
「ねえ、レイちゃん」
「……? なに、です? あみか」
「レイちゃんって、その包帯でどうやって目が見えてるの?」
そう、レイちゃんは、目に包帯を巻いている。
そんな状態だと、私の口元に正確にパンを差し出すどころか、満足に歩くことさえできないはずだった。だけどレイちゃんにそんなぎこちなさは微塵も感じられない。いったいどういう理屈なのか……
「みえ……?」
だけど当のレイちゃんは、こてんと首を傾げた。
「見えてる、です? うー……。見えてる、ない、です?」
どうやら、見えるという言葉の意味がわからないらしい。
「えーっと、レイちゃん、その手に持ってるのは何か、わかる?」
「ぱんです」
「だよね。じゃあどうして、それがパンだってわかるの?」
「…………?」
今度は反対側に首を傾げた。
どうしよう。話が通じない。これ以上どう言えばいいのかわからない。
「ゆりー、なんでー?」
早々に諦めたレイちゃんがハンドルの向こう側に尋ねかける。すごく潔い丸投げっぷりだけど、一応これ、レイちゃんのことなんだけどね……
「レイは魔力を感知できるんだよ、アミカちゃん」
フロントの向こうから顔を覗かせたユリガンダさんが答える。話は聞いていたらしい。
「魔力を感知……ですか?」
「うん。コウモリって知ってる? あれは、超音波を出してその反射で物の位置がわかるって言うだろ? そんな感じで、レイも魔力の反射で物を視てるんだよ。厳密には違うけど」
「はあ……」
正直、よくわからなかった。
そもそも、魔力っていうもの自体が上手くイメージできてない。こんなことならもっとロゼさんのウンチクをちゃんと聞いておけばよかったかもしれない。
「それで、他に聞きたいことはある?」
「え? えーっとですね……」
レイちゃんの目のことは、あくまでも気になったから聞いただけだ。今はそこを掘り下げるよりも、もっと他に聞かないといけないことがたくさんある。
そう、今私が、一番聞きたいことは……
「私は、どうして死んでないんですか?」
「ん?」
「あ、いえいえ! そうじゃなくて……」
質問の仕方が悪かった。私はもう一度頭の中をまとめる。
「……えっと、レイちゃん、は……どうして死神だなんて呼ばれてるんですか?」
「アミカちゃんは、死神に会ったら殺されるって教えられてたんだね」
質問の裏側まで読み取られて、私は少し居心地が悪かった。
だけどユリガンダさんは気分を害した風もなく、私の質問に答えてくれた。
「確かに、殺されていたかもしれないね。アミカちゃんとレイが会うのが、あと一年も早ければ」
「……? それって、どういう……」
「レイは、魔族なんだ。……魔族って知ってる?」
「い、いえ、すみません」
「ううん、大丈夫。まあ簡単に言うと、あんまり良い育てられ方をしなかったってことさ。そのせいで僕と旅を始めてからも、手あたり次第に殺して廻るその癖が抜けきらなくてね。ちゃんと言うことを聞くようになるまで、かなりの時間がかかった……その頃についたあだ名なんだよ。『死神』っていうのは」
その話を聞いても、私には今一つ実感が湧かなかった。
私の隣にいるレイちゃん。そのレイちゃんは今、鼻歌を歌いながらパンを食べている。
こんな可愛い子が、たくさんの人を殺した。
そして私も殺されていたかもしれなかった。
そんなの、実感が湧くわけがなかった。
「レイのこと、怖がらないでやってね」
「え?」
不意の言葉に、考えに沈んでいた私は顔を上げた。
ユリガンダさんは、レイちゃんのことを見ていた。慈しむような優しい眼差しで。
「レイが悪いんじゃないんだ。魔眼も、その行いも。悪いのはレイを利用しようとした、僕たちだ」
僕たち、と。
そう口にした時のユリガンダさんの顔は、苦渋に歪んでいた。
「レイは、ただの子供だよ。今そこに見えているのが本当のレイだ。できるならアミカちゃんは、変にレイを怖がらずに、普通の子供として見てやってくれないかな」
パンを食べていたレイちゃんが、ユリガンダさんに見られていることに気づいた。さぼってるとでも思ったのか、「ゆりー、はやくー」と無邪気に急かす。ユリガンダさんは「はいはい」と言って車の修理に戻った。
そんなやり取りを見て、それからもう一度レイちゃんを見て……
そしてじっくりと考えて、私は言った。
「……普通の子供として見るだなんて、そんなのもう無理ですよ」
「…………」
「だって……」
悲しげな顔をするユリガンダさんに向けて、私は言った。
「だってレイちゃんは、こんなに可愛いじゃないですか」
ユリガンダさんが、パッと顔を上げた。
「レイちゃんは、普通の子供なんかじゃありません。レイちゃんは、私の天使です」
レイちゃんが、私のほうを見た。
にこっと笑いかけると、にへーっと笑い返してくる。
ああもう可愛い。ほんと可愛い。ほんと天使。
「……ありがとう、アミカちゃん」
「い、いえ。お礼をいうのは助けていただいた私のほうで……というかユリガンダさんに比べたら、私なんてちっともたいしたことないですよ」
「え? どういうこと?」
「だってユリガンダさんは、レイちゃんが『死神』だった頃からずっと一緒にいたんでしょう? 自分も殺されてしまうかもしれないのに、そんなこと……よっぽどレイちゃんのことが好きじゃないと、できませんよ」
目で見られただけで殺される相手と毎日一緒に過ごす……それがどれだけ難しいことなのか、私には想像もつかなかった。相手が積極的に殺しにきているなら、尚のこと。
しかしそんな私の想像に、ユリガンダさんは首を振った。
「ああ、違う違う。そっか、アミカちゃんは知らなかったのか」
「え? 何のことですか?」
「レイの魔眼は、僕には効かないんだよ」
「効かない……?」
そう言われて、私は思い出した。
私はロゼさんに「どうしてロゼさんは外に出てるんですか」と聞いたことがある。その時、ロゼさんは言った。「俺に魔眼は効かない。そういう体質だから」と。
「それって、そういう体質ってことですか?」
「体質というか……まあ、そうだね。言ってしまえば、魔眼は人間には効かないんだよ」
「人、間……?」
人間には効かない。
だけど私には効く。
その意味するところが、じわじわと私の頭に染み込んでくる。
「それって、どういう……?」
「魔眼の効果があるのは、召喚獣か魔獣だけなんだ。君みたいな、ね」
召喚獣。
魔獣。
初めて聞く、二つの言葉。だけどそのどちらも人間ではないことは、聞かなくてもわかった。
私が、召喚獣? 魔獣? ジュウ……けもの。
私は、獣? 人間じゃ、なかった?
また、あの光景が、蘇ってきた。
暗い路地裏。首を斬られた私。蠢く血。恐怖に歪んだ顔。
――化け物ぉぉぉぉぉぉぉ!
「あみ、か? あみか、あみか?」
「…………!」
呼びかけられて、私は我に返った。
目の前には、心配そうに覗き込んでくるレイちゃんの顔。それを見て私は、自分が血の滲むほどに歯を食いしばっていたことに気づく。
「あみか、だいじょう、ぶ?」
「……あ、うん、大丈夫。ごめんね、ありがとう、レイちゃん……」
「ん? アミカちゃん、どうかしたかい?」
ユリガンダさんが顔を上げる。
どうやら私の変調に、ユリガンダさんは気づかなかったらしい。私はほっと息をついた。
「いえ、なんでもありません……それより、ユリガンダさん」
「ん? なんだい?」
「魔獣とか召喚獣って、いったい何のことですか?」
私のその質問に、ユリガンダさんはハッと目を見開いた。
そんな反応を、私はどこか冷めた思いで眺めていた。
だって、そうじゃないかと思っていたから。ユリガンダさんの、まるで私が知っていて当然のようなその話し方。それはつまり、そういうことだった。
「アミカちゃん……君は、そんなことも教えられてないのか?」
知っていて当然のことを、私は知らされていなかった。
ロゼさんは、話してくれなかった。
ロゼさん、あなたはいったい――
**
「ロゼ!」
村の状況を確認していたところ、不意にディーネが小さく叫んだ。
見ると、人差し指を口に当てている。そんなディーネの意図を汲んだ俺は身動きを止め、じっと耳を澄ませた。
「……ぁ……ぅぅ……、ぁ……」
人の声が、聞こえた。
痛みに喘ぐような声。そう遠くはない。俺たちは顔を見合わせてから、素早く声の聞こえるほうへと移動した。
壊れた建物の壁を回り込む。すると、そこにいた。倒れた女性。
「大丈夫!?」
すぐさまディーネが駆け寄る。俺は背嚢から応急処置の道具を取り出しながら、目視で状態を確認した。
成人女性。腕に大きな噛み傷。魔獣の仕業と見て間違いない。他に大きな外傷はなし。気になるのは、傷口からほとんど血が出ていないことだ。これが魔獣の能力なのか?
「ディーネ、俺は傷の手当てをする。お前は周辺の警戒を……」
言いかけたところで、大きな影が頭上に差しこんだ。
怪我をした女性が、目を見張るように俺の後ろを見上げている。
「――――」
考える前に、見る前に、俺は動いていた。
女性の上に覆いかぶさるように倒れ伏す。そんな俺の頭上を、何か大きなものが通り抜けていくのを感じた。
地面の上で反転、確認。そこには、人の背丈を優に超える高さの巨大な犬がいた。
目は黄色く濁り、牙の間からは血と涎の混じったものが滴る。破れた腹部からは腸のようなものが垂れさがっている。生物としては有り得ないその姿。考えるまでもなく、それは魔獣に違いなかった。
俺は咄嗟に、胸元の拳銃を引き抜き、撃った。弾丸は確かに相手の目を捉えたが、しかしまったく怯む様子はない。
魔獣の手が、その、爪一本一本が包丁のような太さを備えた手が、振りかぶられ、自分に向けられる。地面で仰向けになっている俺にそれを避ける術はない。
が……
「ハァァァァァァァァッ!」
光の線が、迸る。同時に、ごぉっと音を立てて熱風が吹きすさんだ。
目を焼くようなその光が去ったとき、そこには燃えさかる炎の剣を片手に屹然と立ち塞がるディーネの背中と、前足を焼き切られて苦しむ魔獣の姿があった。
「その人を早く!」
「……了解」
最低限の言葉だけで意思疎通を済ませて、俺は身を起こす。女性に肩を貸しながら、立ち上がった。
「あ、あの、あの魔獣は……」
「気にするな。今はあんたを逃がすのが先決だ」
実際、俺はそんなにはディーネのことを心配していなかった。
ディーネは強い。ディーネより強い奴を俺は知らない。相手が複数ならまだしも、魔獣の一匹程度なら一人でも何とかするだろう。前足も一本落としたし、もしかしたら俺たちが逃げてる間に片がつくかもしれない……
俺がそんな風に思ったのが、いけなかったのだろうか。
油断、していたのだろうか。
肩を貸していた女性が、俺の身体を突き飛ばした。
「なっ……!?」
突然のことに、俺は反応できなかった。
すぐさま、女性は駆け出していた。ディーネと魔獣のもとへ。駆けながら、腰から何か光るものを引き抜く。
「ディ――」
俺は、叫ぼうとした。だがそれさえも間に合わなかった。
魔獣と対面するディーネの、無防備な背中。そこに体当たりするかのように、そいつは手に握ったそれを深々と突き立てていた。
その、怪しく光るナイフを。




