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アミカ  作者: 泉野 戒
3/7

死神

世界は美しい。ロキ・シュミッドは口癖のようにそう語っていた。

この世界は、計算し尽くされた絶妙なバランスの上に成り立っている。新しい法則に触れる度にロキはそのことを実感し、感銘を受けた。

しかし、その完璧としか言いようのない世界の中で唯一、魔法という概念のみが異彩を放っていることに、ロキは早くから気が付いていた。

魔法ほど、不完全で、不安定で、不平等なものはない。緻密に描かれた設計図の上に子供が落書きをしたかのような違和感が、そこにはあった。

この世の創造主たる神は、何の為に魔法などというものを生み出したのか。そもそも魔法とは何なのか。それを知ることこそがこの世の真理に、ひいては神そのものに近づく唯一の道だと、ロキは信じていた。

神になりたい訳ではない。世界を支配したい訳でもない。ただ、近づき、知りたかった。

だからこそロキは、魔法に惹かれ。

だからこそロキは、神使を志した。


**


「神使、ロキ・シュミッド。陛下がお呼びだ。ついてこい」

「はいはいっと」

億劫そうに立ち上がった見るからに軽薄そうな男に、呼びつけた兵士は眉をしかめた。

兵士は、男のことをこのフェネキア王国一の神使だと聞いていた。だがとてもそうは思えない。安っぽい着物、気の抜けた目、手入れのされていない髭。その辺の浮浪者と大差ないその姿は、もし何も聞かされずに城内で見かけていれば問答無用で追い出していたに違いない。

こんな輩を本当に御前へ連れていって良いものだろうか……内心で自問自答を繰り返しながらも、しかしこれは上からの確かな命令だ。兵士は自分の常識を押し殺して、機械的に玉座の間を目指した。

やがて大きな扉の前まで来ると、ちらりと背後に目をやった。だらしなく背中を曲げる男の姿にもう一度だけ眉をひそめてから、兵士は意を決して扉を叩いた。口上を述べると、重々しい音を立てながら扉が開いていく。

兵士は一歩下がり、代わりに男に前へ出るよう促した。その刹那「粗相のないように」と囁き声で釘を刺しておく。一介の兵士にとって、それ以上の干渉はできなかった。

それに対する男の反応は「へいへい」という、やはり軽薄なものだった。

首が飛んでも知らんからなと心中で呟きつつ、兵士は部屋に入っていく男の背中を見送った。


男の後ろで、扉が物々しい音と共に閉ざされた。

遠近感が狂いそうになるほどの広大な部屋。耳が痛くなるような静寂。中央にまっすぐ敷かれた血のように赤い絨毯の上を、一歩一歩、男は歩く。歩きながら、先程の人が好さそうな兵士の言葉を思い出していた。

「粗相のないように」と彼は言った。しかし、粗相とは何だろう。どういう態度がこの場に相応しいのだろう。もしかすると自分の話し方が既に粗相だったりするのだろうか。

男――ロキは、その振る舞いからして軽薄そうに見える。事実彼は軽薄な男だが、殊この時だけに関して言えば、自ら進んで軽薄そうに振舞っているつもりは毛ほどもなかった。彼も決して、首を飛ばされるのが怖くないわけではないのだから。


周辺諸国から抜きん出た領地と軍事力を誇る、フェネキア王国。現在そのフェネキアを治めているのは、3代目フェネキア女王、カシュミール・フェネキアである。

カシュミールは、先代・先々代の女王と比べても特に残虐なことで知られている。ちょっとした気まぐれですぐ処刑台送りにされると聞くし、しかもその対象は奴隷から貴族まで見境なく、果ては自分の家族ですら手に掛けたとか。悪劣非道の女王と、影では囁かれている。

そんな女王からの突然の呼び出しともなれば、いくら面の皮の厚さに定評のあるロキとは言え、心中穏やかでいられないのも無理からぬことだった。

ただ、ロキとしては、呼び出される理由にまったく心当たりがないでもなかった。ロキは神使だからだ。

神使とは、魔法の原理を熟知し、魔法使いを育成する者のこと。そんな神使の中でもロキは、フェネキア一とまで言われるほどの実力と実績を持っている。そんな自分が女王に呼び出されたのだから、それは魔法の関する何らかの勅命を下されると見て間違いないだろう。

気になるのは、それが本当に魔法で実現可能なのかどうかだ。

魔法というと、どうしても万能なものと誤解されやすい。しかし実際には様々な制約があり、実現不可能なことも数多く存在する。

もし女王からの勅命がそういう実現不可能なものであれば、とりあえずこの場は何とか誤魔化して退席し、すぐさま亡命の準備に取り掛かるしかないのだが……

そんな悲壮な覚悟と共に、ロキは足を進め、やがて女王に謁見した。

赤い絨毯の先、無駄に高い檀上に煌びやかな椅子が据えられ、そこに座った燃えるような赤毛の女性。それが女王に違いなかった。

ロキが間近に女王の顔を見たのは、その時が初めてだった。そして、その感想は、

(割と普通なんだな)

だった。

別にロキは王を崇拝している訳でもないが、それでも王族と言うからには、どこかしら常人とは異なるところがあるのではないかとも考えていた。

しかし実際目の当たりにした女王は、身なりこそ豪奢だが、中身はその辺で見かける中年女性と何ら変わりなかった。少なくともロキにはそう見えた。

「お主が神使、ロキ・シュミッドじゃな」

「は、はい」

女王に名前を呼ばれて、慌てて跪く。確かこういう感じで良かったはずだと、うろ覚えの知識を総動員しながら。

「構わぬ。楽にせよ」

言われて、おずおずとロキは顔を上げた。恐縮したような態度を醸し出していたが、頭の中では(楽にするってどうしたらいいんだろう)などと考えていた。横に寝そべったりしたらさすがに怒られるだろうか、と。

「実はの、お主を国一の神使と見込んで、頼みがあるのじゃ」

「はぁ。頼み、ですか」

予想外に穏やかな話しぶりに、つい気の抜けた返答をしてしまう。悪劣非道で知られる女王とは思えない物腰の低さだった。

「えっと、なんか魔法を仕込んでほしいとか、そういうお話ですかね?」

「如何にも、その通りじゃ」

「ではどのような魔法をご所望で?」

「うむ。不老不死の魔法を頼みたい」

「…………」

思わず、ロキは頭を抱えていた。

不老不死。よりにもよって、不老不死。

歴史を軽く紐解けば、幾人もの権力者がそれを求め、手に入れること叶わず挫折してきたことがわかるはずだ。にも拘わらず、この女王もまたそれを求める。もしかして権力者はみんなバカなんじゃないだろうかと、ロキは思った。

「なんじゃ、難しい顔をしおって。できぬと申すのか」

「ええっと、まあそのぉ……、ですねぇ」

その時点でロキの頭の中は、如何にしてこの場を切り抜けるかということしか考えていなかった。

不老不死なんて不可能だ。しかしその事実をそのまま突きつけて、この女王様が納得してくれるかどうかはわからない。逆上されて死刑などという事態だけは避けたかった。

「失礼を承知でお聞きするんですが……陛下は、魔法についてどんくらいご存じで?」

「触り程度、と言っておこうかの。本を一冊、読んだのみじゃ」

「本、ですか……」

それがまともな本であれば、不老不死が不可能なぐらいはすぐに理解できるはずだった。つまり、それはまともな本ではなかったか、あるいは目の前にいるのは余程の愚王か……

そんな風にロキが考えを進めていると、唐突に、女王が何事かを諳んじ始めた。

「魔法とは、科学的・論理的に起こり得ない事象を引き起こす技術。術者の強い思い込みによって発現するとされており、その術者を通称、魔法使いと呼ぶ」

「…………?」

「魔力とは、魔法の強さや能力。それを決定づける主な要素として、思い込みの強さと、他者に自己の思い込みを共有させる能力が挙げられることが多い」

「――――!」

そこへ来てようやく、ロキは気付いた。

女王の口から紡がれているそれは、数年前にリカルド・アキレスという神使が書き記した、魔法に関する総論――その一文だった。

「女王陛下、まさかそれを……」

「うむ。読んで、全て覚えておる」

なんと馬鹿なんだろう、とロキは思った。さすがにその心情は表には出さなかったが。

その研究書は、神使であるロキですら途中で読むのを放棄したほどの膨大な量の書籍だ。エヴァンスの場合、既に知っている内容だったからという理由もあるにはあるが、それを差し引いてもあれを全て覚えるには途方もない時間がかかることは想像に難くない。

「そして、お主が今言いたいのはこの部分じゃろう? 『生物の体内は不可侵領域と呼ばれ、これに対して魔法を行使することはできない』」

「そ、そうです! そうなんですよ!」

それは、少しでも魔法に関する知識を持つ者なら誰でも知っていることだった。

生物に直接魔法は使えない。そのため魔法で以て敵を害する場合は、敵本体ではなく敵の周辺に対して魔法を使うのが常道だ。

また同様の理由で、回復魔法や人体強化魔法なども実現できない。如何に自分自身の身体であっても、魔法で怪我が回復することは有り得ない。不老不死など論外だった。

「そこまでご存じなら、女王陛下……」

「しかしの。それでも我は、諦めきれんのじゃ」

「いや、諦めるとかそういう問題じゃなくてですね……」

またもやロキは頭を悩ませた。魔法のことを理解させるのが最大の難関だと思っていたのに、まさか理解はしていて納得していないとは。

ただ、同時に疑問も感じていた。

この女王は、どうも頭が悪い訳ではなさそうだ。それなのにここまで意固地になる理由は一体何なんだろう、と。

「なんでまた、そこまで不老不死にこだわるんですか? いや、死にたくないってのはまあ、わかるんですが」

その踏み込みすぎな質問を、この場にいる誰も咎めなかった。聞かれた女王でさえも。

「一つ、勘違いしておるようじゃがの。誰も自分が不老不死になりたいとは言っておらぬ」

「へ? じゃあ、誰を不老不死に?」

「――我が子を」

そう言って、女王は、自らの腹を愛おしげに撫でた。

「生まれてくる我が子を不老不死にして欲しい。病まず、老いず、未来永劫に健常でい続けられる、そんな子供が、我は欲しい」

「…………それは」

如何にロキが世事に疎くとも、カシュミールの第一子、ダイアナ・フェネキアのことは知っていた。二年前に生まれた、念願の王女。

その子供は昨年、言葉もろくに話せないうちに夭折していた。

「…………」

ロキは、情に厚いタイプの人間ではない。

愛のある両親に育てられた訳でもないし、子供もまだいない。だから親の気持ちというものには共感できなかった。ただ、そういう感情があるということは理解していた。

女王の気持ちの一端を理解し、その上でロキは、結論づけた。この話は、適当に誤魔化していい話ではないと。

「……女王陛下」

この時ほど、ロキが真摯に受け答えをしたことはなかった。

誤魔化すことなく、冗談めかすこともなく、ロキは答えた。

「生き物の体が不可侵領域なのは、俺ら神使の間じゃあこう言われてます。生き物にはみんな、自我を守る強い壁が心の中にあるんだって。人はその壁があるから、人の心を持って、人の形をしていられるんです」

「…………」

「その壁を壊しちまったら、それはもう人間じゃあない。それどころか、生き物でもない。それはもう、ただの……」


「人の形をした、化け物です」


**


「ひぅ……、ぅぐ、うっ……、……、ひっ……、ひぅっ……、……、っ……」

暗い路地裏を、私は重い足を引きずりながら歩いていた。

砕かれたはずの足はまっすぐに繋がっている。お腹にも傷一つ残っていない。首も、爪も、どこもかもが元通りだった。綺麗に、跡形もなく。

「なんで……、っ……、なん、で……」

わからない。もう、何もかもわからない。

どうして怪我が治ったのか。どうしてこんな酷い目に遭わないといけないのか。私は、いったい何なのか。

化け物。

あの人は、化け物と言った。

違う、私は人間だと、いくら心で否定しても、別のどこかで冷静な自分が宣う。「首を斬られて生きているのが、化け物でなくて何なのか」と。

もう自分が信じられない。足が震える。歯の根も合わない。怖かった。あの人は私を見て逃げ出したけど、私が私から逃げるためにはどうしたらいいの?

自分が怖い。さっきまで普通に動かしていた自分の手や足が、どこか得体の知れないもののように感じる。もう何も見たくないと目を閉じ、耳を押さえても、それでもどうしようもなく自分を感じる。

脳裏に蘇る、蠢く血。首が落ちても動き続ける身体。あれはどう見ても、化け物にしか見えなくて……

「違う……!」

うずくまって、私は叫んだ。

「違う違う違う違う! 私は、私は……人間で……!」

何度も、何度も叫んだ。心の声を押し殺すために、何度も。

それでも心の声は消えない。虫のように這いずる血の記憶が消えない。あの男の人の、恐怖に引きつった顔が、消えない……。

化け物。その言葉を否定できるものが、私には何一つなかった。私は知らない。私には記憶がない。私は、私のことを知らない。

それを知っているのは、私の知る限りでは、一人だけ。

「ロゼさん……」

そう、ロゼさんだ。あの人なら、ぜんぶ知ってるはず。

あの人に聞けば、わかるはずだ。私が何なのか。ちゃんとした人間なのか、それとも……、……ううん、違う! そんなこと、あるはずがない。

「ロゼさん……」

私はもう一度立ち上がって、歩いた。ロゼさんのいる宿を目指して。

ロゼさんのところまで行けば、何とかなる。私の不安を打ち消してくれる。この地獄から抜け出せる。また今朝までのようなぽかぽかした日常が戻ってくる。

そんな、根拠のない希望を、胸に抱いて。


**


「ロゼさーん! ローゼーさぁーん! いーまーすーかー?」

「うるさい。聞こえてる」

「もう、聞こえてるんならもっと早く返事してくださいよ。そんな無愛想だと女の子にモテませんよ?」

「お前だんだん俺のこと舐めてきてないか? 最初はもっと……」

「なんですか。文句ありますか?」

「いや、ない。ないから早く自分の部屋に戻れ」

「い・や・で・す! ロゼさんに文句がなくても、私にはあるんですー」

「ああそうか。聞かなくてもわかるけどな」

「いいですかロゼさん! 三日ですよ! 三日! 三日!」

「ふわぁ〜……」

「あくびしてないでちゃんと聞いてください!」

「聞いてる聞いてる。アレだろ、この宿に泊まって三日経つって言いたいんだろ?」

「そうです! 私もう飽き飽きです! 少しぐらいは外に出たいですー!」

「いやお前、子供じゃないんだから……」

「子供じゃなくても! 三日も部屋の中にいたらイライラして頭ヘンになっちゃいますよ!」

「……そういうモンか」

「そういうモンです! だからロゼさん! せめて今日ぐらいは外に行かせてください!」

「駄目だな」

「何でですか! 何が良くないんですか!」

「良くないと言えば、そうだな。この辺は治安が良くない」

「それが出かけちゃいけない理由ですか?」

「それもある」

「周りくどいです。男らしくもっとはっきり喋りやがれください」

「口調口調。……そうだな。これは言っておいたほうがいいだろうな」

「…………? 何ですか?」

「アミカ、実は今この辺にはな――」


「死神が、いるんだよ」


**


歩いて。歩いて歩いて歩いて。

かなり長いこと歩いたのに、まだ私は路地裏から抜け出せないでいた。

あの人に引きずられていたときは動転していて、だから宿からどれくらい離れたのかはわからなかった。それでもこれだけ歩いて表に出られないのは、やっぱりおかしい。

歩く方向を間違えたんだろうか。引き返そうかと考えるも、そもそも自分がどっちの方向から歩いてきたのかさえあやふやだった。いつしか闇は深まり、一歩先にあるものの輪郭すら怪しくなってきた。

道中、誰とも会わなかった。雑多な路地裏は静寂が保たれていて、世界に私一人しか存在しないんじゃないかと、そんな錯覚を抱かせる。

足が重い。疲れが足に溜まっていた。一歩一歩がまるで苦行だ。それでも私は歩いた。歩かないと、また悪い考えが私を襲ってくるから。歩くことぐらいしか、今の私にはできないから。私には、何もないから、

歩いて、歩いて、歩いて。

ただひたすらに、私は歩き続けた。


**


「はぁ……死神、ですか」

「言っておくが、冗談とかじゃないからな?」

私の疑念を敏感に感じ取ったロゼさんが、むくれた顔でそう言った。

いや、でも、死神って、ねえ?

記憶がない私にとって、死神と言えば鎌を持って黒いローブを着ているあのイメージだ。お化けや悪魔と大差ない。そんなオカルトチックなもの、いくら真面目な顔で語られたって、信じられない。

そんな気持ちが伝わったのだろう。ロゼさんはやれやれと首を振りつつも、「いいか、よく聞けよ」と前置きを入れて、言った。

「死神ってのは通称だ。わかりやすく言うとそいつは、死の魔法を使う魔法使いだ」

「死の魔法……」

ロゼさんのその簡単な説明は、しかしそれで十分な説明になっていた。

死の魔法。相手を殺してしまう魔法。そんなものがあるのなら、警戒して当然だった。

「そんな魔法が、あるんですか?」

「不完全だけどな。大抵の人間には効き目がない。ただ、お前は……お前の体質だと、死の魔法を掛けられた瞬間に即死する」

「即死って、そんな……」

「即死だ。間違いなく即死すると思っていい。だからいいか? 死神に会ったら、とりあえず姿を隠せ。それからすぐに逃げろ」

「で、でも、死神って言っても、ただの人間なんですよね? それって、すぐに死神だってわかるものなんですか?」

「わかる。アイツの姿は特徴的だからな。俺の話をちゃんと覚えてれば、一目見てソイツが死神だってわかるはずだ」


**


行き止まり、だった。

両側に建物。目の前には高い壁。とても超えられそうな高さじゃない。暗かったせいで近づくまで気づけなかった。

引き返さなきゃと、頭の中では考えていた。だけど、どうしようもない徒労感と、溜まっていた疲労がどっと押し寄せてきて、足が動かなくなった。

たまらず、私はへたり込んでいた。

もう、疲れた。

歩きたくない。動きたくない。ここでこうしていたって何の解決にもならないのはわかってるけど、でも、もう限界だった。

壁にもたれて、上を見上げる。青い空が、いつにも増して遠く感じた。

私は今、どこにいるんだろう。ここから出られるんだろうか。ロゼさんは、今頃どうしているんだろう。私を探していてくれてたら嬉しい。もしそうだとしたら、案外こうして座り込んだままでも見つけてもらえるかもしれない。

そんな考えが浮かんでくるも、縋るには少し、楽観的すぎる考えだった。

私は、ロゼさんのことを知らない。私とどういう関係なのか。私の身体のことを知っていたのか。だとしたらどうしてそれを黙っていたのか。何も知らない。わからない。それに、仮にロゼさんが探していてくれたとしても、こんな路地裏の奥深くに入り込んでしまった私を見つけられるかどうかはわからない。

結局、私は自力でここから抜け出すしかない。

重いため息をつきつつ、私はもう一度腰を上げようとして――寸前。

足音が、聞こえた。

音の方向へ目をやると、何かがこちらへ向かってくるのが見えた。暗くてよく見えないが、確かにそれは人影だった。

「……ロゼさん?」

小さく呟いて、直後、違う、と思った。

ロゼさんは、もっと背が高い。その人影は小さかった。子供のように小さくて、そして、細い、誰かだった。

私は、思い出していた。ロゼさんの話を。

見ただけで相手を殺すという死神の話を。


**


「死神は、子供だ」

「子供、ですか……?」

「ああ、子供だ。十歳ぐらいかな。これぐらいの背丈で、身体は異様に細い。骨が動いてるんじゃないかってほどにな」

みぞおちぐらいの高さを手で示しながら、ロゼさんは言った。

「そして最大の特徴が、その目だ。死神は、目に包帯を巻いている。迂闊に誰かを殺してしまわないように、白い包帯を、な」


**


歩いてくる人影の顔が、建物と建物の合間から差し込む光に一瞬だけ照らし出された。その顔を見た瞬間、私の背中に怖気が走った。

顔に包帯。骨のように細い身体。子供。

ロゼさんの言う通りだった。見ればわかった。今私に向かってきているモノ。それは、間違えようもなく……

「死、神……」

私を殺す、死神だった。


**


「それはつまり、化け物であれば不老不死にできるということじゃな?」

「…………は?」

広大な玉座の間で、ロキは呆気に取られた。

化け物――言うまでもなくそれは、女王を諦めさせるための言葉だった。愛する我が子を化け物にしたい親などいるはずもない。であれば、諦めてくれるだろうと。

しかしその意に反して、女王は嬉々として身を乗り出した。

「どうなのじゃ。化け物なら可能なのか?」

「は、はあ、まあ……。できなくはないでしょうが……」

「そうか! さすがは我が見込んだこの国随一の神使じゃの! お主に相談して良かった! おい、そこの。ロキに渡す褒美を持ってこい」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

ここへ来てようやく、女王が本気だということをロキは悟った。

「なんじゃ? 褒美ならもちろん、今日だけではなくこれから何度でも授けようぞ?」

「いえ、褒美のことではなく……。女王殿下は、その、失礼ですけど……俺の言ってる『化け物』が何なのか、本当に理解してるんですか?」

「無論じゃ」

そう言いつつも、女王がその詳細をこの場で語ることはなかった。しかしそれこそが、女王がすべてを理解している証左に他ならなかった。

なぜならその魔法は、世界中ほとんどの国で禁忌とされている魔法なのだから。

咄嗟にロキは、周辺に控えている兵たちの顔を窺った。この会話は迂闊に広めていいものではない。そう危ぶんだからなのだが……

「案じずとも良い。口の堅い、信頼できる者のみを残しておる」

女王に機先を制してそう言われ、安心すると同時に、得心した。

つまりこの女王は、初めからわかっていたのだ。不老不死にするならあの魔法しかないと。

「つまり女王殿下は……そうまでして、生まれてくる子供を不老不死にしたいと仰るんですか?」

「そうじゃ」

「化け物にしてでも?」

「そうじゃ」

女王カシュミール・フェネキアは、迷いなく答えた。その顔には一切の邪気はなく、事実、カシュミールに邪な思いなど何一つなかった。

我が子を生き永らえさせたい。国を守りたい。純粋で慈愛溢れるその心が、カシュミールをどこまでも狂わせていた。

今更ながらに、ロキは自分が既に後戻りできないところまで来てしまったことを悟った。この女王は、禁忌に触れようとしている。それを知ってしまったからには、ロキに残された道は二つに一つ。口封じに殺されるか、女王の命に従い、自らも禁忌を犯すかだった。

そんな絶望的な状況下で、ロキは……

「…………、く」

「…………」

「くく、く、くくく、くくくく……」

ロキは、嗤っていた。

顔を歪ませ、身を縮こまらせて、くつくつ、くつくつと嗤っていた。その様子に兵士たちが警戒して身構えるが、それでもロキは嗤っていた。

その時の、ロキの心中を満たしていたもの。それは紛れもなく歓喜だった。

ロキはずっと探していた。禁忌に触れる機会を。その先へと至る道を。

論理的には可能であると分かっているのに、倫理的な観点から行使できない魔法の数々。人情とか道徳とか、そんな理由で神使としての自分の可能性が狭められていることに、ロキは心底うんざりしていた。

この女王の国を動かす力が利用できるなら、如何な禁忌であろうと実現できる。ロキにはその自信があった。そして実現さえすれば、その先にまた新たな道が開けるはずだ。

神に至る道はここに違いないと、ロキは思った。

「わかりました」

ロキは、もう迷わなかった。例えその先に待つのが死であろうとも、後悔しないだけの自信があった。

「女王殿下のその悲願、この俺が必ずや叶えてみせましょう」

それは、狂気。

女王カシュミールと同じように、神使ロキもまた、その心は狂気に満ちていた。

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