笑い
安息日、私を眠りから覚ましたものは予期せぬ来訪者であった。それは母であった。父の姿は見えなかったので、恐らくは手紙の件だろう。私が気乗りしない返事を度々出していたせいか、直接やってきたのだ。
「中に入っていいかしら?」
言い終えるや否や返事を待たずに母は窓際の椅子に腰掛ける。
ケトルから注がれた紅茶を差し出すと、母は次のように切り出した。
「話があるの。分かっていると思うけど、手紙のことよ」
「……父さんには言ってあるの?」
返す言葉が見つからず、私はお茶を濁すようにそういった。母が父に無断でここへ来ていることは自明であった。母はそんな私の質問には答えず、こう述べた。
「貴方が直接会って説得してくれないかしら。あの子はまだ30半ば。やり直せると思うわ」
あの子、というのは私の兄のことである。兄はサレルノ大学の医学部を卒業して、研究医として暫く助手の仕事をした後、医務官として王宮に雇われることとなった。一年近く王宮に勤めた後、兄は突然逃げるようにして王都を去った。王宮からの通達で初めて兄の失踪を知った父は、兄の行方を知らぬまま、悶々と日々を過ごしていた。数ヶ月が経った後、兄からの手紙が届き、漸く兄の行方を知ることとなった。兄は王宮から逃げでた後、大病院の勤務医として辣腕を奮うでもなく、他の大学に移り医療の研究に従事するでもなく、ただ片田舎の自宅に敷設した研究部屋にこもって怪しげな研究を行っていたようだ。兄の資金の出自がどこから来ているのかは甚だ不思議ではあったが、高給であった王宮医務官時代の貯蓄と考えるのが自然であろう。何はともあれ、兄がそんな調子であったから、両親は全うな職に付かないと勘当するぞと脅したのであるが、兄は聞き入れず、激昂した父は「これ以後ヴェルガの姓を名乗ることは許さん」と言い放って、兄との連絡を一切絶ってしまったのである。しかしそうなっても母はやはり兄のことを心配しているようで、何とかして更正させようと齷齪しているのであるが、父の面目のこともあってか直接会いに行くのは憚れるらしく、私を介して兄を説得してくれないかと度々頼み込んできていた。それが当初は手紙に依るものであったが、私の方でも何年も兄に会っていなかったため、そうすることに躊躇いがちであり、仕事の忙しさを口実にして母には曖昧な返事を出すばかりであった。そうした状況についにしびれを切らした母が私の自宅にまで押しかけていたのである。私が休日には暇を持て余していることが露見したことも手伝って、直談判の圧力の前に私は承服せざるをえなくなってしまった。
兄はポテンツァ市の南東にあるカルヴェロにひっそりと住居を構えているという。私の住むナポリから、そこまで行くのには蒸気機関を使うのであるが、交通の都合上一旦そこを急行で通過して、マテラまで行き、その後鈍行で戻ってこなければならないのが不便ではある。しかし、それでも1日で着く。40年ほど前までは数日かけて行っていたというのであるから技術も進歩したものである。それでも明日までに自宅に戻るのは難しそうなので、勤め先に休暇を申請し、その足で汽車に乗り込む。最寄の駅で降り、喧騒なガレリアを抜けると、閑散とした住宅街に出る。その住宅群に囲われた丘の上に、一回り大きな建物が聳え立っていた。その威容は、どこか封建時代の領主の館を思い起こさせた。あれが兄の住居であろう。その建物にはあまり苔の生えてない、比較的新しげな区画があったが、恐らくあれが、研究用の部屋なのであろう。あるいは、薬品か何かで苔が生えなくなっているのかもしれない。成る程その区画では、窓は全てカーテンで覆い隠され、分厚い壁に囲われた様子が、その閉鎖性を象徴していた。門の前に来ると、悪鬼のような形をした造形物が門の一部として張り付いており、その口からは輪っかがぶらさがっていて、なるほどこれを引っ張れば呼び鈴になるのだなと思い、ひっぱって見るのだが、まるで手ごたえがない、壊れているのだろうか。ためしに門を押してみるが開かない。住宅の中心だったので気乗りはしなかったが、仕方なく声を上げてみるが、その反応もない。
(さて・・・・困ったな・・)
兄に会うこと自体あまり気が乗らなかったため、出立前は、どこかに会わずに済むような口実はないだろうかと思いあぐねてみたものだが、いざ家の正面にたってみると、ここまで来たのだからどうしても会ってやらねばという気がしてくるので不思議である。
「そこの家に用があるのかい?」
ふと、付近の住人と思しき壮年を過ぎた初老の男性に声をかけられた。私が大声を出していたのに気づいたのだろう。私は少し狼狽しながらも
「ええそうです」
と答えた。
「君は、ダリオ先生の弟?」
何故私が弟であることを彼が知っていたかを理解するのは容易だった。私が門前で「兄さん! 私です!」と大声で叫んでいたからである。こうなってはもう言い逃れは出来ぬと思い、私は観念したかのように
「はい」
とだけ答えた。すると、意外にも男性の反応は柔和であった。
「そうか、そうか。その呼び鈴は壊れているよ。こっちへ付いて来なさい」
私はこの男性が兄のことを先生と呼んでいたのを忘れなかった。意外なことに兄は、付近の人々から、少なくともこの男性からは慕われているようだった。
「君の名前は?」
「アルベルトといいます。アルベルト……」
私がファミリーネームを言いかけると彼はそこで口を挟んだ。
「アルベルト=オットーネか」
そこで私は、へ? と頓狂な声をあげてしまった。私の苗字はヴェルガである。ひょっとして間違った家に来てしまったのかと一瞬疑ったが、オットーネという名前には聞き覚えがあった。父が「苗字を名乗ることを許さん」と脅した際の兄からの返事の差出人名が、ダリオ=オットーネとなっていたのである。父はこれを見て自分へのあてつけかと激昂したのであるが、ここに来て漸くその名前を思い出した。
「違うのかい?」
男性は訝しんだ。一つの可能性が脳裏をよぎった。恐らく兄は偽名を使っているのではないか。王宮からの追及を逃れるために、こんな片田舎で偽名をつかって暮らしているのではないか。推測でしかないが、そのように私は考えた。ファーストネームが変わっていないのは、この地方では割とありふれた名前だからであろう。
「いえ、そうです。どうして分かったのかと一瞬驚いてしまって」
「そりゃあ弟さんなら同じ苗字だろうさ」
と言って彼は笑ったので、私も調子を合わせた。
「ここが裏口だよ」
見ると、確かに鉄格子の中に錆びた赤茶色の取手が在った。
「先生、弟さんがいらっしゃいましたよ」
扉が開くと、果たして三年半ぶりの再会であった。髭を剃っていること以外は、あまり変わっていないらしく、相変わらず髪はボサボサで、白の中に色とりどりの斑点がほどこされた古着の白衣を着用していた。
「久しいな」
案内人の男性が離れるのを見送った後、兄は話し始めた。
「で、どうしてここに?」
「母さんが、まともな医者の職業に付けって……」
「まだそんなことを言っているのか? 生憎、それは無理だよ」
「どうして?」
「あんな目にあったんだ。もう権力のしがらみに縛られた研究をするのが嫌になったよ。それにここでも十分研究は出来るんだ。……それに、お前はさっき医者の仕事をしろと言ったが、俺はここで臨床医をやっているんだ。結構評判も良いんだぞ」
これは意外な答えであった。しかし、母としては名門の医学部を出た以上こんな片田舎で医者をやっていくよりは、大病院か大学で勤務して欲しいと望むだろう。しかし私自身は、兄にそうして欲しいとはあまり思っていなかったため、有効な反論を考えつかねていた。すると、兄はこう続けた。
「お前は私の研究の素晴らしさを分かっていないからそう言うのだろう」
なるほど確かにその通りである。そして、私は常々気になっていたことをたずねた。
「兄さんはどうして王宮から逃げていったの?」
「話そう。座りなさい」
「ここ数年、ロベルト王に継承者がいないことが問題になっているだろう?」
ロベルト王というのはシチリア王国の王ロベルト一世のことである。ロベルト王はパルマ王国の王族マリーア・ピアを妃に迎えていたが、近年二人の世継ぎがいないことが問題となっていた。
「ええ……、フェルディナンド王子が夭逝してしまったからね。……残念だね」
「実はフェルディナンド王子は死んでなんかいない。王宮内で生きて暮らしているよ」
「なんだって?」
「それだけじゃない。ロベルト王とマリーア妃―正確にはマリーア・ピア・デッラ・グラツィア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ―の間にはフェルディナンド王子のほかに一人の息子と一人の娘がいる。全員知的障害だがね。だから秘匿されているんだよ。正当な王族の血統に片輪者が出るなんて、彼らは認めたくないのだ。だから一人目の息子フェルディナンドが知的障害であることが判明すると、彼らはその事実を秘匿するために夭逝したことにしたんだ。だが、三人もの嫡子が立て続けに重篤な障害を持っていることが分かると、王妃も絶望したのか、まだ歴史の浅い脳外科の専門医として私に治療を依頼したのだ」
私は兄の口から滔々と語られる驚愕の事実に言葉を失っていた。兄はそんな私の様子を気にかけることなく、言葉を継いでいく。
「脳に外科的な手術を行う手法自体は新石器時代から存在していてね。インカ帝国の遺跡から出土した頭骨に穿頭術が施された痕跡が発見されたりしている。当時はノミや針などの道具を使って空けていたらしい。麻薬を麻酔代わりに使っていたという話もあるが、実際は分からんね。かのヒポクラテス大師も記録を残しているが、この時代になってくると鋸のような道具を使い始めている。だが、こういった手術は感染の危険を多分にはらんでいたため、積極的には行われていなかったんだ。19世紀になってからは、御ウィルヘルム・ワーグナー氏がその可能性を低減する手術法を確立した。その方法っていうのは、穿頭した部分を皮弁や骨組織で覆うことなんだけれど、兎に角これによって脳外科の手術は大分光明を得ることになった。その後クッシングによって止血術が洗練され、ゴッドリー・リックマンは始めて脳腫瘍の摘出に成功している。それからジョン・フルトンによって確立されたロボトミー手術だ。これは脳の前頭葉を摘出することによって癲癇やら鬱病やらを治そうっていう手法だ。だがこれにも問題はあってね。大脳の前頭葉を根こそぎ切除しちゃうわけだからね。奇矯な行動はしなくなるだろうけど、とても理性ある人間にはなれなくなるケースが多い。まあ要は無気力になったり、いきなり暴れだしたりするということだ」
私は一向に核心に至らない兄の話に疲れはじめていた。私としてはそうした素振りを見せたつもりは無かったのだが、兄の方がそれを察知したのか、こう述べた。
「失礼。少し脱線してしまったね。まあとにかく脳に外科的な手術を施して心の病を治そう、っていうのが課題であったわけだ」
「私は若かったけれども、外科手術の腕は確かであったから、王宮医務官として登用されるのも不思議ではなかった。尤も、無名な私を登用していたのは、世間に王族の秘密が露見した時のための保険だったのかもしれない。学会や政府と大きく繋がっている人物は扱いにくいだろうから」
「まず私が公務に付いて、最初に診察にあたったのは7歳くらいの男児だ。王宮の寄宿舎に寝泊りしているアントニー=サゴマンという教育係を勤めている人物の息子だと紹介された。その時私は拍子抜けしたよ。教育係などは王族でも何でもない、恐らく学者だろうが、その程度の身分の人間だ。王宮に勤務するというから、さぞかし名のある王族貴族の治療に当たるのだと胸を張っていたのに、町中の治療院に訪れる患者に毛が生えた程度の人間の治療に当たるんだと思うと、意気消沈したりもした。その時は自分自信の思い上がりを諌めることにしたよ。よくよく考えてみれば、私ごとき30そこらの新米が王族の治療を担うなんてことは考えられるはずもなかったんだってね。何はともあれ、その時点で緊張から一気に開放された。体中から私を圧迫していた空気が抜けていくような感覚に襲われた。それほど気を張って臨床にあたらずとも良いんだと思った。でもそれこそが思い込みだったんだ。何せ、後で分かったことだが、その教育係の息子と紹介された男児が他ならぬフェルディナンド王子だったのだからね」
「なんですって!?」
「お前が驚く気持ちも分かる。何故、一国の王子をただの教育係の息子だなんて紹介したのかってことだろう。だが、さっき少し説明したことを考えればお前にも納得が行くと思うが、どうかね?」
こういって兄は鷹揚に葉巻を取り出し火を付けた。答えを考えあぐねている間、兄が葉巻の煙を吸う度にちらちらと光る炎がやけに鮮明に見えた。
王子の身分が偽られていた理由、それは私にも想像出来た。不具者を王子として紹介してしまっては、王族の血統に泥を塗ることになる。それよりは、身分を偽って治療させておく方が賢明だろうと考えたのだろう。
「治療が済むまでは、王子であることは秘匿しておこうという魂胆だったのでしょうね」
「その通りだ。だが、私は担当した少年がフェルディナンド王子であるとはすぐには気づかなかった。無理もない話だ。そもそも、王子は死んだはずの人物なのだからね。まさか、その王子が生きていて、身分の低い人物に身をやつして私の診察を受けに来ているなどとは思わわなかったよ。だが、診察を続けている内に不審な点がいくつもあったのだ。
まず、教育係の息子だというのに父親は付き添いで来なかった。来たのは、使用人と名乗る男だけだ。それに使用人は、その息子に対してやけに恭しげに振る舞った。貴族でない人間に、それも片輪者である年端の行かぬ少年に対して敬意を払っているのは不審に思えた。もっと決定的な出来事があった。いつものように診察を終えて私が部屋から出ていこうとした折、その片輪者の少年は扉が開く瞬間を狙って部屋を飛び出した。
どこへ行くのかと後を追うと、あろうことかその少年は、偶然回廊を通っていた王妃の足に抱きついたのだ。それで王妃は足を崩して危うく転倒しかけた。なんとか転ばずに済んだものの、王妃を危うい目に遭わせた責任の一旦が私にもある以上、気が気では無かったよ。その日の内に解雇を言い渡されるのではないかとすら思った。当然、その少年にも懲罰が言い渡され、王宮から追放されるのだろうと思った。そもそも片輪者を王宮においておくこと自体変な話だからね。だが驚くべきことに、何のお咎めも無く数日が過ぎた。王妃にあれほどの無礼を働いておきながら、何の懲罰も無いなんてありえるはずが無いと思った。そこで疑ったんだ。ひょっとしてこの少年が教育係の息子だっていうのは偽りなんじゃあないのかってね。そしてもう一つ、その時初めて間近で王妃の顔を見たのだが、何となくその少年に顔立ちが似ているように思えたんだ。それに気づいた瞬間ある恐ろしい考えが思い浮かんだ。ひょっとしてこの少年は王妃の血縁者-年齢から言って息子-なのではないかとね。そしてフェルディナンド王子がもし生きていたらいくつくらいかと計算してみたら、丁度その少年と同じくらいだったんだ。
それから私は、この推測が当たっているのかどうか、使用人に問い詰めた。はじめは否定していたが、私がその男の言葉の矛盾を指摘し続けていると、やがて白状し、どうやら私の推測通りであることが判明した。それだけじゃない。ロベルト王の嫡子はフェルディナンド王子以外にもう2人いるらしいことも分かった。さっき少し言ったが、長女のルイーザと、次男のエンリコだ。長女も片輪者であるらしく、5つになる。言葉を理解することは出来るし、話すことも出来るのだが口数は少ない。始終、何かにおびえているようで幻覚や幻聴に苛まれているようだ。次男のエンリコは3歳になるが、まだ言葉が喋れない。3歳で言葉が話せないというのはそれほど珍しい例ではないが、障害を負っている可能性を危惧しているのだろうか、エンリコ王子の存在を国民に発表することを王は避けている。使用人の者は元々フェルディナンド王子が王子扱いされていないことに同情的だったらしく、よく喋ってくれたよ。こんなに喋っていいのかと私が動揺してしまう程だった。恐らく事実を打ち明けた方が、王子の診察を丁重に行ってくれると観念したのだろう。事実、私はこの話を聞いてから以前に増して慎重に診察を行うようになった。
診察は王子の行動の一挙手一投足を観察することから始まった。精神医学においては、症状を行動や態度から診察するからね。王子は明らかな発達障害で、言葉も上手く話せなかった。時々単語を発することはあるが、それも呂律が回っておらず、赤ん坊が喚いているかのようだった。私は、フェルディナンド王子の症例が、過去にドイツの医者が腫瘍除去で治療した患者の症状に酷似していると思い、治療に当たることにした。脳腫瘍が見つかればそれを摘出するのが一番早いのだが、それを観測するのもなかなか骨が折れる。近年レントゲンが発見したX線だって、骨は写るが脳は写らない。脳を写すためにはカテーテルを使って脳の血管に造影剤を注入しなければならない。これも危険を伴うことでね。決断するのには随分悩まされたよ。しかし、悩んでばかりもいられないので実行に移した。造影剤を注入すること自体は成功した。しかし、脳の造形に腫瘍などの構造は見られなかった。代わりに脳室が拡大し、脳自体は萎縮していた。穿頭して脳に直接セロトニンを注入するということもやってみた。考えうる手法を試したが、どれも効果が無かったので私は途方に暮れてしまい、ロボトミー手術を行おうかとも考えた。しかし……」
言いよどむと、兄は俯けていた顔を上げ、覇気のある口調でこう述べた。
「もし、ロボトミー手術を行っていたら、王子は死んでいたかもしれないし、成功していたとしても、無気力なゾンビのような人間になってしまっていたんじゃあないかと思うね。萎縮した脳にロボトミーを行って良い結果が出た例はほとんどないんだ。しかし、私はその直前に別の手法を閃いた。とんでもない発見だった。私はまだ実験途上ではあったが、王子にその手術を施そうと思った。今思うともう少し慎重になるべきだったと思う。しかし、第二王子のエンリコが健常者である可能性があった。それが判明すると私はお役御免になる。そうなる前に、私の理論を実証的に成功させたかった。魔が差したとでも言うべきか。王子は知的障害を患ったままだと、このまま王宮で、王族としての扱いを受けずに生涯をすごすことになるだろう。そうなるよりは、たとえ失敗する可能性があろうとも、実験的に行う価値はあると思った。そして、実際に手術を行ったのだ。王子は暫くは歩けなくなったが、やがて回復してきた。だが、その過程で彼の精神に驚嘆すべき変化が顕れた。王子は次第にまともな会話が出来るようになってきたのだ。発音に関しては、母音のuとoの発音の違いが明瞭でないという欠点があったが。尤も彼なりには区別が出来ていたつもりらしい。その内文字を読むことも出来るようになってきた。だが、書くことにおいては、私が左手で書くような文字しかかけなかった。彼の行動のなかに時折不可解なことがあった。
王子は以前のように王妃を見かけては突然部屋を飛び出していくことがある。その度に王子を叱るのであるが、王子はその時ひきつったような笑みを浮かべるのだ。叱られているという時にそのような笑みを浮かべるのは奇妙だった。自分が怒られている事を理解していないのだろうか、とその時は思った。言葉を理解出来ないとしても、話し方や表情である程度、他人の感情は読み取れるとも思うのだが、それすらもこの王子は出来ないのかと失望した。だとすると、症状は予想以上に重篤である。
こんなこともあった。私が彼の食事における無作法や、部屋の散らかりを叱る際に、「こういったことをしてはいけない」とか、「こんなことをしては駄目だ」というと、彼は芯の抜けたようかのように呆然としてしまう。何度言ってもそうなので、一度怒鳴ったことがあった。すると彼は以前見せた引きつった笑みを浮かべるのである。不愉快に思った私は彼を打擲する素振りを見せた。彼は申し訳なさそうに俯いて縮こまるのであったが、その顔はなおも笑っていた。その奇妙な様子を見て私はそれ以上追及することはやめた。
彼の不行儀を指摘するのは一度や二度ではなかったので、度々叱ることとなったが、その際、彼はいつも先述の笑みを浮かべるのであった。叱り文句に、「そういうことはしてはいけない」ということを言っても聞かず、「止めなければたたくぞ」という一種脅迫めいたことを言わなければ止めないのであった。
彼の笑みが何を意味していたのか……、王宮にいた時は気づかなかった。しかし、私はこの研究所である動物について研究している内に、一つの仮説が脳裏に浮かんだのだ。なんだと思う?」
兄は自嘲めいた口調で私に謎かけをした。私には皆目見当が付かなかった。
「それだけ聞いても何のことやら分からないよ」
と言うと兄は、
「まぁそうだろう。聞け。私が考えたのは……次のような事だ。彼……、フェルディナンド王子が笑みを浮かべるのは恐怖や苦痛を感じたりするときなのではないか。もし、そうだとすると恐ろしい事だ。今まで王子によかれと思ってやっていた事が実は、彼自身にとっては耐え難い苦痛であったのかもしれない。そう考えると、私は末恐ろしくなった。
フェルディナンド王子がこんな様子であった一方で、すくすくと育っていくエンリコ王子が健常者であると思われる確証が益々高くなっていくのであった。これは危うい事であった。もしそうであれば、私が王宮に居る名目は無くなるのである。エンリコ王子が正常者であるなら、最早フェルディナンド王子に前例の無い治療を試すという冒険をする必要はなくなるだろうからね。ところが、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても私が解雇される事は無かった。いつものように、女官に差し出される紅茶を口にしようとするとにんにく臭のような匂いがする事に気がついた。気味が悪いので一口だけ飲んでそのまま放置していた。その夜、腹痛と嘔吐を催す頭痛に苛まれた。紅茶を飲み干さなかったのは偶然だ。毒を盛られるなどと疑っていたわけではない。おそらくヒ素が含まれていたのだろう。そのときに初めて、王宮の誰かが秘密隠匿のために私を殺そうとしている事を悟った。幸い命には別状はなかったので、その日の内に私は王宮を抜け出した。そこで私は偽名を使って、この片田舎で暮らす事にしたのだ。ファーストネームを変えなかったのは、ありふれている名前だったし、かえって変えない方がバレないかと思ってね。しかし、私の知人に尋ねたところ王宮が私の行方を捜査をしている様子が無くなった事から、王宮は私を探す事を諦めてくれたらしい事が分かった。それで、両親にも連絡を入れたのだよ。まぁ、しかし、追っ手が無いと分かったからといって、王都で目立った行動をするのは気が進まないよ」
兄が王宮から逃げ出すに至ったおおまかな理由を理解できた。それは目眩を引き起こすほどの凄まじい事実の連続であった。これが、見知らぬ者の口から語られたものであれば、私は決して信用しなかったであろう。これほどまでに凄まじい経験をした事を考えれば王宮医務官という職を捨てたとしても非難される謂れは無いだろう。たとえ、片田舎の自宅で研究にふけっていたとしても……。
そこまで考えてある事に気がついた。結局兄がこの建物で行っている研究とは何なのか? それをまだ聞いていなかった。
「兄さん。兄さんはこの建物でどんな研究をしているんですか? 今までの話と関係があるのでしょうか?」
「大有りだ。その研究というのは、王子に施した手術に関するものなのだからね。そうだ。それを伝えねばならなかったのだ。まあ、言葉で説明するより、私の研究部屋に来てもらう方が分かりやすいだろう。付いてきてくれ」
そう言われ、私は居住区から離れた別棟に案内された。そこには見たこともない、動物がいた。皮膚は黒く、鼻はつぶれており、毛むくじゃらではあったが、よく見ると人間に近い顔つきをしていた。そして、驚くべきことに私たちが近づくと、Buon giornoと書かれた厚紙を持ち上げて、私に見せるのであった。
「これはチンプだ。サルの一種だよ」
私が驚きを隠せず言葉を失っていると、兄はそう説明した。
「サル? これがサルだって? こんなに大きいのが?」
私は一度子供の頃、ローマの動物園でサルを見たことがあったが、こんなに大きくはなかった、せいぜい私の顔ほどの大きさであった。近づくと、歯をむき出しにして微笑みを浮かべた。来訪者である私を歓迎してくれているのだろうか。私も笑顔を返して手をふる。
「兄さん、この生き物は人間慣れしているようですね。初めての来訪者である私に笑いかけている」
「それは笑顔では無いのだ。威嚇、もしくは不快感を表している。人間の笑顔に似ているからと言って、喜んでいるなどと判断してはいけないよ。この生き物がこういった表情をしている時は嬉しいどころか嫌がっているのだ。さっき、フェルディナンド王子は不愉快の時に笑顔になるのではないか、と言ったと思うが、それはこの生き物を見て気づいたことなんだ。シチリア王国でもこいつらを見られるのはローマの動物園か、サレルノ大学の研究所、あるいはここくらいだな。彼らは恐るべき知能を持っていて、かなりの数の単語を理解することが出来る。例えば水と言ったら、彼らはのどが渇いているときには喜んでいるそぶりを見せるし、腹がたらふくの時にご飯と言っても彼らはそっぽを向くんだ。実際、我々が今している会話だって、その何割かは理解しているんじゃないかとすら思えるね。この生き物の脳を解剖してみたところ、人間との類似性がかなりあって驚いた。ダーウィンさまさまだね」
「それで、この生き物と王子の治療がどう関係しているのです?」
「この生き物の脳はね、萎縮していた王子の脳に類似していたんだよ。それゆえ王子は禽獣のごとく知能の振舞い方をしていたのではないかと私は推察したんだ。脳の外科手術において、脳腫瘍が出来た場合はそれを除くのが普通だ。では、脳が萎縮していた場合はどうすると思う?」
「付け加える……?」
「そうだ。だが、他人のを付け加えるとしても免疫上の問題がある。主要組織適合性抗原といってね。他の個体の組織は、たとえどんなに血縁上近い人のであっても、移植すると拒絶反応が起きるんだ。だったら自分のをつけるしかない。かと言って脳の一部分を切除して他の脳部位につけるんじゃあ本末転倒だ。そもそも脳を代表とされる中枢神経系は修復されないからね」
私は適当に答えたつもりであったが、意外にもそれが正解であったようだ。
「脳は修復されない……? それじゃあ付け加えても修復なんて無理でしょう」
「ところがそうではないんだ。最近分かってきたことだが、抹消神経を中枢神経に移植すれば中枢神経であっても修復が起こることがわかってきている。もう分かるね。抹消神経の方を中枢に移植すれば良いのだ。抹消の方は抹消の方で放っておいても勝手に修復される。こういう寸法さ。先刻王子が歩けなくなったといったが、それは足の神経である大腿神経を脳に移植したからなのだ。それで今私は脳に神経を移植する実験をこの生き物で行っているのだ。無論、この生き物は脳が萎縮していたりはしない。だから健常者の脳に神経を付け加える形となるのだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。えーと、つまり、脳でない部分の神経を脳に移植すれば良いってことなんですか」
「脳だけでなく脊髄もそうだね。脳と脊髄以外の神経を移植すればよい」
「健常者の脳に神経を付け加えて、それでなんというか、ちゃんとくっつくんですか」
「接着した後は脳を閉じるからなんともいえないが、この生き物は手術前に比べて恐るべき知能の増加を果たした。それが脳に影響を与えているであろう証左だ。お前も見ただろう。我々に向かって挨拶するのを」
「でも、それくらいだったら訓練すれば犬にだって出来るんじゃあないですか?」
「左様。それはその通りだ。この動物は人間のように言葉を話すことは出来ぬ。咽喉の構造上それは不可能なんだ。だからこういった回りくどい方法でしか確かめることは出来ない。だが、この動物は日が暮れると、今度はBuona seraの紙を掲げるようになる」
「確かにすごいけど。それくらいだったら……」
「まあ、落ち着け。他にもある。実際に見てみるのが早いだろう」
兄は、黄色い果実の一切れを取り出すと、おもむろにそれをサルに見せた。すると、サルは「欲しい」と書かれた画用紙を上に掲げた。そして兄は次に、青々としてまだ熟していない果実を見せると、サルの方は「要らない」という画用紙を掲げるのであった。ここまでだったら私はさほど驚かなかったであろう。しかし、サルはその後、「貴方に」と書かれた紙と「あげる」と書かれた紙を両手にそれぞれ持って見せ付けてきた。
「言葉を理解しているのですか?」
「そうだ。犬やネコの類は単語単位の言葉を理解できるかもしれないが、言葉と言葉をつなげて文を作ることなんて到底できない。だが、この生き物はそれを実行しているのだ」
「それが、手術の成果だというのですか?」
「そうだ」
「だが、私は人間でこの手術をやった結果どうなるのか、ということが知りたい。あの王子は今どうなっているのかを知りたいのだ。そこで、危険ながらも王宮で懇意にしていた教育係の男と通じて、王子を世話している下男と連絡を取ることを試みた。それがつい一週間前のことだ」
「まだ、連絡は来ていないのですか?」
「まだだ。だが、もう近日中にやってくるはずだ……妙に落ち着かない気持ちだよ」
と言って、兄は紅茶をすすった。そうして、足を組み、肩肘を椅子について頭を乗せると目を瞑った。眠ろうとする仕草なのかと思ったが、地面についている方の脚を足踏みしはじめ、再び目を開けて葉巻を取り出し、くわえた。その間、しばし沈黙が流れた。
窓に目を向けると既に日は沈みきっていた。
私は母に頼まれたことをすっかり忘れて兄の話に聞き入ってしまっていたのだ。
どうやら母の要求通りのことを兄にさせるのは難しいようだし、私も乗り気ではなかった。
兄が田舎でありながらも臨床医として市民から信頼を得ていることを伝えれば、母も兄のしごとをしぶしぶ認めるだろうと、そんなことを考えながら寝室に向かった。
翌日、居間に行くと兄が悄然とした様子でうなだれていた。
傍らのテーブルには、捨て置かれた手紙があった。それには次のように書かれてあった。
「フェルディナンド王子についてだが……残念ながら彼は先月亡くなってしまった。だが、気を落とさないで欲しい。彼は決して不幸ではなかった。君の治療のおかげだ。王子は然程奇矯な行動をしなくなり、障害者としての扱いは受けなくなった。話し言葉も比較的流暢になり、食事も手づかみで食べることを止めた。しかし、王子としての扱いを受けることはなかった。おそらく、第二王子のエンリコがいたからであろう。君を殺そうとしていたのは王妃個人の差し金らしく、王宮の総意ではないらしいことも分かってきた。妃は片輪者の子供ばかり産んで、王から疎まれていたからね。自分にも正常な子供が生めることが分かると、その事実を知っている者を消し去りたかったのだろう。もしかしたら、王子自身も殺されたのかもしれない。彼は王妃からは疎まれていたが、不思議と悲しそうな表情はしなかった。いや、むしろ笑っていることが多かったようにも思われる。彼が亡くなったとき、彼はレオンハルト家の養子として扱われた。葬式は厳かに行われた。式に出席できたのは王宮でもごく限られた人だけであろう。私は幸運にもその一人に選ばれた。葬儀が行われたのは王宮に付設されたあるあの教会だ、君もよくミサに訪れていただろう。きらびやかな装飾とは不似合いなほど質素な儀だった。賛美歌隊も無く、献花も王族のそれに比べれば、話にならないほど少なかった。それでも彼は幸せを感じていたのだろうか、色とりどりの花々に彩色された棺桶の中で、静かに笑っていた」
兄の話を聞く前であったら、この手紙の言葉通りに王子は幸せだったのだろうと思うことが出来たに違いない。しかし今となっては、その手紙で語られている笑みに、何か別の気持ちが込められているのではないかと思わずにはいられなかった。