星間飛行
この世に存在するいかなる物体も、光速に達することはできない。亜光速といって、限りなくその速さに近づけたとしても、手が届きそうなくらい僅かな差は、決して埋められないのだという。
物体には重さがあるから、というのがその理由らしい。アインシュタインの相対性理論によれば、質量を持つ物体が光速まで加速するには無限大のエネルギーが必要で、そんな膨大なエネルギーなんて現実には存在するわけもなく、だからつまり、どんなものであっても光と同じ速さで進むことは不可能なのだと結論づけられる。
だとしたら、光というものは放たれた瞬間から、一人きりなのだろう。他のあらゆるものを置き去りとして、あの暗い宇宙の中を、私たちの暮らしているこの空間を、脇目も振らず、ただ一直線に突き進んでいるに違いない。かたときも、止まることなく。
それならば光はなんて孤独なんだろう。わたしがそう言うと彼は笑った。優しく、あやすように。
どうして急にそんなことを思い出したのだろう。
今まで記憶にすら留めていなかったはずなのに。
山頂まで続く林道は、明け方まで降っていた雨でぬかるんでいた。お陰で足を突くたびに飛び散る泥で、お気に入りのパンプスが台無しだ。おまけに高いヒールは湿った岩肌で滑って足を挫きそうになる。ただでさえそんななのに、暗い夜道とあってはその歩き辛さは尚更で、やっぱりスニーカーとまではいかなくても、もう少し歩きやすいものにすれば良かったって、今更ながらに後悔する。
だいたい拓也も拓也だ。
精一杯めかし込んできたわたしを見て、何もこんなところに連れてくることなんてないのに――。
勿論前を歩く拓也に悪気なんて、これっぽっちもないことはわかっている。だからそれが余計に腹立たしかった。
――明日、会いたいの。
そう切り出したのはわたしの方だった。携帯電話を握り締めたまま二時間も躊躇った末にかけたその先で、わたしはただそれだけを告げた。それで十分だと思った。返事もただ、「わかった」という、その一言だけで、あまりにあっさりとしすぎて、気が抜けるくらいだった。お互いにもう泣いて喚くこともできないほど大人になったんだって勝手に納得して、そのくせ、朝が来なければいいのにと願ったまま眠れなかった。それなのにいつもと同じように呆気なく、分厚い雲の向うで日は昇った。その間ずっと、雨が降っていた。
昼過ぎまで空を覆っていた雲は、夕方になる頃にはすっかりとどこかに消え失せていた。それによって顔を出した月の明かりで夜道を歩くのは幾分マシだったけど、その所為でわたしはここにいる。
小休止で一度足を止めて顔を上げると、満天の星空が見えた。街から車で一時間程度走っただけなのに、これほど星がはっきりと見えるのが意外だった。満員電車から人が押し出されるように、そこにひしめく星々が弾き出されて落ちてくるような気がして、ぞくりとした。あの一つひとつの星は肩を寄せ合うことでしか並んでいられないくらい近くにいるように見えるのに、実際は光の速さをもってしても何百年もかかるほど遠く離れているらしい。そのことに最初は驚いたけど、今なら理解できる。
それはまるで、わたしと拓也との関係そのままだ。
「大丈夫かい?」
振り返った拓也はもう、五メートルくらい先にいた。手を差し伸べてもわたしが受け取らないことを、さすがにもうわかっているから、ただそこで待つだけだった。
「平気よ。ありがとう」
いつもと同じように答えると、少し足早に拓也のところまで歩く。彼は苦笑を浮かべながらまた、夕闇を突き進んでいく。
可愛くない女だって、そう思われていたのかもしれない。だけど、そんなふうにしか生きられなかった。誰かに甘えながら生きるのが嫌で、いつだって自分の足で歩いていたくて、胸を張っていられる人になりたかった。そんな女が拓也にはお似合いで、彼にふさわしい女に、なりたいって、そう思っていた。
現実が理想に追いつくことは、遂にはなかったけれど。
白いワイシャツが、蒼白い月明りを浴びて揺れる。それが道標だった。ずっと、そればかりを見つめてきた。背の高い拓也とわたしの歩幅は違うから、いつだって拓也は先を歩いていた。少し離れると困ったように振り向いて、わたしが並ぶとまた歩き出す。拓也はわたしと合わせようと長い足を絡ませるようにして歩くのに、また少しずつ、距離が開いていく。気づけばもうずっと、そんな歩き方をしていた。
一見仕事帰りのサラリーマンふうの外見には似つかわしくないくらいの大きな望遠鏡を背負っているのに、拓也の足取りは軽快だった。学生の頃、大気成分調査のアルバイトで何度もこの道を登ったらしい。望遠鏡は勤め先の研究室から借りてきたのだとか、今日がしし座流星群のピークなのだとか、そんなことと一緒に、まるで独り言みたいに夕闇に呟いていた。わたしなんて放っておけばもうとっくに目的地に着いているだろうけど、その声が聞き取れなくなるくらいになると、決まって足を止めて振り返る。わたしが見失わないように。
実を言えばそんなふうに見る拓也の背中が、わたしは堪らなく好きだった。鍛えているわけではないけれどちょっぴり厚めの胸板に腕を回して、そこに顔を埋めて、甘酸っぱい汗の匂いを思いっきり吸い込みたかった。
今更そんなこと、できるはずもないのに。
「……ねぇ」
わたしが呟くと、前を歩く拓也が僅かに首を傾げた。山肌を滑り降りてくる夜風に紛れて、聞こえなかったのかもしれない。蒼白い月明りに染め抜かれた草花が風に吹かれて揺れる。そんなざわめきが、ここには二人だけしかいない静寂を、一層深めていた。
「最近どうしてたの? 確か前に外国に行くなって話してたと思うけど」
努めて明るい声を出すと、振り向く拓也も一抹の不安を拭い去るように笑った。
「一昨日までカリフォルニアにいたんだ。君も写真か何かで見たことあるかもしれないけど、イニョー山地というところに二十三台ものパラボラアンテナが並んでいる天文施設でね、そこでおおぐま座の方にあるクエーサーの観察をしていたんだ」
それが何の役に立つのかはわからないけど、わたしはただ曖昧に頷いた。誇らしそうに語る彼に目を細めながらも、胸の奥はキリキリと痛んでいた。そんなふうに胸を張って報告できることなんて、わたしには一つもない。
「標高が二千メートルを越えるくらい高い場所にあるから大気の影響も少なくて、夜になると凄い小さい星まで見えるんだ。両手一杯に掻き集めて、トランクの中に詰め込んで持って帰れるんじゃないかって思えるくらいに星空が近くてね、この場所も好きだけど、やっぱり向うは比べ物にならないくらい素敵だった」
歩きながら見上げる夜空は星が瞬いていて、街では殆ど見ることのできない天の川まではっきりと浮かんでいた。これでもう、十分なんじゃないかってわたしは思う。この目に映る以上の光景なんて、想像もつかなかった。それは多分、子供の頃に見たプラネタリウム以上のものなのだろう。
「あの星空を、いつか君にも見せてあげたいって思った……」
そう呟く拓也はきっと、この夜空を通して、わたしの知らないカリフォルニアの空を見ているような気がした。そして、窺うような視線を向けてくるのを見て、恐らくわたしが呼び出した理由に気づいているのだろうと思った。
――さすがにそこまで鈍感というわけでもないか。
「それにしても差をつけられたものね。最初はあなた、meとmyの使い分けもできなかったのに、今では世界を股にかける国際人ってわけか」
少し拗ねた声を上げると、拓也は鼻先を撫でながら呟いた。
「章子には感謝してるよ」
あの時、英語を教えて欲しいのだと、彼は言った。確か、高二の夏休み明けぐらいだったと思う。それまであまり話した記憶もなかったから、その申し出はあまりにも唐突だった。どうしてわたしなのかって訊くと、入学直後に提出させられた自分の夢についての作文で、わたしが翻訳家になりたいと書いていたからだと言った。だからきっと英語が好きで、教えるのも得意なんじゃないかって思ったらしい。
あんな下らない作文の内容を憶えられていたことが驚きだったし、そのとき初めてわたしは、彼が一年も同じクラスだったことを知った。
「どうしても嫌だって言っても、あなたは許してくれなかった。あまりにもしつこかったからつい引き受けちゃったけど、テキトーにやってればすぐに諦めるって、そう思ってた」
「見事に見込みが外れてしまったわけだ」
まるで人事みたいに呟く拓也の背中を睨んだ。それでも気づかないから、パンプスの爪先で軽く石を蹴る。あの頃のわたしは、結構本気で嫌がっていたのだから。
教えるつもりなんてまるでないんだぞ、という態度を取っていれば、一週間もしないで根を上げるだろうって思っていた。だけど一ヶ月が経っても、拓也は解放してくれなかった。だから終業の礼が終わったら逃げるようにしてたけど、大概は先手を打たれて掴まった。当時、いつも仲がいいのねって、事情を知る友達にからかわれていたわたしの気苦労を、拓也はまるで気にしていなかったみたいだった。
「あのとき、どうしても読みたい本があるから、なんて言ってたけど、あれって結局なんだったの?」
「ジェイムズ・P・ホーガン著、星を継ぐもの」
「なんだ、今にして思えば割りとベタなSFだったってわけか」
「星とか宇宙とか、そういうものに興味を持った少年がロマンをかきたてられるには、割と十分な作品でだろ?」
理科とか数学とかの勉強がやたらできて、天文学者になるのが夢だなんて公言していた彼だから、もっと小難しい専門書とか論文の類に手を出している嫌味な男子だって、そう思っていた。でも実際はただのSFに憧れる男の子だったんだって思うと、出会った頃の拓也がこれまでよりも少しだけ愛しく思えた。もっとも、同学年に日常的に本なんて読んでる堅物なんて、他にはいなかったけど。
「迷惑しちゃうわね。そんなのわざわざ原書で読まなくったって、いくらでも訳本があったでしょうに」
「あの頃はなぜだか、どうしても原文で読みたいって思ったんだよ」
呆れた溜息混じりに呟いたわたしの言葉に、拓也は言い訳するみたいに笑った。わたしも笑い返したつもりだったけど、目が合うと風に拭い去られたみたいに笑みが消えて、足元の水溜りを見つめた。
でも本当は――そして不意に、闇に溶け込むような声が聞こえた。
「章子に話しかける口実が欲しかっただけなのかもしれない」
もう一度振り向いた彼に、わたしはどんな顔をしていいのかわからなかった。わたしはただ、驚いていた。拓也がそんなことを言うなんて、思ってもみなかった。だけど拓也は聞こえていなかったと思ったらしく、安堵したような、少し残念そうな表情を浮かべると、水溜りを大股に跨いだ。
※
高三の一学期、あんなに勉強して受けた期末テストの点数を見て、わたしは翻訳家になる夢を早々と諦めた。どうせ、本気で思っていたわけじゃないからという言い訳を口ずさみながら。そして、そのとき初めてわたしは拓也に負けた。それから卒業するまで、わたしは二度と彼に勝つことはできなかった。
「ねぇ、あんたってさ、将来のこととか考えてる?」
卒業を半年後に控えた秋の日、最終的な志望校の決定にわたしは頭を悩ませていた。
その頃になっても拓也はまだわたしを解放してはくれなくて、誰もいなくなった放課後の教室で、二人顔を突き合わせていた。もう教えられることなんて、一つもないことをわかっているらしく、彼は自分で教科書を開き、わたしは暇そうにそれを見つめていた。
「水野はM大の英文科に行くんだろ? あそこは英文学に造詣が深い教授が揃ってるみたいだから、翻訳家を目指すには……」
「あぁ、そういうのはもういいの。だいたい考えてみれば一日中文字と睨めっこする仕事なんて無理。頭がおかしくなっちゃいそうじゃない」
わたしにはもっと向いていることがあると言いながらも、その小さな胸はチクリと痛んだ。それが何なのか、本当は何がしたいのか、今の自分でさえもわからない。
そうか、という彼の呟きが、小さな針でもう一度わたしの心を突き刺した。
「あんたはどうせT大に行くんでしょ?」
「いや、俺はA大の理工学部」
「嘘! なんで? あんたの成績ならもっといいとこ行けるのに」
「先生にもそう言われた。でも大学の知名度とかランクとか関係ないんだ。A大には西村っていう教授がいて、その人が……」
星がどうとか、電磁波がなんだとか、そんな研究の話をされても良くわからなかった。ただ、やっぱり嫌味なヤツって思った。みんなが血眼になって欲している可能性を、拓也は惜しげもなく手の中から捨て去れるのだ。自分には不要なものだから、と。拓也は世間的に良い学校を選ぶよりも、まだ巷ではあまり知られていない、世界的に注目されだしている研究者を選んだ。それ以外に自分の進む道はないって信じているみたいに。
拓也はきっと、そんな想いに裏切られたことはないのだろう。だからこそ彼の歩みは力強く感じられた。迷うことも立ち止まることもないその足で拓也はわたしを追い越し、遥か彼方までいってしまうような気がした。
わたしは、光のような人だと思った。その速度も指向性もわたしを嫉妬させたけど、眩い輝きに強く憧れさえもした。
そして、憧れが恋心に変わるのは、多分すぐだった。
※
炭素14法という年代測定方法がある。例えば化石の年代を調べたりするのに使われる方法だと、これも確か博物館の恐竜展を見に行ったときに拓也から聞いた話だったと思う。
生物体内では炭素14という放射性同位体が存在していて、生きている間はそれが一定割合で保たれているらしい。だけど死んでしまうと時間とともにその原子核が崩壊し、新たな供給がなくなるから、次第にその数は減っていく。だから炭素14の残りの量と半減期を照らし合わせることで、そのおよその年代がわかるらしい。
人の気持ちもそんなふうに、ただ時間が過ぎ去るだけで自然に崩壊していってしまうものなのだろうか。拓也を好きだと気づき始めたあの頃と、今の気持ちの大きさは変わってしまったのだろうか。もしわたしがこのまま化石になって見つかったとしたら、そのときの研究者はわたしの彼への想いを、どれくらいのものだって見積もるのだろう。
「ねえ、まだ着かないの?」
足の痛みに耐えかねて、わたしは遂に悲鳴を上げた。踵の高いパンプスで足場の悪い山道を登り続けるのにはさすがに無理があったし、拓也の背中を必死になって追いかけ続けるのにも、わたしは疲れていた。どうせ追いつけないという諦めが、いつからか心に芽生えていた。
拓也がアメリカに行っている三ヶ月の間に、わたしは二年半勤めた会社を辞めた。彼は夢に向けて一歩進んだのに、わたしはまた振り出しに戻った気がした。いつまで経っても歩く道を見つけられない自分が、どうしようもなく惨めだった。
「もうすぐだよ」と言う、ただ数メートル先にいるだけの拓也が、今何を見ているのかさえもわたしにはわからなかった。二人で同じ場所にいながらも、時間が、距離が、決定的に違ってしまっているのではないかって、思えばいつもそんな気がしていた。
進む速さが違えば、そこに流れる時間の速さも変わってしまうらしい。つまりわたしたちは最初から、同じ時を過ごしたことなんてなかったのかもしれない。
そう思うと、頭上で輝く星たちがどうしてあんなに冷たい色をしているのかわかった。きっとどんなに近くにいるように見えたって、お互いにその温もりを伝え合うことができないからだ。だからそれらはいつだって悲しそうに、まるで泣くように、ただ静かに瞬いている。
もういいんじゃない?
不意に、誰かのそんな声が聞こえた。それに応えるように小さく頷くと、わたしは足を止めた。それを知らずに歩き続ける拓也が、また少し遠ざかっていく。
もういいんじゃない?
もう一度誰かが言った。それは多分、わたしの中でずっと繰り返されていた言葉だ。草や木のざわめきも、虫の声さえも示し合わせたかのように止んで、蒼白い月明りが浮かび上がらせる世界はただ幻想的で、切なかった。
サヨナラを言うにはあまりにもお似合な夜だって、そう思った。
「……ねぇ、拓也」
なるべく明るい声を出したつもりだったのに、彼の背中はまるで聞こえないフリをするみたいに止まらなかった。
いつまでも追いつけない背中を、ただ追い続けていた。気づけばもう、九年近くも同じ光景ばかりを見続けてきた。最初は憧れさえしたものなのに、いつからか置き去りにされる焦燥と倦怠だけが募り、この先もそれが続くのかと思ったとき、わたしは耐えられなくなった。
きっとわたしは、彼からも逃げ出すのだ。自分の夢からもそうだったように、会社からもそうだったように。本当に捨てたくないものまで、投げ出そうとしている。
「ねえってば!」
張り上げたわたしの声に驚いたのか、コウモリが二羽逃げていく。さすがに聞こえていないわけもないのに、立ち止まってはくれない彼の背中で、応えるように望遠鏡のレンズが一度光った。
気づけばわたしは駆け出していた。足場が悪いだとか、歩きにくい靴だとか、そんなのはもう関係なかった。ただ蒼白く月明りに染められたワイシャツしか見えなかった。不思議なことに転ぶなんて考えられなかったし、ここで拓也を掴まえられなければもう、何も言えないまま終わってしまいそうで、怖かった。
懸命に手を伸ばすと、拓也の左袖を掴まえる。そのまま向き直らせようと一気に引っ張ると、意外なほど呆気なく、彼はわたしの方を向いた。
それほど長い距離を走ったわけでもないのに息は乱れていて、上手く言葉を紡げそうもない。わたしが深く深呼吸を繰り返す間、拓也はここではないどこかへ行き場を求めるように、空を見上げていた。だからわたしは、シャツの袖を掴まえた手を、ずっと離せずにいた。
せめて別れを告げるときくらいは、そこにいて欲しかった。
「お願い、聞いて」
まだ僅かに弾んだ息のまま、頭一つ分くらい背の高い拓也の顔を仰いだ。月明りが白く縁取るシルエット越しに無数の星を散りばめた空が見えて、その光を映す彼の瞳も、この空にある星の一つみたいに見えた。
オリオン座、カシオペア座、北斗七星、そんなよく知っている星座さえも、居場所を見失ってしまう。そんな切ない光で敷き詰められた夜空のキャンバスを今、天頂から山裾まで星が駆けた。
「あっ、流れ星!」
「あっ、流れ星!」
思わずこぼれた言葉は、二つ重なった。思わず拓也を見ると、彼もわたしを見つめていた。そんな二人の頭の上を、もう一つ長い尾を引いて星が流れていく。
わたしが見たのと同じものを、きっと拓也は見た。
拓也が目にしたのと同じ光景を、わたしは多分見ることができた。
そう感じられたのは、初めてだった。時間も空間も速度の隔たりもなく、初めてわたしは彼の隣にいるような気がした。
ずっと求め続けて、そして諦めようとしていたものが、最後になってようやく手に入ったのだ。
それはもう、あまりにも遅いけれど。
光みたいな人なんだって、思っていた。わたしがどんなに速く走っても、触れられそうなくらい近づこうとしても、決して届くことがないって、そう思っていた。無限大のエネルギーなんて、わたしは持ち合わせていない。それなのに、こんな小さな手を伸ばすだけで、分厚い物理法則の壁を乗り越えて、拓也はあっさりと掴まった。この手が繋がっている間、わたしはきっと、彼と同じ速度でいられる。そんな実感で胸が痛かった。
振り落とされないようにシャツの袖を握る手を強めると、拓也は少し驚いた顔でわたしを見つめる。
「どうしてそこで泣き出すんだよ」
笑い声混じりに呟く彼に、わたしは首を振っていた。どうしてなのだか、そんなこと自分でもよくわからなかった。
でも強いてあげるなら多分、この空が綺麗過ぎるからだ。
雲一つなく晴れ渡っていて、両手ではとても抱えきれない無数の光が散らばっていて、瞳からこぼれて止まらない涙みたいにひっきりなしに星が落ちてきて――そして隣に彼の温もりがある。
それだけで見るもの全てが、変わっていた。
「もう少し先に展望台があるんだ。行こう!」
突然拓也がわたしの手を握ると駆け出した。わたしはただ成すがままで、彼はわたしの足がもつれるのも気にしてくれない。だけどそこには不思議な爽快感があって、肩肘を張ってその手を拒んでいた自分が馬鹿らしく思えた。どうして初めからこうできなかったのだろうって、そう思った。そうできたのならわたしは――。
駆け上がるほどに空が近づいてくる。涙はまだ止まらない。
私も、そしてこの空も。
そうしてこぼれ落ちてきた星が、未だ山道に残っている水溜りを作っているように思えた。そこにはダイヤモンドを砕いたような星空が映っていて、わたしはたったの一歩で天の川を渡った。
もう立ち止まることなんてできない。降り注ぐ星々に見守られながら、わたしは彼の温もりを伝える手を確りと握る。
いつまでもそのままではいられないとわかっているけど、その手はまだ、離したくなかった。
第2作目です。
読んで頂きありがとうございます。
まだまだ拙いものですが、
感想や誤記訂正、叱咤激励等ありましたら
お聞かせください。