「記号消費」から「刺激消費」の時代へ――ドパガキ化する現代
ジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』で、現代社会における消費は、単にモノを必要だから買うという行為ではない、と論じた。私たちは商品そのものを消費するだけではなく、商品に付与された意味やイメージ、つまり「記号」を消費している。高級車を買うのは移動するためだけではない。それが「成功」を意味するからであり、ブランド品を身につけるのは、そのモノの機能以上に「自分はこういう人間だ」という記号を身につけるためでもある。
消費とは、モノを通して自分自身を社会の中に位置づける行為である。広告は、この記号消費を駆動する重要な装置だ。
記号消費社会では、企業は商品そのものではなく、「この商品を持つあなたは、こんな人間になれる」という物語を売る。広告は商品の外側に意味をまとわせ、消費者をその意味ごと購入させるものとして機能していた。
だが現在、この構造に奇妙な変化が起きている。
広告そのものが消費され始めているのだ。
SNSでは、広告はもはや「商品の購入を促すための情報」ではなくなっている。面白い広告、泣ける広告、笑える広告、共感できる広告が一つのコンテンツとして流通し、「いいね」され、コメントされ、シェアされる。人は商品を買わなくても、広告を見て、反応して、満足して、次のコンテンツへ移っていく。
ここでは、ボードリヤールが論じた「記号消費」が、さらに別の段階へ移行しているように見える。
「記号」を消費することから、「刺激」そのものを消費することへと変わったのである。
面白い。驚いた。腹が立った。感動した。欲しくなった。笑った。共感した。――重要なのは、何を買ったかではなく、何回反応したかだ。
かつて、広告は「商品を買うために見るのもの」だった。ところが今では、「広告を見ること」が一つの消費になっている。さらに、その広告を見た人が残す「いいね」やコメント、滞在時間、スクロール、シェアまでもが、プラットフォームにとって価値あるデータになる。
消費者は商品を買っていなくても、広告を見ている。広告主は商品を売ろうとしているのに、消費者は広告そのものを消費して帰ってしまう。そしてプラットフォームだけが、その注目と反応を集めていく。
ここに、消費社会の奇妙な完成形がある。
「何かを買うこと」から、「何かに反応すること」へと、私たちの関心は移ってしまったのだ。
ボードリヤールの時代、私たちはモノそのものではなく、そのモノが持つ記号を消費していた。現在、私たちはその記号すら一瞬で通過し、次々と新しい刺激を消費している。
現代の消費社会とは、モノを大量に買う社会ではない。退屈する暇さえ与えられず、刺激をただ消費し続ける「ゾンビ型ドパガキ社会」なのだ。
広告すら商品になる。いや、広告すら消費される。そして最後に残るのは、何を買ったのかという記憶ではなく、今日一日、何回「いいね」を押し、何回驚き、何回笑い、何回次へスクロールしたのかという、無数の小さな反応なのかもしれない。




