可愛がってた幼なじみが育成失敗して、まさかのゆるゆる監禁生活が始まった話
幼なじみに監禁された。広くて住み心地の良さそうな高い高いマンションの一室だと思われる空間に閉じ込められた。なんてこと。
目が覚めて、目覚ましの音で起きなかったことにまずびっくりした。カーテンが締め切られた部屋の中でも日が完全に昇っていることがわかって大パニックだった。
寝起きで回らない頭で、ひとまず時間を確認しなきゃと思った。枕元にあるスマホを見ようと身体を起こして、腕が持ち上がらないことに気づいた。金縛りなんかにあってる場合じゃないのに!
動けずにいるうちに、だんだん頭が冷めていく。ふかふかの掛け布団、全然体が痛くならないマットレス。こんな高級品ウチにないぞ。ホテルに泊まってたんだっけ。ちがう、昨日の夜は自分ちで寝たはずだろう。だったらなんでこんな。
ばかみたいに気づくのが遅れた。わたし、今、知らない場所にいる。
「うわあああああああ!!!」
「うるせぇ」
刺々しい声とともにスパンとおでこをしばかれた。叫ぶのを中断して目を白黒させる。だって、知らない場所で、聞くはずのない声を聞いたから。
「い、っ……伊月くん!?藤井伊月くん!!?」
「喚くなそうだよ」
「えぇ、うそだぁ……。伊月くんそんなスレた顔してなかったよ」
「しばくぞお前」
悲報、近所に住んでた幼なじみが数年放置プレイしてたら育成失敗してた件。ドスの効いた声と鋭利な目つきでわたしを見る彼は、骨っぽい大きなその手にしっかりと拘束具を持っていた。ねぇほんと何があったの。
そして話は冒頭に戻る。
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がちゃり、玄関の扉が開く音でソファから跳ね起きた。真っ先にソファの生地の無事を確認する。あぁ良かったよだれ垂らしてない。
「おかえりーい」
起きてましたよーという顔で出迎える。いつもよりやつれた雰囲気の彼に盛大に眉をひそめられた。ただいまって言ってみてくれてもいいんだよ1回くらい。
「飯は」
「奥さんに愛想つかされる旦那さんみたいなこと言うのやめよーね」
スパンと頭頂部をしばかれる。DVまで追加された。監禁モラハラDVって、この男は一体どこまで落ちていくんだろう、見物だな。
甲斐甲斐しく皿に盛り付けた料理を配膳していく。この男からはもちろん美味しいの一言もない。以前それを責めると「冷凍食品を温めて皿に盛る行為を俺は料理とは呼ばない」と言われた。ごもっとも。
まぁいっぱい食べるきみのために量は考えてるよ、たんとお食べ。わたしの気遣いなど露知らず、食に楽しみを見出していない究極の真顔で食べ物を吸収していく様はなんとも言えないシュールさがある。
さてこの男、藤井伊月はわたしの幼なじみである。
中二のときわたしが引っ越すまで斜向かいの家に住んでいた紛うことなきご近所さんでもある故、小学校も中学校もいっしょだったが、こうして監禁されるような関係性を築いた心当たりは無い。
食事中の彼を遠慮なくまじまじと眺める。性格は育成失敗してるけど、お顔の方はめっちゃ成功してる。まつ毛が長い。パーツが良い。顔が小さい。まぁ、ちっちゃい時は女の子に間違われるくらい可愛い顔してたもんな。
そして幼いときから片鱗はあったものの、この成人後伊月くんは輪をかけて無口無表情だ。目にハイライトも入ってない。昔のキラキラお目目はどこいっちゃったの?年長さんでサンタの正体を聞かされたときの彼の目が常態化していることを切に嘆く。
「伊月くん」
サラサラの前髪がかぶった、かつてはもっと丸かったはずの目がわたしを見る。あの頃とは確かに違うけど、でもおんなじ伊月くん。
どうしてわたしをここに閉じ込めるの? って、聞いたらどんな反応をするかな。たぶんその無表情を崩すことなく、彼は――うーん、なんて答えるんだろう?
「お料理練習してみたいとおもう」
気になるし、知りたい。でも今じゃなくていいかなとも思う。わたしはこの生活が嫌いじゃない。綺麗な家で過ごす穏やかな1日の中に、仏頂面の幼なじみがいるこの日々を、もう少し味わってからでもいい。
「キッチン爆発さすなよ」
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「すごく美味しい」
「そりゃ良かったな」
珍しくお昼間に伊月くんがいたのでだる絡みをした。いつも冴々とした眼差しの彼といえど、たまの休日は気分が上がるのかうっすらご機嫌になるらしい。手料理を振舞おうとしたわたしを座らせ、彼手ずから昼下がりのクッキングをスタートさせるくらいには。
「とても美味しいよ、すごい、美味しい」
「何回同じフレーズ使い回すんだよ」
「美味しいものには何回だって言うよ」
「キメ顔すんな」
休日のお昼間にふさわしい、パスタ。ペペロンチーノ。美味。美味い。美味しい。3回おかわりする。料理スキルは育成成功してるみたいでよかったよかった。
「お料理は伊月くんに任せて、わたしはお菓子職人にでも転職しようかな」
勢いをつけて最後の麺を吸い込んでそう言う。大した反応が返ってくると思っていなかったその発言に、彼はめずらしく口角を上げた。
「クッキー作れなくて昔大泣きしてたくせに」
「うるさあい」
大昔の黒歴史を引っ張り出してきた。わたしは当時女児の間で大流行した手作りお菓子を交換するというイベントに参入せんと、お菓子作りの登竜門的存在クッキーに手を出したのだ。
お察しの通り結果は惨敗だった。ねっちょりした食感と浮いた砂糖、それでも可愛く施したラッピングに希望をかけ友達に配ると、きなこねじりだと言われ号泣した。からかわれた訳じゃなく曇りなき眼で言い放たれたきなこねじりにわたしは非常に傷ついたのだ。友達全員から取り返したそのクッキーの成れの果てをこの男に引き取ってもらったという、そんな感じのほろ苦いエピソードである。
「よく覚えてるよねそんなむかしの話!!」
「まぁ」
掘り返された黒歴史に悶絶する。まっすぐ見てくる伊月くんの視線に耐えかね、椅子から崩れ落ちるように絨毯の上に座り込む。やっぱりやたらご機嫌な彼が顔を覗き込んできた。だからその目だよ!その曇りない眼が嫌なんだってば!
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人間、生きていれば眠れない夜のひとつやふたつ多発することもある。あるのはしょうがない。問題は対処の方法だ。
ベッドで目を瞑り続けるもよし。諦めて夜更かしに走るのもよし。眠くなったら寝るのスタンス、とてもよし。様々な選択肢がある中、わたしはドボンのやつを選んでしまったと言えよう。
「ご、ごめん起こした?」
リビングで頭から布団かぶってゲームしていたら、八割増しで冷徹な顔をした伊月くんが起きてきてしまった。音量を絞っていたけど、感覚の鋭い彼には気づかせてしまったみたいだ。
彼はやはり恐ろしく感情のない顔のままわたしの側まで来て布団を剥ぎ取った。ウワッ眩しい。
「よりにもよってゲームかよ」
「どういう意味?」
「お前ゲームするときめっちゃ声出すじゃん」
ド深夜にすんじゃねーよ騒音ゲーマー野郎、と頭を掻き回される。いつもより割増しで口が悪い。ごめんて。
「ごめんね、なんか別の暇つぶし見つけるよ」
「はよ寝ろよ」
「寝つけないんだよぅ」
好きでこんな真夜中に活動している訳ではない。もはや寝返りを打つことにすら辟易とし、致し方なく体を起こしているだけである。
いっそ開き直ってアイスでも食べようかしらと立ち上がろうとしたら、髪をぐちゃぐちゃにしていた手が頭を鷲掴んできた。うそだろ。そのまま布団に沈められる。
「寝かしつけてやるからとっとと寝ろ。お前は何してても基本うるさいから」
「ひどい」
かっ開いていた目元を窘めるように手のひらが置かれる。寝れないんだよぉ、目瞑ってても羊数えても息止めてもなにしても。
もごもごうだうだ文句をたれ続けていると、はぁーと頭上でくそでかため息。頭から手が離れていく。
「外出るか」
「えっ」
「五分で支度しろ」
どこぞの盗人みたいなことを言って部屋から伊月くんが出て行く。支度って、え?外出れるの?拉致犯って外に出してくれるものなの?
言われた通り五分で、ぼさぼさ頭と服を外に出れるくらいのクオリティまで持って行った。時間を過ぎて気が変わったとか言われたら困るからね。
「シャバの空気は美味い」
近所の公園まで連れ出してくれたので、何週間ぶりかの外の空気を堪能する。人っ子一人いない真夜中の公園にテンションが上がってとりあえずブランコに飛び乗った。立ったまま思いっきり漕ぎ出すと、顔にひんやりとした風。やばい、そと、たのしい。
「逃げようなんて考えるなよ」
初めて拉致犯っぽいこと言われた。遠ざかったり離れたりする、珍しく視界の下の方にいる彼をチラ見する。なんだかんだ好待遇なんだよな、監禁ライフ。
例えば今ここでわたしが叫び声をあげたとして、そしたらどうなるんだろう。深夜の公園に響き渡る成人女性の雄叫びは、なかなか事件性があるんじゃないだろうか。まぁ、そんなことしませんけどね。
帰ったら疲れ果てて眠れるように、思う存分遊具を楽しんだ。久しぶりに童心に帰るのも悪くない。さながら短縮授業だった小学生(夕方の姿)ばりに汗だくになったわたしを、彼は果てしない呆れの目で見てきた。
「あづい」
「お前昔より立ち漕ぎ上手くね?」
「ふふん、練習したんだよ。飛び降りるのもできる」
「もっと時間有意義に使え暇人」
暇人だって、ひどいな。でもあながち間違ってもないよ。きみと離れて、わたしずっと退屈だったし。
伊月くん。きみはどうだった?
「もし私が今からダッシュで逃げたら、ダッシュで追いかけてきてくれる?」
「逃げるつもりか」
「仮の話だよ」
わりとがちで怖い顔になった伊月くんに手首を掴まれる。地味に痛いし、握られるなら手がいい。ちっちゃい時は繋いで歩いてたじゃん。コンクリートの上でコケたきみに巻き込まれたじゃん、わたし。懐かしいなぁ、かき氷で冷やしてくれたよね。
「地の果てでも追いかけて、絶対に逃がさねぇからな」
ほんと、何をどうしたらこんな感じに育つんだ。あんなに可愛かったのに、こんな野蛮な拉致監禁男になりやがって。背も伸びて美人になって、凄まれたらすごい迫力。涙出そうだよ。
手首を掴んでない方の手を逆の手で掴んで、むりやり袖口を顔に押し当ててやる。汗でも何でも吸わせて汚してやろう、この綺麗な男を。
「はなさないで、逃がさないでね」
ねぇ、もう疲れたから、帰ったらすぐに眠ろう。伊月くんの家の寝具は気に入ってるから、きっと長い長い夢も抱いて眠れる。爆睡するかもしれないけど、見苦しいよだれまみれの寝顔かもしれないけど、どうか目を覚ました時も、わたしを捕まえたままでいて。
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出会いは覚えてない。物心ついた時にはそばに居て、近所の公園で一緒に泥まみれになっていた。それはもう幼い時から仲良しだった。
幼稚園に行きたくないとぐずる彼の手を引き、登園バスに乗り込んだのもわたし。15分の道のりを歩かなければいけない集団登校にとんでもない抵抗を示した彼を、時に肩を貸しながら歩いたのもわたし。すぐにへばるため外遊びには積極的でなく、デリカシーのない発言の常習犯だった上、早生まれ故に発育が遅かった彼は同い年の体のデカイ男の子たちにいびられがちだった。
彼も彼で大人に頼ればいいものを、なんの意地か自分ひとりで抵抗したがるところがあった。いつもシャレにならない段階になってから大人に助けを求めに行くのがわたしの役目だった。こう、彼は結構難儀な幼子だったのである。
手間のかかる幼なじみだったと言える。でもわたしは、彼の世話を焼くことはちっとも嫌じゃなかった。
わたしと仲良くしてくれたのなんか伊月くんくらいなものだった。ふにふに柔らかい手のひらをぎゅっと握るのは好きだったし、背の小さかった彼の肩を持って歩くのは、近い距離感を許された気がして嬉しい気持ちにすらなった。どんな意地悪をされても自分を保ち続ける、ある意味では強いと言える幼なじみ。それがわたしの前ではちょっと泣くのが可愛くて、わたしは心底気に入っていたのだ。
ほんとうに、混じりっけなしの本音で、わたしは伊月くんを気に入っていた。
――だから信じて、嫌になったとかじゃなかったんだよ。離れたくなくて、だけどあのときは行かなきゃいけなかったから。
あぁ、ごめんね、言い訳だよね。
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深夜まで起きてたって言うのに、なぜだか明け方に目を覚ました。早々に二度寝を決め込もうと思ったけど、ずっしり違和感のあるお腹に目を向けた瞬間一気に意識がぶち上がった。いったいなにが。
監禁生活が始まって初めて逃げ出すことを考えたがしかし、遅ればせながらも回り始めた頭が昨晩の出来事を思い出した。わたしが離すなって言ったんだった。律儀に彼はわたしをホールドしたまま寝たんだ。
荒ぶった鼻息以外一切の身動ぎはしていないので、彼は健やかに寝顔をさらして熟睡している。寝顔だとあの死に切った目は当然見えないので、すこし昔の面影が感じられる。
がっちりと腰からお腹に回った腕も、わたしが背中を預けている体も何もかも、あの頃とはちがう。手を引いてあげていたはずの可愛い幼なじみがくれる安心感を、わたしはぬくぬくと享受する。
いろんな人の体温を感じてきたけど、伊月くんのがやっぱりいちばん。親バカならぬ幼なじみバカかもしれないけど、しみじみとそう思う。
多幸感あふれる時間を堪能した。ぬくぬくじっくり、十分満足したから、寝返りを打って離れようとする。だけどわたしが力を込める度に、腕はますます深く抱きこもうとしてきた。そのゴリラ並みの腕力に足まで使って抵抗する。くっ、くるしい。
結局息が切れてきたので、脱走は中断した。諦めて腕の中で収まりの良いポジションをさがす。さっきよりも近くなったから、もはや彼の心音までもが聞こえてきた。
汗かいてるけど、まぁいいや。耳をくっつけて、一定のリズムに耳をすませる。わたしのよりちょっとゆっくりな気もした。寝てるからかな。
顔を離して、寝顔も見て、彼がすっかり寝入っていることを改めて確認して、また心臓の音を聞きに戻る。ただの生存確認的なあれだから、特に深い意味はないよ。誰にともなく言い訳して、これでもかっていうくらい、額を押しつけてやる。
わたしの目から出る汗で、彼の寝巻きのシャツが濡れていく。鼓動の音にまじってうるさい嗚咽が聞こえる。顔を埋めてるから、鼻が詰まって息がしづらい。でも苦しいのは慣れてるから平気。
もっと息をしづらい状況を知っている。その時一緒に感じた首の圧迫感も、のしかかられたときの怖い気持ちも全部覚えてる。そこから自分の体が自分のものじゃなくなっていく体験も、ボロボロになったわたしを無関心に見下ろすたった一人の家族だったお母さんの目も、殺したいくらいに憎い、父親になるはずだった人の顔も。
覚えてるけど、忘れられない事件だったけど、もう思い出さないから大丈夫。それに、何度も同じものを味わう内に、苦しいと思う気持ちはどんどん薄くなった。どうでもいい。
――伊月くんは、伊月くんは意地っ張りですぐ疲れたって言うけど、頭が良かったしすばしっこかった。ストイックな性格をしていたし、なんでもできる。たぶん彼は輝かしい未来を掴んでいくんだろうと確信していた。幼なじみとしての贔屓目かもしれなくても、わたしは。
汚れて壊れて、自分の中のどこかがおかしくなっていくのを、自分でちゃんとわかっていた。もうあの場所から逃げたかった。その先でどうやって生きていけばいいのかはわからなかったけど、でも逃げなくたってどうせ死ぬ。
暴力と搾取のループから抜け出したい。それしかもう考えられない。伊月くんに声をかけられても、それは変わらなかった。
あの日、青あざだらけの腕で大荷物を抱え、のろのろ歩く明らかに異常なわたしを、部活帰りの彼が見つけた。
家に直帰するわたしと、中学に入って部活に入った伊月くん。クラスも離れたとなれば話す機会はぐんと減って、しばらく姿を見ていなかった。その間に、彼は背が伸びて声がすこし低くなっていた。ただ成長しただけなのに、もうその変化すらわたしには恐怖の対象だった。
なんだかすごく怒ったように話す彼が怖くて、何を言われてるのかも認識できなくて、掴まれた手から嫌なことを思い出しそうで吐き気がした。いやだ、いやだいやだいやだこないでと、そう思った気がする。
いや、ちがう、わたしは、触れて欲しくなかったのはそうなんだけど、違う。
きたなくなったわたしに、あの手が触れて欲しくなかった。
わたしは力任せに手を振り払って逃げた。なにか酷いことを口走った気もする。捨てゼリフを叫び散らした自分が情けなくてな情けなくて、もう途方もなくみじめでどうしようもなかった。だってもう離れ離れになるのに、伊月くんに言いたいことはもっと別にあったのに。そんな風にして、わたしはあの場所から逃げ出したのだ。
――そこからの日々は、もう覚えてすらいない。今はっきり思い出せるのは、それこそ伊月くんと再会したあの日からだ。この監禁生活のはじまりの日から。
伊月くんがわたしを見つけて拾ってくれて、綺麗で広いお家でご飯をくれる。わたしは間違いなく、今まででいちばんいい生活を送っている。伊月くんは、厄介者のわたしを、逃げたら追いかけてくれるとまで言った。
それが泣くほど嬉しいって言うのに、あぁもう、わたしはとっくの昔にぶっ壊れていてどうしようもない。ひどく不安定になるこの気持ちを制御することもできなくて、叫びそうで暴れてしまいそうで、ほんの一欠片残った頭の冷静な部分が、起こしちゃう、と言った。力任せに伊月くんを押しのけてベッドから転がり出る。
監禁生活が始まって初めて、わたしは一人で外に出ようとした。逃げようとしたのか、それとも単なる悪ふざけか、それかもっと危ない理由からか。もう自分でもよく分からない。
ただひとつ言えるのは、このまま一人になったらきっとわたしは取り返しのつかない行為をしていたということだけで、でも、だから、あぁ、どうして?
高層マンションの外壁に設置された非常階段。そのフェンスから体を投げ出そうとしたわたしの肩を、すんでのところで『彼』が掴んだ。
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2人揃って階段の踊り場で尻餅を着いた。まぁまぁの勢いとともに転がったけど、下敷きになった伊月くんのお尻は無事だろうか。割れたりしてないといいね。
さっきからわたしを確保したきり微塵も動かないが、本当に大丈夫だろうか。背中に伝わってくる心音がさっきより遥かに速い。指先が微妙に震えてるし、これ、ぶちギレてるのかなぁ。逃げ出そうとしたことに関してなんにも言い訳できないし、後ろめたさからわたしもずっとじっとしていた。
しばらくして、彼がようやく口を開く。
「小羽」
「なぁに」
首筋に、頭をこすりつけてくる。幼いときでさえされたことのない仕草に驚きすぎて、息が詰まった。
「もうどこにも行くな」
「うん、どこにも行かないよ」
「嘘つくな」
断定されて、ちょっと困る。前科があるから。伊月くんのはっとするような冷たい手を取って、少し力を込めて彼を引き寄せた。抵抗することなくこちらにもたれてくる。
「うそじゃないよ、だってもうわたし、伊月くんのことしか見なくていいんでしょ」
胸に頭を預けさせ、かたちを確かめるように抱きしめた。そのあいだずっと無抵抗で従順で、伊月んらしくなかった。
彼は愛想を尽かしたくなるくらいに傲慢でわがままで、ずっと傍で見ていたいくらいにかっこよくてかわいくて、手先は器用なのに出てくる言葉のどれもが不器用で、そういう矛盾だらけの男の子だ。心の底から愛おしいと思っていた。そんな彼だけと関わっていれば、他の苦しくて辛いものたちを見ずに彼だけを見ていればいいのなら、わたしは喜んで監禁されたい。
「離さないでくれてありがとう」
ほんとうのほんとうに、嘘にしたくないと思ってるけど、だけどもう壊れたわたしをわたしは信じられない。
だからどうか、伊月くんなら、きっと、
「これからも、傍に縛って。おねがい」
そう言ったら、不意に肩を掴まれて、体が離れた。上背のぶん、座高が高い彼を見上げて、昔との違いに目を細める。すぐ近くで聞く低く少し掠れた、大人の男の人の声が降ってくる。
「もっと上手くお前を生きさせたかった」
憮然とした彼に見合わない、繊細な子供を連想させる表情に、思わず手を伸ばす。梳くようにさらさらの黒髪に指を滑らせる。数回くりかえして、今度はわたしが彼の胸元に頭をうずめた。
「でももう俺にはこれしか出来ない。絶対に手を離さないことしか」
「もっと普通に、愛せなくてごめん」
――どれだけ歪で狂っていてもいい。登場人物ばかり多くて味方の少ないわたしの人生で、唯一愛おしいと思えるきみがそう言ってくれるなら、その愛じゃなきゃ嫌だ。
わかんないよ。何年もあっていなくて、酷い別れ方で、見るも無惨に壊れたたかが幼なじみを、どうしてまだこんなに愛してくれるのか。
理由のわからないその愛はたしかに不安だけど、でももう、そばに置いてくれるならなんだっていい。有言実行するこのひとは、きっと何十年先だってわたしを手放しはしないだろう。これからずっと、二人きりでこのあまりに幸せな日常を紡ぎ続ける。
だったらもう、それ以外全てどうでもいいと、そう思うくらいには、わたしだって。
「ううん、こちらこそ」
長年こじらせたこの愛を、いつかぜんぶ伝えてみたい。この涙が止まって、顔を上げたときにでも。




