水に揺蕩う
アクアは暗闇の中、静かに流れる川へ足を浸けた。
今は春とはいえ、夜はなかなかに冷え込む。水も刺すように冷たくて。ぶるりと体が震え上がる。それでも、禊ぎのためにざぶざぶと足を進めた。真ん中辺りまで来ると腰まで深さがある。アクアは無言で両手に川の水を掬い、顔に掛けた。何度も繰り返し、洗った。耳の辺りや頭、肩などにも同じようにする。
(……私、いつになったら。巫女を辞められるのか。父上も母上も教えてはくれない)
ため息を堪えながら、禊ぎを済ませた。川から上がり、手早く岸辺に置いていた麻布で髪や体の水気を拭い去る。そして、肌着類や巫女用の白い足首丈のワンピースを身につけた。最後に編み上げのブーツを履く。拭いきれなかった水滴が髪から落ちる。アクアは気にせずに薄いベールを被った。また、無言で自身の居所である神殿に戻ったのだった。
アクアが住む神殿は水を司る女神、イルネージュ神を祀っている。イルネージュ神は太陽神のアタラ神、月神のルシア神、闇の神のカーティス神の妹であり、穏やかで慈悲深い。豊穣や農耕の神でもあり、フォルド国では太陽、月、闇の神々の次に篤く信仰されていた。
アクアは現国王、アルフレッドのすぐ下の妹だ。アルフレッドは当年とって33歳になり、妃で義姉のエリザベートも31歳になっている。2人には長男で王太子のエリック、次男のエレン、双子の姉妹のオルガナとカリナと4人の子が生まれていた。エリックは13歳、エレンが11歳、オルガナとカリナは2歳だが。かつていた第二妃のフェリシアや子のケビン、シュリナに第三妃のサラは既にいない。フェリシア達は叛逆の疑いがあるとされ、捕縛された。フェリシア自身は処刑、子のケビンやシュリナは継承権や王籍を剥奪の上、ある公爵家に養子として出される。本来なら、甘過ぎると批難されたが。兄で王太子のエリックが国王に「まだ、2人は幼い。命だけは助けてください」と懇願する。仕方なく、王は2人の命と今後の暮らしだけは何とかすると約束した。こうして、ケビンとシュリナは表向きは公爵令息と令嬢として育てられている。アクアはそこまでを思い出すと小さく息をついた。エリックは甥に当たるが、何故か凄く大人びた表情や言動を取る。それに酷く、違和感を覚えてしまう。けど、年相応の一面もある。どちらが本当の彼なのかと考えてしまう。堂々巡りになるのは分かっているから、頭を軽く振った。考えるのはやめにしよう。アクアは礼拝堂にて女神像に祈りを再度、捧げた。淡く女神像が輝いたが。誰も気づく事はなかった。
アクアの元に義母のスズコが訪ねてきた。真っ直ぐな黒髪を修道服のローブに仕舞い込み、人目につかないようにしているが。それでも、彼女が持つ美貌や気品は隠しきれていない。ちなみに、アクアは実兄のアルフレッドよりは一回り年下で23歳になる。スズコは異世界からの渡り人で先代の国王に見初められ、2番目の妃、王妃に据えられた。一人息子のラウルも生まれ、最初は順風満帆に行っていたが。それに反感を持ったのがアルフレッドやいとこに当たるダリエルス、後のフィーラ公爵達だった。彼らは機会を窺い、先代が病に臥した隙を突き、スズコやラウルを王宮から追放する。仕方なく、スズコは王都から遠いある伯爵家にラウルを伴い、後妻として嫁いだ。
けれど、伯爵は今から8年程前に亡くなり、スズコは未亡人となる。しばらくは良かったが。そしてついに、数年後にスズコは修道院に行き、世俗から離れざるを得なかった。ラウルも実母のスズコと引き離され、ラルフローレン公爵家に養子入りする。こう言う結末にするために、アルフレッド達が水面下で動いていたのをアクアは知っていた。
「……お久しぶりです、スズコ様」
「久しぶりね、アクア様」
まだ、実年齢にしては若々しいスズコにアクアは戸惑う。確か、異母弟に当たるラウルが17歳になるはずだ。という事はもう、40歳くらいにはなっている。
「あの、今日はどう言う用件でいらしたのですか?」
「うん、ちょっとアクア様にお願いしたい事があって。それで来たのよ」
「私に頼み事ですか?」
「実は息子のラウルがね、どうしてもあなたが作ったレースがほしいと言うの。それで来たんだけど」
「はあ、レースをですか。確かに私はレースや編み物は得意ですけど」
アクアはいきなりの事に理解が追いつかない。何故、ラウルがレースを欲しがるのか。仕方なく、理由を尋ねた。
「……ラウル様がレースをご所望になる理由が分からないですね、詳しく教えて頂けませんか?」
「分かった、けど。ここだと何だから、場所を移しましょう」
「そうですね」
スズコの言葉にアクアは頷いた。こうして、礼拝堂を出て2人は神殿の応接室に移動したのだった。
改めて、アクアは説明をしてもらう。何でも、ラウルには昔から想いを寄せる令嬢がいるらしい。けれど、その令嬢は甥であるエリックの婚約者だ。名はシェリア・フィーラ公爵令嬢。よりにもよってスズコを追放したダリエルスの娘だ。彼女は複雑な心境だろう。
「急にごめんなさいね、けれど。ラウルは本気みたいなのよ」
「はあ、ラウル様にも年相応な所があったんですね」
「そうなのよ、私としてもね。息子の願いは出来る範囲で叶えてはあげたいの」
真面目に言うスズコを見てラウルが羨ましくなる。私にはここまで気にかけてくれる身内はいない。精々がたまに手紙をくれるくらいだ。そう思いながらもアクアは首を縦に振る。
「分かりました、出来るだけ早くに取り掛かるようにはします。レース細工はどのような品をお望みですか?」
「……シェリア様が普段使い出来るように、ハンケチーフ辺りがいいとは思うのよ」
「成程、でしたら。ハンケチーフとテーブルクロスの2品を作りますね。今月中には仕上げてお送りします」
アクアが言うとスズコは申し訳無さそうにする。
「アクア様、本当に恩に切るわ。お代はきちんと払わせてもらうから」
「いえ、スズコ様は義理とはいえ、お母様です。私にも良くしてくださいましたし」
そう言うとスズコは一転してにこやかに笑う。
「ありがとう、アクア様。じゃあ、私は帰るわね。お元気で」
「はい、またいらしてください。待っています」
スズコは座っていたソファーから立ち上がる。ゆっくりと歩き、ドアを開けた。軽く手を振って去っていく。アクアも手を振りながら、見送った。
アクアは依頼されたからと巫女の役目をこなしながら、それ以外は自室に籠る日が続いた。ひたすらにテーブルクロスやハンケチーフの作成に励む。実は彼女には特殊な能力がある。自身で作るレース細工などに魔力や特殊付与を込める事が出来るのだ。シェリア嬢は王太子の婚約者で将来の王妃、色々と狙われやすい。ならばとアクアは思いつく限りの付与を行う。まず、毒物に対する耐性や無効化、次に物理的な攻撃や魔法の攻撃から守ってくれる防御壁などだが。合計して6つ程の付与をクロスやハンケチーフに施す。また、神聖力も込め、魔除けの効果も出るようにした。
「ふむ、これくらいなら大丈夫かな」
そう言って、アクアはレース針をテーブルに置く。気がついたら、3週間近くは過ぎていた。もう、約束の期限を迎えている。ふと、今は初夏に近づいている事を思い出した。慌てて、神殿の自室を出る。スズコに完成した品物を送る準備を始めた。
数日後、無事に何とか、品物はラウルの住むラルフローレン公爵邸に届いたと知らせがあった。スズコからも手紙でお礼の言葉と代金が支払われる。アクアはホッと胸を撫で下ろした。
「……アクア、ご苦労だったね」
「神官長様」
そう言って彼女を労ったのはシュルツ神官長だ。かつて、副神官長だったが。先代が病により、隠居したため、彼が新しく就任した。
「いや、アクア殿下。疲れたでしょう」
「シュルツ様、私に敬語は不要です。いつものようにお願いしますよ」
「……仕方ないですね、では。アクア、そろそろ王宮に戻る気はないのですか?」
「……兄様に心配を掛けているのは分かっています」
「ならば。何故、神殿に居続けるのです。あなたは本来、もう巫女をやめても良い年齢なはずですよ」
「私は出来るなら、しわしわのお婆ちゃんになるまでこちらにいたい。本当にイルネージュ様に一生を捧げても良いと思っています」
本気でアクアは言い切る。シュルツ神官長は苦笑いした。
「……そうですか、なら。私から言える事はありませんね」
「ごめんなさい、シュルツ様」
アクアは丁寧に頭を下げた。神官長は寂しげにしながらも、怒りはしない。ただ、アクアの肩に手を置く。
「アクア、今後も精進なさい。イルネージュ神はあなたの思いを知ったら、さぞやお喜びになるでしょう」
「はい!」
勢い良く、頷いた。神官長は肩から手を離す。ゆっくりと応接室を去って行った。
アクアは以前よりも巫女の役目に没頭する。神殿の清掃や祈り、時には魔物の討伐にも精を出した。そうこうする内に2年の年月が流れる。
「……シュルツ様、私。巫女を辞めようと思います」
「いきなり、どうしたんです。前は辞める気はないと言っていたでしょう」
「気が変わりました、好きな人が出来たんです」
「え、好きな人?」
「はい、かのジュリアス・ウィリアムス騎士団長です。私より、5歳は上ですけど」
はっきり言うと、シュルツ神官長は固まる。目を大きく開いたままで。
「……は?騎士団長ですか?!」
「ええ、甥のエリック王太子には悪いけど。彼でないと駄目なんです」
「ううむ、あなたが彼を好きになるとは。分かりました、許可を出しましょう。あなた程の神聖力の持ち主はなかなかいないから。惜しくはありますが」
神官長は苦悩しながらも了承してくれた。アクアはパッと顔に満面の笑みを浮かべる。こうして、彼女は巫女を辞めた。神殿を出たのだった。
翌年、アクアは異例ながら、ジュリアス・ウィリアムス騎士団長と結婚する。最初はジュリアスも戸惑っていた。けど、アクアの猛烈なアピールに絆され、半年後には婚約する。翌年の初夏、ささやかな式を2人は挙げた。参列者はジュリアスの両親や兄弟、アクアの実母のアリエル、実兄のアルフレッドや妃で義姉のエリザベート、子のエリックやエレン、双子のオルガナやカリナ達もいる。
「……アクア、俺と結婚して後悔はしていないか?」
「してないわ、あなたを好きになったのに」
「ならいいんだけどな」
ジュリアスは笑いながら、アクアを見る。やはり、好みの人だ。穏やかで冷静、けど武芸では鋭い表情を見せる。そのギャップに惹かれた。
「これから、よろしくお願いね。ジュリアス」
「ああ、頼むよ。奥さん」
2人でそう言い、真っ直ぐに前を見据えた。シュルツ神官長が婚姻証明書にサインをするように促す。まずはジュリアスから、次にアクアがサインを記した。
「これで新しい夫婦が誕生しました!2人に幸多からむ事を!!」
『ジュリアス、アクア様!!おめでとう!!』
わっと一気に周囲から、拍手と歓声が上がる。きらきらと礼拝堂のステンドグラスから、日の光が七色に振り注ぐ。ジュリアスはアクアに左手を差し出した。
「アクア、あなたを幸せにすると誓うよ」
「ええ、私も同じ思いだわ」
アクアはそっと自身の手を重ねる。ジュリアスは力強く、握った。2人は互いに笑い合った。
――End――




