1.娘とうまくやっていると思っていた
娘の顔を、最後に正面から見たのはいつだっただろう。
あの日、玄関先で。
「……もう、関わらないで」
娘は震える声で、私にそう告げた。
雨なのか、涙なのか。
頬を伝う水滴が冷たかった。
「話をさせて!!お願いだから……!!」
必死に呼びかけても、
娘は小刻みに肩を震わせ、息を詰めたまま──
それでも、一度もこちらを見なかった。
「ねぇ、聞きなさいってば!私はあんたのために…」
「…もう…やめてよ…」
小さく、蚊の鳴くような声だった。
それでも、私の心臓を串刺しにするには十分だった。
「やめてって…なにがよ。なに被害者みたいなこと言ってるの…」
娘は、顔を歪めたまま、声を絞り出すように言った。
「…もう…関わりたくないの…。もう勘弁して……ママと話すの、もう無理…」
その言葉だけで呼吸が止まる。
「無理ってなにがよ!?ママの言うこと、聞きなさい。子供みたいに駄々こねて…全部、あんたのためでしょう!」
娘は首を横に振った。
「私のためじゃない…ママのためでしょう…?」
心臓を爪で引っかかれたような痛み。
「何馬鹿なこと言って…そんなわけないでしょう…」
娘はついに、こちらを見た。
その目は泣き腫れて赤く、限界を超えた子どもの目だった。
「友達だって、全部、ママが勝手に決めたじゃん…。あの子は合わないから駄目。あの子の家は良くないから付き合っちゃ駄目。って…仲良くしたい子、何人もいたのに…全部、やめさせられた…」
息が詰まる。
「いつも“恥をかかないように”って言われ続けて…私の好きな服も、好きなものも…みっともないって全部、否定された…全部捨てられた…」
「それは…あんたがちゃんとした子になれるように…」
「違うよ!!」
娘は泣きながら叫んだ。
「ママがちゃんとしてる母親に見られたいだけでしょう!?私の人生を…ママの世間体に使わないでよ…!!」
「そんな言い方!!」
否定したかった。
「ねぇ…もうやめたいの…ママに合わせて生きるの……苦しいよ……」
「私は……あんたのために…よかれと思って……!」
「そのよかれが一番苦しかったの……」
娘は、まるで心臓を押さえつけるように胸に手を添えていた。
「私、もう…限界なの…このままだと無理なの。」
息を吸い、震える声で、でもはっきりと告げた。
「…この関係を、終わらせたいの」
バサッと視界が崩れ落ちる。
「終わらせる…何を……?どういう意味…よ」
「私…もう、ママの子どもでいるのが苦しいの…。だから…距離を置く。もう連絡もしないし会わない。これで終わりにする…」
娘の声は震えていたけれど、揺るぎなかった。
「待っ…待ちなさい…!なにを勝手な事ばかり…!」
「勝手なのは、ママの方だよ…」
足元が崩れるように感じた。
膝が震え、視界がぐにゃりと曲がった。
「どうして…どうしてわかってくれないの…。私は…あなたのために…あなたを愛してたのに……全部……あなたのためだったのに…!なんで…どうして……どうしてよ!!!」
涙が止まらない。
息が吸えない。
ひとりでに身体が震えた。
「どうして……わかってくれないの……なんで……あんたは……」
娘は、もうこちらを見ていなかった。
「……さよなら、ママ」
その小さな背中が歩き出すのを、私はただ見つめるしかなかった。
(どうして……どうしてよ……どうして……)
意識がぼやける。
雨粒が頬にあたるたび、胸が裂けるように痛む。
(どうして…どうして伝わらないの……どうして……こんな……こんな……)
涙と雨で世界が滲む。
呼吸が浅くなり、胸が締めつけられ、
心が壊れそうになった。
足元がふらつき、そのまま階段を転げ落ちた。
(やだ……いや……やだ……わかってよ……なんで……なんで……)
薄れていく意識の中で、私は泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
頭がおかしくなるほどに。
そして──
……あたたかい。
柔らかな布。
淡い光。
やさしい声。
「生まれてきてくれて、ありがとう……かわいい子…私の天使…」
(…え??)
抱かれた身体は、小さくて軽い。
(…赤ちゃん…?わたし…?)
おそらく母であろう女性が、涙を浮かべて笑う。
「ようこそ私の天使、あなたの名前は……ニアよ」
ニア。
その響きが胸に落ちた瞬間、泣き尽くした心の奥で、小さな光が灯った。
(…ニア…わたし…新しく産まれなおしたの…?)
小さな指が、きゅっと空気を掴んだ。




