光泡
広い海の一角に、一際賢く美しい魚がいた。
腹から尾鰭へとしなやかに伸びる尾を埋める鱗はきらきらと光り、腹から頭までは鱗がなく白く柔らかい肌に細長い二本の腕を持つ。細い首を経て、丸い頭には肩辺りまで伸びる白銀の髪がなびいている。
それは、”人魚”と呼ばれる生物であった。
人魚には、母から呼ばれた「ケイ」という名があった。
母は幼い頃にある日突然いなくなったきり帰ってこなかったので、その名を呼ぶ人はいなかったが、ケイはその名を持つ唯一の魚として、誇りを持って生きてきた。
いつか名前を呼んでくれる相手に出会えると信じて――。
僕は、自分と同じ種に出会ったことがない。
色々な魚が、群れになったり番になろうと競争したりしているというのに。
僕はなんと稀で、退屈なんだろう。
とは言っても、僕と母の他にいない訳ではない。いつだったか、おそらく同じ種の知らない鱗を見たことがあるから。
数が少ないから滅多に会えないが、どこかに仲間がいるはずなんだ。
母と父だって出会えたのだから、他の生物たちのように、僕も対になる相手に出会えるかもしれない。
そう信じて、気ままにあちこちを探して巡り生きるのは、ほどほどに退屈だけれど悪くない。
ある日、
僕は、海底を埋め尽くさんばかりの珊瑚を見た。色も形も様々。まるで招いているかのように、表面が細かく揺れ動いている。
美しいが、鱗のないこの脆い腕では触れることができないので、そっと近寄りただ傍を泳ぐ。
ふいに影が落ちてきて見上げてみると、上のほうに長い触手をなびかせる海月が悠々と漂っていた。
眩しい水面を背負っているのに、半透明のその身体は光を遮り、少し薄暗く見える。
きらきらとした世界の中、ふわりと静寂を纏っているかのような姿は、寂しく美しく。
色とりどりの珊瑚を背に、不思議と目が離せなかった。
真下で微かに音がする。
珊瑚の間で小さな海老が歩いているのだ。
かさ こそ、かさ こそ――。
耳に心地の良い、生の音がする。
ある日、
僕は幼い頃暮らしていたのとよく似た岩穴に腰を下ろしていた。見上げると、水面からは月灯りが漏れている。
あの頃はよく母と空を見上げて話をしていた。星を数え、月の満ち欠けを眺め、月のもう半分を探した。昼間は、少し変わった色や形の雲を見つけると大騒ぎをした。
そんな懐かしい香りはどこにもなく。
住処にしていた人魚の鱗一枚でもあればと思う一筋の期待も当然のように溶けていく。
でも、僕は、こういう岩穴から色々な種の暮らしを見るのが好きだった。
僕には彼らの言葉が分からない。でも、互いに興味がないようでありながら離れては戻ってを繰り返して共にいる魚たち、じっと寄り添うように側にいる雄雌、見分けが付かないそっくりの姿でぴょこぴょこと泳いでいる三兄弟。
まるで追いかけ合って遊んでいるような姿を見てふふっと笑う。
「負けるな、がんばれ!」
憧れや羨望がないと言えば嘘になる。
でも本当に、ただ見ていることが好きだった。
穏やかに、生を感じるのが好きだった。
ふいに、一匹の雄の魚が不自然に、何かを探すようにゆらゆらと泳いでいるのが目についた。
これはこれで自然の、生の一部なのだと分かっている。
雄の魚が絶妙な距離を取っている岩穴の中に、黒い影がうごめいている。
咥えた物を誰にも盗られまいと、逃げられまいと、顎を奥に押し付けながら。
雌の姿は見えない。
僕だって腹が減れば魚を食らう。
何ということはないのだ。
やがて雄の魚は離れていった。
かさ こそ、かさ こそ――。
暗い岩穴で、生の音がする。
ある日、
僕は友人を訪ねていた。
ケイは孤独で友人なんていないと思ったろ?
勿論、種は違う。
その肌は、一枚の鱗も持たず、でも丈夫で艶があり美しい。
種が違うので言葉は解らない。でも体の大きさが近いと、快、不快程度は解ることがある。
群れで過ごし、よく水面近くで遊んでいるので、時々混ぜてもらうのだ。
追いかけっこをしたりするんだけど、おっちょこちょいな彼らは、僕の尾鰭を齧りそうになることがある。だから僕が気を付けないといけないんだ。
全く、可愛い奴らだ。
彼らといると良いことがある。
なんとなく会話をしている気分になるし、小さい子どもが生まれていたりすると、嬉しくなる。
見ていると分かる。仲間って、きらきらしているんだ。
でも僕は友人であって仲間ではないから、何の知らせもなく突然どこかへ行って会えなくなることだってある。
それがあらかじめ分かっておける頭があって良かったと思う。
寂しくなんてないよ。そういうものなんだから。
僕の目の前から消え去ったって、僕にも彼らにも、こないだまでの記憶があり、繋がっているのだ。
だから、寂しくない。それも、日常。
慰めてくれるかのように、言葉の届かない小さい魚の群れが、僕の肌を撫でて通りすぎてゆく。
かさ こそ、かさ こそ――。
少しだけ悲しくて優しい、生の音がする。
本能に誘われ、可能性を求めて彷徨い続ける。
危険な奴は避け、安全な奴は食らい、生きてきた。
手掛かりを見つけられずとも、美しい生を見て、時に空を見上げ、海を巡ってきた。
しかし、冷たい水は肌に合わず通れなかったから、実際にはそう広くは巡れていないのかもしれない。
ある日、
僕は暗闇を見つけた。
存在は知っていた。
暗く冷たい、底の見えない海の底。
違うよ、自暴自棄になったんじゃないよ。
下から漂ってきた鰭の欠片が、僕のに似ている気がしたから。
「おーい! 誰か! 僕の言葉が分かる奴はいないの!?」
水の冷たさが、恐怖心を膨らませる。
やめてよ。怖がりなんかじゃない。これは生物として危険を感じるまともな感覚だよ!
それに、仲間に出会えるかもしれない高揚感もあった。
「お願い! 誰か! ずっと、会いたいんだ!」
下に向かうにつれて、水は冷たく、光は薄くなってゆく。
届け! 届いてくれ! 応えてくれよ!
叫びながら、喉がつまる。
何かが、溢れようとしていた。
「ねぇ、……寂しいよ。一人は、寂しいよ……」
言葉は、泡になって消えていった。
ほら見てみろ、期待なんて、するだけ無駄なんだ。
気が付けば、光の届かない深さまで来ていた。
辺りに何があるのか、どこに空があるのか分からない。
深く、ともすれば呑まれてしまいそう。まるで夢の中にでもいるかのような。
静かで、不安で、でもどこか心地良かった。
あぁ、ずっとここにいれば、もしや――。
なんてね。驚いた?
僕はまだ全然希望を捨てちゃいないよ。
でも、心配だと思うなら、ちゃんと見ててね。誰からも見えない僕のこと。
何も見えないけれど、何かが生きている気配がある。
感じながら、暖かい上へゆっくりと向かう。
かさ こそ、かさ こそ――。
確かに、生の音がする。
さあ、今日はどうする?
暗闇だよ。また行っても良いかな?
そうそう、仲間がいるかもしれないんだから。
まあね、寒いんだけど……。でもちょっと慣れてきたし! 何より、希望を知らないふりしてはいられないでしょ?
暗闇に来るのはこれで何度目だろう。
いつしか怖くはなくなっていた。
「おーい! 今日も来たよ! 誰かケイと遊ばない?」
返事は今日もない。うん、想定内!
それでも気ままに話しかけながら散歩することにしている。
「誰かいるね、今日も元気?」
「どこ行くの? いつも暗闇ってどんな感じ?」
「君は、どんな姿をしているの?」
返ってくるものが何もなくたって、不思議と、ここなら僕は一人じゃなくなるような気がするんだ。
君が見ててくれないと、うっかり帰るのを忘れてしまいそう。
何かが、僕の肩や背中に触れながら漂っている。
「嬉しいな、傍にいてくれるの?」
はいはい、わかってる!
体を温めないとって言うんでしょ?
大丈夫、もう帰るって!
「またね、僕の暗闇」
かさ こそ、かさ こそ――。
ずっと、優しい音がしている。
どうしたの? 見ててくれるんでしょ?
どうしてだめだなんて言うの?
帰るってどこに?
ここは良いところだよ。
さみしくもない。
ちょっとさむいくらい平気だよ。
見えないし、言葉も聞こえやしないけど、なかまだってたくさんいるじゃないか。
わかったよ。
くらやみがきらいなら、僕のことなんてほっとけばいいよ。
僕は僕で好きにやるさ。
かさ こそ、かさ こそ――。
かさ こそ、かさ こそ――。
かさ こそ、かさ こそ――。
かさ こそ、かさ こそ――。
ぼくは、およいでいる。
ひとり。ひとりじゃない。
かさ こそ、かさ こそ――。
くらくて、つめたくて、きもちがいいな。
きょうも、ここはきれいだ。
かさ こそ、かさ こそ――。
「ねえ! 誰か、私の言葉が分かる誰かはいないの!? お願い、返事して!」
ああ、いつかのぼくのこえがする。
「何もしない! 言葉を交わしたいだけなの! いたら返事して! 誰か……!」
なんども。なんども。
「もう……一人はたくさんなのっ。助けて……!」
どんなにいったって、なんにもならないのに。
かさ こそ、かさ こそ――。
かさ こそ、かさ こそ――。
かさ こそ、かさ こそ――。
かさ こそ、かさ こそ――。
きょうも、うみはしずかだ。
ほら、こわくないよ。
ぼくが、てをとってあげる。
久しぶりの新作、楽しかったです。
お読みいただきありがとうございました。




