第4話:記録にない隣人
──夢を見た。
私の手が、確かに誰かを癒していた。
でもその人の顔は、霞んで見えなかった。
けれど、何かだけははっきりしていた。
私はその人を……“とても、とても大切に思っていた”。
──王都・記録術式研究棟/地下フロア
「で? 君は“カイン”という名前を聞いた瞬間、涙が出たと?」
重たい書類をめくりながら、青年研究員が眉をひそめる。
彼の名は――カナエ・ジン。
王国記録省に籍を置く術式学者で、私の“監視兼協力者”だった。
「……笑いたいなら笑っていいよ。でも、あの瞬間、胸が締めつけられたの。
見たこともない名前なのに、泣きたくなるくらい懐かしかった」
「笑わないさ。むしろ、“正しい反応”だ」
「え?」
カナエは無造作に書類の束をこちらに滑らせた。
そこには、“記録破損事例”の一覧と、注釈の付いたデータが並んでいた。
「この中に、『カイン』という名前が何度も登場する。
ただし、どの記録も“本文部分が破損”してる。
まるで、誰かが意図的に“彼という存在だけ”を消したように、だ」
「そんなこと……できるの?」
「君なら、できるかもしれない。少なくとも、君の“前任者”は」
カナエはモニターを操作し、映像を投影する。
砂嵐のようなノイズの向こう。
光の中に立つ、白い外套の少女。
誰かに手を伸ばして、何かを言っている。
「この記録は9年前の王都・聖堂前広場。
この“消えかけの映像”が、唯一残された“エリス=ルーナ”のラストログだ」
──その名前が出たとき、私は呼吸が止まりそうになった。
「……知ってる。たぶん、知ってる。
でも、思い出せない。どうして……?」
「君の力、癒しの“時間逆行”は、記憶にも干渉しているはずだ。
もしかしたら――君は、過去に“聖女エリス”と関わっていた可能性がある」
「でも、私は王都に来たのは今年が初めてで――」
「“記録上は”な」
その言葉に、私は背筋が凍る。
「リュミエル。
君の存在記録には、【生誕地:不明】【初期魔力値:測定不能】【既知血縁:なし】とある。
それは、“生まれが不確か”というだけでは済まない」
「まさか……私も、改変された?」
「あるいは、“元の世界線”の君が、今ここにいるだけ、かもしれないな」
私は、何も言い返せなかった。
胸の奥に、確かにあるのだ。
“誰かと一緒に生きていた”記憶の感触が。
けれど、それは名前も顔もない。
ただ、手の温もりと、優しい声の記憶だけが残っていた。
「君の力が、“何かを癒したとき”にこぼれる記録の残響……
それを解析すれば、過去の世界線の断片を再構築できるかもしれない」
「つまり、癒しを“もう一度”繰り返せば……?」
「カインという存在が、本当にいたのかどうか、君自身が証明できる」
そう言ったカナエの目は、研究者のそれだった。
でも私は、もっと違う理由で、確かめたかった。
私が今、生きている意味。
私の“癒し”が、誰かの悲しみの上に立っているのだとしたら。
なら私は、その人のことを――もう一度、知りたい。
──その夜。静かな街の裏通り。
リュミエルはふと、足を止める。
癒しの力が、どこからともなく疼き出す。
「……誰か、泣いてる?」
近くの建物で起きた事故の現場に駆けつけ、彼女は無意識に手をかざす。
そして――
視界が、静かに反転する。
そこには、血に染まった石畳と、崩れた建物。
瓦礫の下に閉じ込められた人々と、涙を流しながら何かを叫ぶ少年の姿。
その少年の口が、かすかに動く。
『……エリス……忘れないで……』
その名を聞いた瞬間、リュミエルの胸に熱いものが走る。
「私……知ってる……この声……この人……!」
そして、少年の顔がはっきりと映る。
茶色の髪。真っ直ぐな瞳。
懸命に何かを伝えようとしていたその少年は――
「……カイン……!」
リュミエルが、初めて名前を“自分の意思で”呼んだ瞬間。
周囲の光が、静かに弾けた。
“記録が、揺らいだ”。
今、彼女の記憶と、この世界の時間が、静かに繋がり始めたのだ。
(第2部第4話 了)
次回予告(第5話「時間を越えて、また君に」)
名を呼んだ瞬間、記録が揺らぎ、世界が涙をこぼす。
これは、記憶を失った聖女が、もう一度“君”に会いにいく物語。
第2部、完結へ──