第3話:綻びの記録
*この物語は、かつて世界を巻き戻した“聖女”がいなくなった後の物語です。
癒すたび、誰かの涙が心をかすめる。
名前も知らないその人が、私の力の起源かもしれないとしたら。
――私は今、記録に残らなかった“誰か”の痕跡をたどろうとしている。*
──それは、“記録に存在しない日”。
歴史とは、刻まれた記録の連なりだ。
──それは、“記録に存在しない日”。
歴史とは、刻まれた記録の連なりだ。
だから私は、癒しの力が“その記録に干渉している”と知ってから、恐ろしかった。
けれど、それ以上に――どうしようもなく、確かめたかった。
その人のことを。
名前も知らない、でも“懐かしい”あの人のことを。
──中央記録省・禁閲資料庫
「許可番号T-4177。特別閲覧資格“治癒起源調査枠”。リュミエル・エラン。入庫許可、発行します」
機械的な音声とともに、分厚い扉が開いた。
冷たい石造りの室内には、古い巻物や水晶記録、手書きの原典文書が並んでいる。
私の目的は、その奥――“術式前歴”の中でも、破損・不明・検閲済と記された【灰色の箱】。
誰も触れようとしないその箱には、国が公的に記録することを拒否した“異常な事例”が収められていた。
私は箱を開ける。
中には、水晶片と数枚の走り書きがあった。
《第██期 聖堂外 周辺異常記録》
《当日、王都全域で大規模な光干渉反応を検出》
《原因不明。死者記録が自動消去。存在事実消失。》
《記録官2名、記憶障害》
《“回復魔法による復活現象”の証言。該当術者:不明》
私は震える指先で、その断片を拾う。
死者記録が、消された?
誰かが、癒したのではない。
死という記録自体を“なかったこと”にした。
それが、あの“白い聖女”の力だったの?
いや――もっと正確に言えば、“世界の時間そのものを逆流させる力”。
私が患者を癒すときに見る“過去の光景”。
それは、癒された肉体の時間だけでなく――世界の記憶まで巻き戻していたというの?
「それじゃあ……」
私は、小さく息を呑む。
「私が癒すたびに見ていた“あの人”……彼女は、ただの幻なんかじゃない。
**時間に焼き付いた“記録の残響”**だったんだ」
そして私は思い出す。
癒しの中で見た、ある光景。
灰色の石畳。
崩れた聖堂。
その中央で、名前を叫びながら駆け寄る“誰か”。
その“誰か”の姿だけは、いまだにぼやけて見えない。
けれど、私は感じていた。
彼女は、誰かを守ろうとしていた。
泣きながら、微笑んでいた。
そして――自分を、“記録から消すこと”を選んだ。
「……でも、あなたは今も残ってる」
私は、水晶記録を手のひらで握り締める。
「あなたの選んだ未来の続きが……今の私なんだよね」
──その夜。研究棟・私室
記録調査を終え、私は部屋に戻っていた。
誰もいない室内。
けれど、私は眠れなかった。
あの記録に書かれていたのは、ありえない話ばかり。
けれど、癒しを通してその痕跡を見てきた私には、もう否定できなかった。
あの“聖女”は、確かにいた。
彼女は、この世界を巻き戻して、未来を守った。
ならば――なぜ、誰もその名前を口にしない?
なぜ、その力が“なかったこと”にされているの?
その問いが、喉の奥に引っかかったまま、私は机に伏せて目を閉じた。
──そのときだった。
“君は、気づき始めたか”
耳元で、誰かの声がした。
私は跳ね起きる。
部屋に誰もいない。
けれど、確かに聞こえたのだ。
その声は、低く、静かで――どこか、懐かしかった。
「……誰?」
“もう一度、世界は選ばれようとしている”
“次は、君の番だ”
静かに、空間が揺らぐ。
私は、癒しの力を無意識に発動させる。
すると、壁に浮かぶ影の中に、一瞬だけ“名前”が浮かんだ。
──《カイン》
「……誰、それ……?」
でも、その瞬間、私は涙を流していた。
その名前に、心が強く反応していた。
“カイン”。
聞いたことのないはずの名前。
けれど――私は知っている。
この世界に消された“何か”と、深く結びついたその名を。
(第2部 第3話 了)
次回予告
彼の名を呼ぶとき、世界は微かに揺らぐ。
それは、かつて消された記録の主――聖女の隣にいた“少年”の名。
次回、第4話「記録にない隣人」。
癒しの中に浮かぶ、もう一人の影。その真実が少しずつ姿を現す。