第2話:消された未来の名
──“聖女エリス=ルーナ”。
その名前を、私は初めて耳にした。
だが、不思議なことに。
その響きは、どこか懐かしくて、涙が出そうになるほど胸に刺さった。
「……その名前……知らない、はずなのに」
「だが君は、反応した。これは偶然じゃない」
ヴァル――《時の残響》と名乗った青年は、手にしていた記録装置を起動した。
浮かび上がるのは、今からちょうど十年前――王国全土を巻き込んだ“疫病大崩壊”の記録だった。
「本来なら、王都は滅んでいたはずだった」
「え……?」
「疫病は第七防衛線を突破し、中央まで到達。死者は数万を超えるはずだった。
だが、現実には“記録上は”――感染者数は百未満。死亡者は“ゼロ”。」
「そんなの……記録のミスじゃ……」
「ミスなら、まだマシだったろうな。だが、ここを見ろ」
ヴァルが記録の一部を指差す。
そこには、妙な空白があった。
通常、治癒術が施された際には術者の名と術式が刻まれる。
だが、その期間中──**数日の記録が“丸ごと空白”**になっていた。
「癒された記録はある。だが、癒した者の名前が、どこにも存在しない」
「……まさか、それって……」
「そう。聖女エリス=ルーナ。
彼女が、世界の“未来”を巻き戻した。たったひとりで、滅亡の未来をなかったことにして」
私は息を呑む。
記録の空白。
記録にない名前。
記憶にないはずの映像。
だけど私は──確かに、あの光景を“見た”。
癒しの中で、崩れゆく王都を、泣きながら光を放つ“誰か”を。
「彼女の存在は、記録からも歴史からも、完全に“抹消”された。
君があの名に反応したということは……君の癒しの力が、
“この世界に上書きされる前の未来”に繋がっている証拠だ」
「……なぜ? どうしてそんな人が、いなかったことにされるの?」
ヴァルは静かに目を伏せる。
「“それが、望まれたから”だ。
彼女自身が、“自分を神格から外し、ただの人間として忘れられる”ことを望んだ。
……その上で、彼女を記録から抹消したのは――この国の意思。いや、もっと上かもしれない」
私は目の前が真っ白になった気がした。
誰かを救って、世界を救って、そのうえで忘れられることを“望む”なんて。
どうしてそんな――あまりに、あまりに悲しい願いを。
──数日後。研究都市、中央記録図書館。
私は、許可を取って、王国の記録部へと足を運んでいた。
「……“聖女”という称号の履歴、直近十年分を確認したいんですが」
記録官は目を細めた。
「現在“聖女”とされているのは、貴女……リュミエル様、ただお一人です。過去の称号保有者は存在しません」
「――え?」
「王国において“聖女”の称号が正式に制定されたのは、ちょうど八年前。
それ以前に称号として用いられた記録は、存在しません」
存在しない?
でも、私の癒しの中には、確かにいた。
白い外套の女性。世界を光で包んだ、涙をこぼす、あの人が。
彼女がいなければ、私の力は存在しないはずだ。
私が癒しの力を得たのは、“七年前”。
それより前に、必ず、誰かが“先駆者”として存在していたはずなのに。
「……記録には、残っていないのね」
「ええ、公式には」
言葉の裏に含みを感じた。
その記録官は、ふと視線を周囲に走らせると、小さく口を開いた。
「……貴女の術式は、私も拝見しました。
まるで、“世界の傷そのもの”をなかったことにするような、恐ろしい力です」
「……私も、そう思います」
「ですが、同じような力を使った人間を、私は一度だけ見たことがあるのです」
その言葉に、私は身を乗り出す。
「どこで?」
「十年前。王都で。
ただの噂だと思っていました。“死者を蘇らせる白い聖女”がいたと。
今となっては、何一つ記録に残っていませんが……あのとき見た白い光は、間違いなく……」
「その人の名前は、わかりますか?」
「――記録には、ありません」
「……でも、貴女の目には、映っていたんですね」
「はい。そして、あなたの癒しに、同じものを見たのです」
その瞬間、私の胸の奥が、強く脈打った。
記録が消えても、記憶が消えても。
それでも、彼女は――誰かの中に、“残っている”。
だから私が、それをたどる。
私の癒しが、過去を繋ぐ“鍵”ならば。
この“癒し”は、きっと私だけのものじゃない。
「……教えて、聖女エリス=ルーナ。
貴女は、いったい……何をこの世界から消したの?」
(第2部 第2話 了)
次回予告(読者向け)
“癒し”に宿る過去の記憶。
抹消された存在と、隠された世界改変の痕跡。
次回、第3話「綻びの記録」。
失われた過去に、リュミエルは“名前のない日”を見つける。