06 初戦
敢えて音が立つように、やや乱暴にドアを開けた。ただし全開にはせず、こちらの身体が見える程度に留めておき、手斧を持つ右手は身体の後ろに隠しておく。
「――っ!?」
合田のおっさんは勢い良く振り返ってきた。こうして改めて見ると、目が血走っているのが分かる。相当に気が立っているのが一目瞭然だ。
おっさんは玄関から見て右方向に――瀬良家や合田家のある方へと歩いていたため、こちらは少しドアを開けただけでおっさんと少女を視認できたし、向こうもこちらの右腕以外の全身を視界に収めているはずだ。
俺は左手でドアレバーを握ったまま、驚いたような顔を意識して口を開いた。
「えっと……あの、合田さん……いったい何を……?」
我ながら大根役者だと思ったけど、問題ないだろう。今のおっさんはとても冷静な思考ができる状態とは思えないし、むしろ興奮醒めやらぬはずだから、こちらが弱気な態度を見せれば自分に都合良く解釈してくれるはずだ。
案の定、おっさんは舌打ちを零しつつも、獰猛さ溢れる歪んだ笑みを浮かべた。
「結城さァん、このタイミングで出てくるなんて、あなたも間が悪いですねェ。いや、こっちとしては手間が省けていいんですけどねェ」
敵は左手で掴んでいた葵ちゃんの手首を放し、こちらと正対する形で身体を向けてきた。右手に持つ血塗れの包丁は隠す素振りもない。
彼我の距離は五メートルほど。敵の左足はやや下がっており、右足に体重を預けるような形で、猫背ぎみに立っている。言い換えれば、やや前傾姿勢で右足に力を溜めている状態に見える。
「あ、あの、葵ちゃんは……まさか……殺したんですか……?」
「アハハハハッ、そ、そんな勿体ないこと、フヒッヒ……するわけねェでしょォが」
「でも、じゃあ、その血は……」
「フヒヒヒ、あなたの妹も可愛がってヤリますよォ、結城さァん!」
駆け出してきた。
さっきのあいつは仕留めた獲物を横取りされないかと警戒する猛獣も同然だった。さっさと住処に戻って狩りの成果を堪能したいけど、目撃者は無視できない。いくら通信障害の最中でも、交番に駆け込まれれば厄介だ。後顧の憂いを残しては安心してお楽しみタイムと洒落込めない――そう判断しただろうことは想像に易い。
想定通りだ。
しかし、まさか心結まで狙っていて積極的に俺を殺す算段もあったような点は想定外だったけど、まあ焦るほどではない。相手が変態クズ野郎なのは変わらないんだ。
「ひぃっ」
念のため猿芝居はまだ続けておき、俺は如何にも臆した様子を見せつつ急いで後ずさる。このとき、焦るあまり左足のサンダルが脱げてしまった態でその場に残し、ドアが閉まらないようにしておく。右足のサンダルはそのままで廊下に上がり、尚も後退し続けながら右腕を真上に振り上げた。ただし肘は限界まで曲げて、まだ背中に手斧を隠しておく。
敵は理性を失い、もはや獣そのものだけど、だからこそ油断はできない。こちらが牙を見せれば、本能的に怯えて退くこともあり得る。攻撃するその瞬間まで、怯えた弱者でいるべきだ。
「ハッハァ! 間抜けなクソガキがァ!」
敵がドアを勢い良く開け放って玄関に足を踏み入れた。
奴は瀬良夫妻を殺した直後に加えて、少女を確保したことで高揚感に酔っているはずだ。今の自分には何でもできると思い込み、若造一人を殺すなど容易いことだと驕っているだろう。
「死ねェ!」
幸い、敵は包丁を振り回すなどの素人臭い動きをせず、腰だめに構えて真っ直ぐに突っ込んで来る。瀬良夫妻が抵抗しなかったとは思えないので、奴は二人を殺す過程で効果的な攻撃方法を学習したのかもしれない。廊下という直線状の狭い空間で、成人男性の質量を伴った突進による刺突攻撃というのはシンプルに強力だ。素人には対処が難しいだろう。
しかし、分はこちらにある。リーチ差による先制攻撃での一撃必殺という圧倒的優位性、これを覆すには何かしらの武術でも修めていなければ至難の業だ。
こっちは左腕に一撃もらう覚悟でいたから、単調な突進は実に好都合だった。
「――――」
意識が研ぎ澄まされていく。
敵の動きがはっきりと見える。過度な緊張による視野狭窄は起きていない。敵の全身を広く捉えることができている。怯えても、竦んでも、恐れてもいない。俺は冷静だ。タイミングさえ誤らなければ無傷で勝てると確信する。
人が恐れるのは未知だ。死という未知、刃物に刺される痛みという未知、一線を越えた先という未知。知らないから恐れるけど、知っていればどうということはない。
「――っ!」
鋭く息を吐きながら右足を一歩前に踏み出すと同時に、限界まで曲げていた肘を全力で伸ばしつつ腕を振り下ろす。迫り来る敵に右半身を向けるような体勢で、一撃必殺となり得る攻撃を放った。
敵の脳天へと吸い込まれるように、斧の分厚い刃が額の上から頭頂にかけてめり込んだ。しかし、敵の突進は止まらない。即死する一撃だろうと慣性は死んでいない。
手斧の柄から手を放し、かなり際どいところで敵の凶刃とその肉体を避けた。勢い余って廊下の壁に当たりながら転びかけたけど、その甲斐あって敵の肩と掠った程度の接触に留まり、傷一つない。あまりに一瞬の交錯で、手斧を振り下ろす前とは異なり、ほぼ反射で身体が動いた。
運動不足の割に、いざというときは動いてくれるもんだな。
昔取った何とやらってやつか。
「ふぅ……我ながら完璧だ」
廊下に倒れ込んで微動だにしないおっさんの身体を見下ろし、俺は得も言われぬ達成感を覚えていた。なかなかに悪くない心地で、思わず笑みが零れてしまう。
初めて使う手斧を、猛烈な勢いで迫り来る相手にジャストタイミングで命中させられた。これは意外と凄いことなんじゃないか? それに何より、ちゃんと屋内に誘い込んで殺せた。これで俺は、自宅に押し入られて襲われたから止む無く殺したという言い分が成り立つ。今後、たとえ葵ちゃんという証人を守り切れずとも、最低限の自己保身は可能になる。
だからこそ、手斧を投げつけて相手が怯んだ隙にナイフで留めを刺すという戦法は使わなかった。手斧とナイフによる二段構えの攻勢など殺意が明確すぎて、警察の事情聴取を考慮するとそれは愚策だ。無我夢中で手斧を振り下ろしたら致命傷を与えてしまったということなら、最悪でも未必の故意で済む。
「気は進まないけど、このままにしておくべきだよな」
本当は手斧を回収し、遺体は浴槽にでも押し込んで蓋をしておきたいところだけど、現場保存は大事だ。証拠隠滅と取られかねない行動は避けた方がいいだろう。幸い、倒れたところは物置部屋の前ではない。それにおっさんの頭には手斧が深く食い込むように刺さっていて、倒れ込んだ衝撃を受けても抜けてないから、出血はほとんど見られない。血生臭い匂いは今のところほぼしない。
とはいえ、夏場だから死体の腐敗は速く進むだろう。今後、物置部屋に物資を取りに来るときを思うと憂鬱になるな。冷房は点けっぱなしにして、上から何か被せておけば、少しはマシになるはずだと思っておこう。生憎とビニールシートはないので、大きなゴミ袋を何枚か切り開いて代用するしかなさそうだ。
「よし。こっちは後回しにして、先に葵ちゃんを確保しておくか」
玄関で左のサンダルを履き直し、共用廊下に出た。見回しても誰もおらず、少女も倒れたままだ。ここで第三者に発見されて介入されても面倒なので、葵ちゃんを抱え上げて自宅に戻った。葵ちゃんは身長体格からして六十キロもないはずだけど、意識がない人間というのは随分と重たく感じて、運ぶのに少し苦労した。
とりあえずリビングのソファに横たえて、一息吐く。寝室のベッドと迷ったけど、男の寝床で目覚めるのは心臓に悪いだろうからな。
葵ちゃんは呼吸も脈拍も安定しているようだけど、目覚める様子はない。後頭部を触って確認してみたら、小さくこぶができていた。出血はなかったし、意識のない相手を弄んでもつまらないだろうから、一応おっさんも加減して殴り付けたはずだ。このままずっと目覚めないということはないと思いたい。
念のため氷枕を持って来て、少女の頭の下に挟んでおいた。
「さて、瀬良家の様子を見に行くか」
瀬良夫妻が絶対に死んでいるとも限らないからな。
再び共用廊下に出て、ふと気付く。
そういえば葵ちゃんは先ほど扉を叩いていたけど、普通はインターホンを連打するはずだ。
試しに自宅のインターホンを押してみた。
「ん? 鳴らないな」
停電はしていないのに、何度押しても鳴らない。
どういうことかと思いつつ、共用廊下に誰もいないことを確認してから、隣家の瀬良家の玄関扉に手を掛けた。案の定、鍵は掛かっておらず、開いている。
早々に廊下で倒れている男を発見してしまったけど、まずはインターホンを押してみた。
「……なんで鳴らない?」
瀬良家も廊下やその先のリビングは明るく、停電している様子はない。
人目に付いても面倒なので、何はともあれ屋内に入ってドアを閉める。
廊下には見覚えのある顔の中年男性が横たわった状態で血溜まりに沈んでいた。名前は知らないけど、葵ちゃんの父親だ。首と腹の辺りが服ごと真っ赤で、血溜まりもその二箇所から床に広がってできている。玄関から遺体のところまで、ぽつぽつと血痕が見られるので、おそらく一度玄関で襲われて、廊下にまで後退したところで留めを刺されたのだろう。腹部を刺すだけでなく、しっかりと首にまで一撃入れるあたり、合田のおっさんも容赦がないな。
確認するまでもなく死んでいるのは明らかだったけど、念のため軽く呼び掛けて、肩を揺すってみた。当然の如く反応はない。俺も一歩間違えば今頃こうなっていたんだろうな。
「しっかし、通信障害から一時間もしないうちにやってのけるとは……」
合田のおっさんの葵ちゃんに対する執着心みたいなものが感じられて、少し怖気がした。
おっさんは宇宙人による人類バトロワ展開を信じて犯行に及んだというより、信じたい気持ちを抑えきれなかったのだろう。人々が殺し合い、社会秩序が崩壊すれば、女子高生を好き勝手に弄んでも社会的制裁を受けることはないからな。それに死ぬかもしれない状況に置かれれば、誰だって死ぬ前に欲望を満たしたいと考えるものだ。まあ、それを実行に移せる奴は今の段階だとかなりの少数派だろうけど。
「せめて明日の九時まで待てなかったのか……いや、待てよ」
合田のおっさんは俺を警戒していたのかもしれない。
互いに瀬良家のお隣さんだし、自分が葵ちゃんを狙っているように、結城暁貴も葵ちゃんを狙っていると思い込み、先んじて身柄を確保すべく即座に行動を起こしたのではあるまいか。
いずれにせよ、心結にまで目を付けていたようだから、合田のおっさんにとって俺は邪魔で危険な存在だったのだろう。
「うーん、まあ今となってはどうでもいいことか」
遺体の側から立ち上がり、歩みを進めた。
廊下とリビングを隔てる扉は開いていたので、そのままリビングに入ると、床に見覚えのある女性が仰向けに倒れていた。こちらも腹部と首元からの出血が見られ、全身はぐったりとして全く動かない。その死に顔は先ほどソファで見た葵ちゃんの顔とかなり似通っていて、母親似なのが改めてよく分かる。
「殺した女にそっくりの娘を犯そうとするって、罪悪感が凄そうだけど、どうなんだ?」
合田のおっさんもさっきは昂ぶっていたようだけど、少し時間が経って落ち着けば正気に返ったはずだ。そうなると、葵ちゃんを見る度に、殺した彼女の母親を思い出すことになっただろう。
その点、俺に罪悪感を覚える理由はない。襲ってきたのは向こうだし、俺には葵ちゃんを暴漢から守ったという大義名分がある。誰からも責められないどころか、むしろ人によっては賞賛される行いだろう。
それでも殺人を犯した事実は変わらないから、罪の意識を覚える余地があることは理解できるけど……そんなのは今更の話だ。殺意を以て襲い掛かってきた明確な敵、それも赤の他人を殺して覚える程度の罪悪感など、俺が持ち合わせているはずがない。
「……戻るか」
溜息交じりに呟き、踵を返す。
そこでふと固定電話が目に入ったので、念のため電話回線が繋がるかどうかを確認してみる。まず間違いなく繋がらないとは思うけど、ここで俺が救急車を呼ぼうとした痕跡――指紋は残しておいた方がいいはずだ。俺の家に固定電話はないしな。
先に救急、それから警察への連絡を試みてみたけど、やはりどちらも繋がらなかった。これで一安心ってもんだ。もし繋がってたらせっかくの計画がご破算になるからな。
よし、いい加減戻ろう。葵ちゃんが目覚めたときに側にいた方がいいだろうし、ここは殺人現場だ。やるべきことはやった以上、長居は無用だろう。
念のため警戒は怠らず、共用廊下に誰もいないことを確認してから、自宅に戻った。