05 狂気
普段、心結は電車とバスと徒歩で俺の家まで来ている。
今日も良く晴れて蒸し暑い猛暑日だ。十五時過ぎにもなると建物や道路に熱が蓄積されることで、下手すると一番暑い時間帯になりかねない。命の危険すらある酷暑の中を歩いて帰らせるのはさすがに気が引ける。特に今日は家事を手伝ってもらったし、心結は帰ったら勉強するだろうから、帰路に費やす時間と体力はそちらに回させてやるべきだろう。
ということで、帰りは車で送ってやることにした。
「お兄ちゃんって何だかんだで優しいもんねー」
「ついでだ、ついで。街の様子見ておきたいし、駅前とかで号外配ってないか確認したいしな」
心結のために送っていくと言うと調子に乗りかねない。一応、こいつとは一定以上の距離感を保っておきたいから、向こうからぐいぐい来る分、普段から気を付けていないと必要以上に親密になりかねない。
「号外? 今日そんなの配るかな? 配るなら通信障害とか起きてか――ん? 後ろになんかいっぱい箱積んであるけど、何これ?」
SUVに乗り込んですぐ、心結が後部座席の荷物に気付いた。
昨日買い込んだ飲食物や様々な物資はホームセンターで買ったコンテナボックスに入れてあるので、一目で何の荷物かは見分けられなくなっている。
「あー、キャンプでも行こうかと思ってな」
「キャンプあたしも行きたーい! え、いつ行くのっ?」
「まだ分からん」
適当に誤魔化しつつマンションを出発した。
運転中、心結は他愛ない話を次から次へと絶え間なく繰り出してきて、昨日から世間で騒がれていることなど、やはり大して気にしていないようだった。
道中で見掛けたスーパーやドラッグストアの駐車場はどこもいっぱいで、店先から出てきた人はいずれも大荷物なのが目に付いた。とはいえ、人々が競って買い物をしているような慌ただしい気配はなく、一部の人が念のためといった様子で買い溜めに走っているだけのように見えた。
道路を行き交う車両の数は特に多いとは感じず、渋滞もなくスムーズに流れていく。心結の住んでいる家は俺のマンションの最寄り駅から三駅先にあり、車だと三十分も掛からない程度の距離だ。
駅から少し離れたところにある閑静な住宅街に、目的の一軒家は建っている。真新しい新築で、特に何の変哲もない二階建て住宅だ。土地の広さも家屋の大きさも一般的で、有り触れている。
そんな家の前に路駐すると、心結がシートベルトを外しながら笑顔を向けてきた。
「ありがとねー。せっかく来たんだしさ、まーくんの顔見てってよ」
「いや、わざわざいいって。お前の送ってくる写真で十分見てるしな」
本当にうんざりするほど見せられているせいで、もう実物など見たくないくらいだ。
「写真と生じゃ全然違うから! 生の方が超可愛いから!」
「へー、そーなんだー」
「……てかさ、ホントお兄ちゃんうちに上がるの嫌がるよね。そんなにママと会うの嫌?」
「何度も言ってるけど、晴佳さんには何も思うところはない。ただ、俺が父さんの住む家に入りたくないだけだ」
正確には、俺の方に抵抗感はあまりない。
しかし、父さんの方は不快に思うだろう。父さんがこの家を自宅としている間は、その生活空間に足を踏み入れるような真似は避けるのが無難だ。
心結は不満そうに小さく眉根を寄せながらも、向ける眼差しはどこか気遣わしげだった。
「もぉー、まだそんなこと言ってんの? てかそれガチだったの? ママを避ける口実とかじゃなくて本気で言ってたの?」
「前からそう言ってるだろ」
「じゃーいい加減パパと仲直りしなよぉー、弟も生まれたんだしさー」
俺にとっては件の弟など、晴佳さん以上にどうでもいい存在だ。
しかし、そんなことを正直に言えば心結は傷付くだろう。それは俺も望むところではない。
「俺と父さんの問題だ。口出しするな。父さんからもそう言われてるだろ?」
「そーだけどさー……でも家族仲が悪いのは嫌じゃん」
笑顔の似合う少女の顔を曇らせたことに少なからず胸は痛んだけど、心結の気持ちを汲んで優しい言葉を返すことはできなかった。
「とにかく、着いたんだからさっさと降りろ」
「ならママ呼んで来るから待ってて! まーくんも連れて来るから!」
「いや、そういうのは――」
「待っててよ! 絶対だよ! 勝手に帰ったら夏休み終わるまでお兄ちゃんち泊まるからね!」
心結は俺の返事も聞かず車を降りると、駆け足で家に入っていった。
それから間もなく、赤子を抱いた女性と共に出てきたので、こうなっては俺も降車せざるを得ない。それでも門の内に入るようなことはせず、門前で対応する。
晴佳さんには適当に挨拶しつつ、メロンなどの礼を言い、正貴という名の赤子の手を握らされた。ちょうどおむつを替えたばかりで起きていたらしい。不快感が解消されてすっきりした直後だからか、本人はご機嫌な様子で笑っていた。ゼロ歳児は暢気なもんで羨ましいな。
そういえば、本当に宇宙人がいて殺し合いになれば、人を殺せない赤子はまず生き残れないんだよな。こいつも死ぬことになる。そう考えても憐憫の情は微塵も湧いてこなかった。
「暁貴くん、ここはあなたの家でもあるんだから、いつでも来てくれて――帰ってきていいんだからね」
車に戻ろうとしたとき、晴佳さんにそう言われたけど、俺は頷きはせず「ありがとうございます」と低頭しておいた。彼女は温厚な人で、血の繋がらない息子に対するネガティブな感情も見られず、こうして接する限りは普通にいい人のように思える。
しかし、それだけだ。
特に関わりたいとは思わないし、興味も持てない。
俺はそそくさと運転席に乗り込むと、もうさっさと帰りたい気持ちでいっぱいだったけど、窓を開けて心結に念押ししておく。
「心結、約束忘れるなよ」
「そーゆーお兄ちゃんもね、ちゃんと水着買いに行くとこからだよ?」
「ああ」
最後に「それじゃあな」と軽く手を上げ、晴佳さんには目礼しておいた。
「じゃーねー。ほーら、まーくんもお兄ちゃんにばいばーいって」
心結は母親の抱く弟の小さな手を取り、振らせていた。そんな三人の姿は紛う事なき親子であり家族で、何だか随分と眩しく見えた。幼い頃、車で仕事に向かう父を、母と共に見送ったことをふと思い出してしまい、思わず溜息が漏れそうになる。
俺は手を振り返さずアクセルを踏み、結城家をあとにした。ミラーで後方を確認してみると、結城家の面した通りを曲がるまで、心結と晴佳さんが見送りに立っている姿が映っていた。
■ ■ ■
結局、号外は配られていなかった。
帰る道すがら、比較的大きな駅に寄ってみたけど、配られていたのはポケットティッシュくらいなものだ。SNSで調べてみても、号外が配られているという情報は見当たらない。本当は先に調べてから行こうと思ったんだけど、古都音の言葉を思い出して、まずは実際に自分で確認した方がいいと思った。
ただ、その甲斐あって、収穫というほどではないけど面白いものを見られた。駅前の広場で「宇宙人主催のデスゲームだ! みんな準備はいいか!?」などと狂ったように大声で叫ぶ男がいて、なかなか見物だった。間もなく警官が来て、男が何事か喚きながら抵抗していたけど、それ以上の成り行きに興味はなかったからさっさと駅前を去った。
あんなのはきっと日本中どころか世界中で見られる光景だろうな。あの手の輩は元から精神に問題を抱えていたんだろうけど、今回の電波ジャックに起因する騒動の影響で、ああして頭のおかしい奴が炙り出される程度には社会が揺れている。それを実感できたのは幸いだった。
そのときには十七時近くになっていたので、適当なコンビニに入り、各新聞社の夕刊を軽くチェックしてみた。いずれも例の電波ジャック関連の話題で持ちきりで、各国の様子や現状に対する考察みたいな記事が多く、そのほとんどはネットで見掛けたような内容だった。
集団消失については各紙いずれも全く触れられておらず、違和感を覚えた。夕刊の原稿締め切りが何時なのかは知らないけど、仮に十時や十一時だとしても少しくらいは触れるだろう。何せ今日一番のビッグニュースだ。にもかかわらず、どの夕刊にも載っていない。政府の声明といったものも確認できず、目新しいものは何もなかった。
そのことを古都音にメッセージで伝えると、すぐに返信がきた。
<ぼくんち来るときはコンビニで朝刊買ってから来てくれ!>
道中でコンビニに寄ればいいだけなので問題ないどころか合理的だ。
そう思って<了解>と返した直後、少し後悔した。
<マジで通信障害起これば新聞求めて争奪戦になってもおかしくねーから、四時起きしてコンビニ待機で新聞来た瞬間に買うんやで!>
非常に面倒だとは思ったけど、特に反論はしなかった。テレビもネットも使えない状況になれば、情報を得る手段として新聞が必要なことは確かだ。
ついでだから瑠海にもメッセージを送っておく。
<昨日から宇宙人とかハッカーとか色々騒がれてるけど、もし本当に通信障害が起きたら、お前どうするつもりなんだ?>
夕刊と晩飯用の弁当を買ってコンビニを出ると、返信が来た。
<今から電話していい?>
車内に戻って、こちらから電話を掛けた。
「あ、先輩、ありがと」
「ああ。で、どうするか考えてるか?」
「とりあえず実家に戻ろうと思ってる」
スマホから聞こえる声に覇気はなく、緊張感なども皆無で、いつも通りのアンニュイな調子だったけど、念のため尋ねておく。
「戻って大丈夫なのか?」
「できれば先輩にうち来てほしいけど、どうせ先輩は大事な親友さんのところに行くんでしょう?」
「……ああ」
瑠海より古都音の方が大事なのは事実だ。瑠海にその気はないんだろうけど、そこを非難されているようで少し気まずかった。
「なら、わたしは実家に戻るよ。お母さんと妹がいれば、あの人は何もしないはずだから。まあ、居心地は良くないだろうけどね」
「なんなら俺の家来るか? 一人で過ごさせることになるけど、そっちのマンションや実家よりは安心できるだろ」
「うーん……すっごくありがたいけど、やめておく。お母さんが珍しく電話してくるくらいには心配しててね。実はもう荷物纏めてて、タクシーも呼んじゃってるの。通信障害が起きなくても、今回ので月一の顔出しノルマを果たせるし、とりあえず実家行くのが無難かなって」
俺に遠慮しているようには聞こえないし、嫌々という感じもしない。いつも通りの気怠い声だから、面倒に思っているかどうかも判然としなかった。
本当なら瑠海を連れて古都音のところに行くのがベストだ。しかし、古都音は人見知りなところがあるし、俺としてもできれば二人を会わせたくはないから、この展開は都合がいい。
「そうか。でも念のため、俺の家のスペアキーをそっちのマンションの郵便受けに入れておく。何かあったら迷わず逃げてこい」
「え、まさか先輩の家の合鍵を貰えるなんて……ハッカー様々ね」
「やらん、貸すだけだ。後で返せ」
「うん、そうよね、知ってた。でもありがと」
瑠海は微かな笑みを含んだ声でのんびりと言ってから、ふと「先輩」と改まったように呼び掛けてきた。
「もし本当に人を殺さなきゃ生きられなくなったらさ、そのときはこれまでの全部のお礼ってことで、わたしの命あげるね。先輩の家で待ってるから、ちゃんと殺しに来てね」
悠揚迫らぬ口振りに冗談の気配はない。古都音と違って瑠海は本気で言っていることが嫌でも理解できてしまった。
「……まあ、気が向いたらな」
「じゃあ、気が向いてくれるのを待ってるね」
電話越しでもやけにしんみりとした重たい空気が流れかけた気がして、それを払拭するために「あ、そういえば」と無理矢理に話題を転換する。
「もし宇宙人なんていないってことになったら、ちょっと恋人の振り頼むことになると思う」
「先輩がそんなこと頼むなんて珍しい……というか、意外。どういう事情なの?」
「その辺のことは追い追い話す」
「ふーん? あ、タクシー来た」
「じゃあ切るわ。何はともあれ気を付けろよ」
「うん、ありがと。それと、先輩には実家着いてから連絡するつもりだったんだけど、先輩の方から連絡してくれないかなって期待もしてたから、気に掛けてくれて嬉しかったよ」
わざわざ言葉にせずとも、喜色を滲ませた声だけで向こうの感情は十分に伝わってきていた。しかし、俺にはそれが重たく、また申し訳なくもあった。
「それじゃあ、またね」
「ああ、また」
通話を終えると、マンションにスペアキーを取りに帰って、瑠海のマンションの郵便受けに入れに行った。帰り道にガソリンメーターが半分をやや下回っていることに気付き、ガソリンスタンドに寄って満タンまで給油しておいた。
その後は自宅でのんびりと過ごした。
「日本は政府の声明とかないのかね……」
ネットで色々と調べてみると、海外では政府が国民に向けて何かしら声明を発している国もあるようだった。今回の件は宇宙人の仕業ではなく集団消失も起きてないとか、通信障害が発生しても落ち着いて行動するようにとか、まあ当たり障りのない内容だ。古都音と色々話していたことで特に驚きも戸惑いもなく、他国のことだから他人事同然に思えて、ただの真偽不明の情報として処理できた。
念のためテレビは点けっぱなしにして、ノートパソコンでも動画サイトで配信されているニュースを同時に流しているけど、日本政府からの声明はまだ何もない。スマホでSNSをチェックしても、昼から続く集団消失の真偽を巡る議論は未だ平行線だ。
はるばる他県から問題のエリアを訪れて確認した人は割と見掛けて、そういう人たちの意見も二分している。本当にニュースで見た通りの交差点事故が起きていたという百万フォロワーのアカウントもあれば、同程度のフォロワーで何も起きていなかったと主張するアカウントもあり、混沌としている。
もし宇宙人説が正しくて本当に集団消失が発生していた場合、何も起きていなかったと主張する者たちが大勢現れるのは奇妙に思える。しかし、彼らが世の混乱を抑えようとしていたり、政府機関にアカウントを乗っ取られていたりする可能性を否定しきれない。もし後者であれば、まず真っ先にテレビ局による現場報道を規制するはずだけど、既に幾度となく報道されている。テレビという最大の影響力を有するメディアが、デスゲーム開始の号砲となり得るニュースを全国放送している現状は些か以上の違和感を覚える。
とすれば、やはりハッカー説が有力に思えるけど、夕刊に集団消失の件が一切載っていなかったことが引っ掛かる。各新聞社が運営するニュースサイトを確認してみたら、電波ジャックの件は記事になっていても、集団消失の件はどこも一切触れていなかった。夕刊の原稿締め切りに間に合わなかったとしても、ネットの方では記事にするだろうに、今のところされていない。
ハッカーの駆使するAIが各社の原稿データを元に各社のニュースサイトの記事を調整し、アナログとデジタルの情報が一致するようにしているなら分かるけど、その場合は新聞社がサーバーの回線を物理的に引っこ抜くなどして、アクセス不能にすれば済む話に思える。アカウントならともかくサイトを乗っ取られたなら、そういう対処法だってあるだろうし、それが新聞社なら自らサーバーを落とすことで情報の発信源を新聞に絞り、自社の発信する情報の信頼性を高められるのだから尚更だ。まあ、サーバーは外部に委託する場合もあるだろうから、そう簡単に回線を引っこ抜くとかはできないのかもしれないけど……どうなんだろう?
あるいは、ハッカーは新聞社には手出ししていないのかもしれない。しかし、その場合は新聞にもウェブサイトにも集団消失が起きていない旨の記事が出ていないことに疑問が生じる。本当に集団消失が起きたからこそ、大衆の不安を煽るような記事は出せないと判断した結果が現状だと考える方がしっくりくる気がする。
ただ、そうなるとテレビはどうなるのか? 新聞社と同名のテレビ局があるように、その関係性は深い。今回のような場合は連携して動くはずだけど、テレビでは集団消失が起きたという報道がされている。このちぐはぐさは社会の混乱に起因していて、社会が混乱しているとなると、やはり本当に集団消失が起きたのか? それともハッカーによる妨害工作で政府や報道機関が上手く連携できていないだけなのか?
考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。
もういっそのこと東京に行って、現場を見てきた方が簡単かつ確実だろう。しかし、本当に通信の妨害とやらが起これば、道路や踏切などの信号も影響を受ける可能性が高い。高速道路はETCが使えず渋滞しそうだし、電車だって混乱は避けられないだろうし、飛行機は運行そのものを停止しそうだ。通信障害によって交通網が大打撃を受ける可能性を考慮すると、今の時点で安易に遠出するのは悪手に思える。
「昨日のうちに出発してれば、今日帰って来られたんだけどなぁ」
今更な話とはいえ、そう呟かずにはいられなかった。
ネット上では宇宙人説の信者もハッカー説の信者もそれぞれの正しさを発信し、今後どうすべきかを説いていた。一部では互いを敵視して罵り合っている様子が見られ、宇宙人説の信者などは殺害予告すらしていた。本当に通信障害が起きて人類バトロワが始まれば、特定されて逮捕どころではなくなるから、それほど自信があるってことなんだろう。
「ま、しばらくは様子見が無難だな」
幸い、人類バトロワの開催期間は百日間とされている。もし今回の件が本当に宇宙人の仕業で、十人殺さなければ生き残れない状況になるなら、最初の十日間が最も簡単に人を殺せるだろう。みんな半信半疑で覚悟が定まっていないだろうし、通信障害で受ける影響は職種によって様々だから、普通に通勤する人だっているはずだ。そうした人々なら不意打ちで楽に始末できそうな気がする。
しかし、事の真偽も定かでないうちから殺人を犯すのは危険だ。もし電波ジャックなどの犯人がハッカーだった場合、警察は殺人を犯した者を捜し出そうとするに違いない。だから安易に人を害するような真似は避け、ひとまずは自衛に徹するべきだ。少なくとも明日から数日の間は、大半の人がそう判断して生活していくだろう。
俺もしばらくは古都音の家で大人しく過ごすとしよう。
「これで通信障害が起きなかったら拍子抜けだけど」
思わず失笑を零しつつ、ソファから立ち上がった。
もし本当に通信障害が発生した場合、デスゲームの開始まで十二時間の猶予がある。今の段階で焦ることはなく、だからこそ古都音も朝刊を買ってから来てくれと言ったはずだ。
それでも念のため油断はせず、不測の事態に備えるという意味でも、問題の二十一時までにすべきことを済ませておいた方がいいだろうな。
■ ■ ■
ゆっくりと入浴し、のんびりと晩飯を食べて、だらだらとネットで情報収集をしていたら、あっという間に刻限となった。
「おぉ……マジで通信切れたな」
スマホもノートパソコンもネットに繋がらなくなった。スマホの表示ではモバイルデータ通信もWi-Fiも接続が切れており、どこのサイトにアクセスしようとしても当然の如く繋がらない。古都音に電話しようとしても同様だ。ノートパソコンは有線接続を試してみたけど、やはり繋がらない。念のため端末を再起動させてみたけど、接続状況は変わらなかった。
そのくせテレビはまた例の放送が始まっている。
《期間内に我々の保護を受けられなかった者は、その悉くを消滅させる。我々が人類を容易に滅ぼせる力があることを示すため、七月三十一日零時に、人類が国家と定める領域ごとに、その時点で最も人口密度の高い一平方キロメートル内にいる人類を例外なく消滅させる。その十二時間後、電子機器を用いた情報通信の妨害を開始する》
画面いっぱいに地球が映し出され、人間味の感じられない無機質な音声で昨日と同じことを言っている。試しに一通り聞いてみたけど、内容は全く同じで、ループ再生になっているのも変わらなかった。
「なるほど、通信の妨害か……確かにこれも妨害だ」
通信を遮断なら未だしも、妨害だ。こうして電波ジャックして、人類が任意の情報を発信できなくすることだって、立派な通信の妨害と言える。てっきりテレビも映らなくなるものと思っていたから少し驚いてしまったけど、よく考えてみればどうということもない。
念のため洗面台を確認してみたら、普通に水もお湯も出たので、電気と同様に水道も問題はなさそうだった。最悪の場合、停電と断水まで覚悟していたから、ひとまずは大丈夫そうで安心した。まあ、まだ油断はできないけどな。
「よし、さっさと荷造りするか」
もし通信障害が起こらなかったら無駄になると思って、まだ古都音の家に持っていく荷物は纏めていない。今夜はこれを済ませたら、早々にベッドに入って寝るとしよう。
ボストンバッグに衣類や日用品を適当に詰め込んでいく。何か忘れ物があっても、ここに取りに戻ればいいだけだから気負う必要もない。そもそも昨日買い込んだ物の大半は物置部屋に置いてあるから、本当に人類バトロワが始まって危険な世の中になった場合、この家に物資を取りに戻ってくるつもりだ。その辺の店よりかは比較的安全に入手できるはずだからな。
「おっと、忘れるところだった」
ふと思い出し、物置部屋に向かった。
「これこれ。念のため武器は必要だよな」
昨日ホームセンターに行った際、手斧とナイフを買っておいた。
手斧は園芸用品として売られていた物で、全長は三十五センチほど、刃長は七センチ強で、重量は八百グラム程度だ。もっと大きな斧も売ってたけど、小振りな方が取り回しが利くし、素人でも扱いやすそうだった。小振りといっても結構な重厚感があり、金属製の柄にはグリップが付いているので握りやすく、男の力で振り下ろせば人間の頭蓋骨くらいなら余裕で割れそうだ。なかなかの頼もしさを感じる。刃の部分にはカバーを装着できるので、使わないときも安心だ。
ナイフの方はアウトドア用として売られていた物だ。全長二十二センチで、刃長が十センチ、重量は二百グラム弱。刃と柄が一体型の丈夫な一品だ。手斧と同じく柄にはグリップが付いてるけど、柄頭は金属丸出しなのでハンマー代わりとしても使える。もちろん鞘もあるので、部屋着から着替えたら腰のベルトにでも付けておくのがいいだろう。
手斧もナイフも二つずつ購入し、どちらも一つずつSUVに予備として積んである。わざわざ一度部屋まで持って帰ってきたのは、軽く素振りをして使用感を確かめたかったからで、それは昨日のうちに済ませてある。
「こいつを使う機会が来るのかどうか」
手斧とナイフを手に物置部屋を出て、寝室に戻る。
その直前で、玄関の方から聞き慣れない物音がした。
「――ん?」
反射的に振り返ったけど、特に異常は何もない。
いや、再び物音がした。今度は注意していたので、それが鈍い低音で、音がやや遠く、何かを叩いているような感じなのが分かった。
……ドアを叩いた音か?
このマンションは防音性に優れている。玄関も相応の構造になっているはずだけど、さすがにドアを叩かれれば音くらい聞こえる。というか、微かに声まで聞こえるな……と思ったところで、ドアノブががちゃがちゃと音を立てて微動した。
「おいおい、誰だよいったい」
と呟きつつも、耳に届く声には聞き覚えがあったし、それがただならぬ様子なのも聞き取れていた。それでも俄には信じられず、とりあえず玄関まで行ってドアスコープを覗き込んでみる。
葵ちゃんと合田のおっさんがいた。
「いやっ、いやぁ! お兄さんっ! 誰かぁ! たすっ、助けて!」
さすがに今度は何を言っているのかまで、はっきりと聞き取れた。
魚眼レンズ越しに見える葵ちゃんは、かなり切羽詰まった――恐怖一色に彩られた顔で、扉に縋り付くようにして、右手で扉を叩いている。左手はドアノブのレバーを握っているのだろう。
合田のおっさんはそんな少女の後ろから左腕を掴んで、扉から引き剥がそうとしている。大人の男の力なら、片手でも少女相手には余裕のはずだけど、今の葵ちゃんは見るからに必死だ。きっと火事場の馬鹿力的なやつを発揮しているのだろう。
「おら来いっ、これ以上手こずらせるなら容赦しねえぞ!」
おっさんの声は物騒な台詞に反して小さい。明らかに抑えられた声量で、人目を避けようとしていることが分かる。それでも腹の底に響くような低く太い声には明確な悪意が込められており、扉越しでも身震いするような仄暗い迫力があった。
「お兄さんっ、お兄さぁん! 助けてっ、誰かぁ! 助けて!」
「騒ぐんじゃねえって言ってんだろ!」
遂におっさんが右手で少女の後頭部を殴り付けた。その手には包丁が握られており、どうやら柄頭で打ち付けたようだ。葵ちゃんはその衝撃で扉に額までぶつけて、ぐったりと倒れ込んだ。
しかし、俺はそんなことよりも、包丁の状態に意識を奪われた。刃先の尖った文化包丁の刀身はねっとりとした赤い液体を纏っている。今にも滴り落ちそうな具合にだ。
今し方までの葵ちゃんの動きからして負傷している様子はなかったし、自宅の目と鼻の先で愛娘がこんな窮状に陥っているのに両親が気付いていないとは思えない。瀬良夫妻は共働きらしいけど、以前葵ちゃんから夕飯はいつも三人で食べていると聞いた覚えがあるので、今日も既に帰宅しているはずだ。
つまり、あの包丁の血は、瀬良夫妻のものである可能性が高いと判断せざるを得ない。
「クソ、死んでねえだろうな?」
合田のおっさんは舌打ち交じりに呟き、屈んで葵ちゃんの顔を覗き込んでいる。かと思えば、次の瞬間には共用廊下の左右を素早く確認し、こちらを見てきた。向こうは俺の存在に気付いてないはずだけど、思わず心臓が跳ねた。
おっさんは息を殺してそっと窺うような感じで、葵ちゃんの傍らからドアスコープのレンズを凝視している。しかし、すぐに小馬鹿にしたような、あるいは勝ち誇ったような笑みを浮かべると、少女の手首を左手で掴んで、引き摺って歩き始めた。
「……………………」
ドアスコープの視界からおっさんが消え、少女の身体まで徐々に見えなくなっていく状況を前に、俺は迷っていた。
今ここで扉を開ければ、後戻りできなくなりそうな気がする。
タガが外れてしまいそうな予感がある。
宇宙人の仕業か、ハッカーの犯行か、まだ判然としないというのに、そもそも人類バトロワの開始時刻とされる明日九時までまだ十一時間以上もあるというのに、今ここで俺が危険を冒す意味などない。
葵ちゃんが性的暴行を加えられることは確実だろうから、それは可哀想だと思うけど、でも俺が命を賭してまでそれを阻止する必要性は感じない。所詮は隣家に住んでるだけの他人だし、昼間に葵ちゃんとは距離を置こうと決めたばかりだ。これが古都音なら逡巡もなく助けに動くけど、生憎と葵ちゃんはそこまでの存在ではない。
であれば、ここはこのまま息を潜めて、今の一幕は見なかったことにして、この後すぐに古都音の家へと出発するのが無難だ。それが最も安全で、合理的な選択だと理解できる。人には誰だって自分の身を最優先に守っていい権利があり、俺はその権利を行使するだけに過ぎない以上、少女の危機とはいえここで行動しなくても誰も俺を責められない。内心では臆病者と謗る奴はいるだろうけど、公然と非難される謂れは絶対的なまでに皆無だ。
しかし、俺は迷っている。
瀬良葵を主軸に考えれば迷う余地なんてないけど、自分を主軸に考えれば迷う余地がありすぎた。扉を開けてしまいたいという誘惑に駆られていた。理性は絶対に開けるなと言っているのに、感情は開けろと声高に叫んでいる。
――今以上の好機はない!
――走り出すにはおあつらえ向きの状況だ!
――大義名分を盾におっさんをぶっ殺せ!
――少女を保護せざるを得ない状況に飛び込むんだ!
「ふ、ふふ、はははは」
笑いを堪えられなかった。
自分で自分を追い込むような真似をしてまで走り出したいと思っている自分が、あまりに滑稽でおかしかった。宇宙人主催のデスゲームが始まることを本気で願いながらも、それが実現しない場合の自己保身も忘れず計算に入れて動こうとする自分が、最高に利己的でおかしかった。
「――やるか」
呟くと同時に、ドアスコープの視界から少女の足先が消える。
しかし俺は焦ることなく、ナイフを鞘ごとポケットに入れ、手斧のカバーを外し、剥き出しになった凶器を右手に持ってから、玄関扉を解錠した。
さて、これが最初の一歩だ。
できればスタートダッシュは上手に決めたいものだな。