42 終末
スマホのアラームで目が覚めた。
アラームはすぐに止めたから、幸いにも古都音は起きていない。寝顔は穏やかだ。人形めいた端整な顔立ちには二十歳とは思えないあどけなさがあり、実に可愛らしい。思わず見とれてしまいそうになる。
起こしてしまわないように布団から抜け出て、服を着ると部屋を出た。
何か夢を見ていたような気がするけど、全く思い出せない。寝覚めは良好で、身も心も軽く、かつてないほどに気分がいいから、悪夢ではなかったのだろう。たとえ悪夢だったとしても、古都音と過ごしたひとときと比べれば些事なのは間違いないから、気にもならなかったはずだ。
気は抜かないためにもナイフを持って一階に降り、まずはシャワーを浴びた。
リビングに顔を出す頃には二時四十五分を回っていた。
「瑠海、こんな時間まで悪かったな。もう寝てくれていいぞ」
ソファに座って読書をしていた少女に声を掛ける。
瑠海はこちらに顔を向けると、息を呑んだように硬直した。眠たげな双眸が見開かれ、じっと俺の顔を凝視してくる。
「どうした?」
「……ううん、ちょっと驚いちゃって」
瑠海は気を取り直すように一度目を閉じて深呼吸をすると、ソファから腰を上げた。
「驚いたって何に?」
「先輩の雰囲気にね」
「古都音にも言われたけど、そんなに変わったか?」
何だか少し照れ臭かった。
心理的に大きく変化したことは確かだけど、それを顔に出しているつもりはない。むしろリビングに入る際には気を引き締め直したつもりだった。
「うん、とても変わった。幸せそうな感じで、見てるこっちまで嬉しくなっちゃうくらい」
瑠海は眩しいものでも前にしたように目を細めて、改めて俺の顔を見つめてくる。しかし、口元に浮かんでいる笑みにはどことなく苦味が感じられた。
「……けど、さすがに少し妬けちゃうね」
蚊の鳴くような声で呟かれたその言葉の意味は、何となく察しが付いたから、反応に困った。
物音ひとつしないリビングの静寂が気まずい沈黙になりかけたとき、瑠海がいつもの気の抜けるような笑みを浮かべた。
「とにかく、先輩が幸せになってくれて良かった」
「お前のおかげだ。ありがとな」
もし瑠海と合流できていなければ、どうなっていたか分からない。葵ちゃんや礼奈のこともそうだけど、俺が古都音に瑠海のことを話しても十分な理解を得られず納得もされなかったかもしれない。本人が色々と言ってくれたからこそ、妙なしこりを残すことなく古都音と結ばれることができた。
「どういたしまして。それじゃあ、わたしも寝るね。おやすみ、先輩」
「ああ、おやすみ」
瑠海はリビングの隣にある部屋に入っていった。
素振りをしたかったけど、瑠海が寝入るまでは大人しくしていた方がいいだろうから、ソファに座ってテレビを点ける。おそらく今の自分は少なからず浮かれているはずだ。殺人シーンの連続放送を見て、素振りもすることで、緩んだ心を引き締め直す必要があった。
今後どうなるにせよ、古都音だけは絶対に守り抜かないといけない。
だからこそ、宇宙人主催のデスゲームなんて嘘であってほしいと、今は心底から思う。古都音との未来を思うと死ぬのが怖いし、心結たちにも死んでほしくない。もうこれ以上、親しい人が亡くなるような事態なんて真っ平御免だ。
明日――いや既に今日か、今日の九時で、デスゲーム開始からちょうど十日が経つことになる。十日で十人殺せばクリアというルールだから、一つの節目になるときだ。何かが起きるとしたら、そのときになる可能性が高い。
何も起きないでほしい。
宇宙人説の信憑性が増すようなことにはならないでほしい。
電波ジャックも通信障害も終わって、日常が戻ってほしい。
テレビを見て、素振りをして、もしもの事態に備えながらも、俺はそう願っていた。
■ ■ ■
時間はあっという間に過ぎ、そろそろ九時になろうかという頃。
リビングには六人全員の姿があった。
特に声を掛けたわけではなく、五分前にはみんな自然とテレビの前に集まった。葵ちゃんと心結と古都音はソファに座り、礼奈と瑠海はローテーブルの左右にそれぞれ足を崩して座っている。俺はソファの肘掛けに浅く腰を預けて、既に点けたテレビを見ながらそのときを待つ。
リビングにはそこはかとない緊張感が漂っていた。何も起きないかもしれないのに、みんな何かが起きる予感でもしているのか、雑談もせず固唾を呑んでいるようだった。
九時まで三十秒を切ったところで、すぐ隣に座る古都音が手を握ってきた。しっかりと握り返すと、すっと心が凪いだ。これならたとえ何が起きても動揺せずにいられそうだ。
そして、九時になった。
「――ひゃっ!?」
突然、部屋が薄暗くなった。
古都音が短い悲鳴を上げて手が強く握られる。意外にも他の女性陣から動揺の声は上がらず、みんな静かだけど、思わずといった様子で室内を見回してはいた。
「停電……じゃないのか?」
天井の明かりは消えているものの、テレビは点いている。
《はじめまして、人類諸君。我々は諸君が言うところの地球外生命体である》
九時ちょうどに映像が切り替わり、もはやすっかり聞き慣れた音声と字幕が流れる。映像はどこかの駐車場を俯瞰アングルから映したもので、今のところはこれまでと同様の殺人シーンがまた始まるようにしか見えない。
ふと古都音が立ち上がり、ダイニングテーブルの上に置いてあったリモコンを手に取った。証明のリモコンだ。それが反応しないとみるや今度はキッチンに入って、冷蔵庫を開けたり換気扇のスイッチを押したりしている。
「停電っぽいけど、何でテレビ点いてるの?」
「ブレーカー見てくる」
テレビの音声も字幕も今のところ既知の内容で、映像も特に変わったところはない。俺はリビングを出て玄関に向かい、ブレーカーを確認してみた。全てのスイッチは入になっている。一度全てを切にしてから入にし直して、リビングに戻った。
照明のリモコンを操作するも、明かりは点かない。侵入者対策のために雨戸を閉めているから、リビングの光源はテレビだけだ。そのテレビではちょうど乗車しようとしていた老婆が、付近の車両の陰から飛び出して来た男に襲われたところだった。
老婆はあっさりと倒れ伏し、男は画面外へと走り去っていった。
「あっくん、どうだった?」
「ブレーカーが原因ではなさそうだ。九時ちょうどに消えたから、たぶん停電だろう。そのはずだ……」
「でも、じゃあ、何でテレビだけ点いてるの?」
古都音の言葉に応じる者は誰もいなかった。
停電したことはまだ理解できる。九時ちょうどに起きたから、ハッカーによる仕業だと思える。しかし、テレビに繋がる電気だけをピンポイントで通すことなど、不可能なはずだ。にもかかわらず、テレビは九時前と変わらず音と光を放っている。
これは明らかな異常事態、怪現象だ。
心臓の鼓動が大きく、速くなっていく。
「あ、UPSだ。そうだよね、みゅーちゃん」
古都音に声を掛けられても、心結は何らの反応も見せなかった。ぐったりとソファに身を預け、テレビも見ずに顔を俯けている。
それを不自然に思いながらも、俺は疑問を呈した。
「UPSって何だ?」
「無停電電源装置だよ。外付けのバッテリー。普通は停電したときにパソコンの電源が落ちてデータが消えないようにするために使われるんだけど、テレビとかゲーム機にも使う人はいるんだ。精密機器はいきなり電源落とすと壊れたりするからね。ぼくもパソコンとゲーム機に使ってたよ」
なるほど、バッテリーか。
それならテレビだけ点いていることにも納得だ。
「先輩、テレビの裏を確認してもらえる?」
「ああ」
俺はポケットからスマホを取り出し、ライトを点けると、テレビの裏を覗き込んだ。
「――ひゃわっ!?」
不意に後ろで驚いたような声が上がった。
それが古都音のものだったので反射的に振り返ると、予想外の光景が目に飛び込んできた。
「…………瑠海、お前……何してる?」
「説明する前に、テレビの裏をしっかりと確認してもらえるかな?」
そんなことをしている状況ではなかった。
瑠海は古都音の背後から首元に腕を回し、逆手に持ったナイフを構えている。切っ先は古都音の胸元に向けられている。先ほどはしていなかった眼鏡を掛け、その向こうに見える双眸はぱっちりと開かれて、引き締まった表情に普段の気怠そうな雰囲気は一切なく、冗談の気配も皆無だ。
「死にたくなければ暴れない方がいいよ、古都音さん」
古都音は理解が追い付いていないのか、目を白黒させている。おかげで棒立ちになっており、暴れ出す気配はない。
俺は動揺を抑え込み、腰元のナイフの柄に手を掛けて、瑠海を睨み付けた。
「どういうつもりだ」
「それを説明するには、テレビの裏をよく見てもらわないといけないの。見てもらえないなら、問答無用で古都音さんを殺しちゃうよ?」
「…………見ればいいんだな」
瑠海がすぐに古都音を殺すことはない。
そして俺に対する殺意もおそらくはない。
その気があれば、古都音を人質に取るような真似はせず、不意打ちで簡単に殺せたはずだ。だから今の瑠海から視線を切ることにそれほど危険はない。
念のため他の三人の様子を確認してみると、三人とも先ほどと変わらず座っていた。慌てているような素振りもなく、俺たちを静かに見守っている。それが意味するところは、三人にとって瑠海の行動が予想外でも何でもないということだろう。
俺は密かに深呼吸をしつつ、改めて壁とテレビの間に目を向けた。
先ほどはよく見る間もなく振り返ったから気付かなかったけど、テレビにはコード類が何も繋げられていなかった。いや、コードの残骸らしきものはある。おそらくは電源コードと思しきものが五センチほど生えていて、そのすぐ隣にテープで同じようなコードが貼り付けられていた。切断されたコードだ。
テープを剥がして、コードを手に取ってみた。コードの先はテレビ裏の電源タップの側にあり、タップには差し込まれていない。
「――――」
いつから切断されていたのか。
いや、いつなんて、もはや関係ない。
停電どころか電源コードが繋がっていなくても、テレビが点いている。ずっと点いていた。その事実が意味するところを理解し、頭が真っ白になった。
《以上のことから、人類諸君には殺し合ってもらう。これは生存競争である。自己保存の本能に従い、存分に同胞を殺し、自らが優秀な個体であることを我々に証明せよ》
テレビの音が静かなリビングに響き渡る。
信じ難い現実を前に、状況も忘れて立ち尽くしてしまった。
「先輩、宇宙人は本当にいると思わない?」
「……お前、これ……いつ気付いた?」
「先輩の家にいるとき、暇だったからあちこち掃除していたら、偶然ね。葵ちゃんの家のテレビでも確かめてみたから、それで確信できたの」
瑠海は至って平静な口振りで答えてくれた。
全く動揺していない。それは状況を見守る礼奈も、葵ちゃんも、心結も同様に見える。
「え……あの、そのコード……つまり、電源なしでテレビ点いてるってこと?」
「……みたいだな」
俺が頷くと、古都音は愕然と目を見開いて硬直した。
瑠海の言葉が本当なら、おそらく八月一日からテレビは無電源稼働が可能だったのだろう。しかし、そんなこと普通は気付けない。気付けるはずがない。
いや……本当に頭が回る奴なら、その可能性に思い至れたのかもしれない。何しろ宇宙人による人類バトロワ宣言はテレビとラジオで行われている。テレビとラジオが使用できなくなれば、宣言は人々に届かなくなる。
《期間は八月一日零時より、百日間とする。期間中、先述の条件下で有効な殺害数を満たした者は、我々のもとで生きるに相応しい個体であることを認め、有効な殺害数を満たした日の二十四時に保護する》
今まさにリビングに響いているこの宣言こそが全ての元凶なのだから、電波塔や発電所の稼働を停止させるなり電線を切るなりして停電させ、放送を阻止すれば、人々はある程度の落ち着きを取り戻すはずだ。
だからこそ、宇宙人にとってこの放送は絶対に止めてはいけないものだった。人類を選別するために殺し合わせたい宇宙人が人類にされて一番困ることは、自分たちの宣言を中断させられることだ。だから、容易に中断できないようにした。如何なる原理か皆目検討も付かない方法によって、電源なしでもテレビが稼働するようにした。
知ってしまえば、どうということもない。
宇宙人の立場になって考えていれば、気付ける余地はあった。
しかし、どうせなら電源をオフにできないようにすれば良かっただろうに、そうはなっていない。九時ちょうどに停電したことを考慮すると、きっとスタートダッシュを防止したのだろう。以前に古都音が言っていたように、俺たち人類の判断力を試したのかもしれない。
いずれにせよ、事ここに至った以上、もはやどうでもいいことか。
「さて、先輩。どうしてわたしがこんなことをしているのか、理解してもらえた?」
「……ああ、おおよそはな」
古都音に刃を向ける瑠海からは敵意が伝わってこない。
しかし、眼鏡越しの眼差しは真剣そのもので、普段のゆるさは微塵もない。
「おかしいとは思ったんだ。礼奈も葵ちゃんも、拍子抜けするほど物分かりが良すぎた。どういう説得をしたのか想像も付かなかったけど、今なら分かる」
実に単純な話だったのだ。
瑠海は礼奈たちにテレビのことを教えて、宇宙人が実在してデスゲームが真実であることを確信させた。そして彼女らの望みをある程度叶えつつ、現状における最も生存率の高い方法を提示することで、俺と古都音が結ばれるのを納得させた。
「それじゃあ、先輩はどうするの?」
瑠海はこれ見よがしにナイフを構え直し、小首を傾げている。
「一応言っておくけどな、古都音を殺せば、俺はお前たち全員を殺すぞ」
「もちろん、承知の上よ。というより、わたしとしてはそれが一番おすすめね。先輩が勝ち残れる可能性が最も高いのは、先輩一人で戦うことだから」
やはり瑠海は俺のことを最優先した結果として、こんな暴挙に及んでいるようだ。
しかし、礼奈たちにとっては寝耳に水なのか、三人とも戸惑いを見せている。
「黛さん、それは本気で言っているのですか」
「ごめんね、礼奈さん。ここで先輩の足手纏いを全員始末できれば、わたしにとってはそれが一番なの。先輩に辛い思いをさせるのは心苦しいけど、喜びも悲しみも、全ては生きていてこそだからね」
三人とも絶句している。
どうやら彼女らも一杯食わされたらしい。
「でも安心して。わたしとしては残念なことだけど、先輩は古都音さんを見捨てるようなことはしないし、できないから。そうでしょう、先輩?」
「……ああ、その通りだ」
古都音を見捨てることなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。宇宙人主催のデスゲームはまず間違いなく真実なので、もはや天地がひっくり返ったも同然の状況ではあるけど、だからこそ尚更見捨てられるはずがない。
「古都音さんを見捨てずに、先輩が生存競争を勝ち抜くことはとても難しい。何しろ古都音さんは見るからに弱そうで狙われやすいタイプなのに、小柄な体格に違わず非力で、殺意どころか戦意も持てそうにない人だもの。この場にいる誰よりも、戦いに向いていない足手纏い」
瑠海は古都音どころか自分を含めた女性陣全員を殺すことが最良だと考えている。だから、桐本家で敵と対峙したときとは異なり、強気に出て逆転を狙うことはできない。下手なことをすれば、瑠海はこれ幸いとばかりに、躊躇いなく古都音を殺すだろう。そう思わされている時点で、既に俺は負けている。
とはいえ、そもそもこの状況は俺にとって決して悪いものではない。感情的には最悪に近いけど、冷静に理性を働かせれば十分に実利の見込める状況であることが分かる。そして俺は古都音を守るためならば、感情など二の次にして合理性を追及する。
俺がそうすると分かっているからこそ、瑠海は問答無用で古都音を殺さない。あくまでも俺を最優先に考えて動いているからこそ、俺の意思も一応は尊重している。
「だから先輩は、古都音さんと結ばれることを礼奈さんたちに認めてほしかった。他に助け合える仲間がいれば、古都音さんと二人だけで戦い抜くより、生存率は上がるものね」
思うところは多々ある。
しかし、ここは瑠海の策に乗るのが最善だと理性が告げている。
「でもね、先輩。みんな程度の差はあれ、先輩のことが好きなの。わたしは先輩のためなら喜んで死ねるけど、礼奈さんたちはそうじゃない。少し変わってるところがあっても、普通に自分のことが一番大切な女の子なの。生きるか死ぬかの瀬戸際な状況で、好きな男を前にお行儀良く身を引いて、あまつさえ足手纏いな恋敵を助けるような真似、本当にできると思う? ねえ、古都音さんはどう思う?」
「…………」
「できないよね、できるはずがない」
瑠海の言っていることは実にもっともだ。
「まあ確かにね、みんな他に頼る当てがないし、先輩の強さは知っているから、先輩と行動を共にするのが今のところ一番生存率が高いよ。その点は信じられる。けど、だからこそ、そんな合理的で功利的な関係だと、他に生存率が高い選択肢が現れたとき、簡単に裏切られちゃうよ。誰かが窮地に陥ったとき、命懸けで助けることなんてせず、簡単に見捨てられちゃうよ」
ぐうの音も出ない正論だった。
昨日までの俺は古都音と結ばれることに気を取られていて、その辺りの問題を軽視していた。恋は盲目とはよく言ったものだ。自分がそうであったことに先ほどまで気付いていなかった。古都音も同様なのか、何とも言えない渋面で目を伏せている。あるいはこの状況を招いたそもそもの原因は自分だと思い、悔いているのかもしれない。
「そうならないためには、情が必要なの。理屈では割り切れない気持ちで、仲間という関係を補強することで、簡単に裏切れないようにしないといけないのよ。お互いにね」
良くも悪くも、情は判断を狂わせる。
特に愛だの恋だのといった情念は合理性など簡単に蔑ろにしてしまう。
俺は自分の生命を第一に考えるなら、一人でデスゲームを戦い抜くのがベストだ。これまでの経験から、俺ならやれるという自信もある。中途半端な実力しかない仲間など足手纏いで、俺一人が生き残ることだけを考えるなら、礼奈たちなど必要ない。
しかし、俺は古都音に対する情によって、自分の命を二の次に考えてしまっている。古都音と結ばれる前から、あいつを見捨てることなど考えもしていなかった。だから、古都音を守りながら二人とも無事にデスゲームをクリアするために、俺だけなら必要ない仲間を求めた。殺るか殺られるかの生存競争において、古都音は瑠海の言うとおり足手纏いだから、そのマイナスを補う戦力が必要だった。
つまり古都音が途中で死ぬか、先にクリアさせてやれれば、俺に仲間は必要なくなる。むしろ手っ取り早くキル数を稼ぐために、油断している仲間を殺すのが合理的になる。
瑠海の言う、お互いにというのは、俺も仲間を簡単に裏切れないようにする――礼奈たちに対して古都音に負けず劣らずの情を持たせる必要があるということだ。相互に裏切れない心理状態にするための方法など限られてくる。
「古都音さん、そのためにはどうすればいいと思う?」
「…………」
「もう分かってるんでしょう? あなたの口から言ってあげた方が、先輩も受け入れやすいと思うよ。それとも、ここでわたしに殺されることで、先輩の気持ちを独り占めする?」
瑠海はしっかりと古都音の首に腕を回して、ナイフを突き付けたまま、口元に笑みを浮かべて囁きかけている。
古都音は大きく深呼吸をすると、俺を見つめてきた。意外にもその顔は落ち着いていて、怒りや悲しみといった強い感情は伝わってこない。静かな眼差しには知性の光のみならず、覚悟が宿っていた。
「……あっくんが、みんなを平等に、愛してあげればいい」
既に察しが付いていたことではあるけど、人の口から言われるとあまりにも常軌を逸した話だと思えた。平時では考えられない馬鹿げた発想だ。正気を疑う。
しかし、もはや日常は失われ、これから俺たちは非日常を戦い抜かねばならない。異常な状況下では異常な判断が最適解となることもある。
「そう、手っ取り早く肉体関係を持ってしまうのが効果的ね。先輩に抱いてもらった古都音さんなら、好きな人とのセックスがどれだけ情を深めるのか、よく分かるよね?」
「…………瑠海ちゃん、もういいよ。ありがとう」
「……何が、ありがとう?」
怪訝そうな顔を見せる瑠海とは対照的に、古都音の表情に乱れはない。何かを悟ったような平静さで、瑠海の疑問に答える。
「あっくんのために、色々考えて、頑張ってくれて、ありがとう」
「…………」
「ぼくはあなたのこと、まだよく知らないけど、あっくんのことが大好きだっていうのは分かるよ。自分のことを二の次にしてでも、好きな人のために行動できて、凄いと思う。ぼくとあっくんがくっつくようにしたのは、この状況を作り出すためだったのかもしれないけど、それ以上に、せめて最後に幸せな夢を見てほしいと思ったからでもあるよね」
そうか……言われてみれば、その通りだ。
瑠海が俺の生存だけを考えていれば、さっさとテレビのことを教えるのがベストだった。今回のように停電でもしなければ、なかなか気付けないのだから、昨日まではまだ戦う覚悟の定まっていない人が大勢いて、殺しやすかったはずだ。多少なりとも楽にキル数を稼いでおくことができた。
そうして得られたアドバンテージはこの先の日々において、女の仲間よりも価値がある。女が身体能力において男に劣ることは厳然たる事実であり、闘争にも不向きなことは歴史と科学が証明している。よほど優秀な女でもない限り、女の仲間を作るよりキル数を稼いでおく方が生存率は上がるはずだ。
にもかかわらず、瑠海は俺にキル数を稼がせなかった。それは俺の幸福も考慮したからなのだろう。どれだけ最善を積み重ねたところで、不測の事態は避けられない。俺も、誰だって、死ぬときは死ぬ。もういつ殺されてもおかしくない世界になったのだから、余裕のあるうちに俺の望みを叶えることを優先してくれた。
「好きな人が自分以外の人を選ぶのを後押しするなんて、なかなかできないよ。ぼくが同じ立場だったら、同じようにできていた自信ないもん。こんな世も末な状況でなら、尚更ね。それでも自分が傷付くのも構わず、好きな人の幸せを優先する……それは紛れもなく愛だ。ぼくはあなたを尊敬するよ」
かつて古都音も自分の気持ちを抑え込んで、俺を支えてくれた。古都音にとって瑠海の行動は琴線に触れるところがあったのだろう。
俺としても、瑠海の献身的な行動に報いたいという気持ちは強い。
客観的に見れば、これが瑠海にとっても生存率が高い行動となるから、俺を想ってのことではないと見做すこともできる。しかし、本当に瑠海が自分のことを第一に考えていれば、痴情のもつれを誘発させて俺以外を全員死なせ、古都音に取って代わろうとするだろう。その気があったなら、それくらいはしそうな奴だ。
「瑠海ちゃんの言う通り、あっくんの生存を考えるなら、ぼくは死んじゃった方がいいのかもしれない。でも、あっくんはぼくと一緒に生きることを望んでくれてるって信じてるし、ぼくもあっくんと生きていきたいと思ってる。だから、死んであげることはできない」
疑ってはいなかったけど、その言葉を聞けて安心した。
古都音が自ら死を望むなんてことになっていたら、俺はどうしたらいいか分からなくなっていたかもしれない。
「だけど、ぼくのせいであっくんが生き残れる望みが薄くなるなんて、堪えられない。だから、いいよ。自分の気持ちより、あっくんのことを優先できる人なら、信じられる」
その声は表情と同じく穏やかで、演技や嘘にはとても思えない真心が込められていた。
古都音はゆっくりと手を動かし、首元に回された瑠海の腕に触れて、告げる。
「ぼくみたいな足手纏いが言うのもなんだけど、一緒にあっくんを助けていこう」
「……古都音さん」
瑠海は呆然と名前を呟き、ナイフを持っていた手を下ろし、拘束も解いた。古都音は振り向いて瑠海の顔を見上げてから、そっと抱きしめた。それは労るような優しさの感じられる抱擁で、瑠海は少し驚いたような顔を見せた後、どこか切なげに笑って抱き返していた。
「…………」
俺はすっかり蚊帳の外で、どう声を掛けたものか分からず、抱き合う二人を見守った。やがてどちらからともなく身体を離し、古都音が俺のもとに歩み寄ってきた。
「あっくん、そういうわけだから、みんなのこと受け入れてあげて」
「……古都音は、本当にそれでいいのか?」
それは古都音のためでもあり、俺のためでもある問い掛けだった。
古都音を勝ち抜かせることを第一に考えるなら、瑠海の策に乗るのが最善だ。俺は古都音以外の女を抱くことに躊躇いはあっても抵抗はない。古都音が乗り気なのは有り難いことだと思う。
しかし同時に、古都音の俺に対する愛情はそんなものなのかと、少し寂しく思う自分がいる。もし古都音が自分だけを愛してほしい、他の女になんて構わないでほしいと言うなら、今の俺は心結すら見捨てて古都音と二人で戦っていくことも辞さないくらいの気持ちはある。それは下策だと承知の上で、実行に移せるだけの覚悟があるつもりだ。
そんな俺の内心を見透かしたように、古都音は泣き出しそうな微笑みを見せた。
「ありがとう、あっくん。その気持ちだけで、ぼくは十分幸せだよ」
それはきっと本音ではあるだろうけど、本心の全てではない。
不満や不安はあるはずだ。
それでも古都音は笑みを浮かべて言ってくる。
「あっくんのことを好きな人となら、上手くやっていけると思う。おいちゃんには命を助けてもらったし、今度はわたしが助ける番だよ」
「古都音さん……ごめんなさい、ありがとうございます」
葵ちゃんは立ち上がって、深く腰を折った。それは恥じ入って身を縮こませるような動きで、声からも罪悪感らしき申し訳のなさが窺えた。
「一人や二人認めるなら、三人も四人も変わらないからね。もうこうなったら仲良く協力できそうな人とは協力していった方がいいよ。だって、生きるか死ぬかの瀬戸際なんだからさ」
「騙し討ちのようなことをして、申し訳ありませんでした。桐本さんの温情に報いることができるように努めていくので、どうかこれからよろしくお願いします」
礼奈も立ち上がって頭を下げている。
まだ俺は了承してないんだけど……まさか外堀を埋められているのだろうか?
「あっくんはみんなこと、嫌い?」
「いや、そんなことはない。むしろ逆だろ、そんな一夫多妻というかハーレムみたいな関係で、みんないいのか?」
「いいから、こんな状況になってるんだよ。そりゃあ、ぼくもみんなも妥協した結果ではあるけど、もう贅沢言っていられるほどの余裕はないからね」
それはそうだろうけど、一人だけ俺への好意のベクトルが違う者がいる。だからこそ敢えて聞いてみたのに、肝心のそいつは先ほどからソファに座ったまま俯いている。
「心結はどう思うんだ?」
「……お兄ちゃんこそ、どうなの?」
心結は俯きがちにソファに座ったまま、ちらりと上目遣いに見てきた。
「どうって……まあ、俺だって男だからな。みんな綺麗で可愛いし、性格も悪くないことは分かってるし、こんなの据え膳も同然だから俺はいいんだ。こういうのは女の方が色々思うところがあるもんだろ」
兄がハーレムを作るとか、妹からしたら嫌悪の対象だろう。いくら協力して生き残るためという名目があっても、妹という立場で端から冷静に見れば俺たちの正気を疑うはずだ。いや、実際に疑っていたからこそ、礼奈や葵ちゃんと違って昨日から様子がおかしかったのだろう。
「でも、あたし……あたしのせいで、龍司さんも、お父さんも、みんな死んじゃって……優子ちゃんだってあたしが殺したようなものだし……」
「それはお前のせいじゃないって言っただろ」
というか、なぜ今その話が出てくるんだ。
「それでも、あたしのこと抱けるの? 愛してくれるの?」
「…………お前は何を言っているんだ?」
思いがけずこちらが心結の正気を疑ってしまった。
心結には妹という立場があるから、抱く必要はない。そんなことは言うまでもなく分かりきったことで、当然の共通認識だと思っていたんだけど、違ったのか? いや、俺が心結に信頼されていないのか?
「先輩、心結ちゃんも先輩のこと好きで、抱かれたいって思ってるんだよ」
「は? お前そんな……そうなのか、心結?」
念のため本人に確認してみると、こくりと頷かれた。
そんな馬鹿な……心結は状況に流されているだけではないのか? 同調圧力のようなものに屈しているだけではないのか? 生命の危機に瀕したことで、恐怖心から正常な判断力を失っているだけではないのか?
「いや、待て。無理しなくていいんだぞ。以前はともかく、今の俺はお前のこと本当に妹だと思ってるから、お前だけはそういう関係にならなくても、家族として守ろうと思えるんだ。それが信じられないのか?」
「違う、そうじゃないの。信じてるけど……好きなの」
伏し目がちに呟く声には羞恥心が覗いていた。
「こんなことになる前は、兄として好きなのか、異性として好きなのか、自分でもよく分かってなかったけど……だから二人で海に行って気持ちを確かめようと思って……でも、瑠海さんからテレビのこと聞いて、もういつ死んでもおかしくないんだって考えたら……」
これまでのことを思い返してみると、虚言とは思えなかった。
電波ジャック以前から、心結は俺に好意的だったし、やけに距離感が近かった。最近は特にスキンシップも多く、胸を押し付けてくるようなこともしていた。あれはひょっとしたら自分の気持ちと俺の反応を確かめようとしての行動だったのかもしれない。
恥じらいと不安の入り混じった目をちらちらと向けられて、俺は戸惑いを隠して頷いた。
「……なるほど。心結が無理してないなら、いいんだ」
「お兄ちゃん、あたしのこと、そういう目で見れる?」
「この前ガレージで言ったことは本心だ」
「そっか……ありがと。それと、こんな強要するような感じになって、ごめんなさい」
心結は先の二人に倣うように立ち上がって頭を下げてきた。
「気にするな、とは言えない。悪いと思うなら、ちゃんと仲間として助け合える関係を築けるように努力してくれ。こうなった以上は、この中の誰一人欠けることなくクリアを目指す」
心結に対してだけでなく、全員の顔を見回しながら告げた。
もうこうなったらこの関係を最大限に活用するのが、俺や古都音のみならず全員のためだ。幸い、葵ちゃんと礼奈と心結は俺と古都音に後ろめたさを覚えている。そして瑠海ならばそこを上手いこと利用してハーレムの維持に努めてくれるはずだ。もしそれが不可能なほど関係がこじれでもしたら、俺以外の全員を殺しそうな危うさはあるけど、女の側に調整役がいてくれれば、歪な生存戦略が機能する見込みは十分にある。
「うん……頑張る」
「わたしも全力で頑張りますっ」
「そうですね、そうでなければこうなった意味がありません」
「ぼくもできることは何でもやっていく覚悟だよ」
心結も葵ちゃんも礼奈も古都音も決然と頷く中、一人だけ笑っている奴がいた。口元を抑えながらも、押し殺した笑い声が漏れている。
「瑠海、何がおかしいんだ?」
「ふふ……ごめんね、何だか楽しくなってきちゃって」
瑠海は笑いながら眼鏡を外すと、どこか遠くを見るような眼差しを見せた。
「秩序の崩壊した終末そのものな世界を、これから先輩と一緒に戦い抜いていくことを考えると、自分でも意外なくらいわくわくしてきてね。巨大隕石で何もかも滅びるより、ずっと素敵な展開だと思わない?」
昨日までの俺なら、深く頷いていたかもしれない。
しかし、古都音と結ばれて本当の喜びとは何かを理解できた今の俺には、素直に同意はできかねた。
「……ま、退屈はしないだろうな」
「うん。大変だろうけど、きっと楽しくなるよ。どうせ頑張るなら、この状況を楽しまないとね。先輩も思うところはあるだろうけど、開き直った方がいいよ?」
俺もできればそうしたいところだけど、今はまだ難しそうだ。戦うことの楽しさより、失うことへの恐れの方が大きい。これから色んな女を抱けることへの期待より、古都音の気持ちが離れてしまわないかという不安の方が大きい。
未来に希望はあるけど、これまで以上に大きな絶望も潜んでいる。
「まあ、何はともあれ、改めてよろしくね、先輩」
俺たちの生き残りを賭けた戦いは、こうして始まった。
ひとまずここで終わりです。
ここからが本番だろうと思われる方もいるかと思いますが、本作は生きる望みがある状態のハッピーエンドで幕を下ろすのが最良であろうと考え、そのように構成して執筆しました。本作のタイトルを鑑みれば、ご理解いただけるものと思います。
作者としては作中で提示したテーマは描き切れたと思っています。
ですが、実際にここまで書いてみると、この先を書かないのはもったいないような気がしています。殺人・セックス・サバイバルがメインの無法ハーレムデスゲーム展開をするために必要な準備が全て完了している状態なので……。
需要が多ければ続編を書きたいなと思っています。
今後どうなるにせよ、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
今後の参考までに、本作の評価だけでもしていただけると幸いです。忌憚のない感想やレビューもいただけるとありがたいです。