夢現
「あっくん、朝だよ起きて」
重たい目蓋を上げると、青い眼差しが見下ろしてきていた。
カーテンは全開にされ、日の光が寝惚け眼に突き刺さるようで、思わず目を閉じかける。しかし、古都音の姿に意表を突かれて一気に目が覚めた。
「どうしたの、そんな鳩が豆鉄砲を食ったよう顔して」
長い金髪をポニーテールにして、エプロンを着けている。それが随分と様になっているものだから、ぼうっと見つめてしまう。
「愛する妻があまりに綺麗で見とれちゃうのは分かるけど、あんまりのんびりしてると遅刻するよ。今日は一限から講義あるんでしょ」
「……あ、ああ……そうだな」
身体を起こしてベッドから降りると、古都音が額に手を当ててきた。
「んー……熱はないね。どうしたの、寝惚けてる? 変な夢でも見た?」
額から離れていく左手には光るものがあった。指輪だ。結婚指輪は自分で稼いだ金で買わなければいけないというプライドがあったから、去年末から単発のバイトをこつこつこなして金を貯め、春休みに買った。
自分の左手を見てみると、同じ指輪が薬指にある。
ようやく意識が定まった。
「変な夢というか、古都音が自分のことぼくとか言ってた頃の夢見てた」
「言っておくけど、夢に見るほどわたしのこと大好きでも、もうぼくとは言わないからね」
「どうしても?」
「どうしても。ほら、早く朝の支度して!」
古都音が背を叩くように押してきたので、一緒に部屋を出た。
それからトイレや洗顔などを済ませてリビングに顔を出すと、既に心結が起きていて赤子にご飯を食べさせていた。いや、赤子じゃないな、正貴か。
「あ、お兄ちゃんおはよー。ほら、まーくん、おはよーは?」
「おはよー」
「はい、おはようさん」
小さな頭を軽く撫でてから食卓に着いた。古都音がご飯と味噌汁をよそってくれて、俺の対面の席に座り、一緒に朝食を食べ始める。メニューは純和風で、焼き鮭と卵焼きと昨夜の残りの煮物だ。
「AI開発の規制、ネットでは結構荒れてたよ」
テレビではニュースがやっていて、AI関連の法案が昨日可決された件を報道していた。
電波ジャックに端を発する騒動から早一年。
官民問わず様々な機関が検証した結果、テレビで放送されていた殺人シーンはAIによる偽映像だったことが確定している。電波ジャックと通信障害に加えて、偽映像で人類全体を欺き、殺し合わせようとしたことで、一連の出来事は人類ハッキング事件と呼ばれるようになった。
略称としてマンハック事件と呼ばれることもあるけど、これには男性を揶揄する意味合いも込められている。事件における殺人を含めた犯罪の加害者は、女性より男性の方が圧倒的に多く、被害者はその逆だったから、フェミニストが好んで使っているようだ。
事件後、近年世界中で盛んに行われてきたAI開発に待ったが掛かり、テレビでもネットでも連日のようにAIに関する議論がなされた。今回の法案では政府機関が認めた企業だけがAI開発を許されることとなり、次は個人のAI利用に関する法案がどうなるのかが注目されることになるようだ。
「AIなんて規制されて当然でしょ。危なすぎるよ」
「AIも所詮は道具で、道具は使う人次第だから、開発というより管理の問題なんだよね。実質的に国が管理することになるなら、少しは安心だと思うよ。まあ今後はアングラで脱法AIとか出てきそうだけど……」
「えー、何それ怖すぎる。ますますネットが信じられなくなりそう」
「結局、高度なAIは人類には早すぎたってことだな」
あの日、八月十一日の九時に、テレビの殺人シーン連続放送は終わった。各チャンネルでは次々とニュース番組が始まり、通信障害も復旧して、治安は一気に回復に向かっていった。
それでも人類バトロワの開催期間とされる百日間――十一月八日までは毎日のように殺人事件が起きていたけど、十一月九日の九時を過ぎても人類が消えなかったことから、根強く宇宙人説を信じていた一部の暴徒たちも鎮静化した。
百日間における国内の死者数、行方不明者数は四十万人を越えるとされており、如何に大規模な騒動だったのかが分かる。海外では百万単位の死者が出た国もあり、日本はまだマシな方だ。それでも警察の処理能力は完全にパンクし、逮捕者は多数出たものの、殺人を犯した者の多くは罪に問われなかった。
俺も警察には出頭したけど、葵ちゃんたちの証言もあって、身柄を拘束すらされなかった。書類送検こそされたけど、他の多くの人たちと同様に不起訴となった。自衛と人助けのための殺人だったから、然もありなんといった結果だ。しかし、たとえそうでなくとも無罪だった可能性は高い。何しろ犠牲者が四十万人以上にもなる大騒動だったし、殺人を犯した者の多くが状況に翻弄されただけの、本来は善良な市民だった。警察は殺人よりも、非常時に便乗して行われた強盗や強姦といった犯罪を重視していて、そちらの捜査に力を入れているようだった。
「はーい、全部食べられて偉いねー。じゃあ最後にごちそうさましようね」
「ごちそーさまー」
一歳児の元気な声が響き渡る。こいつはいつ見ても元気だ。心結も弟の前ではいつにも増して笑顔が多い。四人で暮らすことになった当初は少し思うところもあったけど、これはこれで悪くないと今は思える。
死亡したと思われた正貴の生存が確認されたのは、警察に出頭して間もなくのことだった。警察から連絡があり、自治体の方で赤子を何人か保護しているから確認してほしいとのことで見に行くと、そのうちの一人が正貴だった。どうやら橋の上に捨てられていたところを通りがかった人に保護されていたようだった。
しかし、正貴の親を名乗る夫婦が既に現れていたことで、引き取るまで少々時間が掛かった。最終的にDNA鑑定で白黒はっきり付けた後も、未成年と学生に養育がどうたらとイチャモンまで付けられて散々だった。どうやらその夫婦は人類ハッキング事件で赤子を何者かに攫われていたらしく、正貴を我が子と思い込んでいた可哀想な人たちだったから、一応同情の余地はあった。
ただ、養育の問題については自治体の方からも指摘されたから、いい機会だったので古都音と籍を入れることにした。古都音が専業主婦として夫の弟の面倒を見るという形にしたことで、誰にも文句は言えなくなった。
生活費については父さんの遺産と桐本家の土地を売却したことで何とかなっている。爺様の遺産については県外に住んでいた叔父――父さんの弟が相続したから、あくまでも父さん個人の遺産しか相続できなかったけど、それだけでも心結の大学費用までは賄える額があった。もし何かあっても、今まさに住んでいる父さんの家か俺の住んでいたマンションを売ればいいから、今のところ金銭面での心配はほとんどない。
「ごちそうさま」
「今朝の卵焼きはどうだった?」
「もう聞くまでもないって、自分で分かってるんじゃないのか?」
「それはまあそうなんだけど、でも美味しいって言ってほしいの」
「美味しかった、どんどん美味しくなってる。夕飯も楽しみだ」
「夕飯の前に愛妻弁当があることを忘れないでね」
古都音はここ一年で凄まじい成長を遂げた。掃除や洗濯はきっちりこなしてくれるし、何より料理の腕前が飛躍的に向上した。もはやカップ麺にお湯を注ぐことを料理だと豪語していた頃とは別人レベルだ。心結という優秀な教師のおかげもあるけど、努力の賜物であることは間違いない。
以前聞いたところ、正貴の世話も含めて今は研修期間と思っているらしく、自分の子供を育てるときのためにも頑張っているようだ。この調子でいけば、俺が大学を卒業する頃には自他共に認める立派な主婦になれているだろう。
「じゃあ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。気を付けてね」
「いってきまーす。まーくん、ママの言うことちゃんと聞くんだよー」
家を出る前に、俺は古都音と、心結は正貴とハグをする。当初は姉弟だけがやっていた挨拶だったけど、古都音もやりたいと言い出し、今ではすっかり習慣化してしまっている。心結がいないときはキスまでするくらいだ。
今朝は心結と一緒なのでハグだけで済ませ、二人でSUVに乗り、まずは高校に向かう。
「そういえば、やっぱりあおちゃんもお兄ちゃんとこの大学を第一志望で受けるって言ってたよ」
「よくこっちに戻ろうって気になったな」
「まあ色々あったけど、あおちゃんにとっては生まれ育った故郷だからね」
事件後、葵ちゃんは県外の親戚のところに身を寄せることになった。といっても、すぐ隣の県だから春休みと夏休みには遊びに来て、うちに泊まって心結と一緒に受験勉強をしていた。もう両親の死からはすっかり立ち直っていて、親戚の家でも上手くやれているようだった。
「もしあおちゃんが合格したらうちに下宿するって話、進めて大丈夫?」
「それはいいけど、お前少しは自分の心配をしろ」
「あたしは模試で合格判定出てるし、油断もしてないし、大丈夫だって」
心結は弁護士になるべく法学部を目指している。元々、心結が医師になろうと思ったのは母親が再婚したからで、結城家の一員として自分と母親が爺様たちに認められるには医師になるのが一番だと思っていたらしい。今となってはその理由に意味がなくなったから未練もないようだ。
心結を高校の前で降ろして、大学に向かう。
俺は心結のように特定の職業に憧れはなく、以前と同じく公務員になろうと考えている。ただ、以前は目指す理由が何となくでしかなかったけど、今は違う。俺の人生において最優先すべきは古都音との生活だから、仕事は勤務時間と収入が安定していることが望ましく、そうなるとお役所勤めが最適になる。
夢や希望があると、生活に張りが出る。大学に通うのもさほど苦にならないし、講義も以前より集中できるようになった。目指すべき未来に向けて進む過程でしか得られない充実感を確かに感じられている。
世間では人類ハッキング事件は第二次大戦以来最大の人的災害とまで言われているけど、俺にとっては人生が好転する契機になった出来事だから、世間で言われているほどの悪印象はない。父さんや龍司たちが亡くなったことに関しては、以前よりも悲しいと思う気持ちが強いけど、俯いて立ち止まるほどではない。
大学での時間はあっという間に過ぎ、昼休みになった。
「あ、先輩は今日もハートのお弁当ね。まだまだ倦怠期とは無縁みたい」
「結婚してまだ一年も経っていない新婚ですからね。ラブラブで当然でしょう」
昼食はだいたいいつも瑠海と礼奈と一緒に食べる。というか、二人が俺のところにやって来る。いつもと違う場所で食べていても連絡してきてどこにいるのか聞いてくるから、もう好きなようにさせている。
ここ一年で知り合いは何人かできたけど、昼食を共にするほどの友人はできていない。どうにも話が合わないし、指輪から結婚についてあれこれ聞かれるのも面倒で、仲良くしたいと思える人が全然いない。
「お前たちもある意味ラブラブだろ」
「そうでもないよ。まだエッチなことはしてないし」
「まだも何も、この先もずっとしませんが」
「えー、一回くらい試しにしてみても良くないかな?」
事件後、瑠海と礼奈は俺のマンションで一緒に暮らしている。
瑠海の黛家は父親が死んだことで、瑠海が一人暮らしを続けられるだけの金銭的余裕がなくなった。人類ハッキング事件で保護者を亡くした未成年や学生に向けて国や自治体は支援を行っているけど、生憎とそれほど手厚くはないし、黛家は母親が健在だ。しかし、瑠海は母親との関係が最悪でほぼ絶縁状態にあり、実家には居場所がなかった。
だから事件後は俺のマンションの維持管理を任せるためという名目で瑠海を住まわせてやったところ、礼奈も俺のマンションに住みたいと言い出した。礼奈は親の遺産で大学卒業までの生活は何とかなるようだったけど、決して余裕があるわけでもないから、家賃を節約したかったようだ。瑠海は生活費をバイトで工面していたから、礼奈と二人暮らしになれば生活費や家事の負担が減る。瑠海は喜んで礼奈を受け入れた。
以来、二人は姉妹同然に仲が良く、大学でも一緒にいることが多いようだ。
「そういえば、新聞持ってる人だいぶ減ったね」
構内では新聞を持ち歩いている学生をたまに見掛ける。春頃までは今より多くいて、ある種のトレンドのようにもなっていたけど、今ではかなりの少数派になっている。
通信障害の復旧後、国民の多くがテレビやネットに不信感を抱いた。そこに新聞社がここぞとばかりに自らの信頼性をアピールしたことで、新聞の購読者数が急増した。かく言う俺も購読を申し込んだ。
しかし、年が明けて事件のごたごたが落ち着きを見せ始めた頃には、やはり新聞はいらないなと思い直し、解約した。どうやら俺のような人は結構いたようだけど、それでも事件前と比べると新聞の存在感は強くなり、衰退の一途を辿っていた業界は盛り返しを見せている。
「あれからまだ一年なのに、近頃はテレビやネットに対して疑いの目を向ける人が少なくなりましたね。喉元過ぎれば熱さを忘れるとは言いますが、私はまだ忘れられそうにありません」
「もう人類はテレビやネットのない生活なんて考えられないってことね。車と同じで、事故による損失より恩恵の方が圧倒的に大きくて、手放せなくなっちゃってるから、割り切るしかないならさっさと割り切って、便利に使っちゃった方がいいよね」
「だな。でも仮想通貨がまた上がってきてるのは納得いかんわ。もう暗号資産の類いは終わりだと思ってたのに……こんなことなら暴落したとき買っておくんだった」
人類ハッキング事件を経て、世の中は大きく変わったようで、それほど変わってはいない。世界規模の大事件だったのに、身近な人が亡くなったことによる変化こそあれど、現在の日本社会は治安も経済も以前とほとんど変わりなく安定している。
だからこそ、誰が何のためにあんな事件を起こしたのか、謎は深まるばかりだ。半年ほど前までは世界のあちこちで、あれは自分たちの仕業だと犯行声明を出す組織や個人がよく現れていたけど、所詮はネット上だけのことで電波ジャックは起きていないから、みんな真に受けてはいない。最近は名乗りを上げる奴が現れても、ほとんど無視されているようだ。
テレビでは毎日のように人類ハッキング事件が話題に上がるし、ネットでは活発に議論されているから、世間の関心は未だに高い。しかし、きっと来年には今ほど話題に上がらなくなるだろう。以前に東欧で戦争が始まったときも、最初の一年は随分と騒がれたものだったけど、二年目には戦況に関するニュースが激減し、世間の感心も一気に薄れていった。今回は世界規模での事件とはいえ、既に終わったことだ。
現に俺もその手の番組や記事はもう飽きてきたし、あまり興味を持てなくなってきている。それ以前に、今は過去より未来に目を向いていたい気持ちが強い。
「ところで先輩、最近どう? 幸せ?」
「……まあ幸せだけど、何だ唐突に」
「自分の幸せを確認したくてね。前に言ったでしょ、先輩の幸せがわたしの幸せだって」
瑠海は当然のように俺と同じ大学、同じ学部の同じ学科に入ってきた。古都音と結婚したことで、瑠海の俺に対する感情は希薄になるかと思っていたけど、今のところその兆候はない。俺としてはさっさと彼氏でも作って自分の幸せを追い求めてほしいところだけど……まだ時間が掛かりそうだ。
昼食を終えて午後の講義を受け、一人で帰路に就く。
黙々と運転していると、たまに事件当時のことを思い出す。合田のおっさんを殺し、桐本家を襲撃した奴を殺し、結城家のみんなを殺した奴を殺した。今思い返しても、俺の殺人には警察も納得するだけの正当性があったと思えるから、罪悪感はほとんどない。あるのは恐怖だ。
あんなクズ共にも、その死を悲しんだ人はいたはずで、いつかそいつらに復讐されるのではないか。ふと気を抜いたとき、そんな考えが脳裏を過ぎることがある。大切な人を殺された者にとって、殺された理由など関係ないはずだ。あの当時、もし古都音を殺されていれば、俺は社会秩序が戻った今でも復讐を企てていたと思う。
実際、ニュースではたまにその手の報復殺人と思しき事件が報道されている。人類ハッキング事件は謎を残しつつも終わったし、俺の中でも既に過去のことではあるけど、今もまだ事件が続いている人たちは少なからず存在しているはずだ。
平日昼間の結城家には古都音と正貴だけで、襲撃しようと思えば簡単にできる。特に事件を経た今ではまだ倫理観が狂っている奴もいるだろう。古都音は稀に見る美人だから、俺への復讐でなくとも目を付けて襲う奴だっているはずだ。
考えていると、だんだん胸騒ぎがしてくる。
落ち着くためにも安全運転を続けて、自宅の駐車場にSUVを駐める。普段は自分で鍵を開けるところを、今日はインターホンを鳴らしてみた。
応答を待っていると、いきなりドアが開いた。
「どうしたの、鍵忘れた?」
「いや……そんなことより、いきなりドアを開けるな。不用心だろ」
「駐車の音であっくんだって分かったから」
古都音の笑顔に陰りはなく、元気にそこにいる。
杞憂だったことによる安心感と、家に帰れば最愛の人がいるという事実に胸がいっぱいになり、自然と笑みが零れた。
事件など何も起きない日常でも、俺は生きているという充実感を得られている。ふと不安に駆られてしまうのも、現実味に欠けるくらい幸福すぎるからだろう。本当に怖いくらいに幸せで、たまにこれは夢ではないかと思うほどだ。
しかし、たとえ夢だとしても構わない。
そもそも幸福など夢のように儚く脆いものだ。かつて結城家で恵まれた生活を送り、将来は立派な医師になるのだと信じていられた幸せな日々は呆気なく終わった。その後、古都音が俺に見せてくれていた優しい夢は、古都音の忍耐と努力の上に成り立っていた。どちらの場合も、人から与えられていた幸福だった。
幸せは自分や誰かの尽力によって作り出され、維持されるものだ。夢から醒めることを恐れるより、夢を見続けられるように頑張ることが大事で、それが大切な誰かと一緒のものであるなら尚更だろう。
この夢のように幸せな日々を続けていくことが俺の生きる望みであり、喜びでもある。人類社会が終わりかけたあの事件と、何よりも古都音が、俺にそれを教えてくれた。
「ただいま、古都音」
「うん、おかえり」
玄関に入ってドアを閉めると、どちらからともなく抱き合って、キスをした。