41 正気
朝食後、入浴を終えて寝床に入る前に、頼んでおくことがあった。
「瑠海、悪いけど今夜は三時頃まで俺の代わりに一階にいてもらえるか?」
瑠海は嫌な顔ひとつ見せず、全て分かっていると言わんばかりにのんびりと頷いた。
「もちろんいいよ。三時までと言わず、朝まででもいいけど?」
「いや、それだとお前が寝不足になる。全員がしっかりと動ける状態で、明日の九時を迎えたいからな」
「好きな人と結ばれようっていうのに、先輩は変わらないね。名目なんて用意しなくても、古都音さんとの初夜を満喫したいからって堂々と言ってくれていいのに」
「……明日に備えたいってのも本心だ」
無論、俺としても朝まで古都音と過ごしたい思いはある。
しかし、油断はしたくなかった。真偽不明の人類バトロワという前代未聞のこの状況に変化が訪れるとすれば、今からおよそ二十四時間後、八月十一日の九時だ。もし明日、宇宙人の存在を確信させる何かが起きたとき、すぐに動き出せるようにしておきたい。
だから、俺も夜の間に少し眠っておきたい。
……そういう名目で、瑠海に夜番の半分を任せる。みんなは俺と古都音の仲を受け入れてくれたとはいえ、あからさまに仲睦まじくすることには抵抗を覚える。みんな俺たちに気を遣ってくれたからこそ、こちらも最低限の配慮は必要だ。
「ふふ、そうだろうね。そうやって浮かれないストイックさも先輩の素敵なところだから、さっきはああ言ったけど、わたしとしては嬉しくもあり頼もしくもあるかな」
「……そうか」
リアクションに困ったので、適当に頷いておいた。
それの何が琴線に触れたのか、瑠海は笑みを深くして上機嫌に俺の肩をぽんぽんと叩いてきた。
「じゃあ、みんなにはわたしから伝えておくね。明日に備えるためって。先輩が古都音さんに現を抜かさないで、ちゃんと今後のことも考えてるんだって分かれば、みんなも安心すると思う」
やはり全て分かっていて、朝まででもいいと言ってきたのだろう。
さりげなく試すようなことをされるのは決して快くないけど、程良い緊張感を保ってくれると思えば悪くない。それにもし俺が瑠海の提案に頷いていたら諫めてくれたはずだから、そう考えれば有り難いとすら思える。
「ああ、頼む」
こちらも肩を叩き返してから二階に向かい、父さんの部屋に入った。古都音は先ほど葵ちゃんに声を掛けられていたから、心結の部屋だろう。
寝床に横たわって一息吐き、目を閉じる。
しかし、どうしても今夜のことが頭を過ぎり、妙に目が冴えてしまって眠れない。古都音とそういうことをするのだと思うと、性的興奮よりも感慨に耽ってしまうところが大きく、俄には信じ難い気持ちになる。
瑠海はああ言っていたけど、今の俺は浮かれている。
でなければ、期待より不安が勝っているだろうし、今後どうなっても古都音となら上手くやっていけると楽観することもできないはずだ。
結局なかなか寝付けず、昼前になってようやく眠りに就けた。
■ ■ ■
夕食後、まずは古都音が風呂に入った。その次に俺がシャワーを浴びた。午前中に入浴していたけど、念のためだ。
瑠海たちは何も言わず、全員リビングで寛いでいた。昨日までは瑠海に対する警戒心もあってか、葵ちゃんも心結も夕食後はすぐに入浴するか心結の部屋に引っ込んでいっていたのに、今日はリビングに留まっている。これから二階で俺たちが何をするのか察しているのだろう。気遣われているのか、二階は居心地悪く思われているのかは分からないけど、そこに俺が触れるのもどうかと思い、何も言わず二階に向かった。
父さんの部屋のドアをノックして一声掛けると、「どうぞっ」と上擦ったような声が返ってきた。部屋に入ると、常夜灯の薄明かりのもと、布団の上に古都音が正座していた。
「何でわざわざ正座?」
「だって、こういうとき、どうやって待てばいいか分かんないじゃん……」
俯きがちにそう答える古都音は半裸で、その身はバスタオル一枚しか纏っていない。俺はシャツとハーフパンツだけのラフな恰好だ。
「べつにいつも通りでいいよ」
「そうやって非童貞の余裕を見せ付けてくるの、やめてくんない?」
「余裕じゃないって、ほら」
古都音の前に腰を下ろし、か細い手を掴んで俺の胸に当てさせた。手に触れたとき、古都音はびくりと肩が跳ねていたけど、抵抗する素振りは全くなかった。
「……凄くどくどく言ってるね」
「俺だってそこそこ緊張してる。でも、どういう関係になっても、俺たちは俺たちらしくすればいい。普通がどうとか気にするな。俺が今更お前に失望したりすると思うのか?」
「それは、しないだろうけどさ……ぼくだってこれでも女の子なんだから、好きな人には変に思われたくないし、少しでも可愛く見られたいもんなんだよ」
「そうか、それはそれで嬉しいな」
今にして思えば、事あるごとに乙女だ何だと言っていたのは、親友ではあるけど女でもあるのだと、俺に忘れさせないようにしていたのかもしれない。その割に化粧っ気は全くなかったし、下着を見られても平然としていたし、変な言動も度々していたけど……まあ女心なんて考えるだけ無駄か。
「ところで、あっくん。始める前に言っておくことがあるんだ」
「どうした、改まって」
古都音は俺の胸から手を離すと、殊更に姿勢を正す素振りを見せて、正面から見つめてきた。緊張感の漂う真剣な眼差しに、俺も自然と背筋が伸びた。
「お互いのためにも、覚悟して聞いてほしい。いいかい?」
「あ、ああ」
このタイミングで、こんな真面目な雰囲気になってする話とは何なのか。
「実は、その……」
古都音は俯きがちになって言い淀み、一度深呼吸を挟むと、意を決するように顔を上げた。
「ぼく、生えてないんだ」
「……は?」
何を言われたのか、いまいち理解できなかった。
「もう二十歳なのに全く生えてこないんだ! こんな幼児体型で生えてないって、やべーよ! 自分で言うのもなんだけど、ぼくの裸とか犯罪臭しかしないよ!」
「…………」
「だから、もし萎えそうだと思うなら、目を瞑ってしてほしい。それがお互いのためなんだ」
こいつは真面目な顔して何を言っているんだ?
俺は溜息を零しながら、我知らず強張っていた全身から力を抜いた。
「……あのさ、俺たちらしくとは言ったけど、少しはムードとか考えてくんない?」
「考えたから先に言ったんやろがい! あっくんのアッキーが天元突破しなかったらあっくんもぼくも打ちひしがれてムードどころの話じゃなくなるんやぞ!」
「お前は男を見くびりすぎだ」
「――ひゃわ!?」
華奢な肩を掴んで押し倒すと、存外に可愛い声が上がった。古都音は目を大きく見張って固まっている。布団の上に散乱した長い金髪はしっとりと艶めいており、それがやけに色っぽく見えた。
俺は小さな顔の左右に手を突いて、見とれるほど綺麗な瞳を覗き込んだ。
「好きな女の身体に興奮しないわけないだろ」
「え、あの……あっくん、なんか、目が怖いよ……?」
「心配させてごめんな、古都音。お前に信頼してもらえなかった俺が悪い。だから責任を取って、さっきのが全くの杞憂で俺がどれだけお前を好きなのか、しっかりと分からせてやるよ」
右手で髪を梳き、頬を撫で、指先で唇をなぞった。古都音は気圧されたように縮こまり、怖々と俺を見上げてくる。
「や、優しく、してくれるんだよね?」
「俺の理性が保つ限りは」
「えっと、その……もう一つだけ、言っておきたいことあるんだけど……」
この後に及んでまた変なことを言い出す可能性を考えると、もう強引に口を塞ごうかとも思ったけど、先ほどと違って頬は上気して瞳は潤み、確かな羞恥心が伝わってくる。
古都音は俺と同じように右手を伸ばして頬に触れてくると、柔らかく微笑んだ。
「あっくん、愛してるよ」
「あ、ああ……俺も、愛してる」
不意打ちすぎて少し気恥ずかしくなり、スムーズに言い返せなかった。そんな俺を古都音はどこかおかしそうに見つめてくるから、余計に照れ臭くなってしまう。
また何か言われる前に、顔を近付けて唇を重ね合わせた。
古都音は両手で俺の頭を包み込むようにして、それを受け入れた。
■ ■ ■
一段落付いて、仰向けになり目を閉じる。
不思議な感覚だった。
瑠海との交わりで、女を抱くということがどういうことか、分かっていたつもりだった。しかし、今回は何かが決定的に違った。事後の気怠さがなく、虚しさもなく、穏やかな心地良さが全身を包み込んでいて、全てが満ち足りた感じがする。
隣を見ると、古都音が俺の腕を枕にして一息吐いている。
これ以上はないと思えた充足感が更に膨れ上がり、苦しくなるほどに胸を圧迫した。そのくせどこか物足りないような切なさがあり、それも含めて何もかもが心地良い。未だかつて感じたことのない多幸感だ。
小柄な身体を抱きしめた。
「ん……あっくん、もう一回はきついかも……」
「ああ、今日はもういいよ。無理しなくていい」
こうして腕に抱いていると、古都音の小ささと柔らかさがよく分かる。肌を触れ合わせているだけで、昨日までとは全くの別物に感じられる温もりに全身が溶けそうになる。凝り固まっていた何かがどんどん解れていくような感じがする。
古都音の方も、少しでも俺に密着しようと手足を絡めてきた。俺たちはしばらく無言で、相手の存在を確かめ合うように抱き合った。
「あっくん……やっぱり、まだし足りない? 全然小さくならないけど……?」
「まあ、それはそういうもんだから気にしないでくれ」
「と言われても、存在感が凄すぎて……」
精神的にはもう十分すぎるほどに満足できているものの、先ほどから肉体の方は収まりが付かない状態だ。これ以上は古都音に気を遣わせそうだから、少し身体を離して落ち着くことにした。それでも相手の息遣いが感じられるほどの距離で、互いの手は相手の身体に触れたままだ。
「満足させられなくて、ごめんね」
「いや、満足してる。本当に、今まで生きてきて一番だ。それより身体は大丈夫か?」
「うん、思ったほど痛くなかったけど……なんか違和感がちょっとね」
古都音は恥ずかしそうに、そして嬉しそうにはにかんでいる。
その顔を見ているだけで、心が満たされるような深い安らぎを覚える。そんな自分に少なからず戸惑いながらも、これこそが幸福なのだという確信もあった。
そうだ……これが幸せであり、喜びなんだ。
「もし何かあれば言ってくれよ」
「そんな心配するほどじゃないよ。でも、ありがとう」
「ああ……こっちこそ、ありがとな」
靄が晴れたように意識が鮮明で、まるで正気に返った気分だ。
いや、実際そうなのだろう。
俺は今まで何をしていたんだと心底から思う。
「あっくん、やっと戻ったね」
「戻った?」
「昔みたいな優しい顔付きに戻った」
じっと見つめてくる古都音の眼差しも優しいもので、表情は穏やかだ。
「ここ三年くらいのあっくんは、いつもどこか物足りないような、気怠そうな、陰のある顔してたよ」
確かにそういう部分はあったと自分でも思う。
だからこそ、電波ジャックに端を発する非日常に期待してしまっていた。
「通信障害が起きてうちに来てからは、生き生きとしてたけど張り詰めた鋭さみたいなのがあって……入院してた頃とは別の危うさが感じられて、心配だったんだよ」
「今はそういう感じしないのか?」
「うん。さっきまでと比べて表情が柔らかくなった」
「それは、あれだ……賢者タイムってやつだな」
素直に認めるのはどうにも照れ臭かった。
これまでの自分は本当にどうかしていたと、今なら分かる。命の遣り取りを楽しむなど完全に頭のイカレた異常者の所業だ。とはいえ、古都音も普通の感性の持ち主ではないから、こいつにとっては酷い中二病みたいなものに見えていたのかもしれない。
「照れなくてもいいんだよ。ぼくは嬉しいんだ。聖騎士アッキーは一度は暗黒面に堕ちたけど、また光を取り戻した。それもこれも聖女様のおかげだから、あっくんはぼくを大事にしないといけないよ」
「自分で言うな。というか、いい加減そういうメンヘラみたいな――」
ふと思い至った。
古都音が最初に暗黒騎士などと言い出したのは、どういう会話の流れからだったのか。あれはテレビで殺人シーンが流れて始めて、葵ちゃんが取り乱した後のことだったから、よく覚えている。
「もしかして、お前が葵ちゃんに俺より自分を頼れって言ったのは、そういうことなのか?」
「今更だね……そうだよ。暗黒騎士がお姫様をたぶらかそうとしてたからね。そんなどちらのためにもならないこと、聖女様としては見過ごせないよ」
やはり俺の考えなど見透かされていたようだ。
まあ、それも当然か。古都音は全てを理解した上で、俺を受け入れてくれている。言葉なんてなくとも、先ほどそれを身を以て実感させてくれた。
「そもそも、ぼくがあっくんのことを見抜けないと思われてたなんて心外だよ」
「でも瑠海のことは気付いてなかったんだろ?」
「オメーが言うなっ、少しは悪びれろ! 聖女の処女で救われたくせに童貞を捧げないとか不敬なんだぞ! あんま調子乗ってっとオメーの後ろの処女奪ったるぞ!?」
「すまん、俺が悪かったからマジでそれはやめてくれ」
こいつの場合、冗談ではなく本当にやりかねない。危険だ。
そう思いながらも、以前までと変わらない古都音の振る舞いがおかしくて、笑いを堪えられなかった。親友から恋人になっても、俺たちなら上手くやっていけると確信できて、嬉しくもあった。
「もう、まったく……今はことねーちゃんも満ち足りた気分だから、特別に許してあげるけど、次はないんだからね。反省しなさい」
「ああ、気を付けるよ」
古都音はわざとらしく怒った顔で睨んでいたけど、ふと相好を崩した。それはもう嬉しそうに、喜びを抑えられないと言わんばかりの笑みだった。
そんな笑顔を俺に向けてくれていると思うだけで、胸の内が温かくなり、こちらまで頬が緩んでしまう。
「あっくんのその顔、その声……ぼくはそういうあっくんが大好きなんだ。辛かったり苦しかったりしても、もうダークサイドに堕ちちゃダメだからね」
「そのときはまた聖女様が救ってくれるんだろ?」
「そうだけど、そうなる前にちゃんと相談してほしいの。もう我慢だってしたくないし、あっくんの初めてもらい損ねたし……ぼくだって辛くて苦しかったんだからね」
俺の胸を拳で小突く力は弱々しく、悲しげに伏せた目に冗談の気配はない。
「そうか、そうだよな……ごめん、本当に悪かった」
「うん。でも、これでおあいこだね」
「おあいこ?」
「ぼくが中学の頃、不登校になって部屋に引きこもったでしょ。あっくんが毎日うちに来て励ましてくれたから、ぼくは立ち直れたんだ」
とはいえ、古都音はその後も登校しなかった。部屋からは出てきても家からはほとんど出なくなり、高校にも進学しなかった。あの頃、もっと古都音の力になってやれていれば、同じ大学に通うくらいにはなっていたかもしれない。
「ほら、そんな顔しないの」
古都音は俺の手を取ると、指を絡めるようにして握ってきた。
「終わり良ければ全て良しってね。今こうしてあっくんと結ばれたんだから、ぼくはそれで幸せだよ。お父さんもお母さんもきっと天国で喜んでくれてるよ」
「ああ、そうだといいな」
これまで色々なことがあった。
ここに至るまで、随分と遠回りした気がする。
昨日までの俺はなんか小難しいことを考えて、あれこれと思い悩んできたけど、もうそんな細かいことや理屈などはどうでもいい。全力で走ろうとも思えず、そこに意味すら見出せなくなってしまった。今までの自分が馬鹿馬鹿しく思えるほどだ。
そもそも難しく考えることなんて何もなかった。
「古都音、ありがとう。お前がいてくれれば、俺はもう大丈夫だ。これからも側にいてくれ」
「うん、こちらこそ。何があっても、一緒に乗り越えていこうね」
これからは二人一緒に歩いていければ、それだけで十分だ。
生きる望みも喜びも、全ては古都音と共にある。
八月十日のこの夜、俺はそれを頭ではなく心で理解した。