40 準備
トレイに二人分の麦茶と菓子を載せて、父さんの書斎に向かった。
ドアをノックしてみても反応がなかったので、一声掛けて中に入る。室内は薄暗く、静まり返っていた。とりあえず明かりを点ける。
六畳間ほどの洋室に家具は少ない。PCデスクと椅子、本棚、それにカメラの収まった防湿庫があるくらいだ。壁には多くの写真が飾られているから、爺様や龍司の部屋のような簡素さは感じられない。写真の中には俺と古都音が映っているものもあり、今更ながら少し胸にくるものがあった。
「古都音」
声を掛けても反応はない。
床に敷かれた布団の上には、巨大な芋虫がいる。頭頂から足先まで薄手の掛け布団にくるまった姿を見せられると、懐かしくもあり心苦しくもあり、昔の写真もあって色々と思い出してしまう。
トレイをデスクに置いて、芋虫の側に腰を下ろした。
「中学の頃、部屋に引きこもってたときもそうしてたよな」
「…………」
「また布団引き剥がしてくすぐってほしいのか?」
掛け布団の上から腰の辺りを軽く叩くと、金髪と碧眼が覗き出てきた。顔の半分は隠れているけど、目元だけでも相手の感情を読み取るのに不足はなかった。
「……来るのが遅い」
怒ってはいないようだけど、不満ではあるらしい。
「悪い、瑠海にこれまでのことをざっと説明してた」
「……あっくん、ぼくはね、寝取られものが嫌いなんだ」
恨み辛みよりも悲哀を強く感じさせる声に冗談の気配はない。
「特に幼馴染がぽっと出の奴に寝取られる系の話は大嫌いなんだ」
「そうか」
「今のぼくの気持ちが分かるかい?」
問われるまでもなく容易に察しは付いた。古都音がぼっと出の男と寝ていることを想像すると、胸が苦しくなる。つまり、俺は古都音のことを友人としてではなく、きちんと女として好きなのだ。
改めてそれを自覚できたからか、自然と口が動いた。
「ありがとな」
「……なぜ礼を言う?」
「そうやって落ち込むくらい俺のことちゃんと好きなんだって伝わってきて、申し訳ないとは思うけど、嬉しいとも思う。平然としてたら、本当に俺のこと男として好きなのかって疑ってたかもしれん」
古都音は掛け布団を蹴飛ばすようにして取っ払うと、両手で俺の胸をぽかぽかと叩いてきた。非力だから痛みは全くなく、むしろ心地良いくらいだ。
しばらく無言で感情をぶつけてきた後、両手の拳と額を胸に押し当ててきた。
「恋人の振り……だったんだよね?」
「ああ」
「でもエッチなことはしたんだよね?」
「まあ、俺も男だからな。瑠海の事情を考えると、泣き付かれたら理性が保たなかった」
正直に答えると、再びぽかぽかと叩かれた。
今度はすぐに両手が大人しくなり、胸元から不安げに見上げてくる。
「あっくんは、あの子を助けたんだよね?」
「結果的にな。俺はただ、自分のしたいようにやっただけで、瑠海を利用したとも言える」
「……どういうこと?」
小さく眉根を寄せる様子に不信感はなく、怪訝さしか感じられない。俺の性根を疑っているというより、未だ不透明な事情を訝しんでいるようで、そこに古都音の信頼を感じられた。
「あいつも俺と同じで、母親がアレだったんだ」
「え……アレって、つまり、その……托卵?」
「ああ、事情を聞いたら他人事だと思えなくてな。当時、退院してしばらくはまだ色々納得できないところもあったから、そういうやり場のない怒りというかモヤモヤをぶつけられる相手として、変態クズ野郎は最適だった」
あいつは最低最悪の加害者だったけど、同時に妻に裏切られていた被害者でもあり、父さんに重なる部分はあった。しかし、だからこそ、大人の事情で子供を振り回す奴が許せなかった。
可哀想な少女を助けるためという大義名分を掲げて、八つ当たりも同然に大の大人を屈服させる。その過程は大いに楽しめたし、上々の結果には胸がすく思いもした。けど、全てが終わった後は虚しくもあった。
「そんな、そんなの……もう運命じゃん」
古都音は虚な目で力なく呟いている。
その気持ちは何となく理解できたので、俺は敢えて鼻で笑って誤魔化す。
「ただの偶然だろ」
「自分を救ってくれた相手が同じ境遇の男だったなんて運命以外の何物でもないじゃん! 二人は出会うべくして出会い結ばれるべくして結ばれたってことじゃん! 女の子なら誰だって運命感じてべた惚れだよ! やっぱり幼馴染は負ける運命なんだ!」
「でも、俺は瑠海より古都音の方が何倍も大事だし、好きだぞ」
本心だったので臆面もなく告げて、小柄な身体に両手を回して軽く抱き寄せた。
古都音は僅かにたじろいだ様子を見せたものの、上気した顔をわざとらしくしかめて、視線を泳がせる。
「そっ……そーゆー、ストレートなの……何なん? 非童貞の余裕なん?」
「変化球よりストレートなのが好きって言ったのはお前だろ」
「……あんな戯言いちいち覚えてるとか、ぼくのこと好きすぎじゃん」
拗ねた口振りに反して表情は締まりがなかった。
「あと、瑠海には俺の事情とか話してないから、運命だとか思ってないはずだぞ」
「……言ってないの?」
「爺様に口止めされてたしな。お前にしか言ってない」
「へ、へー……そっか、ぼくにしか言ってなかったんだ……ふーん……」
古都音の方も背中に手を回して抱き付いてきた。
そんなにちょろくていいのか?
「まあ、あいつも薄々感付いてるとは思うし、今は礼奈から詳しい話を聞いてるようだから、それで知るだろうな」
「あ……やばいじゃん……実は運命だったと確信してやっぱり誰にも渡したくないって手の平リバースするパティーン……」
「それはないから心配するな」
古都音を強く抱きしめながら、堂々とした口調を意識して続けた。
「さっき瑠海には、お前の気持ちには応えられないって、はっきりと言っておいた。仮にあいつがそういう態度を見せたら、あいつは捨てる」
「す、捨てる……?」
「あいつが寝てる隙に、みんなでこの家を出ていく」
瑠海のせいで――いや、おかげで、否応なしに覚悟が定まった。
「瑠海だけじゃない。もうみんな俺とお前が両想いなのを知った。これで俺たちの仲を裂くような真似をするなら、敵として距離を取る。場合によっては殺す」
「え、あの、何もそこまでしなくても……」
「もちろん最悪の場合の話だ。でも、今後はそれくらいの覚悟がいる」
中途半端な味方はいらない。
信頼できない者は敵と見做した方がやりやすいし、何より確実だ。別段、敵扱いしてもこちらから積極的に襲い掛かるわけではなく、ただ警戒すべき相手として認識するというだけの話だから、心もあまり痛まない。
人類バトロワなど嘘で、社会秩序が戻ってくる場合には彼女らの証言を得られなくなるかもしれないリスクは看過し難いものがあるけど、背に腹は代えられない。
瑠海と再会しても、優子ちゃんの死がなければ、ここまで割り切って腹を括れなかっただろう。そう考えれば、あの子の死にも少しは意味があったと思える。
「古都音、ごめんな」
きちんと目を見て言うべきだったから、抱擁を解いた。
「お前が俺のために頑張ってくれてたとき、俺は他の女を抱いてた。今思うと最低なことをしていたと思う。許してくれるか?」
「うん、いいよ……可哀想な女の子を放っておけなかったんだよね。あっくんは昔からそういう子だったもん。むしろ助けられる状況で見捨ててたら、見損なってたよ」
「そうか、ありがとう」
しばらく無言で見つめ合った後、自然と顔を寄せ合って軽い口付けを交わした。しかし、キスするような関係性にまだ慣れないせいか、妙な照れ臭さがあり、それを誤魔化すためにデスクからトレイを持ってきて麦茶を飲んだ。
古都音もグラスを傾けて一息吐くと、やけに疲れた顔を見せた。
「なんか、もう……色々ありすぎて、パンクしてる。処理が追い付かないよ。お母さんもゆーちゃんたちも死んじゃって、悲しいはずなのに、あんまり悲しさが湧き上がってこないもん。あっくんが寝取られてたのも頭ではショックなことだって分かるのに、心がぐちゃぐちゃしすぎてて涙が出てこないし……完全におかしくなっちゃってるよ……」
無理もないどころか、それが当然の反応だろう。
とはいえ、心が限界を迎えるほどの出来事が多発したからこそ、俺たちは関係を深めることになった。そうでもなければ、俺たちはずっと親友のままで、俺も古都音もいつか別の誰かと結ばれていたかもしれない。
「明後日の夜までに落ち着くか?」
「分かんない……けど、もしかしたら死ぬことになるかもしれないんだし、せめて悔いが残らないようにしておきたいから……落ち着いてなくても、する」
「そうだな。俺も古都音としておきたい」
精神的な繋がりのみならず、肉体的な繋がりも得れば、もう後戻りはできなくなる。だからこそ、不退転の決意を自他共に示せる。それに何より、純粋に古都音を抱きたいという思いもあった。
そんな気持ちが伝わったのか、古都音は恥ずかしそうに目を伏せて、菓子をちまちまと食べ始める。俺も菓子を摘まんでいると、ふと思い出したように古都音が口を開いた。
「そういえば、マンションの玄関で言ってた彼女の振りって? 宇宙人なんていない場合に頼むとか言ってたみたいだけど……」
「ああ、それか」
瑠海に恋人の振りを頼むことにした経緯を説明すると、不満だと言わんばかりに睨まれた。
「そういうときはぼくに頼むものじゃないの?」
「いや、お隣さんにロリコンとか思われたら、それはそれでまずいだろ」
「でもあの子だって割と小柄…………どうせぼくは貧乳の幼児体型だよ」
どうフォローしても古都音は納得しないだろうから、話題を逸らそう。
折良くポケットに入れっぱなしだったもののことを思い出し、取り出して手渡した。
「ほら、これ。必要だろ」
「え、何これ……あぁ、これを取りに行ったんだ」
古都音は手にした紙箱をしばし見つめた後、真面目な顔を向けてきた。
「あっくん、ぼくはね、初めては生でしたいんだ」
「いや、それは危ないだろ」
「こうして気遣ってくれることは凄く嬉しいよ。でも、外に出せばほぼ心配ないはずだし、非童貞なら無様に暴発なんてしないでしょ。それにもし万が一があっても、あっくんならちゃんと責任取ってくれるよね?」
未だかつて見たことのない、やけににっこりとした笑みを向けてきた。
なんか、強い圧を感じるのは気のせいだろうか……。
「それは、まあ……でも日常が戻ってきても俺はまだ学生だし、宇宙人が本当にいるなら体調が不安定になると戦いづらくなるだろうから、今後を考えると――」
「つべこべ言うな! お互いの初めてを捧げ合うっていうぼくの理想はもう絶対実現させられないんだからせめてこれくらいは叶えてくれたってええやろ!」
「……そうだな、分かった」
投げ返された小箱を受け止めて、そう頷く他なかった。
その後は取り留めもないことを話し合っていった。気持ちを確かめ合った後でも、距離感そのものに大した変化はないから、部屋に二人きりでも緊張感は全くなく、むしろリラックスして過ごせた。
試しに古都音に膝枕をしてもらったけど、やはりドキドキするようなこともなく、思わずあくびが出たくらいだ。でも古都音は嬉しそうに俺の頭を撫でていた。その優しい微笑みと手付きに茉百合さんの面影を感じて、俺はそこに安らぎを見出してしまい、何だかんだで古都音の方が年上であることを久々に実感した。
■ ■ ■
夕食の席は妙な気まずさがあった。
礼奈は相変わらずのクールさで健啖ぶりを発揮していたから、実質的に失恋したことをどう思っているのかさっぱり分からなかった。逆に葵ちゃんは見るからに表情が暗くて、朝食のときと比べて箸が進んでいなかった。心結はあまり変わりないように見えたけど、一度も俺と目を合わせようとしなかったのが気になる……。
食事中は瑠海が他愛ない話をみんなに振って、それに応じるといった形での会話がほとんどだった。瑠海以外は俺も含めて自発的に口を開こうとしなかったけど、あいつは普段通りのゆるさを崩さなかった。
食後の片付けは瑠海がやると言い出したので、入浴する古都音以外はそれぞれの部屋に戻っていった。礼奈もこれまでと違ってリビングで寛ぐつもりはないようだ。
図らずも二人きりになったので、鼻歌交じりに食器を洗う少女に声を掛ける。
「なあ、礼奈たちのこと、本当に任せて大丈夫なのか?」
「もちろん。先輩、わたしのこと信用してくれないの?」
瑠海は手を止めると、気怠げに小首を傾げて見つめてきた。
「信用はしてる。けど、俺以外とは会ったばかりだろ。上手くフォローするって言っても、具体的にどうするつもりなんだ? 礼奈との話はどうだったんだ?」
「そうやって聞いてくるってことは、信用してないってことじゃない?」
「…………」
「ふふ、まあ無関心よりはいいけどね。心配する気持ちは分かるけど、女の子のことは女の子に任せて、先輩はどーんと構えててくれないと、上手くいくものも上手くいかないよ」
「……分かった」
「とりあえず礼奈さんだけど、あの人ああ見えて可愛い人ね。水着買いに行くって言い出したの、あの人なんでしょう?」
瑠海は再び手を動かし始めると、きびきびとした動きとは対照的なのんびりとした口調で言った。俺が「ああ」とだけ答えると、なぜか楽しげな笑みを覗かせる。
「はっきりと言葉にはしなかったけど、礼奈さん水着姿で先輩にアピールするつもりだったみたいね。母親を殺して間もないのに、水着で好きな人の気を引こうとするなんて、あの人もだいぶ普通じゃないね」
「……そうか」
思い返すと、礼奈が水着云々と言い出したときは話の持っていき方が少し強引だった気がする。
「それより、聞いたよ先輩。やっぱり先輩もわたしと同じだったのね。お腹の傷、手術の痕じゃなかったの?」
「刺されたから、手術したんだ」
「あ、なるほど。先輩も大変だったみたいね。そんな先輩を本命さんが助けて、支えてくれたわけね。わたしにとっての先輩みたいに」
こいつがこれほどの洞察力を持っていたことには、やはり意外感を禁じ得ない。今まではあこれこれ指摘されたことなどなかったけど、黙っていただけで色々見透かされていたのだろう。普段から弁えていなければ、沈黙は金なんて言葉はなかなか出てこないはずだ。
何度も身体を重ねたせいか、相手のことを知った気になっていたけど、俺はまだ瑠海のことを理解しきれていなかったようだ。
「礼奈さんの事情はまだ聞けてないけど、殺すほどだったならきっとろくでもない母親だったんだろうし、あの人は何とかなる自信あるから、明日の朝を楽しみにしてて。あ、わたし今夜は礼奈さんの部屋で寝るから」
礼奈の部屋は夫婦の寝室で、シングルベッドが二つあるから、同室でも寝床の不足はない。
「そこまで言うなら、期待してる」
実際はそれほど期待していなかった。
だから、やはり俺は瑠海のことを理解しきれていなかったのだ。
その日も俺は不寝番として一人で夜を明かし、八月九日の朝を迎えた。まず古都音がリビングに姿を見せて、次に瑠海と礼奈が共に起き出してきて、朝の挨拶を交わす。
その後、続け様に礼奈が言った。
「暁貴さん、桐本さん、おめでとうございます」
最初は驚くより訝しく思った。
「二人が友人から恋人の関係になること、祝福します」
「ああ……それは、ありがとう」
礼奈は相変わらず表情に乏しいから、本心か否かの判別が付かない。その斜め後ろにいる瑠海のドヤ顔を見る限り、あいつは上手く説得できたと思っているようだ。
「所詮、私たちは出会って間もない関係ですし、幼馴染の桐本さんに敵わないことは頭のどこかで分かっていたので、この結果には納得しています」
瑠海に言わされているという感じはしないし、今の台詞には実感が籠もっていたように聞こえた。
「ただ、私はまだ暁貴さんのことが好きなのだと思います。ご迷惑はおかけしませんから、私がそう思うことは許してもらえますか?」
「それは、まあ、気持ちの整理には時間が掛かるだろうし……なあ?」
「え、あ、うん……いいんじゃない?」
古都音に目を向けると、困惑も露わに首を捻りながら頷いていた。
「ありがとうございます。宇宙人の言う生存競争が本当でも嘘でも、協力して難局を乗り越えていければと思います。改めて、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
「よ、よろしくお願いします……」
礼奈が軽く頭を下げてきたので、俺と古都音も二人揃って低頭した。
それから間もなく葵ちゃんと心結が起きてきて、みんなで朝食を摂った。食事中に様子を窺った限り、瑠海と礼奈は打ち解けているように見えた。昨日と比べれば一目瞭然で、もはや友人と呼べる関係になっているようだった。
食後、隙を見て瑠海にどう説得したのか尋ねてみた。
「それは秘密。女の子の心は複雑で繊細だからね。いくら先輩でも、それを暴こうとするのは感心しないよ」
口元に人差し指を立てて微笑んでいた。
瑠海と礼奈は親に対する感情という点で分かり合える余地は十分にある。きっと通じ合うものがあったのだろう。
とりあえずはそう納得するしかなかった。
「この調子で葵ちゃんと心結ちゃんにも分かってもらうから、明日の朝は期待しててね」
礼奈は普通とは言い難い人だから、一晩でどうにかなるのも分からなくはない。しかし、葵ちゃんは違う。ここ十日ほどで特殊な経験こそしているけど、それまでは普通の子だったはずだ。いや、普通の子だからこそ、礼奈より容易に何とかなるのか?
もう俺には何が何だか分からんな……。
期待半分、不安半分でその日を過ごし、八月十日の朝を迎えた。
「お兄さん、古都音さん、おめでとうございます」
「……おめでとう」
葵ちゃんが悲喜こもごもといった複雑な微笑みを浮かべる隣で、心結は陰りのある面持ちで呟くように言ってきた。
俺も古都音も「ああ」とか「うん」などと頷くので精一杯だった。
「今だから言いますけど、わたしもお兄さんのこと、好きでした。今も好きです。でも、古都音さんが相手でしたら、諦められます。……いえ、ごめんなさい、もう少し気持ちが落ち着いた頃には諦められると思います」
葵ちゃんの話し振りは存外に明るく、言葉に反して吹っ切れているのが伝わってくる。俺を見つめる視線にぶれはなく、嫉妬や憎悪といった負の感情は見られない。
「ですから、それまではお兄さんのこと、まだ好きでいさせてください」
「まあ、すぐに切り替えられるものでもないだろうしね……うん、構わないよ」
「あ、でも、お兄さんがわたしの気持ちに気付いて、わたしを諦めさせるために瑠海さんに彼女の振りをしてもらおうとしたことは、ちょっと酷いなと思ってますから」
むっと可愛らしく睨まれたけど迫力は全然なく、どこか冗談交じりな仕草だった。だから俺もあまり気負わず応じることができた。
「ごめんね、穏便に済ませたくて」
「はい。それもお兄さんなりの優しさ、ということにしておきます。心結ちゃんの言うとおり、お兄さんは何だかんだで優しい人ですからね」
葵ちゃんに無理をしている様子はなく、その言動には清々しさすら感じられる。昨日はどこか余所余所しい雰囲気があったけど、今は以前までのような親しみを向けてくれていた。
あまりにもあっさりしすぎていて、驚きを通り越して拍子抜けだ。
心結の方は昨日とあまり様子は変わらないけど、それは無理もないことだと納得できる。葵ちゃんの両親が亡くなったのは十日前のことだけど、心結の方はまだ五日前のことだし、幼い弟も亡くしている。それに優子ちゃんの件もあった。だから心結からすれば、こんな状況で色恋沙汰に現を抜かしている兄と今この状況に呆れていてもおかしくはない。
「先輩、古都音さん、これでもう人目を気にせずイチャついても大丈夫よ」
「そうか。それはともかく、ありがとな」
「あ、その、なんか色々……気を遣ってくれて、どうもありがとう」
何はともあれ礼を言うと、古都音もおどおどしつつ頭を下げている。
古都音は瑠海に対して思うところが多々あるだろうけど、悪い奴じゃないことはこれで分かったはずだ。今後、仲良くまではなれずとも、少なくとも毛嫌いしたり避けるようなことはしないだろう。
瑠海は気の抜けるような笑みを浮かべて「どういたしまして」と軽く頭を下げ返してから、全員の顔を見回した。
「まあ、二人のためだけでなく、わたしたちのためでもあるからね。しばらく一緒にやっていくなら、わだかまりはなくして仲良くした方がいいに決まってるでしょう?」
「ああ、そうだな。その通りだ」
今後、世間がどうなっていくにせよ、仲間として結束することは俺と古都音のみならず、全員にとって意義のあることだ。協力し合えるのであれば、それに越したことはない。礼奈も葵ちゃんもそれを理解できないほど馬鹿ではなく、理性より感情を優先するほど子供でもないということだろう。
当初、あれだけ頭を悩ませたのが馬鹿みたいだ。
あのタイミングで瑠海と再会できたのは天の配剤に違いない。
「じゃあ、朝食にするか」
全員で囲む食卓の雰囲気は昨日より格段に和やかだった。みんな一切の憂いなく和気藹々とはいかないまでも、重苦しさはなく、気を抜ける食事だったことは間違いない。随分と久々に美味しく腹を満たせたように思う。
喫緊の問題は片付いたし、とりあえず一安心だな。