39 瑠海
廊下にある死体にはみんな何も言わぬまま、リビングに入った。
この家は俺の一人暮らしとはいえ、四人掛けの一般的なダイニングテーブルは一応置いてある。これまで最大でも三人しか座ったことのないそこに、瑠海以外の女性陣を座らせた。俺はソファの前からオットマンを持ってきて、そこに瑠海を座らせようとしたところ、首を横に振られた。
「これからの話の内容的に、わたしは立ってた方がいいかなって。だから先輩座って」
俺は何も言わずオットマンに腰を下ろした。
瑠海がここにいるということは実家もとい家族から逃げてきたわけで、こうして再会した以上は俺と合流するつもりのはずだ。しかし、古都音たち四人の瑠海に向ける眼差しはお世辞にも友好的とは言えず、今この場には妙な緊張感が漂っている。これをどうにかしないことには歓迎されないと思っているのだろう。
それは先ほどと違って眼鏡を掛けていることからも分かる。表情に気怠さはなく引き締まり、目蓋も開ききって口元にも緩みはない。生真面目さが窺える顔付きだ。こうして改めて見ると、かなりの美形であることに気付かされる。ただ、そこに礼奈のようなクールさを感じられないのは体型と髪のせいだろう。
背丈は葵ちゃんより少し低く、百五十センチ台半ばといったところだ。古都音ほどではないにしても小柄な方と言える。特に痩せても太ってもいないけど、胸元の膨らみは立派な曲線を描いており、小柄でも存在感がある。肩より少し長い程度の髪はふんわりと柔らかそうな質感の割に赤いメッシュが入っているから、ゆるふわな雰囲気の中に言い知れぬ鋭さが見え隠れしている。そのせいか、瑠海の印象は眼鏡の有無――表情でだいぶ変わる。
「さて、まず言っておくとね、わたしは他に行く当てがないから、最低でもこれから世間が落ち着くまでの間は先輩と一緒させてほしいと思ってるの。先輩、いいかな?」
「……ああ」
「微妙な間があったね。まあ、分かるよ。どうやらわたしはあまり歓迎されない感じだからね」
全員を見回しながらの言葉は責めるような口振りではなかったけど、礼奈以外は視線が泳いだ。瑠海もそれに気付いたのか、軽く肩を竦めてから俺に向き直ってきた。
「だから聞いておきたいんだけど、先輩の本命ってどの子かな?」
「……何の話だ?」
「先輩、そうやって誤魔化そうとするのはやめようよ。初対面のわたしでも、みんな先輩のこと大なり小なり好きなんだなってことくらい分かるよ。それに先輩のみんなを見る目を見れば、誰が本命かもだいたい見当は付くしね」
こいつ、どういうつもりだ。
睨みを利かせても、瑠海は怯んだ様子も見せず、今後の生死すら左右しかねない重要かつデリケートな問題に踏み込んでくる。
「それでも、先輩の口からちゃんと聞いておきたいの。誰が先輩の本命?」
「…………」
「ふふ、だんまりね。雄弁は銀、沈黙は金って言うけど、ここで沈黙は悪手よ?」
言われるまでもなく分かっている。
本命などいないなら、いないと答えれば済む話だ。
それはこの場の全員が気付いているはずで、テーブルの四人は固唾を呑んでいるように見える。瑠海はその中の一人に微笑みかけた。
「先輩の親友さんは……あなたね、桐本古都音さん」
「な、なんで名前、知って……?」
「前に先輩のスマホの着信画面見えちゃって、それでね」
俺は瑠海に対して古都音のことはほとんど何も話していない。せいぜい幼馴染の女の親友がいるという程度で、名前や外見や性格については問われても答えなかった。スマホに古都音の写真は入っていないはずだから、俺が寝ている隙に盗み見ることも不可能だ。
なのになぜ分かるんだこいつは……。
俺の幼馴染で古都音って名前なら、せいぜい中学生にしか見えない金髪碧眼の女はまず最初に除外する選択肢のはず。
「あなたが先輩の本命よね。先輩は親友って言ってたけど、あなたに向ける目だけ他とは明らかに違う。どう見ても友達を見る目じゃない。けど一線を越えた関係って感じもしない」
「……瑠海、お前は何がしたいんだ?」
「それはもちろん、先輩への恩返しよ」
即座に断言してきた。そこに後ろ暗いところは感じられず、眼差しも声も真剣だ。
「わたしはみんなの事情を何も知らない。まだ桐本さん以外の名前すら知らないし、先輩とはどういう関係でどうして一緒にいるのかも予想くらいしかできない。けど、先輩が困ってることは分かるの」
「そうか、お前の気持ちは有り難いけど、気遣いは無用だ」
「と言われても、通すべき筋はあるからね」
「いいや、お前が気にするようなことは何もない。全ては俺の意思で、俺の責任だ」
「そういうところよ、先輩」
瑠海はこれ見よがしに溜息を吐いてから、呆れたように苦笑した。
「先輩のことだから、いつかは桐本さんにわたしとのことを話すでしょ? でも先輩って変なところで不器用だし、先輩からの話だけではたとえ理解はされても納得はされないよ。わたしは先輩の本命さんに、先輩が不当に責められるようなことにはなってほしくないの」
「あっくん……昨日言ってた黙ってたことって、この人が関係する話?」
「……ああ、そうだ」
不安げな古都音からの視線に堪えかね、目を伏せて頷いた。
古都音との関係が変化する前なら未だしも、今の古都音に瑠海を会わせたくはなかった。瑠海が今こんな話をしているのは、俺のそんな内心に気付いたからかもしれない。
「桐本さんにとって重要な結論から言うと、先輩にはわたしを抱いてもらってたの」
「だ、抱く……って、それは、つまり……交尾したってこと……?」
頼むから交尾とか言うな……。
恐る恐るといった口振りで問われた瑠海は、苦笑いを零しつつはっきりと頷いた。
「まあ、そうね。セックスしてもらってたの」
「――――」
惚けたように固まる古都音の姿は直視に堪えなかった。まるで意識が宇宙かどこかにでも飛んでいるような様子は、誰がどう見ても放心状態だ。
「もらってたということは、恋人関係にはなく、何か事情があったのですか?」
「うん。わたしの一方的な事情ね」
古都音とは対照的に、全く動じた素振りのない礼奈に頷きを返して、瑠海は古都音のみならずテーブルを囲んでいる四人全員を見回した。
「興味ないかもしれないけど、聞いてほしい」
関係のない葵ちゃんと心結と礼奈に説明する必要はあるのかと思ったけど、今後行動を共にする彼女らに疑念や敵意は間違っても持たれたくないのだろう。玄関でやらかしたからな。現に三人とも興味がなさそうには見えない。
いや、待てよ……まさか、興味を持たせるためにわざとやらかしてみせたのか?
「でもその前に、飲み物でも用意した方が良さそうね」
瑠海は未だ硬直する古都音を申し訳なさそうに見て、キッチンに向かった。
■ ■ ■
瑠海は実家を出た後、一度自宅マンションに戻ってこの家の鍵を回収するついでに、必要そうなものも取ってきていたようで、紅茶のティーバッグを持ち込んでいた。瑠海は紅茶派だけど、俺はコーヒー派だからこの家にはコーヒーしかないことは分かっていたのだろう。
俺と瑠海の二人でコーヒーと紅茶を用意した頃には古都音の硬直は解けていたけど、虚な顔で「やっぱり幼馴染は負ける運命なの……?」などと呟いていた。
全員がそれぞれのカップに口を付けて一息吐いたところで、立ったままの瑠海が口火を切った。
「まあ、そんなに大した話でもないんだけどね」
手にしたカップの中に視線を落として、何気ない口振りで続ける。
「わたし、二年くらい前まで父親に犯されるのが日常でね。それで頭おかしくなっちゃって、自殺しようとしたの。駅のホームから飛び降りて電車に轢かれようとしたんだけど、そこで先輩が止めてくれてね」
予想外の話だったのだろう。礼奈以外の三人は唖然とした顔で瑠海を見つめている。
「そんな感じで出会って、どうして死のうとしたのか事情を話したら、先輩が彼氏の振りして父親を脅してくれて、わたしが安心して暮らせるようにしてくれたの」
思わず口を挟みかけたけど、堪えた。
瑠海の話は簡潔な分だけ聞き手に美化して伝わる節があり、おそらくそれは狙ってやっている。ここで同情してもらえれば仲間として受け入れてもらいやすくなると踏んでいるのだろう。その程度の計算はする奴だ。
「父親に先輩と別れたって思わせるわけにはいかなかったから、登下校はなるべく毎日一緒にして、週一で泊まってもらってたの」
実際の俺はただの善意から瑠海を助けるような真似をしたわけではなかった。その身の上に全く同情しなかったと言えば嘘になるけど、半分以上は俺のエゴからの行動だった。
俺が悲運の少女を颯爽と助け出したような美談では決してない。
「でも先輩、登下校中に手を繋ぐくらいで、泊まるときはわたしを襲うどころか自分からは指一本触れようとしなくて……わたしはそれが嬉しくて、何も返せないのが申し訳なくて、苦しかった」
女性陣からの視線を感じたけど、俺はコーヒーを飲むことで気付かぬ振りをした。
「だから抱いてほしいってお願いしたの。たまに父親に犯される悪夢を見ちゃうから、先輩で上書きしてほしいってところもあって、それを理由に泣き付いた」
瑠海の話し振りは淡々としていて、表情も落ち着いており、お涙ちょうだいの雰囲気は全くない。それが逆に真に迫った身の上話に聞こえて、俺が何も知らなかったら思わず理解を示して同情してしまっていただろう。
「先輩はお願いを聞いてくれた。その優しさに甘えて、これまでずるずるとやってきた。最近はもう苦しさとかはなくて、ただ好きな人に抱いてもらえる喜びしかなかった。けど、こうして先輩と桐本さんが両想いなところを見ちゃったからには、これ以上の迷惑は掛けられないからね」
瑠海は自嘲的な笑みを湛えると、カップをテーブルに置いた。
「桐本さん」
真っ直ぐに見据えられた古都音は一瞬たじろいだ様子こそ見せたものの、ぐっと口元を引き結んで、目を逸らさず見つめ返している。
「後で先輩から詳しい話を聞いても、先輩のこと悪く思わないであげて。わたしが先輩の優しさに付け込んだのが悪いんだから、もし恨むならわたしにしてほしい。わたしは先輩のこと大好きだからね。桐本さんが先輩を不当に責めるっていうなら、わたしは責任を感じて、可哀想な先輩のことを慰めたくなっちゃうと思う」
あまり古都音に圧を掛けないでほしい。
そう思いながらも、有り難い援護だと考える自分もいた。
古都音が理屈抜きの誠意を求めていることは理解しているけど、俺としては感情よりも理屈を優先したいのが正直なところだった。古都音の気持ちを優先して、その身を危うくするなど、本末転倒というものだ。
仲間からの理解を得られやすくなり、結果として古都音を守りやすくなるなら、瑠海の存在は好都合だ。おそらく本人もそれを察している。
「まあ、あなたと先輩の間に入り込む余地はなさそうだけど、わたしは身体だけの関係でも全然構わないと思ってるからね。わたしは先輩に命も心も救われたから、先輩のためなら何だってするし、何だってできるよ」
古都音は涙目になりながらも、視線は逸らさない。先に逸らしたのは瑠海の方で、しかしそれは他の三人に目を向けるためだった。
「あなたたちも、お願いだから馬鹿な考えは起こさないでね。先輩と桐本さんの仲を裂くような真似をするなら、わたしはそれに対処しなくちゃいけなくなる。どういう事情で先輩と一緒にいるのかは知らないけど、二人を祝福できないなら先輩の側から離れてほしい」
臆面もなく告げるその声に険はなく、むしろ柔和さが感じられたけど、それが逆に不気味で危険な気配を漂わせていた。
礼奈は思案げに目を伏せ、葵ちゃんと心結は気圧されたように顔を強張らせている。
「――なんて、偉そうなことを言ってしまったけど、今後どうなるにせよ、しばらくは一緒に行動することになるから、よろしくね」
にっこりと笑ってそう締めくくると、眼鏡を外して俺の方を向き、ウインクしてきた。
どうやら俺は瑠海のことを侮っていたらしい。
再会して早々に俺の抱える問題を見抜き、実に的確なフォローをしてくれた。何事も如才なくこなす奴だとは思っていたけど、異様なまでの洞察力の高さとそれを活かした立ち回りには驚きを通り越して危うさを覚える。瑠海が仲間として行動を共にしてくれるのを心強いと思う一方で、どうにも嫌な予感というか不穏さを感じてしまう。
瑠海が俺を後ろから刺すようなことはない。その点は全く心配していない。たぶんこいつは俺が死ねと言えば死ぬだろう。もはやそういう関係になってしまっている。それを以前は厄介に思っていたけど、今は好都合だ。
しかし、だからこそ、瑠海が古都音や葵ちゃんたちを陥れる可能性を否定できない。こいつは俺のためという名目さえあれば、本人も言っていたように、何でもやってのけるだろう。宇宙人主催のデスゲームの信憑性が高まれば高まるほど、その傾向は強くなるはずだ。
今後は瑠海が暴走しないように目を光らせておく必要がある。
「あ、自己紹介してもらっていいかな?」
眼鏡のない瑠海の顔に生真面目さは微塵も窺えず、声には独特のゆるさがある。脱力するように膝立ちになって、テーブルに両腕と顎を載せている。
みんな最初は戸惑った様子だったけど、ぽつぽつと自己紹介が始まり、終わる頃には先ほどまでこの場に漂っていた張り詰めた空気はだいぶ和らいで、そうと見て取れるほどの警戒心はなくなっていた。
■ ■ ■
結局、水着を買いに行くのは中止した。
瑠海は水着の話を聞くと「いいね」と二つ返事で賛成したけど、みんな瑠海との出会いですっかり気勢を削がれてしまっていたし、俺も仲間の理解をどう得るのかという問題解決の糸口は瑠海のおかげで一応見付かった。それに何より、礼奈が「やはりやめておきましょう」と言ったので、帰ることにした。
俺は目的の物とついでに食料を幾らか回収し、葵ちゃんも自宅で何やら回収した後、SUVに戻って帰路に就く。一時間前は通れた道が事故車で塞がっていたため、少し回り道をしたところ、ガソリンスタンドに数台の待機列ができている場面に遭遇した。
ここ数日の移動中もガソリンスタンドは幾つも見掛けていたけど、そのうち営業しているところは半分程度で、どこも行列ができていて給油は店員がやっているようだった。おそらく精算システムか何かの不具合で、従来の方法で給油できなくなっているのだろう。
まだガソリンは優に半分以上は残っていたけど、せっかくだし念のため給油していくことにした。
「だいぶ高くなってるけど、これって合法なのかな?」
瑠海が後部座席で他人事のように呟いた通り、看板に表記されたガソリン価格は以前の数倍に跳ね上がっていて暴利そのものだった。しかし、十一日の九時以降は今より更に高騰するかもしれないし、そもそも供給が止まって各ガソリンスタンドの貯蔵分も払底するかもしれない。それまでは今のところもう外出する予定はないから、給油できるときにすべきだった。
引火しやすい燃料が大量にある場所で行列に並ぶのは少し不安で落ち着かなかったけど、二十分ほどで何事もなく順番が回ってきた。給油は敷地の端の方にある古びた簡素な給油機で行われ、一台二十リットルまでという制限が設けられていた。
無事に給油できた後、ガソリンスタンドから見えていたコンビニに行ってみた。駐車場は空で、コンビニ内にも人影は見られないけど、明かりは点いている。今更何か買えるとは思っていないけど、今朝も新聞が入荷したのかどうかだけ店員に聞いてみたかった。
女性陣は車内に待たせて一人で入店しようとしたところ、コンビニのドアは開かなかった。何枚か手書きの張り紙がしてあり、ざっと読んだ限り内容はこうだ。
八月三日の深夜に強盗に入られた。飲食物などは入荷してもすぐに売り切れてしまい、一日のほとんどが開店休業状態になっている。入荷時間は平時と異なり予測ができず、客に質問されても答えられない。そこで防犯とより多くの客に飲食物を販売するため、営業時間を制限する。午前八時と午後八時に開店し、どちらも先着順での販売で、売り切れ次第閉店とする。一人あたり食品と飲料は一点ずつの購入に限る。新聞も一人一部のみ、その他の生活雑貨なども同様に購入制限が設けられている。
張り紙をスマホで撮影してから、車に戻った。瑠海に何が書かれていたのか尋ねられたので、スマホを渡した。声に出して読んでもらい、全員に情報を共有させる。最近はこの手の世情に触れる機会が全然なかったから、みんなも詳細を知りたいはずだ。
コンビニは全国どこにでもある身近な存在で、よほどの田舎者でない限りは誰にとっても社会情勢の鏡となり得る。経済や物流や治安の影響をもろに受けるから、コンビニの現状を見れば世の混乱がどの程度なのか推し量りやすい。
運転中、先ほどとは別のチェーン店のコンビニにも寄ってみたところ、そこは営業していて店内にも入れた。しかし商品棚は空っぽで、生活雑貨品なども全滅だ。唯一、書籍類は僅かに残っていた。店内には店員の格好をした中年男性が一人いるだけだ。
空っぽの棚を掃除していたその店員――店長らしき男に新聞や飲食物の入荷について尋ねてみた。
「あー、新聞ね、夕刊は半分以上来なくなったけど、朝刊は結構来ますね。まあ時間はいつも通りだったり遅かったりまちまちですけどね。食品についてはレジ前に書いてあるの見てください」
レジカウンターに設置された立て看板の内容は先ほどのコンビニと似たようなものだった。入荷の時間も量も不安定で、販売は先着順、購入制限あり。支払いはもちろん現金のみだけど、この店はお釣りも出ないという。つまり店内には今、ほとんど現金がない状態なのだろう。だから強盗を恐れず開店しているのかもしれない。
その後はどこにも寄り道せず、何事もないまま、父さんの家に帰り着いた。みんな帰宅早々それぞれの部屋に入ってしまった。瑠海にはリビング横の和室を使ってもらうことにして、俺は古都音のいる部屋に移るつもりだ。
現在は十七時前で、まだ夕食までには間がある。二人分の茶と菓子を用意していると、和室から瑠海が出てきた。荷物の整理は後回しにして、まずは話を聞きたいのかもしれない。
「心結ちゃんと葵ちゃんの二人以外、女の子同士の仲はあまり良くない感じね?」
「まあ、会って間もないしな。とりあえず、何があってここにこうして集まってるのか、簡単に説明しておく」
二人分の麦茶をダイニングテーブルに置き、菓子はいるか聞くといらないと言われたので、そのまま向かい合うように席に着いた。
あまり時間を掛けたくなかったこともあり、詳細は省いてこれまでのことを話していった。瑠海は途中で口を挟んだりせず、眠たげな目を見開くこともなく聞き終えると、他愛ない雑談のときのようにのんびりと口を開く。
「そっか、かなり大変だったみたいね」
「詳しい話が気になるなら、みんなから聞いてくれ」
本人の許可も得ず、彼女らにとってトラウマになりかねない事件の話を事細かにするのは気が引けた。瑠海もその点は弁えているのか、あるいは興味がないのか、「うん、そうする」と気怠げな様子で頷いている。
それがあまりにも普段通りの反応すぎて、少し探りを入れてみることにした。
「お前、俺が怖くないのか?」
「え、急にどうしたの」
「俺は人を助けるためとはいえ、もう四人殺してる。自分で言うのもなんだけど、異常だろ」
「先輩が普通じゃないことなんて、今更でしょ」
この非日常が始まるまでの俺は、瑠海に対しても常識的に接してきたつもりだ。少なくとも、ここ数日ほどのような明らかに逸脱した行為はしていない。せいぜい変態クズ野郎を脅迫したくらいだ。
反論すべきか逡巡している間に、瑠海はしみじみとした口振りで続けた。
「それにね、わたしは先輩の家で四日も死体と過ごしてたのよ。先輩の家と、お隣の葵ちゃんの家にも死体があって、置き手紙の内容からも一人は先輩が殺したことは間違いないなと思ってたし、これまでに殺したっていう四人とも女の子を助けるために殺したのよね。怖がるどころか惚れ直しちゃうよ」
微笑まれながら熱っぽい眼差しで見つめられた。
その反応で確信できた。
マンションで話しているときから予感はしていた。
俺を待つためとはいえおっさんの死体と何日も過ごしておいて、以前と変わらぬ様子でいる。それは明らかな異常だ。複雑な家庭環境とそれによる性的暴行に晒されて、瑠海の精神は確かに歪んでいる部分はあったけど、死体や殺人に対してここまで達観した態度を取れるほどではなかったはずだ。
「……お前、あのクズ殺したのか?」
「うん」
何でもないことのように頷いていた。
しかし、俺はその反応に忌避感を覚えず、むしろすんなり受け入れて納得すらできた。
「そうか、最初からそのつもりで実家行ったんだな」
思わず呟くと、対面の少女が「ふふ」と可憐な笑みを零した。そこに気怠さはなく、心からの純粋な喜びが溢れ出たかのようで、それだけ見れば純真無垢な乙女と思えただろう。
「先輩ならわたしが言い出す前に気付いてくれると思ってた。わたしのこと理解してくれてて嬉しいよ、ありがとね」
「…………」
「でもね、何も殺す気満々だったわけじゃないのよ。通信障害になる前に電話したとき言ったと思うけど、お母さんと妹がいれば何もされない可能性は十分あると思ってたの。あいつも血の繋がった本当の子供との生活で改心してるかもしれなかったしね。だから、あいつが襲ってこなければ、わたしも殺すつもりはなかったの。でも、あいつは寝込みを襲ってきた」
親子であるか否か以前に、未成年に対する性的暴行は重罪だ。警察沙汰になれば加害者は全てを失うことになる。奴は良くも悪くも小物だったから、俺たちの脅迫に屈した。
脅迫に際しては、後々のことを考えて瑠海にも一緒に立ち向かわせた。瑠海の彼氏という存在は強力な抑止力になるけど、瑠海自身に反抗の意思があると相手に理解させなければ、問題は根本的には解決しないし、いつまでも俺が後ろ盾になるのも面倒だと思った。
今回の電波ジャックに端を発する非常事態に際して、瑠海は実家に帰った。いくら母親に心配されたからって、何日も寝泊まりした。その行動を奴はどう捉えたのか。
――瑠海はあの彼氏と別れ、前代未聞の社会状況に不安を覚えつつも頼れる当てが他にないから、この家に戻ってきた。彼氏と別れただけなら瑠海は反抗するだろうけど、通報できず外出も危険な今なら自分に逆らえない。
奴がそのように認識するだろうことは瑠海も分かっていたはずで、その上で奴を試したのだろう。
「先輩のやり方で学んだから、ちゃんと部屋にカメラ仕掛けて、あいつが襲ってわたしが抵抗する様子はばっちり残しておいたよ。枕の下にナイフを用意してたのは、非常時だから警戒してたって言い訳できるしね」
つまり瑠海はこの非常時を好機として捉えたということだ。奴が改心したのかを見極め、していなければ殺す。もし人類バトロワが真実であれば、奴の死が生存に繋がることにもなり、一石二鳥だ。
「母親と妹はどうした?」
「襲われたから抵抗したら殺しちゃったって言ったら、お母さん発狂してたね。それで妹も泣いちゃって、面倒だったから放ってきちゃった」
それを酷いとは思わなかった。
家族に対する瑠海の感情を考えれば、無理もない行動だ。
「妹はともかく、お母さんはいい気味だったね。自業自得よ。全ての元凶のくせに、娘が夫に犯されてることに見て見ぬ振りをして、自分はちゃっかり夫と仲直りして、新しい子供と幸せそうにしてたんだもの。わたしを心配してたのも、いい母親として振る舞うことで周囲と自分にそう思わせたかっただけだろうしね」
嘲笑する姿からは罪悪感など微塵も伝わってこない。
瑠海は一度目を閉じて一呼吸置くと、一転して不安そうな目を向けてきた。
「半分だけとはいえ血の繋がった妹を放ってきたこと、先輩は失望した?」
「いや、べつに」
血縁になかったとはいえ赤子の弟を物理的に放り投げた俺にどうこう言う資格はないし、言うつもりもない。俺は瑠海の妹を写真でも見たことはないから、思うところなど何もない。
「そっか、ならいいかな」
瑠海はこちらの気が緩むような笑みを見せると、グラスの縁を指でなぞり始めた。
「ところで、念のため確認しておきたいんだけど、先輩は今この家にいるみんなを味方にしたいのよね? 警察に対する証人にしたいってだけでなく、宇宙人の言う生存競争を戦い抜く場合に備えるためにも」
「まあ、そうだな」
「これ以上人数が増える予定はないのよね?」
「ない」
確信はなかったけど、仲間が多すぎると逆に動きづらいだろうから、もう増やさないと決意するためにも断言しておいた。
瑠海は俺の返答を受けて満足げに頷いている。
「そっか、それなら何とかなりそうかな。六人なら多すぎず少なすぎずでちょうどいいし、みんな性格は悪くなさそうだし……うん、さすが先輩。人徳ってやつね」
「見え透いたお世辞はやめろ」
「お世辞じゃないんだけど……まあ、とにかく、そういうことなら味方の結束についてはわたしに任せて」
覇気のない声で言われてもいまいち説得力がなかったけど、瑠海なら何とかしてくれそうな気はする。少なくとも俺と古都音が動くよりは希望が持てる。
「さて、と。それじゃあ、わたしはまず礼奈さんと話をしてみるね。母親を殺した人となら分かり合えそうだし」
瑠海は麦茶を飲み干して席を立つと、コップを流しに置いて、すたすたとリビングを出ていく。かと思いきや、直前で足を止めて振り返ってきた。
「先輩も早く本命さんのところ行ってあげて。きっと先輩が説明しに来てくれるの待ってるよ。というか、普通はまず真っ先に本命さんにわたしのことを詳しく説明すべきで、こうしてわたしと話すのは後回しにするものよ」
「ああ」
俺としても最初はそのつもりだった。しかし、二人きりでも怪しまれないリビングで瑠海と込み入った話ができる機会はあまりないだろうし、古都音との話は少し時間が掛かりそうだったから、すぐに話が終わる瑠海を優先することにした……ということを説明するのも野暮なので、黙っておく。
「そういうところよ、先輩」
瑠海は俺の考えなど分かっていると言わんばかりに微苦笑した。
「先に話してくれたのは嬉しいけど、今後はわたしのこと後回しにしてくれないと、先輩が困ることになるのよ。気を付けてね」
「そうだな、そうする」
「三人のフォローは上手くやっておくから、そっちは何も心配しないで、先輩は本命さんと思う存分イチャイチャしてていいからね。そっちの方がわたしもやりやすいし」
「……ああ」
俺は頷きながらも罪悪感を禁じ得なかった。
だから瑠海が今度こそリビングを出ていこうとしたところで「待ってくれ」と思わず呼び止めてしまった。とはいえ、遅かれ早かれきちんと言葉にしなければならないことだったから、いい機会だと割り切れた。
「瑠海、一応きちんと伝えておく。俺はお前の気持ちには応えられない」
「うん、知ってるよ」
「それでも協力してくれるのか?」
「もちろん。先輩の幸せが、わたしの幸せだからね」
一切の迷いなく言い切って、瑠海は廊下に出ていった。
笑顔であんな返しをされては、罪悪感が余計に強くなってしまう。
静かなリビングに溜息の音はやけに大きく響いた。