37 哀悼
敵と呼べる存在――外部から滝家に侵入した者はいない。
それを葵ちゃんに再三確認してから、階段を駆け下りた。
まずは一階廊下を見回すと、リビングに繋がるドアが半分開いて美女が廊下の様子を窺っていた。その手には抜き身のナイフが握られ、整った顔は怪訝そうに強張っている。刃に血は付いていない。
「礼奈、俺たち以外には誰もいないな?」
「はい。少なくとも私は見ていません」
やはり危険はなさそうだったので、仰向けに倒れている優子ちゃんの側に跪き、様子を見る。首元に大きな裂傷が見られ、床には大量の赤い液体。その色味からまだ真新しい血液なのは間違いなかったけど、既に首元からの出血は止まっていた。他に目立った外傷は見当たらない。
念のため、愕然としたような顔のまま動かない身体に触れて、呼吸と脈拍を確認する。結果は予想通りだった。明らかな致命傷に加えて出血多量の状態では、心肺蘇生など無意味なのは火を見るより明らかだ。
「…………」
耳に痛いほどの静寂の中、深く長く息を吐く。
突然すぎる死で、上手く受け止めきれない。父さんや龍司の死を知ったときよりも困惑が大きい。こうして実際に親しい人の死に顔を見ると、どうしようもなく心が萎える。対処すべき喫緊の脅威がないともなれば尚更だ。
何でもいいから、奮い立つ理由が欲しかった。
しかし、状況を見る限り、おそらく復讐すべき仇敵はいない。疑わしい相手は二人いるけど、疑念だけであの子たちには敵愾心を抱けないし、どこか冷静な自分がこれは事故だと直感している。
「お、お兄ちゃん……優子ちゃんは……?」
恐る恐るといった足取りで心結が階段を下りながら、震える声で尋ねてきた。
俺は大きく深呼吸をすると、優子ちゃんの見開かれた両目を閉じさせて、一言。
「死んでる」
心結は階段を下りたところで立ち尽くし、呆然と優子ちゃんを見下ろしている。
俺は腹に力を込めて立ち上がり、後を追うように下りてきた葵ちゃんに目を向けた。
「何があった?」
「えっと……客間で、心結ちゃんと二人で話してたら、突然優子さんが入ってきて……刀を持ってて、色々言いながら、心結ちゃんに襲い掛かって……」
葵ちゃんは動揺も露わに、それでも考えを整理するような口振りで、ゆっくりと話し続ける。
「それで、わたしたち、抵抗して……優子さんが倒れた隙に、二人で逃げ出して、お兄さんのところに行こうと、走って階段を上がって……それで……」
そこで言葉を切り、隣に立つ心結の顔を窺うように見始めたので、俺もそちらに視線を向ける。当人は注目されていることに気付いたのか、はっと息を呑んで、慌てたように俺たちを交互に見た。
「あ……ち、違うの、わざとじゃないの……」
ゆるゆると首を横に振る姿からは、この状況を受け止め切れていないことが察せられた。
「階段で転んじゃって、そしたら、すぐ後ろに優子ちゃんがいて……怖くて……思わず蹴っちゃって……それで、優子ちゃん……落ちていって……」
心結はそう言いながら優子ちゃんの遺体に視線を戻した。そのまましばし無言で固まった後、思い出したように付け加える。
「で、でも、こんな、こんなことに……なるなんて……思わなくて……」
「……そうか。だいたい分かった」
二人の説明に不自然なところはなく、表情や声色も演技とは到底思えない。
殺そうとした者が返り討ちに遭った。
これはそれだけの話だ。
「二人とも怖かっただろう。怪我はないか?」
少女たちは自分の身体を見下ろし、互いに友人の姿も確認している。どちらも出血は見られず、筋を痛めているような様子もない。心結は膝や肘が少し赤くなっているように見えるけど、その程度だ。転んだときに軽く打ったのだろう。
「心結」
呼び掛けると、びくりと全身を強張らせて怯えたような顔を見せた。しかし俺は気にせず、その硬くなった肩に優しく手を置いた。
「これはお前のせいじゃない。お前は自分の身を守っただけだ」
「で、でも……あたし……」
「仕掛けたのは優子ちゃんだ。心結に殺意がなかったことは分かってるから、大丈夫だ」
気に病むな、とまでは言えなかった。
それは無理難題というものだ。
心結が蹴ったことで優子ちゃんは階段から転げ落ちた。そしてその拍子に刀が自分の首に当たってしまい、それが致命傷となって死亡した。自衛のために起きた偶発的な事故死とはいえ、直接の死因は心結の行動によって生じた。
まともな人間なら少なからぬ罪悪感を覚える状況だ。これが医師を志していた少女ともなれば、故意でなくとも人を死に追いやってしまった衝撃は相当なものだろう。俺の場合は故意だったから、理解できるなんて口が裂けても言えないけど、今の心結の心境はその片鱗くらいなら察せられる。
「責任があるとすれば、優子ちゃんの望むままに刀を渡した俺だ」
心結に対する慰めでも何でもなく、それは厳然たる事実であり本心だった。
「だから心結は何も悪くない。いいな?」
「…………」
「いいな?」
「……う、うん」
睨みを利かせて無理矢理言わせた格好だけど、それでもいい。葵ちゃんや礼奈の見ている前で俺の言葉に頷いた。その事実が大事だ。
自衛のための殺人で必要以上の罪悪感に苛まれてしまえば、今後間違いなく足手纏いになる。こうなった以上は優子ちゃんの分まで心結を守らなければならないのだから、当人が最低限の自衛すら不可能な状態になられては困る。
「二人はリビングの方で休んでてくれ」
心結も葵ちゃんも素直に俺の言葉に従い、リビングに向かった。礼奈は二人が入った後に一つ頷きを寄越してからドアを閉めた。
俺は階段を上がり、龍司の部屋に刀を置いてから、トイレのドアをノックした。
「古都音、もういいぞ」
「……何があったの? みんなは大丈夫?」
警戒する小動物のような動きでトイレから出てくると、不安そうに見上げてきた。
「優子ちゃんが心結を襲ったみたいだ」
「え……ぶ、無事、なんだよね?」
先ほど古都音は階段前で座り込む心結の姿を見ているからか、その問いに緊張感はあまりなかった。
「心結は無事だ。でも、優子ちゃんが階段から落ちて、死んだ」
「…………え?」
口を半開きにして固まる古都音を連れて階段を下りた。
しばらくの間、古都音は惚けたように立ち尽くして遺体を見続けた後、その場にくずおれて、優子ちゃんの手を取って泣き始めた。震えるその背をさすってやると、俺の胸にしがみついてきて、更に泣いた。
古都音も優子ちゃんとは最近ほとんど会っていなかったはずだけど、幼馴染だ。久々に会っても以前と変わらず姉のように呼んでくれて嬉しかっただろうし、これから助け合っていくのだと思っていたはずだ。実際、俺がそうだ。俺のことを知っても受け入れてくれて、変わらず兄のように慕ってくれて、少なからず嬉しかった。龍司の分までこれから仲良くやっていこうと思っていた。
その矢先に、これだ。
優子ちゃんの遺体の側で泣いている古都音を抱きしめていると、龍司も死んだのだという実感がようやく湧いてきて、自然と涙が流れた。
俺は一人っ子として育ったけど、姉代わりに古都音がいて、弟代わりに龍司がいて、妹代わりに優子ちゃんがいたから、全然寂しくはなかった。幼い頃は毎日のように遊んだ。優子ちゃんはいつも俺たちの後ろをついてきていて、昔は強気な反面泣き虫なところもあったから、俺と古都音でよくあやしてやっていた。龍司はそれにうんざりしていて、泣くなと妹を叱って更に泣かせ、古都音に叱られていた。
二人との思い出が涙と共にとめどなく溢れてきて止まらなかった。止めようとは思わなかった。昨夜心結に言ったとおり、これは前進するために必要なことだ。幸い、俺には悲しみを共有して一緒に泣いてくれる奴がいる。世界で最も大切な人間だ。優子ちゃんがいなくなった今、俺が守るべき対象は減り、その分だけ古都音を守りやすくなった。
そう考えれば、今回のことも受け入れて…………いや、無理だ。
受け入れられるはずがない。
古都音を攫おうとした敵との対峙を俺は楽しんでいた。
だから茉百合さんの死を受け入れられた。
安藤との駆け引きも楽しめた。
だから父さんたちの死を受け入れられた。
武内との戦いも楽しかった。
だから龍司の死を受け入れられる。
最悪の結果になっても、その過程が充実していれば、ただ失ったわけではなく得るものはあったのだと、そう自分を納得させることができる。無理矢理にでも割り切ることができる。
しかし、優子ちゃんの死は、そこに至るまでの過程で何も得るものがなかった。
だから……今回のことは、まだ受け入れられない。せめて何かしらの教訓を得るなり決意を固めるなりできなければ、こんな現実を認めることはできない。このままでは優子ちゃんは犬死にだ。この子は何のために死んだのだ。これでは優子ちゃんがあまりにも哀れで報われない。
優子ちゃんの死には意味があった。
そう思えなければ、俺は納得できないし割り切れない。
古都音を守りやすくなったことは事実だけど、それは優子ちゃんが心結を殺していても同じことが言えた。優子ちゃんは心結を殺そうとするほど憎んでいたのだから、心結の死でも代替可能なことを優子ちゃんの死で得られたものとするなど、優子ちゃんに対する侮辱であり、その死に対する冒涜だ。同様に、優子ちゃんが死んだことで心結が助かったなどと考えるのは論外だ。
生憎と今はまだ何も思い付かないし、それによる困惑と何より死別の悲しみが強くて、とても冷静に思索できない。後で落ち着いたら、改めて考えなければ……。
だから、そのためにも今は、今だけはしっかりと悲しんでおこう。後々まで引きずって面倒なことにならないように、存分に死を悼んでおく必要がある。そして優子ちゃんの死を受け入れられるだけの何かを見出せたとき、この子に永遠の別れを告げるのだ。
それまでは上手く走れそうになかった。
■ ■ ■
俺も古都音も涙が乾き、一息吐いたところで、腕時計を見てみた。
そろそろ十四時になろうかという頃だった。
ベッドに入ったのは九時頃だから、睡眠時間が足りていないけど、寝直す気にはなれない。そもそも、もう滝家では落ち着いて過ごすことができなくなってしまった。
とりあえずリビングに移動し、古都音と礼奈に優子ちゃんが死ぬに至った経緯を説明した。心結も葵ちゃんもまだ少し戸惑いの色が見られたけど、冷静に話ができそうな状態ではあったから、より詳細に何があったのかを――優子ちゃんが何か言っていなかったかを聞き出した。
『約束通り死ね』
『あざといのよクソビッチ』
『あきにぃにはあたしとことねぇがいるのよ』
『これ以上あんたに奪わせない』
などということを喚きながら刀を振り回していたようだ。
心結と葵ちゃんは枕や座布団を投げつけたり、座卓を盾にしたり、手斧で威嚇したりして抵抗し、最後は葵ちゃんが優子ちゃんにタックルをかまして押し倒し、その隙に客間から逃げ出したらしい。相当な恐怖と緊張を強いられたことだろう。
だからこそ、心結は階段を上りきる直前でつまづいて転んでしまった。そして迫る凶刃に怯えて反射的に足が出てしまい、優子ちゃんが転落。その際に白刃が首に当たったことが致命傷となり、絶命。
やはり心結にも葵ちゃんにも非は一切ない。
「なるほど。やはりそんなところでしたか」
礼奈は話を聞いて思案げに呟き、俺たちに頭を下げてきた。
「申し訳ありません。聞こえてきた声や物音から、優子さんが心結さんを襲っていることは察しが付いたのですが、あまりに激しそうな様子でしたので、仲裁に入ろうか躊躇ってしまいました」
「いや、無理もない。下手に介入してたら怪我では済まなかったかもしれないんだ。礼奈は自分の身を守っただけなんだから、止めに入らなかったことを責めるつもりはない」
今回の件、礼奈には責任どころか関係もない。
ひとえに俺の油断が招いたことだ。
なまじ幼い頃から知っていただけに、まさか優子ちゃんが本当に心結を殺そうとするとは夢にも思っていなかった。安藤が死んで心結たちが悲しんでいたとき、優子ちゃんは心結に対して殺害を予告していたのに、俺は一時の激情だと見做して問題視しなかった。そもそも優子ちゃんに人を殺すことなんてできないだろうと高をくくっていた。刀が欲しいと言われたときも、少なくとも今の段階では積極的に人を殺そうとするとは思えなかった。
しかし、現在は盤石な社会秩序による安全な日常の範疇にはない。秩序と常識が崩壊しかけている非日常だ。普通の女子高生だった葵ちゃんが手斧で男を惨殺したように、どんな人間もタガが外れて暴走し得る。いや、暴走というより適応と言うべきなのか……いずれにせよ、相手が女子供でも甘く見ることはできない状況だ。
とはいえ、昨夜のことがなければ優子ちゃんも今回の暴挙には及ばなかったと思う。下着姿の心結が俺に泣き付く様を前にして、優子ちゃんがどう思ったのか、そこを見落としてしまったのが致命的だった。心結のことを淫売の娘だのクソビッチだのと罵り、俺に色目を使うなと激怒していたのを確かに見聞きしていたのに……迂闊と言わざるを得ない。今朝にでも昨夜の心結がなぜ下着姿で泣いていたのか、きちんと説明していれば、こんな惨事は起きなかっただろう。
優子ちゃんはただ有言実行しただけとも言える以上、未然に防止する余地は十分にあった。それなのに……。
「あの、お兄さん、大丈夫ですか?」
「……ああ、悪い、ぼーっとしてた」
無自覚のうちに思考に溺れていた。考えが顔に出てしまっていたかもしれない。葵ちゃんのみならず、他の面々からも心配そうな、あるいは不安そうな視線を感じた。
今は他にやるべきことがあるし、この状況で俺がネガティブな感情を表に出すのは非常によろしくない。一度目を閉じて鋭く息を吐き、心の乱れを抑え込んだ。
「心結、自宅の鍵は持ってるか?」
「え……あ、うん」
「よし、じゃあこれから父さんの家に移動する。みんな荷物を纏めてくれ」
相談もなしに一方的かつ突然に告げても、誰からも異論が出ることはなく、出発準備に取り掛かってくれた。まあ、誰だって死人が出た家で過ごすのは御免だろうからな。礼奈以外はお世辞にも機敏な動きとは言い難かったけど、あんなことがあったばかりでは仕方ない。
俺は荷造りをすぐに終わらせて、優子ちゃんの遺体を彼女の部屋のベッドに運んだ。現場を保存しようか少し迷いはしたけど、どうせ刀は血糊を落として回収するのだ。それに何より、そのままにはしておきたくなかった。
遺体に布団を被せて冷房を全開にしてから一階に戻り、飲食物を纏める。それが終わる頃には女性陣の荷造りも終わっていて、全員でSUVに積み込んで、逃げ出すようにして滝家をあとにした。
移動中は誰も何も話さなかった。
車内は沈鬱な空気で満たされていたけど、それを晴らそうとは思えなかった。
■ ■ ■
何事もなく父さんの家に着いた。
駐車場には軽自動車が一台駐まっていたけど、もう一台分は空いていた。父さんの車は本家のガレージに駐めてあったから、これは分かっていたことだ。跳ね上げ式の簡素な門を開けてSUVを駐車した。
この家にはこれまで何度か来たことはあるけど、家の中にまで入るのは初めてだ。滝家に移動したときも行ったように、まずは俺が一人で車を降り、屋内を見て回った。留守中に誰かが住み着き、待ち伏せしていないとも限らない。手間は惜しまず警戒すべきだった。
幸い、侵入された痕跡すらなく何も問題はなかったので、全員で家に入った。郵便受けには何通かチラシやらハガキやら封筒やらが入っていたけど、新聞はなかった。心結に聞いたら新聞は取っていないらしい。
父さんの家は滝家より小さく狭いものの、一軒家としては普通の大きさだ。五人でも狭苦しさは感じそうになかった。心結と葵ちゃんは心結の部屋に、礼奈は夫婦の寝室に、古都音は父さんの書斎を使ってもらうことにした。俺は一階リビングの隣にある和室だ。ベビー用品ばかり置かれていたから、赤子のための部屋にしていたのだろう。
心結によると、俺が泊まりに来たときのために予備の布団が一組あるとのことだったので、それは古都音に譲り、俺はキャンプ用品で寝床をこしらえた。早速そこに横たわり、眠れずとも目を閉じて、心身を落ち着かせていく。
しばらくすると誰かが部屋に入ってきて、何も言わず俺のすぐ隣に寝転んだ。わざわざ目を開けて確認するまでもなく、足音や息遣いなどの気配から相手の判別は付いた。
「古都音、昨日は悪かった」
色恋が絡む話なんて今は全くする気になれなかったし、古都音も死別の情を共有したかったから側に来たのだろうけど、優子ちゃんはつい今朝方に俺と古都音には仲良くしていてほしいと言っていた。
だから、予定通り話をする。
せめてもの手向けに、しなければならない。あの子が最後に見せた優しさに応えることが、この哀情を乗り越える切っ掛けになってくれるはずと信じる。
「お前の言うとおり、俺はヘタレだ。お前の優しさに甘えて、ずっと親友でいようとした」
「……うん」
「男女の仲になって、もし関係がこじれでもして疎遠になったらと思うと、怖かったんだ。俺にとって本物の関係は、もうお前との友情しかなかったから」
結城家の面々との関係は俺が実子ではないと判明したことで破綻した。爺様も、父さんも、俺も、それまでに築き上げてきた家族という関係を表面的に維持しただけで、俺たちは互いを受け入れ合おうと努めなかった。それどころか距離を置いた。
爺様も父さんも当時は困惑が大きくて心的余裕なんてなかったのだろうし、ひとまず距離を置いて冷静になりたかったのかもしれないと、今なら思える。けど、当時の俺は彼らの心情を斟酌することなどできず、母との殺し合いもあり、自分を含む世界全てがひっくり返ったような衝撃を受けていた。そしてそれが不可逆な変化であることを否応なく悟らされて、絶望した。
それでも心が折れなかったのは、古都音がいてくれたからだ。
結城家とは血縁関係にない、幼馴染。最も古くからの最も親しい友人。ある意味、家族と同等以上の存在だった。俺は古都音との関係だけは不変だと信じたくて、誰かに吐き出したくもあって、爺様に口止めされていた事情を全て話した。そして古都音は俺の信頼を裏切ることなく、全てを受け入れてくれた。
それだけでなく、殊更に親友として振る舞うようになった。一人称と俺への愛称が変わったのがいい例だ。
「俺が入院する前の一年くらい、お前露骨に……何ていうか、秋波送ってきてたよな」
「うん……あっくん高校生になったら、さすがに恋人作りそうだと思って、その前にわたしに告白させなきゃって焦ってたよ」
「お前その頃にはすっかり引きこもってたからさ、俺の方は誰かに古都音をとられるみたいな焦りとかはなかったんだよな。自然とそうなる流れに任せればいいかって思ってた」
「やっぱり……そんなことだろうと思ったよ」
古都音が異性として本気で俺に好意に向けていると気付いたとき、俺も古都音が好きなのだと自覚した。関係性が変化することに対して、不安以上の期待を持てた。とはいえ、自分の好きが本当に恋愛感情なのか、いまいち自信がなかった。それに十年来の幼馴染を殊更に異性として見ることには戸惑いがあったから、ゆっくり慣らしていこうと思っていた。
俺のそうした心情に察しが付いていたからこそ、古都音は俺が変化を望まなくなったことにも敏感に気付いたのだろう。そして自分の気持ちに蓋をして、俺が求めていたものを与えてくれた。
ずっと閉じていた目を開けて、隣を見た。少女にしか見えない小柄な女は俺と同じように仰向けになって、ぼんやりと天井を見ていた。
「今更だけど、俺の親友でいようとしてくれて、ありがとな」
心からの感謝を込めて伝えると、青い瞳が顔ごとこちらを向いて、微笑んだ。
「どういたしまして」
もし恋人になって喧嘩して、別れることになったとき、また以前のような友人関係に戻れるかは分からない。でも親友であれば、たとえどれほどの大喧嘩をしても必ず仲直りできる。互いを親友として想い合っている限り、その絆は何があっても変わらず死ぬまで続いていくと、少なくとも俺はそう信じていられた。
しかし、こうして現実と向き合っている今ならよく分かる。
古都音は俺がそう信じられるように、甘く優しい夢を見せてくれていたのだ。
俺が折れてしまわないように、頑張って支えてくれていた。どこかでそう認識しつつも、それに気付かぬ振りをして、あまつさえ当たり前のように古都音の献身を享受して、ここ三年ほどの間を平穏に過ごしてきた。
「昨日のことで、古都音の気持ちも、お前が何を求めているのかも、分かってるつもりだ」
あの口付けで否応なく目覚めさせられた。
もはや夢を見させてやる余裕はないのだと、これ以上なく理解させられたし、古都音の現状にも改めて気付かされた。古都音は家族も私物も家も財産も全てを理不尽に奪われ、失った。更には突然現れた美女に競争相手と宣言され、幼馴染の少女が強姦されて傷心した姿を目の当たりにした。今の古都音が持っているもので、奪われるのを恐れるものなど、もう俺と純潔くらいしかないだろう。
「俺も同じ気持ちだし、応えたいと思うけど……今はまだ、少し待ってくれ」
誤解させないように、すぐ側にあった小さな手を握った。古都音は落ち着いた眼差しで俺を見つめて、無言で先を促してくる。
「正直、優子ちゃんの死をどう受け止めていいのか、分からないんだ。そんな状態で古都音とどうにかなっても、俺はまたお前に甘えかねない。だから、十日の夜まで待ってくれ」
「…………」
「それまでにきちんと整理を付けて、古都音が安心して頼りにできる俺になっておく。今度は俺もお前を支えてやりたいんだ」
「そっか……うん、分かった」
古都音は手を握り返してくると、やるせなさそうに微苦笑を零した。
「わたしも優子ちゃんのこと、まだまだ受け止め切れてないし……いくら今朝あんなこと言ってたからって、すぐあっくんとどうこうなろうって気にもなれないしね」
それは当然の反応で、予想通りでもあった。
優子ちゃんの件のみならず、この一週間色々なことがありすぎた。
お互い、現在置かれている状況を見つめ直して、思考と感情を整理する時間が必要だ。俺の場合は特に、葵ちゃんと礼奈をどうするかについて熟考し、決断しなければならない。
「でも、せめて、はっきりと言葉にはしておいてほしい。不安なまま待つのは辛いよ……」
心細さを感じさせる儚げな面持ちで言われては断れるはずもない。
俺は上体を起こすと、繋いだままの手を引いて、古都音も起こした。向かい合うように座り、見慣れた顔を真っ直ぐに見つめる。
思いがけず緊張しかけたから、軽く深呼吸を挟んで、告げる。
「古都音、好きだ」
「うん、ぼくも好きだよ」
古都音は淡く微笑んだ直後、苦虫をかみつぶしたような顔を見せた。
「……肝心なときにぼくって言っちゃった」
「やっぱ馴染んでるなぁ」
「笑いごとじゃないよっ、二十歳にもなって自分のことぼくとか言うなんて完全に痛い女だよ!」
一応そういう認識はあったんだな。
でも二十歳の女には到底見えないから問題はないだろう……と思ったけど、さすがにそれは口に出さない。代わりにもう一つの本心を伝える。
「俺は自分のことぼくって言う女、好きだけどな」
「う……それは、なんか卑怯」
「俺のためにそうなったわけだし、お前がぼくって言うの聞くと、申し訳ないと思うより愛を感じられて嬉しくなるな」
「そ、そんな唐突に、デレられても……」
そっちこそ、そんな急にしおらしい声で言いながらもじもじと身じろぎされると、なんだこいつ可愛いなとか思ってしまう。
……いや、思っていいのか。むしろ思うべきだな。
古都音を素直に可愛いと思う自分に戸惑ってしまう。
そもそも今の俺は明らかに情緒がおかしい。最初は半ば義務感で話し始めたのに、今はもう古都音との会話を楽しめている。優子ちゃんが死んで間もないというのに、笑えてしまっている。とても正気とは思えない。一方で、こうして自分の精神状態を疑える程度の冷静さもあって、もう何が何だか分からない。
そう自己分析できたせいか、ふと思い出した。
「あ……そういえば、実はお前に黙ってたことがあったんだった」
「え、また唐突に何?」
「いや、その……それは十日の夜に話すから、今はそういう話があるってことだけ覚えておいてくれ」
あまり話したくないことだから、思わず目を逸らしてしまった。
とはいえ、こうなった以上は俺が古都音の立場なら話してほしいと思う内容だから、きちんと伝えておく必要がある。それに今後もし瑠海と合流するようなことがあった場合、そのときになって明らかになれば、古都音は裏切られたと思うかもしれない。
「何それ怖い。そうやって予告して覚悟決めさせようとするとこが特に……あ、まさか……あっくん実はやっぱりお母さんが初恋相手で告白したけど断られて代わりに童貞卒業だけさせてもらったとかそんなエロマンガにありがちな幼馴染が負けヒロインにされる話……?」
こいつ、さすがに冗談だよな……?
それにしては声色や表情にそんな気配はなく、本気で不安がっているのが伝わってくる。たぶん古都音も俺と同じように、異常な状況で情緒が乱れ狂って正気を失いかけているのだろう。きっとそうだ。
「そんなわけないだろ。前半はともかく後半は茉百合さんと俺に対する侮辱だぞ。というか、やっぱりって何だよ」
「だってあっくん、お母さんのこと大好きだったじゃん」
「そりゃあ昔から世話になってたし、優しくて綺麗で包容力あって、実際素敵な人だったからな」
「や、やっぱり……」
「でもそれは母親としてって話だ。特にここ三年くらいは本当の母親みたいに見てたところあったと思うけど、茉百合さんをそういう目で見たことなんてないわ」
「なら初恋の相手は誰?」
「お前」
正直なところ確証はなかったけど、そう言っておくべきだと思った。
古都音はにやけそうになるのを堪えているような変顔をしている。
「……じゃ、じゃあ、黙ってたことって何?」
「今の馬鹿な話よりは大したことないから、安心してくれ」
とはいえ、当たらずといえども遠からずといった話だから、平静を装うのに集中力を要した。
これが女の勘ってやつなのかもしれない。
「えぇ……気になって夜しか眠れなくなる……」
「夜は眠れるのか。まあ、十日の夜は寝かさないつもりだけどな」
「え、何それ…………あっ」
理解が及んだのか、顔を赤くして黙り込んでしまった。
こちらも黙ってその様子を見つめていると、古都音はしばらく落ち着きなく視線を泳がせた後、囁くような声を漏らした。
「や、優しくしてね……?」
「ああ、もちろん」
古都音はちらりと俺を一瞥すると、堪えきれないとばかりに硬く目を閉じて、勢い良く立ち上がった。
「じゃっ、また!」
そそくさと逃げ出すように部屋を出ていった。
俺は再び寝床に横たわると、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。仄かに感じられる古都音の残り香に心地よさを覚えたけど、今後のことを考えると気が重くなってしまう。
ただでさえ優子ちゃんの死であまり余裕がないというのに、葵ちゃんと礼奈にどう対処するかという問題が生じてしまった。二人を仲間にしようと考えていたときは、古都音とこうなることなど全く想定していなかったから、これから考え出さねばならない。
溜息を吐いて、目を閉じた。
眠れる気はしないけど、とりあえず夕食の時間まで仮眠を取るとしよう。
冷静になって、慎重に行動しないと、今度は古都音が死にかねない。