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終末よ、生きる望みの喜びよ  作者: デブリの遺灰
The 3rd Beginning
34/43

34 斬殺


 八月五日。

 八時に起きるつもりだったけど、七時頃に目が覚めてしまった。他の面々も既に目覚めて寝床で暇を持て余していたようだったから、そのまま起床した。

 昨夜と同じく一人ずつ多目的トイレに連れて行き、朝の準備を済ませて、朝食を摂る。テーブル席は四人掛けだから、俺は心結のスーツケースを椅子代わりにした。

 女性陣はまだあまり打ち解けられていないのか、食卓には心結と葵ちゃんがぽつぽつと話す程度の会話しかなく、静かに食事が進んでいく。


「夜の間に色々考えてたんだけどさ」


 そんな中、ふと古都音がぽつりと呟いた。


「誘拐犯をこちらから襲うって選択肢も、一応あると思うんだよね」


 みんな食事の手を止めて、この場で最も小柄な年長者を見つめている。


「もし結城家に夜襲がなかったら、誘拐犯は霊園の駐車場にみゅーちゃんの身柄を回収しに来る。そこを襲って敵を捕まえて、りゅーくんや仲間の居所を吐かせることも不可能じゃない」

「ですが、当然そこは誘拐犯も警戒しているのでは?」


 古都音の隣に座った礼奈はそう問いを投げてから食事を再開した。


「うん。たぶんどこかに隠れ潜んで、現場を監視すると思う。本当にみゅーちゃんを連れて来たか、連れて来た奴がちゃんと帰ったか、周りに怪しい奴はいないか。そういうのを確認してから現場に姿を現わして、車を回収していくことになるだろうね」

「昨日、カーナビで確認したけど、指定された霊園はかなり大きい。霊園内は車道が網の目みたいに入り組んでるし、霊園外に繋がる道は東西南北にある。人手があれば未だしも、数人では誘拐犯の逃走ルートを全て潰したり待ち伏せしたりすることはできない」


 俺は思案げな素振りを意識しつつ、否定的な意見を口にした。

 すると古都音は気まずそうに俯けていた顔を上げて、俺と目を合わせてくる。


「けど、人手不足は相手も同じはずだから、向こうの採れる手も限られてくる。そもそも誘拐犯は監視こそすれ、襲われる可能性は低いと思ってるはずだよ。何しろ安藤の死体を送り付けて脅しているわけだからね。下手な真似をすれば確実にりゅーくんが殺されることはこちらに十分伝わってると考えてるはず」

「つまり、何が言いたいんだ?」

「ぼくが誘拐犯なら、二人で監視して、片方がみゅーちゃんの乗った車を回収して走り去るまで見届ける。だから、車の回収に来た誘拐犯を襲えば、残る監視役に見られて、りゅーくんの死は確定的になる」


 古都音には本当に悪いと思うけど、俺の口からは言い出しにくいことだった。何しろ心結に協力してもらうには、心結の俺に対する信頼が必要不可欠だ。下手に俺から提案すれば、それを損なうことになってしまい、本末転倒になる恐れがあった。

 だから俺以外の誰かに言い出してもらうのが肝要で、それはこの場で最も年上であり龍司の幼馴染でもある古都音が適任だった。礼奈では俺が頼んだのではないかという疑念を抱かれかねない。


「ですが、心結さんを渡さなくても、滝さんの死は確定的になりますよね」


 それに礼奈なら客観的な立場で上手い具合に相槌を打ってくれると思っていた。予想通りだ。


「うん。だからりゅーくんを生きたまま助け出すには――まだ生きてると仮定しての話だけど、誘拐犯を襲ったその場ですぐ尋問して、りゅーくんの居所を吐かせて、相手の監視役より先にりゅーくんのもとに駆け付けないといけない。しかもりゅーくんの見張り役がいるだろうから、そいつもどうにかしないといけない」


 こうして人の口から告げられると、相当な難事だと改めて理解せざるを得ない。


「はっきり言って、針の穴に糸を通すようなものだね」


 俺を見つめながら告げる古都音の口振りからは、言外に『本当にやるのか』とでも言われているように感じられた。

 しかし、俺の心は既に決まっている。


「そうだな。でも……このまま何もしないよりかは希望が持てそうだ」

「お兄さん、まさかやる気なんですか?」


 葵ちゃんが目を見張って俺を見てきた。その眼差しからは驚愕と同じくらい非難の色が見え隠れしている。


「このままだと龍司は確実に死ぬ。かといって心結を素直に引き渡すなんて論外だ。でも今の策なら僅かとはいえ希望がある」

「けど、今の話を聞く限り、心結ちゃんは誘拐犯の車に乗らないといけないんですよね? 車の回収に来た誘拐犯を襲うとき、もし返り討ちに遭ったら、心結ちゃんは連れ去られてしまいます。危険すぎますよ」

「そうだな。失敗すれば俺は殺されて、心結も連れ去られて、龍司も確実に助からない。最悪の結果に終わる可能性もある」


 ハイリスクハイリターンの一発勝負だ。

 だからこそ、面白い。

 ベットするのは俺の命だけだから、躊躇いはない。心結は酷い目に遭わされるだろうけど、死ぬわけではないのだ。俺が死んでも古都音は結城家か滝家に保護してもらえるはずだから後顧の憂いもない。


「それなら、どちらも得ようとしてどちらも取りこぼすより、心結ちゃんだけでも確実に助かる選択をすべきではないですか?」

「ああ、分かってる。もう誘拐犯のことなんて無視して、このままやり過ごすのが無難だ。それは分かってるんだ。でも俺にとって、龍司は物心付く前からの付き合いで、血縁にはないけど弟同然の存在なんだ」


 本心からの想いを言葉にのせた。

 心結の協力を得るには、情に訴え掛けるのが最良のはずだ。


「だからどれだけ危険でも、龍司を助けられる望みがあるなら、そこに俺の命を懸けることに躊躇いはない。でも心結にまでそれを強いることはできないのも分かってる。それでも、無茶を承知で頼みたい。心結、少し考えてみてくれないか?」

「…………」


 心結は俺の視線を受けて、可愛らしい顔を強張らせている。

 申し訳ない気持ちは湧き上がってくるけど、翻意するほどではない。


「昨日も言ったとおり、俺はお前を敵に渡すつもりはないし、誰にも傷付けさせるつもりもない。最悪、敵と相打ちになってでもお前のことは守る」


 生死不明の弟を助けるために、妹の死を許容するなど愚行に過ぎる。しかし、敵が心結を殺そうとする可能性は低い。殺されるなら俺で、まず真っ先に攻撃されるのも俺だろう。

 虚言を弄しているわけではないから、俺は堂々と心結を見つめながら告げることができる。


「べつに断っても、俺のお前に対する気持ちは何も変わらない。おじさんや優子ちゃんから責められても、俺はお前の味方だ。でも、心結も危険を冒してまで龍司を助けようとしてくれたって事実があれば、おじさんたちに対する面目も立つと思うんだよな」


 今の心結の心配事は、希薄な関係の従兄の生死より、今後の自身の立場だろう。このまま何もしなければ龍司の死が確定し、心結は滝家から恨まれることになる。昨日、優子ちゃんに散々言われたことで嫌でもそれを理解させられたはずだ。

 いくら情に訴え掛けても、利がなければ、なかなか人は動かない。

 心結にも得るところがあるとなれば、協力してもらいやすくなる。


「まあ、それもこれも、結城家に夜襲がなければの話だけどね」

「そうだな。とりあえずはそれを確認しに行くか」


 所詮、今の話は理想論であり、希望だ。

 前提条件である龍司生存の可能性がなくなれば、何の意味もなくなる。

 とはいえ、これで種は蒔けた。

 芽が出る望みは十分にあるだろう。

 問題は実がなるかどうかで、それは俺の実力と運次第だ。




 ■   ■   ■




 朝食を終え、九時までのんびりと過ごした後、道の駅を出発した。

 今日も運転は礼奈に任せ、俺は助手席で車窓からの眺めをぼんやりと見ながら道中を過ごした。出発する直前にカーナビのテレビを確認したところ、まだ殺人シーンの放送は続いていたけど、視聴し続けることはせず、画面は地図情報に戻した。後方のテーブル席では心結と葵ちゃんが例の件について相談していたけど、俺は口を挟むことなく聞き流しておいた。

 街の様子は昨日とさほど変わりはなく、特に危なげなく結城家の前まで来ることができた。

 

「駐まっていませんね」


 キャンピングカーは門脇にある来客用の駐車場前で一時停止した。

 礼奈に言われるまでもなく、三台分の駐車スペースに車両は一台も見当たらない。門の様子も昨夜と特に差異は見当たらず、破壊的な痕跡などは皆無だ。


「え……あの、お兄さん、駐まってないってことは……?」

「……全滅している可能性が高いだろうな。礼奈、裏手に回ってくれ」


 少なからず心は乱れたものの、この場に長居するのはまずいとすぐに思い至れた程度には冷静さを保てている。礼奈も葵ちゃんとは対照的に落ち着いた様子で頷いている。

 塀沿いにぐるりと回り込ませ、路肩に駐車させた。キャンピングカーの車高は塀より高いから、念のため蔵の影に隠れる位置にしておいた。敵にこちらの到着を感付かれれば、奇襲の優位性を失ってしまう。


「……………………」


 車内が沈黙に支配される中、大きく深呼吸しつつカーナビの時計で現在時刻を確認すると、十時過ぎだった。念のためスマホでも確認してみたけど、誤差はなかった。

 おじさんは九時以降に家の前を通って確認してくれと言っていたから、おじさんに駐車する気があれば、とっくにされているはずだ。おじさんは妻と娘に駐車の件を話して、自分の身に何かあった場合に備えただろうし、そうでなくとも駐車の件は葵ちゃん経由で父さんに伝えてある。滝家の面々が動けない場合は父さんや爺様が代わりに駐車したはずだ。

 にもかかわらず、駐車場は空だった。

 無論、こうなる可能性があることは重々承知していた。だからこそ駐車による合図のパターンを細かく決めておいた。とはいえ、実際に結城家が襲撃される可能性は低いと考えていたし、たとえ襲撃されたとしても駐車による合図もできないほどの損害を受ける結果になることは、まずないだろうと思っていた。

 だから、この状況には少なからず絶望してしまう。

 安藤が殺された時点で龍司の死は半ば覚悟していたとはいえ、まだ希望はあったのだ。しかし、敵が襲撃してきたことでその希望すら持てなくなった現状は受け入れがたいものがあるし、それどころか昨夜結城家にいた面々も死んでいる可能性を思うと、現実から目を背けたくなる。


「……これ、最悪のパターンだよ。あっくん、どうする?」


 震えた声に後ろを振り返ると、ただでさえ白い古都音の顔は血の気が引いて青白くなっていた。心結は絶句し、どこを見るでもない瞳は虚だ。葵ちゃんも顔を強張らせて立ち尽くしている。運転席の礼奈だけは普段通りのクールな面持ちで、動揺は見て取れない。この美女にとっては他人事だろうし、その冷淡さに嫌悪感は覚えない。むしろ頼もしい。

 現状のみで判断するのなら、おじさんだけでなく父さんたちも無事ではない可能性が非常に高い。というより、こうなった以上は彼らの死亡を前提に動くべきだ。

 そう考えると俺も動揺しかけたけど、見飽きるほどに見慣れた顔を見たことで、すぐに落ち着きを取り戻す。

 古都音の言うとおり現状は今回の一件における最悪のパターンではある。けど、俺個人にとっての最悪は古都音を失うことだ。だから桐本家で敵と対峙したときと現状を比べれば、動揺するほどの事態ではないことが分かる。それどころか、昨夜結城家を離れたことで古都音を守れたのだと考えれば安堵感を得られるし、復讐心を滾らせられる程度の余裕まで生まれてくれる。


「俺は中の様子を見てくる。みんなは車内で待っててくれ」

「あ、あっくん、それは危険! 超危険だよっ!」

「そうですね。もしかしたら誘拐犯が待ち伏せしているかもしれません。こうなった以上は警察に相談して、警官に中の様子を確認してもらうべきでは?」


 古都音は未だしも、礼奈にまで反対されるのは少し意外だった。いや、彼女は俺たちの中で最も客観的に状況を俯瞰できているはずだ。当事者意識の薄い立場からしても、結城家に踏み込むリスクは警察を頼るリスクを上回っていると判断したのだろう。


「危険なのは分かってる。けど、まだ人類バトロワ展開が絶対にあり得ないと決まったわけじゃないから、警察に身柄を拘束されるようなことは避けたい」

「いえ、暁貴さんではなく、心結さんです。心結さんは何も罪を犯してませんから、心結さん一人で警察に行ってもらえばいいのでは?」

「誘拐と殺人の重要参考人が未成年で、しかも世間がこの状況となれば、警察に保護されるはずだ。警察に事情を全て話すことになるだろうから、保護者として俺が名乗り出るのは不可能だし、通信障害で警察から他の親戚に連絡もできない。その状況で人類バトロワが真実だったとなれば、いやそうでなくても社会秩序が崩壊するような事態になれば、警官だろうと心結を犯すと考えるべきだ」


 常に最悪を想定しなければならない。

 桐本家の一件で痛感した教訓だけど、今回のことでも改めて身に沁みた。

 警官だろうと人間だ。生命の危機に瀕すれば自分が生きるために人を殺すし、社会秩序が崩壊すれば欲望を抑える意味を見失うだろう。真に高潔な精神の持ち主が皆無だとは思わないけど、少数派なのは間違いない。万策尽きた末でもなければ、窮地で赤の他人が助けてくれるなどと期待するのは愚劣の極みだ。


「なるほど……でしたら、桐本さんは誰も殺していませんし成人ですから、重要参考人ではあっても身柄は拘束されないのでは?」

「どんな理由があろうと、古都音を一人にするつもりはない」

「そもそも無理に中の様子を確かめる必要はないよ。そりゃあみんなの安否は気になるけど、キルゾーンになってるかもしれない場所に踏み込むリスクや警察に拘束されるリスクを冒すほどじゃない。もし誰か生きていれば、あっくんの家の郵便受けにでも手紙を寄越すよ」


 古都音は前のめりになって、運転席と助手席の間から上体を覗かせて力説してきた。


「もし誰か生きているとしたら、それは優子ちゃんと赤子の二人か、もしくはどちらかだけだ。もちろんその場合は囚われの身になっているだろうけどな」

「そ、それは……」


 不意を突かれたように言葉に詰まっている。

 こいつにしては頭が回っていないと思いかけたけど、すぐに無理もないと思い直す。古都音は幼い頃から結城家と交流があったから、爺様や婆様や父さん、そして優子ちゃんのことは親戚くらいの親近感を持っているはずだ。

 親しい人が亡くなっているかもしれない状況になれば、普通は冷静でいられない。


「誰も生きていないのか、何が起きたのか、確かめる必要がある。そして人質を取られていれば、助け出す必要もな」


 もし敵がいれば、父さんたちの仇を討つ好機でもある。そして優子ちゃんが囚われていれば、可能な限り助け出さねばならない。


「三十分経っても戻って来なかったり、見知らぬ誰かがこの車に接触してきたら、礼奈の家に行ってくれ。三日経っても俺が現れなかったら、死んだと思ってくれていい」

「あっくん!」


 古都音が悲鳴めいた声を上げながら肩を掴んできた。か細い手は小さく震え、潤んだ瞳は不安げに揺れている。俺の死を恐れていることが嫌でも伝わってきて、この期に及んで迷いが生じたけど、刀の鞘を掴んで心を落ち着ける。

 古都音に寄り添うことを何よりも優先するのであれば、葵ちゃんのことは見捨てていたし、礼奈とも関わっていなかったし、心結を連れ出したりもしなかった。今更立ち止まるくらいなら、最初から走り出してなどいない。


「心配するな古都音、俺は死なん」


 何の根拠もない空虚な言葉だと我ながら思ったけど、そう言い残して俺は刀を手に助手席を降りた。非力なはずの手を振り払うのは思った以上に難しかった。

 追い縋られて泣かれでもしたら覚悟が揺らぎそうなので、すぐ車体後部に回って、備え付けられたはしごで屋根に上がる。屋根のソーラーパネルを踏んで割らないように端に足を掛け、塀の上に飛び移った。二メートルほどの高さがあるので、足腰を痛めないように慎重に地面に降り立つ。

 とりあえず一息吐いて、塀と蔵の間で軽く柔軟体操をしながら、現状について思索する。

 敵が結城家を襲撃する理由は心結の確保にある。口封じのための鏖殺おうさつというのもあるかもしれないけど、一番の理由は心結だ。ここから先は敵の殺害と同等以上に、優子ちゃんの救命を重視する必要があるから、今はその可能性が最も高いと考えざるを得ない。

 その仮定でいくと、不在の心結の代わりとなり得る優子ちゃんまで殺されていることはない。そして優子ちゃんを確保しても尚、敵が結城家に留まるとは考え難い。女を陵辱するなら、まず安全を確保するはずだ。敵は心結が一人で結城家を離れているとは考えず、最低でも一人は男が同行していると推測するだろうから、敵が十人以上なら未だしも最大でも三人しかいないのであれば、敵地で捕らえた女をその場で弄びながら敵の帰りを待ち受けるとは思えない。つまり敵は既に引き上げており、今まさに結城家に敵が潜んでいる可能性は高くない。

 しかし、もし優子ちゃんも殺されていれば、敵はまず間違いなく待ち伏せている。最悪を想定するなら、敵は父さんたちを殺す前に尋問して情報を引き出していると考えるべきで、でも駐車による合図を知らないことは間違いない。知っていれば、油断した心結が戻ってくるのだから、必ず駐車していたはずだ。つまり敵は正確な情報を持っておらず、結城家に心結がいない事実と不正確な情報から状況を判断することしかできていない。

 敵は警戒すべき怜悧さと残虐さを持ち合わせているため、おそらく赤子は無事だ。赤子は心結に対する最高の交渉材料であり、赤子の命を盾にすれば心結に何でも言うことを聞かせられる。それこそ股を開けと命じられれば、心結に逆らうことはできないだろう。

 安藤が殺される前に、俺が赤子を人質にして脅したことを敵に話していれば、敵は心結が不在なのは俺が攫ったからだと考える。敵は駐車パターンによる合図を知らないから、霊園に心結が現れると踏んで、赤子を連れて引き上げるだろう。俺の気が変わることを考えて、念のため結城家に残る可能性は否定しきれないけど、比較的安全に心結を確保できるあてがあるのに、いつ俺という敵が現れるか不明な場所に留まるとは思えない。それはリスクと釣り合わない。そもそも心結に固執することなく、優子ちゃんで妥協するかもしれない。

 とはいえ、これらは合理的思考に基づく推測だ。

 合田のおっさんのように、殺人を犯して女を確保したことで気が大きくなっている可能性は十分にある。冷静さを失い、リスクをリスクと思えない自信過剰な状態にあれば、どんな判断をしても不思議はない。

 もし敵が俺のことを知らなければ、逃げた心結は明日の正午以降――人質の受け渡し期限後に結城家に戻ってくると踏んで、敵は赤子と共に結城家に留まるだろう。他に心結を確保できるあてがない以上、夜襲を掛けるほどの奴らなら、その程度はするはずだ。

 つまり、今まさに敵が結城家に潜んでいるかどうか、断定はできない。判断材料が足りないから、推測することしかできない。そして分からないときは、より悪いケースを想定して動くべきだ。

 現状における最悪のケースは、優子ちゃんが人質に取られた状態で敵が待ち伏せしていることだから、その状況を前提に動く必要がある。

 思索と柔軟を終え、何度か深呼吸をしてから、抜刀した。

 鞘はその場に置き、足音に注意して歩き出す。広々とした裏庭に人気はなく、蝉のやかましい鳴き声以外に物音もしない。なるべく庭木に身を隠しながら母屋の横手に回り込み、まずは道場に向かった。

 道場の窓は割れて怪我をしないように、身体や竹刀が当たらない天井近くと床近くにある。屈み込んで地窓から道場内を確認してみるも、何もなかった。昨夜運び込んだ布団も、血痕も、窓が割れた形跡も、何もない。異常らしい異常は見当たらない。

 逡巡した末、ガレージに向かう。念のため警戒しつつ通用口の扉を開けるも、シャッターは閉じているので薄暗くて見通しが利かない。照明をつけて中を見回す。見覚えのない車両はない。父さんの車はあるので、病院から帰ってきたことは間違いない。車両の陰なども見て回り、ガレージ内が無人であることを確認しておいた。

 ガレージの照明を落としてから、母屋の玄関に向かった。前庭も裏庭も昨夜と変わらず雨戸が閉めきられていて、敵が母屋に潜んでいるとしても来訪者を常に警戒してどこからか監視していることはまずないだろう。それでも、玄関戸の向こう側で敵が待ち伏せている可能性を考慮しつつ玄関前に立つ。

 きちんと施錠されていることを確認してから鍵を開け、後ずさる。玄関は左右にスライドさせる引き分け戸なので、刀の切っ先を戸の隙間に差し入れ、念のため左手でナイフを構えて、まずは右側の戸をゆっくりと静かに開けていく。

 その矢先、僅かな隙間の向こうから物音が聞こえた気がした。

 逡巡も僅かに、右側の戸を一気に開けた。

 敵の姿はなく、玄関に並んだ靴は昨日見た覚えのあるもの――爺様や父さんたちのものしかなく、廊下の様子にも異常はない。敢えて物音を立てて左側の戸も引き開けて、玄関を全開にした。


「…………」


 耳を澄ませるも、屋内からは何も聞こえてこない。

 駆け足でその場を離れた。

 ガレージの通用口の扉を全開にして、ゆっくりと歩きながら自分の影の形を確認し、通用口から最も近い位置に駐められている俺のSUVの陰に身を潜める。

 先ほどの微かな物音、気のせいかもしれないけど、無視する危険は冒したくなかった。戸を開け始めてすぐに聞こえたことを考えると、敵の仕掛けた警報と見るべきだ。俺が桐本家でもやったように、おそらく糸か何かで仕掛けを施し、玄関戸が開くと何かしらの音が鳴るようにしていたのだろう。

 ガレージの通用口の扉は玄関前から見える位置にあり、扉は開けっ放しにしてある。敵は母屋のどこかで待ち伏せしているだろうけど、一向に誰も現れず声も聞こえない状況を不審に思い、玄関の様子を見に来るはずだ。そしてガレージに踏み入ってくることだろう。

 じっと息を潜めて待つ。右手に刀、左手にはポケットから取り出した鍵を持つ。自宅や龍司の家の鍵、SUVのスマートキーを束ねたもので、物音を立てるには十分な代物だ。

 警戒はしつつも、無駄に緊張しないために脳内で時間を数えて待つ。あれが警報だとすれば敵は心結や俺が現れるのを待ち構えるはずだから、すぐに玄関の様子見には現れないだろう。こちらはひとまず三千六百を数えるまでは待ち続けるつもりだ。

 長丁場を覚悟して間もなく、九百四十秒を過ぎたところで影が現れた。照明は点けていないため、現在ガレージ内の光源は通用口からの自然光だけだ。当然、誰かが通用口を通れば影が差す。

 静まり返ったガレージ内でも足音が全く聞こえないところからして、敵はかなり警戒していることが分かる。影は一人分だけで、ゆっくりと歩いている。照明を点けるかシャッターを開けるか、どちらかするだろうと思ったけど、スイッチの横を素通りした。敵は冷静ではないのか、ただの間抜けなのか、それとも何かの策か、判断が付かない。いずれにしても、敵は棒状の武器を構えているようで、その影の鋭利な輪郭からして、おそらく刀だ。爺様から奪ったものかもしれない。

 敵が適当な位置にまで来たところで、左手の鍵束を明後日の方へ放り投げる。

 静寂の中、やけに大きな物音が響き、敵が音源の方を向いて身構えた。その瞬間、俺は車の陰から飛び出しながら刀を上段に構え、標的へと一直線に迫る。


「――っ!?」


 敵が息を呑み、目が合ったときには、既に間合いだった。全く見覚えのない男は中段に刀を構えていたけど、剣術の心得がない素人であることは一目瞭然で、しかも刃先は明後日の方を向き、俺に身体の左側面を晒している。

 加減も躊躇もなく、刀を振り下ろした。

 左腕を大きく切り裂かれた敵が倒れる。すぐに追撃し、敵の喉に切っ先を突き込んだ。


「が――ぁ、は」


 敵は喘鳴めいた声を漏らしつつ、目を見開いてこちらを見上げている。間抜けにも倒れた拍子に柄から手を放しており、ゆらりと上がった右手が首元の刃に触れようとしたので、俺は手首を捻って傷口を広げてから引き抜いた。

 敵の右手がぱたりと落ち、沈黙した。

 残心を意識しつつ敵と通用口のどちらも視界に収まる位置に移動し、耳を澄ませる。外からは蝉の鳴き声しか聞こえず、動くものは何もない。

 三十秒ほど経ったところで一切の動きがないことを確認し、構えを解いた。刀身を見てみると、付着した血でぬめっている以外に変化はない。腕を切ったときに硬い感触がしたから骨に当たったはずだけど、刃毀はこぼれも歪みもない。ということは、それなりに上手く斬れたということだ。

 その事実に喜びを抑えられなかった。

 初めて刀で人を斬ったけど、力みすぎて自分の足を斬るようなミスもなく、想像通りに刀を振れた。間合いも程良く、きちんと物打ちで斬れた。刃筋も立っていたように思う。初めてにしては上出来だったはずだ。

 思いがけない高揚感に脳が痺れかけ、深呼吸をして気を沈める。微かに漂う血臭のおかげで、容易に冷静さを取り戻せた。まだ敵は最低でも一人はいる。感慨に耽るのは後だ。

 敵の刀を拾い上げて、状態を確認する。綺麗なものだ。柄と鍔の作りには見覚えがあり、まず間違いなくこれは爺様の刀だ。敵の腰に鞘はない。刃先から中ほどにかけて少し曇りが見られる。これは人を斬った痕跡かもしれないけど、確証は持てない。

 爺様の刀を床に置いた。

 ここで得物を持ち替えるようなことはしない。

 爺様曰く、血脂で切れ味が落ちるというのはデマらしい。きちんと検証されて証明もされているようで、俺も日本刀がそれほど陳腐なものとは思えない。爺様の刀は重さも長さも僅かに異なるから、実際に人を斬って手に馴染んできた得物を使い続けた方がいい。それでも念のため敵の服で刀身の血を拭っておいた。

 仰向けに倒れた敵は薄く目を開けたまま微動だにしない。脈拍を確認するまでもなく、死亡していることは確実だ。その風貌は日本人然としており、体格は俺より一回り小柄だった。年頃はどう見ても三十に届かない。こいつがジローだとすると、主犯格かつ最も厄介そうな敵であるイチローもとい武内はまだ生きていることになる。


「…………」


 そっと息を吐き、通用口を視界に収めたまま後ずさるようにして、鍵を拾った。それからガレージのシャッターを開けるスイッチを押し、すぐにSUVに乗り込む。

 俺が敵の立場なら、各個撃破を警戒して玄関の様子は二人で確認に行かせる。残り一人は人質の見張りだ。二人が玄関の様子見に来て、ガレージの中を確認しようと思えば、一人は外に待機させる。開けっ放しの扉など怪しすぎて、普通は罠を疑う。中に入ったところで後ろから不意打ちされるリスクを考慮し、仲間に外を見張らせるのが無難だろう。そしてガレージ内に入ったらすぐにシャッターを開け、外から二人でガレージ内の様子を窺う。

 だから当初はスイッチを押す寸前を狙って物音を立て、襲い掛かるつもりだった。しかし、敵は照明も点けずシャッターも開けず、割と物音を立てても通用口から中を覗き込む人影もなかった。つまり、おそらく見張りはいない。それどころか、敵は三人ではなく二人なのかもしれない。爺様や父さんたちがただで死ぬとも思えないから、その可能性は十分にあり得る。

 しかし確証はないため、俺が通用口から出てくるのを待ち構えている危険は無視できない。敵の思惑を外して様子を見たかったから、シャッターを開けてSUVに乗車してガレージを出た。運転席から見回す限り、周囲には誰もいない。

 いや、いた。


「大胆な奴だな、誘ってるのか?」


 全開の玄関戸の向こう、廊下の奥に二人の人影があった。一人は中年男性で、一人は少女だ。前者に見覚えはない。後者は目隠しと猿ぐつわをされているものの、髪の長さや体格からして、まず間違いなく優子ちゃんだ。

 優子ちゃんは車椅子に乗せられていた。首が項垂れていないから意識はあるはずで、おそらく拘束と移動のしやすさを兼ねて車椅子を使っているのだろう。この家に車椅子はなかったはずだから、あれは敵が持参したものだ。


「……なるほど」


 それが意味するところを殊更に考えるまでもなく瞬時に推し量り、腹を括った。

 間違いなく罠だ。

 それでも優子ちゃんを助けつつ敵を殺すには、そこに飛び込むしかない。虎穴に入らずんば虎児を得ず。敵の狙いが分かっていれば、正面から食い破ってやるのが最も勝機があり、面白くもなりそうだ。

 最大限に警戒しつつ、車を降りた。

 刀を片手に、真っ直ぐに玄関へと歩いていく。


「なあ、おい」


 玄関に足を踏み入れた直後、廊下の奥――二十メートルほど先から男が呼び掛けてきた。


「ジローとサブローは殺しちまったのか?」


 無言で土足のまま廊下に上がり、ゆったりとした歩調で前進する。背後への警戒は捨てることにした。敵の発言から、残敵は前方にいる一人だけの可能性が高いと判断できた。

 敵は車椅子の後ろに立っている。優子ちゃんはシャツ一枚だけの格好で、下は何も穿いていなさそうに見える。少女らしい華奢な両腕は車椅子の肘掛けに、両足は足置きのところで拘束されているけど、俺の声を聞いて激しく身じろぎし、何事か言おうとしている。生憎と猿ぐつわのせいで言いたいことは分からないし、目隠しで表情も定かではない。

 それでも、あれは間違いなく優子ちゃんで、負傷している様子もなく生きている。それさえ確信できれば十分だった。


「あー、こらこら嬢ちゃん、大人しくしろ、首が切れるぞ」


 敵は左手のナイフを優子ちゃんの首元に突き付けた。右手の方は見えない。手押しハンドルを握ってもいない。車椅子の影に隠れている。

 刀を下段に構え、敵の動きを読むことに意識を集中させる。


「兄ちゃん、その辺で止まれ。この子を死なせたくはないだろう?」


 彼我の距離が十メートルほどのところで言われた。

 無視して歩みを進める。

 玄関に通じる廊下は広く、俺や龍司の住むマンションの倍以上の幅がある。天井も高いため、刀を振るうのに何の支障もない。敵もそれは分かっているだろうに、堂々と廊下の真ん中に立っている。


「おいおい、脅しじゃないんだぞ? 龍司も殺しちまったんだからな」


 もはや敵の言葉に耳を貸す必要はない。

 機を捉え損なえば負ける。

 敵の右腕が――人体が動き出すには必ず予兆がある。目線、呼吸、筋肉、そして気。それは攻撃しようとする際、素人ほど顕著に現れる。いわゆる起こりだ。剣道において打突の好機の一つであり、つまりは隙だ。敵が爺様レベルの無拍子を会得している達人でもない限り、読み切れると信じる。

 驚懼疑惑きょうくぎわく四戒しかいに陥る愚はもう犯さない。桐本家で敵と対峙したときはそこが半端で至らなかったと今なら分かる。昨日、久々に道場に足を踏み入れ、竹刀を握り、爺様と打ち合ったおかげで、色々と思い出して感覚を取り戻せた。


「あー、そうか、分かった、降参だ降参」


 敵が左手のナイフをひょいっと斜め上に放り投げた刹那、俺も動いた。ゆったりとした歩調から一転、身を沈めるような前傾姿勢で一気に踏み込み接近する。高い放物線を描くナイフとは頭上で擦れ違い、右下に構えた得物の切っ先が床を掠める。


「――っ」


 敵は右腕をびくりと硬直させ、思わずといった動きで一歩後ずさる。車椅子の陰から敵の右手が現れたときには、俺は車椅子の真横に位置しており、敵を間合いに捉えた。

 膝が床に着くほどの低姿勢から跳び上がるようにして逆袈裟斬りを放つ。こちらから見て敵の右腰から左肩に掛けての一閃だ。深い手応えを感じた。

 背後でナイフの落ちる音がして、敵はひっくり返るようにして倒れた。敵の胸の中央やや左寄りに刀を突き立てる。肉を突き抜けて床板の硬い感触が返ってきた。すぐに抜いて一歩二歩と距離を取りつつ、敵の右手付近にある武器を蹴飛ばす。壁を背にして中段に構え、敵を含む周囲全てを警戒する。

 優子ちゃんが呻くような声を上げているけど、無視して残心を続けた。


「…………」


 敵の気配がないことを確信して、刀を下ろした。

 しかし、まだ気は抜かない。

 ひとまず優子ちゃんの目隠しと猿ぐつわを外した。唇の端が切れており、右の目元も少し青紫色になっている。何度か殴られでもしたのだろう。


「あきにぃ!」


 少女が悲喜こもごもな声で呼びながら涙目で見上げてきたけど、それに笑みで応じたりはせず、意識して顔を引き締めたまま尋ねる。


「優子ちゃん、まず確認させてほしい。敵は何人だ?」

「え……敵、は……三人いて、でも伯父さんが一人殺して……今は二人」


 優子ちゃんは気圧されたようにたどたどしく答えながら視線をさまよわせ、俺が手にする刀に目を留めている。


「そうか。なら、もう敵はいないな」

「……もう、大丈夫?」

「ああ。ガレージで一人、ここで一人を殺したから、敵が二人だけなら、もう大丈夫だ」


 跪いて刀を床に置き、手足を拘束する粘着テープをナイフで切り取った。腰元は紐で背もたれと結ばれていたから、それも外した。その間、優子ちゃんは後ろを振り返って男の死体を見つめていた。


「優子ちゃん、立てる? 外に車を待たせてあるから、とりあえず古都音たちと合流しよう」


 キャンピングカーを降りてから既に二十分ほどが経っているはずだ。無駄に心配を掛けさせたくないし、礼奈の家に行かれると少しの間とはいえ別行動になる。目的は果たしたのだから、これ以上古都音の側を離れるリスクは冒したくなかった。


「……あきにぃ」


 優子ちゃんはくしゃりと顔を歪めて、両目から涙を溢れさせた。


「みんなが……おとぉさんが、おかぁさんが……りゅーにぃがぁ……」


 俺の胸元にしがみつくようにして身を寄せ、嗚咽交じりの漏らしている。今は急ぎたかったけど無碍にもできず、抱きしめて背中をさすってやった。

 優子ちゃんは肩を震わせて声を上げて泣き出し、俺は無言でそれを受け止めた。そうしながら、壁際に落ちているものを見遣る。

 武器だ。それがクロスボウだと今ようやく理解した。

 俺の知るクロスボウより幅が狭くて複雑な形状をしているから、先ほどまで黒くてごつい武器としか認識できていなかった。それで十分だったし、見分ける余裕もなかった。

 敵が車椅子の陰に武器を隠し持っていることは分かっていた。そしてそれが飛び道具である可能性が高いことも検討が付いていたし、それこそを切り札として用いるつもりであるとも推測できていた。廊下は身を隠す遮蔽物がなく、直線状の空間だ。敵がわざわざ俺にその身を晒したということは、ここが敵にとって戦いやすい場所であることは明白だった。

 更に優子ちゃんが車椅子に乗せられ、敵がその後ろに立っていることで、その戦術が敵にとって信頼性の高いものであることも察しは付いた。じいちゃん――優子ちゃんたちにとっての曾祖父が亡くなってから、結城家に車椅子はない。敵が持参したものであることは明白で、それなら車椅子に龍司を乗せて襲撃を掛けることで盾としたはずだ。それは爺様たちに対して効果を発揮したのだろう。だから俺に対しても同様の戦い方が有効だろうと判断したのかもしれない。敵を四戒に陥らせるには、敢えて敵の土俵に上がってその思惑を外してやるのが効果的だ。

 最悪を想定し、敵の武器は警官や自衛官から強奪した銃器かもしれないと考えて、戦いに臨んだ。だから敵の右腕の動きを最大に警戒した。降参したふりをして、左手のナイフをわざわざ斜め上に大きく投げてみせたのは、そちらに俺の意識を引き付けつつ心理的な緩みを生じさせ、その隙に右手のクロスボウで攻撃しようとしたのだろう。

 しかし、それと同時に俺が急接近したことで、敵は虚を突かれて一瞬動きが止まった。それがなければクロスボウの本体で俺を殴り付けるなり、斬撃を防御するなりできたかもしれない。

 もし俺が敵の言葉に素直に従って足を止めていれば、父さんが殺したという仲間――サブローの名でも叫んで、俺に背後から奇襲される危険を錯覚させることで、隙を作ろうとしたはずだ。だからこそ初手で『ジローとサブローは殺しちまったのか?』などと問い掛けてきた。こちらに残敵の数を誤認させ、背後への警戒心を植え付けようとしたわけだ。

 こうして振り返ってみると、やはり狡猾な敵であったと痛感する。優子ちゃんが落ち着いたら爺様たちの最後を聞き出す必要があるな。純粋に何があったのか気になるし、今後の参考にもなるはずだ。


「優子ちゃん、今は辛いだろうけど、古都音たちと合流しよう。俺が三十分以内に戻らなければ移動することになってるから、その前に無事を知らせたい」


 おそらくもう二十五分を過ぎている。

 優子ちゃんはまだ落ち着いていなかったけど、強引に肩を支えて立ち上がり、靴を履かせた。母屋を回り込んで裏手の塀にある通用口を開け、道路に出る。

 路肩に止まっているキャンピングカーに向かって歩いていると、車内から古都音が飛び出して駆け寄ってきた。


「二人とも無事!?」


 今にも泣きそうな顔をしていた。よほど心配を掛けたらしい。


「俺はかすり傷一つないけど、優子ちゃんはちょっとな……」

「や、やっぱり敵がいたの?」

「ああ。でももういない。とりあえず車を表に回してくれ、俺は門を開けてくる。古都音は優子ちゃんを頼む」


 二人をキャンピングカーに乗せて、俺は来た道を引き返す。

 蔵の裏で鞘を回収し、門に向かって歩きながら大きく深呼吸をして、空を見上げた。抜けるような青空には雲一つない。恐ろしいほどの清々しさを感じさせる空だ。真夏の殺人的な日差しが今は不思議と心地良く、高揚感すら覚えてしまう。

 思わず笑みが浮かびかけたけど、途中で溜息が零れた。

 爺様や父さんたち、何よりも龍司が死んだことは辛い。今はまだ戦意の名残があって、気を抜こうにも抜けないから、心で彼らの死と向き合うことができない。だから涙は流れないけど、頭では辛い現実であることを認識できている。

 しかし、仇は取った。優子ちゃんも助け出せた。ついでに貴重な経験ができたし、俺は無傷だ。敵はクロスボウを持っていたから、もし当初の計画通り霊園で敵を襲撃していれば、俺は現場を監視する敵に狙撃されていたかもしれない。それを回避できたことは僥倖という他ない。

 それらの事実が慰めとなって、俺を絶望させないでくれるはずだ。


「……あ、そういえば赤子はどうなったんだ?」


 優子ちゃんが生きていたなら、赤子も生きている可能性が高い。それに龍司たちの遺体はどこにあるのか。

 優子ちゃんからは色々と聞き出す必要があるけど、まあ焦ることはない。とりあえず一息吐いて心身を落ち着けて、改めて冷静に現状と向き合った方がいいだろう。

 それにしても……凄かった。

 剣道の試合とは比較にすらならない。

 真剣で人を斬るとは、あんなにも心躍ることだったんだな。


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