31 混迷
安藤の死体をどうこうする前に、まずは脅迫状を確認してみた。
父さんが茶封筒の中から三つ折りにされた紙を引き出して広げると、そこには短文が書き殴られていた。今回は定規を駆使して書かれた直線的な文字ではなく、普通の手書き文字だ。
「安藤のスマホの動画を見ろ、か」
呟く父さんと顔を見合わせてから、俺はピックアップトラックの荷台に上がり込んだ。ぴくりとも動かない安藤のズボンのポケットを漁ってみると、案の定スマホが入っていた。手に取って電源を入れるとパスコードか指紋認証を要求されたので、死体の指を当ててロックを解除した。
画面には動画の一覧が表示されている。といっても、動画ファイルは一つしかない。
滝のおじさんと爺様も荷台の側に来たので、荷台を降りてスマホを父さんに渡した。
父さんは無言で俺たちの顔を見回した後、スマホの画面をタップした。
《あー、どうも、結城家の皆さん。はじめまして》
全く聞き覚えのない男の声がスマホから上がる。父さんの手元を覗き込むと、画面には龍司が映し出されていた。
《この度、滝龍司くんを攫わせてもらったもんです》
龍司は猿ぐつわを噛まされて、椅子に座っていた。というより、椅子に縛り付けられている。そして睨むような目付きでこちらを――スマホを持つ敵を見ている。しかし、憔悴しているのか、怯えているのか、お世辞にも迫力があるとは言えない。
《この動画を見てるってことは、社長――安藤の死体とご対面したってことですよね。で、オレたち誘拐犯がどういうつもりでこんなことしたのか、疑問に思ってることでしょう》
龍司の足下が映し出されると、そこには安藤が横たわっていた。微動だにしない安藤の胸元には、荷台にいる死体と同様に赤い染みが広がっている。それに加えて、ナイフか何かの柄が垂直に生えていた。
《とはいえ、こっちの事情とか考えとか、そういうの懇切丁寧に説明したところで、きっと理解は得られないと思うんで、その辺のことは皆さんのご想像にお任せしますわ》
画面の脇から伸びた手――おそらく撮影者であり声の主である男の右手が、柄を掴んで安藤の胸元から引き抜いた。刀身はべっとりと赤い液体で覆われ、ぽたぽたと滴が垂れ落ちていく。
《というわけで、誘拐犯らしく一方的に、こっちの要求を伝えさせてもらう》
背景を見る限り屋内だろうけど、飾り気のない殺風景な部屋で、どんな建物のどんな部屋なのか、皆目検討も付かない。
一応、安藤が一人で出発する前に、仲間がどこで龍司を捕らえているのかは聞き出してある。ここから車で一時間ほどの郊外に、半ば放棄された住宅街――いわゆる限界ニュータウンがあり、そこの空家にいるらしい。しかし、もはや考えるまでもなく、誘拐犯たちは移動した後だろう。
《結城心結だ。滝龍司を無事に返してほしければ、結城心結と交換ということで手を打ってやる。百キロの金塊はもう必要ない。当初の指定日時、指定場所に、金塊の代わりに拘束した結城心結を車の後部座席に置いて去れ》
ちらりと父さんの顔を見ると、今にも舌打ちしそうなしかめ面をしていた。爺様は普段の五割増しに険しい面持ちで、滝のおじさんは目を見開いてスマホの小さな画面を食い入るように見つめている。
《こちらが結城心結を確保した後、滝龍司を解放する。もちろん死体としてではなく、ちゃんと生きた状態で、しかも五体満足でだ》
敵の声は落ち着いていて、そこには不安や恐怖や動揺はもちろん、威圧感や傲慢さも伝わってこない。強いて言えば、その語り口はどこか面倒臭そうなシニカルさを孕んでいた。
《もしこっちの要求に従わない場合、このお坊ちゃんには安藤と同じ運命を辿ってもらうことになる》
そう言いながら、血塗れのナイフの腹で龍司の頬をぺしぺしと叩いている。龍司は顔を背けようと微動する程度の抵抗しか見せない。下手に暴れて敵を刺激するのは悪手だと思っているのか、単に怯えてろくに動けないだけなのか。いずれにせよ血糊の付いた龍司の顔を見ていると否応なく不安を掻き立てられてしまう。
《しかし、従うのなら、もうこれ以上誰も血を流さずに済む。心結ちゃんについてはオレたちがしっかりと可愛がってやるから、心配はご無用だ。まかり間違っても殺したりはしないさ》
敵は凶器を龍司の顔から離すと、そのままぽいっと投げ捨てた。
《それでは結城家の皆さん、賢明な判断を期待するよ》
その言葉を最後に、動画は終了した。
「…………」
父さんも爺様も滝のおじさんも、一様に難しい顔をして黙り込んでいる。
「景貴さん、龍司さんは……?」
婆様が滝のおばさんと共に、恐る恐るといった足取りで近付いてきたので、俺は二人と入れ替わるようにその場をあとにした。
こうなった以上、もはや赤子を人質に取っておく意味はない。さっさと解放して、古都音と相談して、今後どう動くべきかを決める必要がある。
ガレージのキャンピングカーに戻って、古都音と礼奈に状況を説明した。そして二人と赤子を伴ってガレージを出ると、ピックアップトラックの側で晴佳さんと心結が泣いていた。二人とも震える肩を父さんに抱かれて、嗚咽を零している。
滝のおじさんとおばさんと優子ちゃんも三人で集まって、しかし慰め合うような様子はなく、父さんたちを遠巻きに見つめている。その眼差しは険しく、少なくとも同情や憐憫といった情念とは程遠い仄暗さがちらついていた。
婆様は地面にへたり込んで息を乱している。この人、これであまり心は強くないから、何かショッキングなことがあると割とすぐ過呼吸とか起こしちゃうんだよな。爺様が背を撫でながら耳元で何事か囁いて落ち着かせようとしていて、そこには確かな優しさと愛情が見て取れた。
「お爺様、もう一度動画を見せてもらっていいですか」
爺様から安藤のスマホを受け取り、一人で所在なさげに立つ葵ちゃんのもとに向かった。
「お兄さん……」
「葵ちゃん、ちょっと声の確認してもらっていいかな」
スマホの動画を再生して、古都音と葵ちゃんの二人に音声を聞いてもらった。
「この声の感じ、たぶんイチローって呼ばれてた奴だ」
「そうですね……どことなく余裕が感じられる口振りがそっくりです」
やはり敵は誘拐を実行した奴で間違いないらしい。状況的にそれ以外あり得ないけど、念のためきちんと確認しておきたかった。
敵は佐々木さんを殺し、おそらく管理人の爺さんを殺し、そして安藤を殺した。僅か二日の間に三人も殺したとなれば、もはや殺人に対する躊躇いなどないだろう。龍司はまだ未成年とはいえ、敵の情けには全く期待できない。
「上手いやり口だよ。りゅーくんの生存を知らせつつ、死体と血とナイフを見せ付けることでこれ以上ないほど効果的な脅迫動画になってる。しかも要求を義妹ちゃんの身柄だけに変えてきたことも考えると……かなり狡猾だ」
古都音は深刻そうに呟いて、父さんや滝のおじさんの方を見遣っている。
確かに、上手い脅迫だと思う。いや、厄介と言うべきか。
敵の一人は安藤と長い付き合いだというし、おそらく安藤から愚痴や世間話などで結城家のことは聞かされたことがあっただろう。そうでなくとも、今回の誘拐を決行するにあたり、安藤の動機などは聞いたはずだ。敵が結城家の内情について、ある程度詳しくても不思議はない。十分に成算のある要求だと思っていそうだ。
「とりあえず、この子を返してきますね。赤ちゃんを抱けば、少しは落ち着くかもしれませんし」
「ああ、頼む」
赤子を抱いた礼奈が父さんたちの方に歩み寄っていき、晴佳さんに赤子を手渡した。晴佳さんは腕に抱いた赤子に顔を埋めるようにして肩を震わせ続けており、心結も泣きながら赤子の頭を撫でつつ、母親に身を寄せている。
「ふざけるなっ!」
不意に、しんみりとした場の空気が硬直した。
誰もが何事かと声の主に目を向ける。
しかし、当の少女は余人など気にした風もなく、眦をつり上げて叫ぶ。
「あんたら何泣いてんのよっ、おっさんが死んだのはあんたらの自業自得じゃない!」
優子ちゃんは心結や晴佳さんの方を一心に見つめて――睨んでいる。そこに宿るのは紛う事なき敵意や憎悪だ。兄に似た中性的な顔立ちは良く整っているものだから、それが怒りに歪んだ姿は少女ながらも鬼気迫るものがあった。
「こっちは兄貴が誘拐されてんのよ! 殺されるかもしれないのよ! 何も悪くないのにっ、あんたらのせいで!」
幼い頃から気の強い少女だった。兄である龍司とは度々衝突して喧嘩になっていたけど、俺にはよく懐いてくれていた。ただ、俺は優子ちゃんより龍司と古都音の二人の方と仲が良かったからか、優子ちゃんは中学生になる頃には俺たちと積極的に連もうとしなくなった。
「なのにあんたらは家族揃って抱き合って、うちの兄貴攫った奴が死んだのを悲しむとか舐めてるわけ!?」
一昨日や昨夜、龍司の話を聞いたときにも兄妹仲はあまり良くなさそうな感じだった。それでも、幼い頃から一緒に育ってきた家族で、血を分けた兄妹だ。人並みに情はあるのだろう。
「あんたっ、被害者面してるけど分かってんでしょうね!?」
皆が皆、少女の勢いに呑まれたかのように身動きひとつしない中、優子ちゃんはこれみよがしに心結を指差した。
「ちゃんと兄貴の身代金として誘拐犯のとこ行きなさいよ!」
一切の遠慮も気後れもなく、堂々と告げている。そこには従姉に対する情など微塵も窺えない。実際、優子ちゃんは心結に対して何の好意も親近感も持っていないだろう。会ったばかりの赤の他人どころか、兄が誘拐された元凶としか思っていないのが伝わってくる。
「優子っ、やめなさい!」
「お祖父様は黙ってて!」
婆様に寄り添っていた爺様が厳めしい声を上げるも、優子ちゃんは祖父の方など見向きもしないで一蹴している。
「あんたの伯父がやったんだから、身内のあんたが責任取りなさいよ!」
心結は涙も乾かぬ顔を強張らせ、立ち竦んでいる。
相手は年下の少女とはいえ、掛け値なしの敵意をあれほどの威勢で向けられては怯むのも無理はない。それに、優子ちゃんの言葉は道理を無視した無理難題というわけではない。むしろ筋が通っているし、現状において一つの選択肢となり得るものだ。
「このままじゃ兄貴は殺されるけど、あんたは違う! あんたなら誘拐犯のとこ行っても、大人しく犯されてれば殺されることはないんだから!」
それは誰もが漠然と思っていたことだろう。
敵が身代金の代わりに心結の身柄を要求してきたのは、間違いなくその身を弄ぶためだ。敵は三人の男たちなのだから、それ以外の理由など考えられない。安藤と長い付き合いなら、心結のことを写真で見たり、実際に見掛けたりしたことがあったのだろう。
社会秩序が危うい現在、百キロの金塊より類い希な美少女の方が、ある意味価値がある。心結ほどの子は探してもそうそう見付からないだろうし、誘拐犯が心結を求める気持ちは同じ男として少なからず理解できる。
敵はハッカー説を信じていたはずだ。しかし、安藤から計画の中止を迫られたことで、考えを変えたのだろう。結城家に身元が割れたことで、もしハッカー説が正しかった場合は警察に追われることになる。念書など信じてはいまい。もし宇宙人説が正しかった場合はあちこちで殺し合いが起きることになるから、たとえ殺人を厭わない奴でも死ぬ可能性は高くなる。
逮捕されるか、殺されるか。どちらにせよ、その前に欲望を満たしておきたいと考えることは自然な心理で、理に適ってすらいる。
「あんたどうせ遊びまくってんだからヤられるのなんて今更でしょ! 淫売の娘なら男に股開くくらい余裕なんでしょっ、せいぜい誘拐犯に媚び売って来なさいよ!」
酷い言い様だったけど、優子ちゃんが心結をそう見做すのも分からなくはない。愛人の娘という先入観を抜きにしても、ギャルっぽい遊んでそうな雰囲気は確かにある。昨日今日の心結は珍しく清楚系の格好をしているとはいえ、陽キャ特有のオーラとでも言うべき明るさは隠し切れるものではないし、そのメリハリある身体付きも同様だ。実際のところはともかく、客観的事実としてセフレの一人や二人いそうな印象を受けることは否定できない。
そんなことを考えながら、父さんや滝のおじさんたちの様子も含めて、努めて冷静に状況を見守っていると、不意に心結と目が合った。ちょうど優子ちゃんに対して気圧されたように後ずさり、逃げるように目を逸らしたところだったから、少女の弱々しさがこれでもかと伝わってきて、思わず加勢したくなってしまう。
「あきにぃに色目使ってんじゃないわよクソビッチ!」
幸い、俺が口を挟む間もなく、優子ちゃんが更に激昂した。
ここでどちらかに味方するような言動を見せるのは下策だ。今こうして身内で争わせ、内部分裂を起こすことが敵の狙いである可能性は厳然と存在する。現状、俺は中立の立ち位置を崩すべきではない。それでは今後状況をコントロールできなくなるだろう。
「言っとくけどね、りゅーにぃとあんた、どっちが大切かなんて聞くまでもないのよ! あきにぃはうちらの兄貴であって、あんたの兄貴じゃない! 昨日あきにぃだって言ってたでしょっ、あんたらなんて正真正銘の赤の他人なのよ!」
威勢良くそう叫ぶ声は次第に震えが目立ち、言い切る頃には優子ちゃんの両目から涙が溢れていた。
「あんたらのせいでもうめちゃくちゃよ! 謝りなさいよっ、返しなさいよ!」
これまで制止する様子もなかった滝のおばさんが娘の肩を優しく抱き寄せた。優子ちゃんは一度目を閉じて嗚咽を零しながらも、肩どころか全身を震わせて叫ぶ。
「返せ! りゅーにぃを返して! もしりゅーにぃが無事に戻って来なかったら、あんたのこと殺してやるんだからね!」
大粒の涙を零しながら、爺様を思わせる鋭い眼光で心結を睨み付けていた。
しかし、そこで限界を迎えたのか、優子ちゃんは両手で顔を覆いながらその場にへたり込んだ。すぐに両親が両脇から支えると、玄関の方へゆっくりと歩き出す。
結局、最後まで娘を止めなかった滝のおじさんは去り際にも何も言うことはなく、ただ父さんたちを一瞥してから、母屋へと戻っていった。
俺たちは黙ってそれを見送っていた。
「か、景貴さん……龍司さんは、心結さんは、どうされるのですか……?」
婆様のか細く震えた声が重苦しい沈黙を破った。
「……みすみす孫を見捨てるような真似はせん」
爺様は絞り出すようにそう応じて、婆様を立ち上がらせた。
「一旦、それぞれ落ち着くべきだ。貴俊、暁貴、二十時に書斎に来なさい」
そう言い残して、爺様は婆様と共に戻っていった。
視線を感じて隣を見ると、葵ちゃんが不安げな目を向けてきていた。先ほどの優子ちゃんの物言いに対して、俺が心結の味方をしなかったせいかもしれない。
とはいえ、葵ちゃんも心結に加勢する素振りすら見せなかった。身内の問題に部外者が口を挟むべきではないと思ったのかもしれないけど、優子ちゃんのあまりの気迫に怯んでいた面もあっただろうし、あるいはあの子の立場では無理もない発言だと理解を示していたのかもしれない。少なくとも俺は優子ちゃんを責める気になどなれない。
「葵ちゃん、手斧を持って心結と赤子の側についててもらっていいかな?」
少女の耳元に口を寄せて囁くと、不可解そうに眉をひそめて至近距離から見つめてきた。
「滝のおじさんが暴走しないとも限らないからね、念のため。もし何かあれば、カバー着けた状態の手斧を叩きつけてやってくれる? 責任は俺が取るから」
「……はい。わたしはいいですけど、お兄さんは……?」
「俺はひとまず今後のことを考えたい。今は心結とあれこれ話す余裕ないし、心結もそうだろうしな」
葵ちゃんは逡巡するように目を伏せた後、頷いてくれた。そして心結の方へと小走りに駆け寄っていった。
「よし、俺たちも戻るか。古都音、礼奈、昨日は風呂入れてなかったし、今のうちに入ってきたらどうだ?」
普段通りの調子を心掛けて言うと、礼奈は相変わらずのクールな面持ちで「はい」と頷いたけど、古都音の反応はなかった。というか、先ほどから俺の背中にぴったりと張り付いたまま動かない。
「いつまでそうしてんだ、いい加減離れろ」
「う、うん……ゆーちゃん、めっちゃ怖かったね……」
古都音はぎこちない動きで離れると、緊張の糸が切れたように大きく息を吐いた。しかし、全身の強張りはあまり解消されず、俺を見上げる眼差しにも普段の緩さはない。
「この状況、かなりやべーけど、どうする?」
「どうしようかね……」
思わず溜息を零しつつ、俺たちはガレージに戻っていった。現状の深刻さに加えて、これまでのこともあるから、まだ母屋では寛げそうになかった。




