30 家族
龍司の誘拐が自らの差し金であることを安藤は認めた。
「……君に殴り飛ばされて、目が覚めたよ」
などと殊勝なことを言っていたけど、本心かどうかは疑わしいところだ。
安藤はみんなの前で自白し、謝罪した。そして誘拐の計画を説明し、爺様たちと話し合った後、龍司を連れて来ると言って愛車のピックアップトラックで出発していった。
それと入れ替わるように、俺はガレージにキャンピングカーを駐め、一息吐く。
「思いの外、潔い人でしたね」
すっかり泣き止み落ち着いた赤子を腕に抱いた礼奈が独り言のように呟いた。すると、古都音がわざとらしく咳払いをして、意味深に見つめてきながら口を開く。
「おれは本当に何もしてないんだ。でも、暁貴くんはおれを黒幕だと決め付けて、甥っ子を盾に脅してきた。だから、ひとまず向こうの言い分を認めて、龍司くんを連れて来ると言って出発した。そうすれば、その時点で妹に甥っ子を返してくれると思ったんだ」
「分かってるって。ここで気を抜くようなことはしない」
安藤にはまだ逆転の目がある。
龍司を連れて来ることなく、こっそりと結城家に戻り、赤子を返してもらった晴佳さんと心結を連れて逃亡するといった行動を取る可能性は捨てきれない。まあ、そんな往生際の悪い真似はしないだろうとは思うけど、油断は禁物だ。
というより、ガキの頃から残心の重要性については嫌というほど叩き込まれてきた。現状では気を抜きたくても抜けないし、それどころか龍司が戻って来ないパターンを想定して今から対策を練ろうとしてしまう。
安藤がきちんと龍司を連れて戻ってくるまで、赤子は確保しておくのが無難だ。
「暁貴」
そう思って、古都音と礼奈と人質の四人でテーブルを囲んで寛いでいると、不意にドアがノックされた。一緒に聞こえてきたのは爺様の声で、俺は逡巡しつつもドアを開けた。
真っ白な総髪の老人が粛然と屹立している。袴姿がよく似合っており、こちらを見据える双眸に弛んだところは一切ない。齢七十を過ぎているとは思えない眼光の鋭さだ。ただ、さすがに寄る年波の影響は皆無ではなさそうで、こうして間近から相対すると、以前より全体的に縮んでいるような気がした。だからといって弱々しさはなく、むしろ圧縮されて存在感が増したように感じる。
「道場まで来なさい」
爺様は短く言って、俺の返事も待たず歩き出した。
古都音たちについて何も言わないということは、俺だけでいいということだろう。しかし、今は古都音と人質の側を離れたくない。もし万が一、暴走した晴佳さんに古都音を人質に取られれば、俺は赤子を手放さざるを得なくなる。それはよろしくない。
龍司を助けるという点において、爺様は俺の味方のはずだから、爺様に俺から孫を助け出そうという意思はないだろう。あればドアを開けた瞬間に不意打ちを見舞ってきたはずだ。
爺様を無視しようか少し悩んだ末、古都音たちを連れて向かうことにした。道場はガレージのすぐ裏手にある。爺様の背を追って道場の玄関に入ると、奥の方に父さんの姿が見えた。
「…………」
爺様は何も言わぬまま靴を脱いで歩を進め、試合場を示す白線の外側に置かれた防具を身に着け始める。防具は爺様とは逆側にもう一組、置かれている。
久々に訪れた道場には、俺たちと結城親子以外に人の気配はない。窓などは閉めきられ、エアコンが稼働しているようだけど、点けて間もないのかまだまだ蒸し暑い。
「あっくん?」
靴を脱いだところで二の足を踏んでいると、古都音が顔を覗き込んできた。
あまり気は進まなかったけど、ここまで来て踵を返すのもどうかと思い、歩みを再開した。以前と比べて、道場の様子に特段の変化はなく、嫌でも懐旧の念が湧き上がる。屋内は試合場が優に二面はとれる広さがあり、天井も十分に高いので、子供の頃はもちろん今になっても狭苦しさは感じない。
防具の側で足を止め、主審の位置に立つ父さんに目を向けると、微苦笑しながら軽く肩を竦められた。どうやら爺様に付き合わされているだけらしい。
俺は軽くストレッチをした後、防具を身に着けた。久々でも手間取ることはなかった。爺様は早くしろとでも言うように、既に場の中に入って立礼の位置で待っている。やる気満々だな。
竹刀を提げ持つと、身に付いた習性に逆らわず軽く一礼して場に入り、爺様と同時に相互の礼をする。前傾した姿勢からでも爺様の体幹の強さは健在なのが見て取れ、歩み足にも蹲踞にも、抜き合わせた竹刀にもぶれはなく、そのどれもが昔日と変わらず洗練された無駄のない動きをしていた。
「始め」
父さんの号令で始まった試合――明らかに手加減なしの試合稽古は、全く話にならなかった。本気でやられては俺に勝てる道理はない。こちらに三年のブランクがあろうがなかろうが、向こうは剣道歴六十年以上のベテランで、今もまだ現役なのは開始前の動きから一目瞭然だった。
早々に二本先取されて、呆気なく終わった。
場を出て一礼し、面を取ると、爺様も同様に顔を晒していた。
「暁貴」
十五メートルほど先から届いた声に力みはなく、静かな呼び掛けだったけど、寂とした道場にはよく響いた。
「あの愚物との対峙は見事だった」
爺様は信賞必罰な人だから、褒められること自体に意外感はないし、そんなときでも厳粛さ漂う険しい面持ちなのも違和感はない。しかし、幼い孫を放り投げてその身を危険に晒しても尚、及第点を頂けたことは少し驚いた。
「瀬良さんと古都音ちゃんを助けたことも誇って良い」
二件の殺人についても咎めるつもりはないようだ。
そこは素直に安堵できた。
「だが、今の無様な動きは何だ」
仄かな怒気を覗かせて、射抜くような鋭さで見遣ってくる。
昔ならいざ知らず、今の俺は爺様の期待に応えようとか、そういう思いは一切ないから、特に緊張感などは生じなかった。失望されるなど今更だ。そもそも爺様の方も、俺にはもう期待などしていないはずだけど……。
「才に胡座を掻いて修練を怠ったな。馬鹿者め」
いや、胡座を掻くも何も、単純に剣道は辞めただけの話で、それは爺様とて承知していることのはずだ。実は耄碌し始めてんのか?
「今後は週末に顔を出しなさい。鍛え直してやる。今のままでは四段への昇段もままならん」
「……は?」
全くの想定外の言葉に、思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
「何だその腑抜けた顔は」
「…………」
「返事はどうした」
試合場を挟んで向かい合う爺様は微動だにせず立っている。他は眼中にないとばかりに父さんや古都音たちには見向きもしない。眉間に皺を寄せた小難しい面持ちながらも、不思議とそこに険しさはあまりなかった。真っ直ぐに俺だけを見据えている。
「……はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」
腰を折ることで、顔を伏せた。
今後、どんな顔して爺様と向き合っていけばいいのか、今はまだ分からなかった。
それから爺様は何も言わぬまま手早く防具を外し、竹刀共々きちんと片付けると、そそくさと道場を出ていった。俺も少し遅れて片付けを済ませた。
その間、父さんは古都音たちの側に寄って「茉百合さんのことは残念だったね」とか「何か困ったことがあれば、遠慮なく頼ってくれていいからね」とか「門之園礼奈さんだね、はじめまして」などと、緊張感もなく殊更に和やかな声で雑談していた。
俺には今すぐ父さんと話すべきことはなかったから、古都音に視線だけで「行くぞ」と伝えて、先に一人で玄関へと向かっていく。
「暁貴」
呼び掛けに足を止めて、ちらりと目を向けると、父さんは古都音たちと一緒にこちらへ歩み寄ってきていた。その足取りには何ら気負ったところがなく、声にも表情にも硬さはない。
「心結のことをどう思う?」
こうして顔を合わせて話をするのは春頃以来だけど、まるで天気の話でもするかのような気軽さでいきなり尋ねてきた。
「どうって、べつに。いい子なんじゃないの」
質問の意図が読めず、適当に答えると、父さんは二メートルほどの距離で足を止めて、苦笑を見せた。そこには爺様にあったような険しさはなく、むしろ雰囲気は柔らかい。
「お前は俺の妹じゃないと言ったそうだな」
「その必要があったからな」
爺様が堅物すぎた反動なのか、父さんは基本的に人当たりが良く、さっぱりしている。俺が悪びれもせず認めても、「まあ、だろうな」と呆れたように笑っている。それらの言動には掴みがたい軽妙さがあり、相変わらず何を考えてるのかいまいちよく分からない。
「酷く落ち込んでいた。仲直りしてやれ」
「今更どの面下げて……」
思わず溜息を零しつつ、これ見よがしに顔をしかめて首を横に振ることで意思表示しておいた。
「こうなった以上、兄としてじゃなくてもいい」
「兄として以外にどう接しろと?」
「お前の好きにして構わん」
悪戯な笑みを口元に湛えながら、目を細めて試すように俺を見てくる。
向こうがその気なら、こちらも戯言で応じるまでだ。
「なら一人の男として接するぞ。娘に手を出されても文句言うなよ」
「合意の上で、ちゃんと責任を取るというのなら、構わないさ」
「……そういう冗談はやめてくれ」
不満を隠さず睨んでみても、父さんは薄く笑みを浮かべたままだ。
「冗談ではないさ。お前になら嫁にやってもいい」
おちょくってんのかと苛立ちを覚え始めた矢先、ふと笑みが引っ込んで真顔になり、軽く腕を組んで嘆息を零した。
「ある意味、それが一番丸く収まるからな」
「……まさか本気で言ってるんじゃないよな?」
「言っただろう、冗談ではないさ。お前も父さんのあの不器用さを見ただろう。あの人はさっきまで、お前とどう接すればいいか――どう接するべきか、分からずにいた。それは心結に対しても同じだ」
爺様が俺を嫌悪していないことは分かっているつもりだ。あれはあれで情の深い人だからな。ただ、厄介な存在として扱いに困っているのだろうなと思っていた。
しかし、だからこそ心結に対しては接しやすかったはずだ。なのに心結とも距離を置いているようだったのは、やはりどうにも腑に落ちない。
俺の疑念を察したのか、父さんは珍しく自嘲的な笑みを浮かべて目を伏せた。
「今だから言えるんだが……晴佳と籍を入れる前、父さんに心結の存在を明かしたとき、私は勘当される覚悟だった。しかし、蓋を開けてみればどうだ、声を上げて笑われたよ。なぜだと思う?」
「……実は似合いの夫婦だったと分かって、おかしかったんじゃないか?」
夫は妻に隠れて別の家庭を持ち、妻はどこの馬の骨とも知れぬ男の子供を夫の子とした。どちらもあまりにモラルに欠けた行いで、一周回って滑稽だと俺の立場でも思う。
「まあ、それもありそうだが……最大の要因はお前だ、暁貴」
そう言って俺を見る父さんの眼差しは、実に複雑な情念を孕んでいるように見えた。
「禍転じて福と為す、これも天の配剤かと言って、おかしそうに嬉しそうに笑っていた。何せ、お前と心結を結婚させれば、血筋の問題は解決する。自慢の孫は変わらず孫のまま、結城家も安泰というわけだ」
なるほど、その発想はなかった。
お見合い結婚が珍しくなった前世紀の価値観だな。
「で、それに反対して喧嘩になったと?」
「そういうことだな。本人たちの意思を無視して結婚などさせられないし、お前もこれ以上親の都合に振り回されるのはうんざりだろうと思ってな」
父さんが実家を出たのは、俺と母さんと暮らしたこの家から一旦離れたかったからだと思っていた。それも皆無ではなかっただろうけど、爺様の考えに断固として反対するためでもあったのだろう。
「そういうわけで、当人同士が本気なら、私は文句などないし、父さんは大喜びだ。どこの馬の骨とも知れぬ輩に娘をくれてやるより、余程いい」
「……今の話は聞かなかったことにしておく」
「そうか? まあ、お前には既に嫁候補がいるようだしな。私も無理強いはしないさ」
古都音と礼奈は父さんからそれぞれ一瞥されて、互いに顔を見合わせた。かと思えば、古都音が慌てたように俺の側に駆け寄って、左腕にぶら下がるように抱き付いてくる。礼奈はその場に立ち尽くして「よ、嫁……」などと呟いて頬を上気させている。
父さんはそんな二人を見て声を上げて笑いながら近付いてくると、肩を軽く叩いてきた。ここ三年ほどの間にはなかった距離感の近さで、咄嗟の反応に窮した。
「ただ、心結とそうなるなら、私たちは歓迎するということは一応覚えておけ」
「……ああ」
「よし、では戻るか」
父さんは先ほどの爺様のように、一人そそくさと歩き出す。しかし、数歩もしたところで不意に立ち止まり、「ああ、それと……」と思い出したように言った。
「すまなかったな、暁貴」
首から上だけちらりと振り返ってきたけど、視線は定まらず虚空を泳いでいた。
「今回の一件は、私の不徳が招いたことだ。尻拭いを子供にさせるなど、親失格だな」
「……なら代わりに俺の尻を拭ってくれ。それでチャラだ」
「そうだな。お前は瀬良さんと古都音ちゃんを助けるために、なかなか無茶をしたようだしな。後始末は大変そうだ」
「ああ、迷惑掛けて悪いけど、頼むよ……父さん」
ようやく目が合うと、父さんはふっと微笑んで、再び歩き出した。
俺たちもその背を追って道場を出ると、そこで父さんとは別れてキャンピングカーへと戻る。
「良かったね、あっくん」
「……さて、どうだかな」
「そういう不器用なところ、親子三代そっくりだね」
古都音が妙に優しげな笑みを浮かべて頭を撫でてきたから、すぐに振り払った。
俺はあの二人ほどではないはずだ。
■ ■ ■
キャンピングカーには外部電源と接続するためのコードがある。これをガレージの電源に接続することで、バッテリーを気にせずエアコンを使用できるため、日中の車内でも快適に過ごせている。
十四時を回って間もない頃、ベッドで横になってだらだらしていると、ノックの音が耳朶を打った。同時に「お兄さん」という声もしたので、俺は少し覚悟を決めてドアを開けた。
しかし、立っていたのはポニーテールの少女一人だけだった。
「葵ちゃん、昨日はごめんね。騙すような真似して」
何はともあれ、謝罪から入っておいた。
「それは……はい。今考えれば、それが必要なことだったのは何となく分かりますから、大丈夫です。お兄さんも滝さんを助けるために必死だったでしょうし……」
「そっか、ありがとう」
車内に招き入れようか迷ったけど、長話にはならないだろうから、俺が車外に出てドアを閉めた。ガレージ内は少し熱気が籠もっていて蒸し暑く、キャンピングカーに積まれたエアコンの室外機の音が小さく響いている。
「それで、その、心結ちゃんのことなんですけど」
葵ちゃんはこちらの顔色を窺うように上目遣いに見つめながら、恐る恐るといった口振りで続けた。
「昨日、心結ちゃんにあんなこと言ったりしたのも、滝さんを助けるために必要だったからなんですよね……?」
「まあ、そうだね」
「それなら、心結ちゃんのこと、嫌いってわけじゃないんですよね?」
「べつに嫌ってはいないよ」
微笑みかけてあげると、葵ちゃんは安堵したようにそっと一息吐いた。しかし、肩肘からは力が抜けきっておらず、まだ仄かな緊張感を纏っている。
「一応、確認させてほしいんですけど……」
「遠慮しないでいいよ」
「……お兄さんと心結ちゃんに、血の繋がりはあるんですか?」
「俺が知る限りはないね」
心結から聞いてきてほしいとでも頼まれたのだろうか。もうあれから二時間ほど経つし、既に父さんに確認していそうなもんだけど……いや、俺の反応が知りたいのか。
「……それでも、兄妹としてまた仲良くしてくれますか?」
まるで我が事のように不安げな様子で尋ねてきた。
「葵ちゃんは優しいね」
どうにも気が抜けてしまうな……調子が狂う。
「心結のこと心配してくれて、ありがとう」
まだ龍司の安全が確保されたわけではないから、甘ったるい馴れ合いに興じるのは避けたいんだけど、年下の可愛らしい女の子からこうも真摯に頼まれては無碍にもできない。両親を亡くして自分も辛いだろうに、それでも友達のことを思い遣っているともなれば、尚更だ。
「安藤が戻ってきたら、心結と仲直りしてみるよ」
「はい。たとえ血の繋がりがないとしても、家族がいて仲良くできるのって、凄くいいことだと思います。お兄さんにとっても、心結ちゃんにとっても、きっと」
思わず葵ちゃんの顔をまじまじと見つめてしまった。
そして気付いたときには身体が勝手に動き、少女を抱きしめていた。
「――ひゃっ、お、お兄さん!?」
自分でも意外な行動で少し戸惑ったけど、慌てるほどではない。それに葵ちゃんもびくりと全身を硬直させてはいるけど、突き放そうとはしてこない。落ち着いて対応しよう。
「あー、その……何て言うか、ごめんね、色々と。お詫びってわけじゃないけど、また昨夜みたいに抱きしめてほしいとか、他にも何かあったら、遠慮せず何でも言っていいからね」
「あ、えっと、はい……そのときは、よろしくお願いします」
いざというときには躊躇せず切り捨てられる仲間。それが葵ちゃんとの適切な距離感だと頭では分かっているんだけど、否応なく情が湧いてしまう。
すぐに抱擁を解くと、葵ちゃんはそわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせ、両手で服の裾や前髪を弄っている。
「あの……それでは、その……わたしは心結ちゃんのところに戻りますねっ」
「ああ。また後でね、葵ちゃん」
少女は大袈裟なまでに勢い良く頭を下げると、小走りに去っていった。顔が全体的に赤らんでいたから、やはりここは暑かったのだろう。そういうことにしておこう。
俺もさっさと涼しい車内に戻ろうと思って振り返ったところで、少しだけ開いたドアの隙間から青い目と黒い目が覗き見えていることに気付いた。
「……何やってんのお前ら」
「いきなりJKを抱きしめるとか、オメーこそ何やってんの?」
「暁貴さんは年下が好みなのでしょうか?」
古都音は不満げな半眼で、礼奈は相も変わらぬクールな面持ちで何か言っていたけど、俺は二人の言葉に何も答えないまま車内に戻った。
■ ■ ■
十五時を過ぎたあたりで、嫌な予感はしていた。
十六時、十七時と時を追うごとにそれは強まっていき、十八時を回ったところでほとんど確信に変わってしまった。
「一人で行かせるべきじゃなかったか……?」
「誰かを同行させても、それはそれでリスクがあったし、今更考えても仕方ないよ」
古都音の言うとおり、今更ではある。
しかし、考えずにはいられない。
安藤によると、誘拐の実行犯である三人の男は安藤の会社の従業員で、うち一人は高校時代の後輩らしく、付き合いは非常に長い。実際に今回の企ての実行犯を頼み、引き受けるだけの信頼関係はあった。
当初、安藤は誘拐事件にするつもりはなかったらしい。押し込み強盗という形を取って、龍司を痛めつけて負傷させてやることが目的だったようだ。実行犯は後輩の武内のみで、佐々木さんも殺さず気絶させるだけに留め、それで三百万円の成功報酬を支払うつもりだった。
一旦はそれで話が纏まったものの、念書を交わす直前で、どうせなら身代金誘拐にしたいと武内が言い出した。安藤はリスクの高さに難色を示した。しかし、誘拐なら安藤からの成功報酬はいらないと言われたことで、断ると武内が暴走する可能性が生じると判断し、仕方なく計画を誘拐に切り替えた。
身代金誘拐を単独でこなすのは困難なため、口が堅くて計画に乗りそうな従業員を二人選び、仲間に加えた。その上で、安藤は計画の主導権を握り続けるべく、身代金が得られずとも誘拐に成功しただけで一人百万円の報酬を支払うことを約束した。
安藤の役割は、結城家が警察に駆け込まないように抑えて、身代金を払うように誘導し、もし何か不測の事態が起これば武内たちに知らせることだ。だから安藤が誘拐犯たちの拠点に突然顔を出しても連中は不審がらないし、まずは話を聞こうとするだろう。
『後は警察に任せるべきだろうな。宗仁さんには自首してもらい、誘拐犯が潜んでいる建物を警察に包囲してもらって、投降するように呼び掛けてもらえば、その三人も観念するだろう』
安藤から一通りの説明を聞いた後、父さんがそう言った。
その意見は妥当であり正道だった。
しかし、現状でそれが最善か否かは人によって判断が分かれるところだろう。
『いや、待ってください。警察が包囲なんてすれば、追い詰めることになります。誘拐犯は二人も殺してるんですよ。そんな連中が手元に人質がいる状況で大人しく投降するとは思えませんし、いざとなれば龍司に何をするか分かったものじゃない。あまりに危険です』
滝のおじさんの意見も一理あった。
『ふむ……何よりも優先すべきは龍司の身の安全であり、誘拐犯に報いを受けさせることは二の次だ。極論、龍司の安全のためならば、誘拐犯の罪に目を瞑ることになろうと構いはしない。この点に異議はないな?』
爺様の言葉には父さんもおじさんも頷いていた。
俺も同感だった。
誘拐犯は佐々木さんを殺し、龍司を攫った。それは事実で、実に腹立たしい暴挙ではあるけど、龍司の命を危険に晒してまで報復したいとは思わない。
『武内は功利的な男です。警察に包囲されれば、抵抗は自分の首を絞めるだけと悟って、大人しく投降するでしょう。ですが、今は電波ジャックのことがあります。追い詰められれば、僅かな可能性に賭けようとするかもしれません』
『人を殺さないと生き残れないことが真実である可能性か……厄介だな』
武内の動機はまず間違いなく金銭だから、ハッカー説を信じていることが分かる。治安はやがて回復し、元の日常が戻ると思っていなければ、金塊など要求しない。
しかし、宇宙人によるデスゲームなど絶対にあり得ないと、確証までは持っていないはずだ。そんな状況で窮地に陥れば、宇宙人説に希望を見出し、そこに縋ろうとするかもしれない。功利的な男ならば、警察に身柄を拘束される危険は避けたいはずだ。もしデスゲームが真実なら、檻の中など屠殺場も同然だからな。
それに宇宙人説が真実なら、法など意味を為さなくなり、何をしようと生き延びることが正義となり得る。そして追い詰められた人間というものは、往々にして自分に都合良く考えるものだ。
『そうなれば、龍司くんを盾に包囲を抜けようとするでしょう。脅しではないことを見せ付けるために、龍司くんの耳や指を切断して投げつけるくらいのことはできる奴です』
そういう男だからこそ、安藤は龍司を負傷させることを武内に任せようとしたのだろう。実際、人を殺せるだけの精神性の持ち主であることは証明済みだ。当初は佐々木さんは気絶させるだけだったところを、身代金誘拐に切り替えてからはその成功率を上げるために死体とした。それは仲間の連帯感を強める意味もあったのだろうけど、何よりも脅迫材料とするためだったはずだ。誘拐犯は殺人も厭わないと結城家に示すことで、危機感を煽って身代金の供出を促した。
敵は目的達成のためなら殺人も辞さない残虐性を有している。
『私が一人で武内たちのところに行って、ありのままを話します。私の反対を押し切って結城家が警察に駆け込んだ、などと嘘を吐けば、龍司くんを無事に解放してもらえなくなりますから』
安藤の目的は龍司を負傷させることだった。より具体的に言えば、解放する直前に失明させるつもりだったらしい。
武内たちは誘拐時に帽子とマスクをしていたようだけど、それでも龍司が誘拐犯の顔を見たことは確かだ。龍司の解放後、結城家が警察に駆け込むことは想像に易く、そこで犯人の似顔絵などを描かれれば身元を特定されるリスクが生じる。目を潰せば龍司は似顔絵を確認できないから、ろくな似顔絵は作れなくなる。安藤の目的も果たせて、一石二鳥だ。
『龍司くんが無事に戻ってくれば、結城家は今回の誘拐を警察に訴え出ず、佐々木さんは失踪したことにする。そういう念書を書いてもらえないでしょうか。その念書と併せて、おれが一千万円ずつ支払うことを約束すれば、武内たちを説得できると思います』
安藤が本来の十倍の報酬を約束しても、敵が龍司を手放すかは怪しいところだ。何しろ奴らは殺人を犯した。明確に一線を越えてまで、誘拐を敢行した。にもかかわらず、自分の手は一切汚していない首謀者の安藤が甥っ子可愛さに日和ったとなれば、少なからず反感を覚えるだろう。
敵に対する抑止力として、俺か父さんか滝のおじさんも同行し、二人以上で龍司を迎えに行くとしても、それはそれで危険だ。敵は既に二人殺している。下手に追い詰めるような真似をすれば暴走しかねないし、それ以前に安藤が掌を返して同行者を人質に取るかもしれない。まだ安藤を信用しきれない現状で、俺が赤子の側を離れるのは論外だ。晴佳さんか心結に古都音を人質に取られるリスクも考慮すれば、俺が安藤に同行するのはあまりに不用心と言わざるを得ない。
安藤が実行犯の三人の手綱を上手く握れているのかどうか、俺たちには判断が付かない。敵を刺激しないように今回の誘拐を終わらせ、龍司を無事に解放させるには、安藤一人で行かせるのが最も無難だ。龍司の安全のみならず、俺や父さんや滝のおじさん、そして安藤自身の安全をも考えると、それが最善ですらあった。
『警察を頼るか、安藤に任せるか、それ以外か……暁貴はどう考える?』
爺様たちは色々と話し合い、俺も意見を聞かれたから、安藤一人で行かせるのが一番マシと答えた。既に妹や姪の前で罪を認め、まだ俺が甥を人質に取っている以上、事ここに及んで安藤が裏切る可能性は低い。それに俺は安藤を殴り飛ばした後、一度もキャンピングカーから降りなかった。話はキャンピングカーの側でさせ、俺は窓を半分開けて聞いていた。油断も隙も見せず、警戒心と敵意を示し続けた。
その後もしばらく意見を交わし合った末、爺様たちも安藤一人で行かせるのが最も龍司の安全性が高いと判断したようで、同行者はなしになった。
「……何か聞こえませんか?」
突然、礼奈がそう言って目を閉じた。何やら耳を澄ませているようなので、古都音と顔を見合わせつつ、俺たちも息を潜めて耳を澄ませてみる。
微かに甲高い音が聞こえる気がした。
キャンピングカーのドアを開けると、音が鮮明になった。おそらく車のクラクションの音だ。途切れることなくずっと鳴っており、この感じからして道路の方からだろう。
「二人は車内で待ってろ」
そう言い残してガレージを出ると、ちょうど父さんと滝のおじさんが門脇の通用口から外に出て行くところだった。俺も後を追い掛けようか逡巡したものの、念のため門と玄関とガレージを見張れる位置で待機しておく。玄関からは葵ちゃんや心結、晴佳さんなど女性陣もぞろぞろと出てきて、玄関前から何事かと門の方を見遣っている。
間もなく甲高い音が鳴り止み、静けさが戻った。既に十八時も半ば頃だけど、空はまだ明るく、蒸し暑さも健在だ。しかし、そこはかとなく寒気がする。どうにも背筋がぞわぞわとして落ち着かない。
まず滝のおじさんが戻ってきて、門を開けた。すると父さんが運転するピックアップトラックが入って来て、ガレージ前で駐まったので、降車してきた父さんに声を掛ける。
「安藤は?」
父さんは力なく頭を振りながら車体後部に回り込み、荷台に目を向けた。その横に立って荷台を覗き込んでみると、おっさんが横たわっていた。目と口は半開きで、四肢も脱力してだらしなく投げ出され、胸元には赤い染みが大きく広がっている。荷台の端にブルーシートが寄せられており、先ほどまでそれで覆い隠されていたことが窺えた。
「死亡確認は?」
「まだだが……するまでもなく、一目瞭然だ」
父さんは額に左手を当てて重苦しい溜息を零すと、右手を軽く振ってきた。その手には茶封筒が握られている。
「ハンドルに張り付けてあった」
「中身は?」
「まだ見てない。まあ、大体の予想は付くが……」
「……とりあえず、龍司まで死体で送り付けられなかっただけ、まだマシだと思おう」
敵が自暴自棄になり、安藤も龍司も殺して消え去る。それが最悪の展開だったけど、こうして安藤だけが死体で戻ってきて、そこに新たな脅迫状が添えられているとなれば、まだ敵は交渉する気があるということだ。つまり、交渉材料たる龍司が生きている可能性はまだ残っていることを意味する。
まあ、あくまでも可能性だけど……。




