29 脅迫
夜が明けて、八月四日。
六時に起床して、三人で朝食を摂った。
昨夜は赤子の世話と不審者の襲撃を警戒して、二十一時から三時間おきに交代で夜番をしたけど、特にこれといって問題は起きなかった。ただ、起床後にトイレへ向かうため車外に出ると、例の女と男の死体が消えていた。何がどうなったのかは不明だけど、もはやどうでもいいことだ。龍司の誘拐事件だって、俺たちと無関係の他人からしたら、どうでもいいことだろうしな。現在の社会状況では身近な人たち以外の事情など、余程の余裕がなければ関心を持てないだろう。
朝食後、赤子にミルクを与えて少しゆっくりしてから、道の駅を出発した。礼奈が運転させてほしいと言ってきたので、特に断る理由もなかったから、俺は助手席に収まった。
道の駅は郊外の住宅街の更に外れに位置しているため、辺り一帯には田畑が広がり、商店の類いはなく、民家がぽつぽつと建っているくらいで、かなり閑散としている。窓を開けて生温い風に当たりながら、そんな田舎風景をしばし漫然と眺めていく。
「いい天気だなぁ」
「そうですね」
昨夜とは打って変わって、今朝は雲一つない快晴だ。おかげで七時過ぎでも既に日差しが強く、猛暑日になることを予感させてくる。結城家を訪ねる正午には、うんざりするほど蒸し暑くなっているだろう。
思わず溜息を吐きながら窓を閉めた。
「まだ電波ジャック続いてるな」
カーナビをいじり、テレビ番組をチェックしていく。どのチャンネルに替えても放送内容に変化はなく、高速道路のサービスエリアと思しき場所が俯瞰気味に映し出されていた。念のため音声を一通り聞いてみたけど、先日から特に変化はなかったので、すぐに消音した。
「この調子ですと、あと一週間は続きそうな気がします」
「そうだな。十日間で十人殺すってルールを考えると、十日が一つの節目になりそうだ。もしテレビの内容が変わるとすれば、十一日の九時になるかもな」
それまでに電波ジャックが終わり、通信障害も解消されるかもしれないけど、それはあまり考えたくない可能性だ。宇宙人などおらず、全てはハッカーの犯行だとしても、この非日常が中途半端に終わってしまうような結末は勘弁願いたい。
そんなことを考えつつ欠伸を零していると、運転席から「ところで」と声が掛かった。
「今回の件が片付いた後はどうするつもりなのか、何か考えていたりしますか?」
「漠然とどこか行こうとは思ってる。礼奈は何か希望あるか?」
運転席に端然と着座している美女はしっかりと両手でハンドルを握って前を見据えており、余所見する素振りもないまま答えた。
「私は海に行きたいです」
「その心は?」
「一度くらいは海水浴をしてみたいと思いまして」
ふと心結との約束を思い出してしまい、礼奈の言葉に上手く反応できなかった。しかし彼女は気にした風もなく、続けて言った。
「一連の出来事が本当に宇宙人によるものであれば、殺し合いを生き残れる可能性は高くないでしょう。よしんば生き残れたとしても、その後どうなるのかは不明です。なので、せめて後悔のないようにしておきたいです」
「……なるほど。海で泳いだことないんだ?」
「はい。学校のプールで泳いだことしかありません。そもそも海に行ったこともないです。飛行機から海を見たことがあるくらいですね」
もし仮に、今日明日にでも電波ジャックが終わり、通信障害も解消され、全てはハッカーの犯行だと確定し、日常が戻ってくることになったとしても、心結と二人で海に行くことなど、もはやあり得ない。それ以前の問題として、既にあの少女との関係は破綻している。少なくとも俺の中では、もう終わっている。
綺麗な横顔から十インチほどの画面に視線を戻すと、押し込めていた溜息をそのまま飲み込み、軽く笑みを浮かべてみせた。
「そっか。じゃあ龍司の件が片付いたら、水着買いに行くか」
「よろしいのですか?」
「俺はいいよ。古都音ー、お前はどうだー?」
振り返ることなく後方のテーブル席へと声を掛けると、「とりあえずはいいんじゃない?」などと他人事のような答えが返ってきた。
「じゃ、とりあえずは決まりってことで」
画面内に動きが出た。
サービスエリアの横に長い建物の一部から、何の前触れもなく突如として、火の手が上がった。いや、規模としては爆炎と言うべきか。衝撃波でも生じてカメラが揺れたのか、一瞬映像が乱れた。すぐに回復したけど、先ほどより画角が少し下向きになっている。それでも黒煙を上げる建物と逃げ惑う人の姿はしっかりと映し出されていた。
殺人シーンというより、爆破テロの映像だな。これがどこのサービスエリアか分かれば、カーナビで検索して、近場なら海ではなくそこを目的地にしていたところだけど、生憎と映像から地名などの情報は見て取れない。
「そういえば、瀬良さんは? 彼女とはもう行動を共にすることはないのですか?」
「ないだろうな。いや、葵ちゃんが俺たちと一緒に行きたいって言うなら歓迎するけど、たぶん俺には失望しただろうし、あの子は心結の友達として結城家で世話になると思う」
「そうですか」
礼奈は特に何の感慨もなさそうに頷いている。
俺としては葵ちゃんと別れることになるのは惜しい。惜しいけど、弁明して信頼を取り戻そうとまでは思わない。俺に対して不信感を抱きはしても、合田のおっさんや桐本家でのことはちゃんと証言してくれるだろうからな。
「ま、それもこれも龍司を助け出せた後の話だ」
「それはそうなのですが、暁貴さんは昨夜も今も随分と余裕そうですよね」
「やれるだけのことはやったし、成算もあるからな」
昨日、結城家を去った時点で、今後どう動くべきかがほぼ確定した。だから悩む余地などもうないし、今更あれこれと案じたところでどうにもならない。後はなるようになる。もしならなくても、それはそれで楽しめるだろう。
「だから、礼奈もあまり気負わなくていいぞ」
「気負っているように見えますか?」
「見えるというか、ならどうして急に運転したいって言い出したんだ?」
「……私は特に役立っていないように思ったので」
「十分役立ってるし、場合によっては更に役立ってもらうから、大丈夫だ」
礼奈が母親を殺したことは葵ちゃんに伝えてある。
葵ちゃんは半信半疑だろうけど、心結や父さんたちから礼奈について問われたとき、そのことは伝えるはずだ。何せ葵ちゃんは礼奈のことをほとんど何も知らない。礼奈について語ろうと思えば、真偽不明とはいえ母親を殺した件について必ず触れるはずだ。
もし俺と行動を共にしているのが古都音だけであれば、父さんたちは赤子の安否をあまり案じなかっただろう。古都音という良心が俺を止めてくれると期待できるからだ。しかし、俺と同種の女も一緒となれば、少なからぬ危機感を抱くはずだ。その危機感が安藤のおっさんを突き上げる原動力になってくれる。特に父さんはこれまでの行いから、安藤のおっさんには強く出られないだろうからな。
門之園礼奈という得体の知れない女が――赤子を攫うのに協力した女が、俺と行動を共にしている。その事実が出来上がっているだけで、礼奈は十分に役に立っている。
「そうですか。では、そのときは頑張らせてもらいます」
一瞬だけ顔ごと目を向けられ、クールな真顔で力強く頷かれた。
「いや、だからそう気負わなくていいって」
そう、気負う必要など全くない。
俺は冷静だ。
冷静に、むしろ折角の機会を楽しむべきだと、そう思えている。
龍司を無事に救出するという最高の結果を追い求める今回の一件、これには当然、最悪の結果に終わる可能性が厳然と存在する。であれば、全力で過程を楽しまねばならない。もし万が一、最悪の結果に終わったとき、そこに至る過程で確かな喜びを得られていれば、俺は最悪を受け入れることができる。場合によっては満足すらできるだろう。
何のために龍司は犠牲になったのか。
その疑問に対する答えさえ用意できていれば、俺はどんな結果だって受け入れられるはずだ。
■ ■ ■
何事もないまま、九時になる前に結城家の近くまで来ることができた。
約束の時間までは適当なコンビニの駐車場にキャンピングカーを駐めて、車内で大人しく過ごした。周辺のスーパーやドラッグストア、はたまたショッピングモールなどを巡って、現在の世情はどんな感じなのか見て回ろうかとも思ったけど、そこで何かトラブルに巻き込まれないとも限らない。余計な真似はせず、龍司の件に集中すべく、仮眠を取ったり雑談したりして時間を潰した。
「よし、行くか」
早めの昼食を済ませ、開店休業状態のコンビニでトイレを借りた後、出発した。
結城家には約束の五分前に到着した。既に門は開いており、門前には敵となる安藤が一人で立っていた。門脇にある来客用の駐車場に車両は一台も見られず、周辺に人影も確認できない。これなら背後から奇襲を受ける心配はあまりなさそうだけど、油断は禁物だ。
フロントガラス越しに安藤と目が合った。実に堂々とこちらを見つめ返してくるし、立ち居振る舞いにも臆したところがない。むしろ静かな怒気を滾らせているように見えた。
俺はキャンピングカーの前半分だけ門の内側に入れた。完全に門の内に入ってしまうと、門を閉ざされたら逃げられなくなる。万が一の場合に備えて、なるべく退路は確保しておきたい。
安藤はキャンピングカーの前方十メートルほどのところに立ち、こちらが降車してくるのを待っている。その後方、母屋の玄関前には父さんたちの姿が見えた。俺と赤子を抱いた礼奈が降車すると、彼らはぞろぞろとこちらに歩み寄ってくる。
父さん、爺様、婆様、晴佳さん、心結、葵ちゃん、滝のおじさん、おばさん、優子ちゃん、そして安藤。計十人のうち七人が女子供老人だ。数に物を言わせて襲い掛かられることはないだろけど、襲い掛かられても対処は難しくない。何せこちらには人質の赤子がいるからな、どうとでもなる。
炎天の下、遠く蝉の鳴き声が響く中、軽く深呼吸をしてから、安藤を真っ直ぐに見据えた。
「龍司はどうした?」
律儀に挨拶などしてやらず、敬語も使わず、しかし敵意も気負いもなくぞんざいに問いを投げた。
「暁貴くん、君はとんだ勘違いをしているよ」
「まさかこの後に及んで、龍司の誘拐はあんたの差し金じゃないとでも言うつもりか?」
「当たり前だ」
心外だと言わんばかりに顔をしかめて睨んできた。
しかし、安藤のすぐ後ろにいる九人。彼らの俺を見る眼差しはそう単純なものではなく、同様の視線を安藤にも向けている者が多い。それぞれに思うところがありそうだけど、口を挟もうとする様子はない。ひとまず安藤が対応することにでもなっているのだろう。
「当たり前か。そう思ってるのはこの場であんただけみたいだけどな」
この状況は想定の範囲内だ。
俺が赤子を攫い、父さんたちが突き上げた程度で、安藤が罪を認めて龍司を連れて来る可能性は非常に低かった。何せ安藤は佐々木さんを利用した。端から自分に疑惑の目が向けられることは承知の上だったはずだ。現状は奴にとって想定外だろうけど、致命的な窮地というわけではない。冷静に対処すれば切り抜けられると踏んでいるだろう。
「確かに、端から見ればおれには動機があるように思えるだろうね。それが全くの間違いだとは言わないさ。晴佳と心結に対する結城家の扱いに、何も思わないところがないとも言わない」
「あー、はいはい、そういうのはいいから」
うんざりしたように頭を振ってやりながら、父さんと爺様の様子を窺う。他の連中が少なからず浮き足立っている中、二人は静かな面持ちで状況を見守っていた。
爺様は僅かに目を細めて険しい顔付きのまま泰然と直立している。以前、一緒に龍司の試合を観戦したときのことを思い起こさせる佇まいだ。俺と目が合っても微動だにしない。父さんの方も似たようなものだったけど、目が合うと一度逸らし、腕を組んでから再び視線を重ね、小さく頷いてきた。
「あんたの事情なんてどうでもいいんだよ」
父さんも爺様も決して愚鈍ではない。
俺が人質として赤子を攫い、説明役として葵ちゃんを残し、更には心結を拒絶してみせたことで、状況を理解し俺の思惑を察したはずだ。そして安藤に対して毒を仕込んでくれたことだろう。もし察していなくとも、俺のためではなく龍司と赤子を助けるために、毒となる情報は吹き込まれているはずだ。
段取りさえ誤らなければ、安藤を追い詰めることは難しくない。
「それに何をどう言われたところで、俺はあんたが黒幕だと確信している。あんたが白を切って龍司を差し出さないっていうなら、この赤子を殺す」
平然と、感情的な素振りは見せず、ナイフを抜いた。そして刃先を礼奈が抱く赤子に突き付ける。赤子は先ほどから眠っており、起き出す気配は今のところない。
「やめて暁貴くん!」
「暁貴さんっ、その子はあなたの弟ですよ!?」
晴佳さんと婆様が悲鳴めいた声を上げ、前者はこちらへと一歩を踏み出したけど、隣に立つ父さんが制止していた。
今この場で重要なのは安藤だけだ。晴佳さんたちから何を言われ、どう思われたところで、俺にとっては一切の意味がない。安藤にとっては違うかもしれないけど。
「今日この場に来たのは、龍司とこいつを交換するためだ。でも、一度くらいなら猶予をやるよ。今すぐに龍司を連れて来るっていうなら、日暮れまでは待ってやってもいい」
「どうやら話は通じないようだね」
「誘拐犯同士、理解し合えるとでも思ったのか?」
冗談交じりに言いながら嘲笑を浮かべてやったけど、対峙する安藤に感情の乱れは見られない。頭上から降り注ぐ強烈な日差しのもと、後ろ暗いものはないと言わんばかりに、背筋を伸ばして胸を張っている。
「もしかしたらと思ったんだけどね……しかし、やはり無理そうだ。こうして話してみて確信したよ」
声には哀れみの情がこれでもかと込められ、実に自然な素振りで大きく溜息を吐いている。
どうやら奴も腹は据わっているらしく、こうして向き合っているとその冷静さが嫌でも伝わってくる。俺と同様に、慌てず騒がず落ち着いて、この場を切り抜けようとしている。
なかなかに厄介な相手だ。
そうでなければ面白くない。
「暁貴くん、今の君は明らかに正気じゃない」
その言葉は俺に対してではなく、自らの後ろにいる連中に向けてのものだろう。
ここまでの様子を見る限り、晴佳さんや心結でさえ、安藤に疑惑の眼差しを向けているのが見て取れる。各人で程度の差こそあれ、この場の全員が安藤を疑っていることは間違いない。
しかし、同じくらい俺の正気も疑われている。
「君の話は貴俊くんと葵ちゃんから聞いたよ。君の母親は自殺したわけではなく、君が殺したのだとね。更にここ数日で既に二人も殺している。自分の身を守るためとはいえ親を殺し、女子供を助けるためとはいえ立て続けに人を殺した」
今の古都音と葵ちゃんが可哀想な女の子と見做されるように、客観的に見れば俺も心を病んだ狂人と思われるだけの状況にある。これを否定することは難しい。
けど、そもそも否定する必要などないから、何も問題はない。むしろ好都合だ。
「今の君は正気を失っている。一度立ち止まって、よく考えるんだ。みんな、君を心配している。ここで幼い弟を傷付けるような真似をしてしまえば、本当に取り返しが付かなくなるよ」
この場における安藤の勝利とは、冷静に俺を説き伏せてみせることで、みんなに俺が間違っていると思わせることだ。そしてみんなに俺を説得させて、あるいは襲わせて、赤子を取り戻す。安藤が黒幕だという確たる証拠がないことは事実なのだから、俺の意思を揺るがせられる余地はあると思っているだろう。
対して、俺の勝利とは、安藤に俺が本気だと信じさせる――恐れさせることだ。他の連中はどうでもいい。安藤に対してのみ、龍司を連れて来なければ俺が本当に赤子を殺すと思わせることができれば、奴も折れるだろう。まさか血の繋がった甥っ子を犠牲にしてまで龍司をどうこうしようとは思うまい。
「昨日、あんたの姪っ子にも言ったんだけどな、俺はもう茶番を続けるつもりも、そんな余裕もないんだよ。何せ大事な弟分が攫われたんだからな。取り返しが付くだの付かないだの言ってるような状況じゃないんだ。こっちは切羽詰まってるんだよ、必死なんだ」
「君が龍司くんを助けたいと強く思っていることは理解できるし、おれを犯人扱いしたくなる気持ちも分からないでもない。おれが犯人で、犯行を認めさせれば、今回の事件は解決できるわけだからな。でもだからといって、従弟を助けるために弟を人質に取るだなんて、あまつさえ殺すと脅すだなんて、あまりに無茶苦茶な行動だよ」
それは安藤のみならず、俺たちの遣り取りを見守っている連中も、多かれ少なかれ思っていることだろう。
「こいつが俺の弟なら、そうかもな」
何でもないことのように、さらりと告げた。
だからか、後ろの連中に大した反応はなかった。一方で、安藤には明らかな動揺が見られた。これまで全くぶれなかった視線が揺らぎ、小さく眉根を寄せて、思わずといったように口を開くも、すぐに何も言わず閉ざしている。
やはり間違いない。
こいつは既に毒を盛られている。
「しかし、あんたにとっては残念ながら、こいつは俺の弟じゃない。赤の他人だ」
「いいえっ、その子はまーくんよ! わたしの子なの! まーくんを返してっ!」
何を思ったのか、晴佳さんが焦燥感も露わに必死に声を上げている。そのせいで赤子が目を覚ましてしまい、そこらの庭木にいる蝉よりもやかましい声で泣き始めた。
安藤は泣きじゃくる甥っ子と今にも泣き出しそうな妹を見比べた後、背後の連中全員の様子を確かめるようにゆっくりと見回していく。父さんと爺様以外、怪訝そうに安藤を見つめ返していた。
こちらに向き直ってきた安藤は、見るからに顔色が悪かった。頬を流れ落ちる汗の滴が、日差しに反射してよく見えた。
「……急に、何を言っているんだ?」
本来、安藤宗仁は情に厚い善良な男なのだろう。特に肉親に対する思い遣りは相当なもののはずだ。だからこそ、妹と姪っ子が蔑まれるのを見過ごせなかった。これまでにも結城家に対して思うところが多々あっただろうことは容易に察しが付く。遂に堪忍袋の緒が切れた結果として、今回の事件を起こした。
その手の情義で動く男に対して、兄が弟を人質に取っている姿は滑稽に映ったかもしれない。いくら相手が母親を殺したことがあるからって、確たる証拠など何もない不確かな状況下で、まだ赤子の肉親を傷付けられるはずがない。相手が本当に正気を失っていれば未だしも、二日続けて会ったときの様子に違和感はなかった、大丈夫だ……と、そう高をくくっただろう。
「あんたは知ってるか? なぜ、俺の母親とそこの結城貴俊が離婚することになったのか」
安藤は父さんと爺様から、暁貴ならやりかねないなどと言われたはずだ。もし龍司を誘拐したのなら返せ、でなければ正貴が――彼らにとっては息子であり孫であり甥っ子である赤子が殺されると、強く迫られただろう。
安藤はそれを父さんと爺様からの揺さぶりだと捉えたことは想像に易い。
「なぜ、俺の母親は息子を殺そうとしたのか」
あるいは父さんと爺様はもっと直截的に、暁貴は息子でも孫でもない、正貴の兄でもないと断言し、危険を訴えたかもしれない。しかし、安藤にとっては突然のことで、到底信じられなかっただろう。犯行を自白させるべく虚言で脅しているとしか思えなかったはずだ。
「なぜ、俺が結城家と距離を置いているのか」
事ここに至った以上、安藤は悟っただろう。少なくとも、無視できないほどのリスクを冒していることを自覚したはずだ。情義で動く男ならば、己の復讐心が甥っ子の無垢な命を危うくしている現状に、意思が揺らがないはずがない。
「あんたが妹と姪っ子を大事に思うように、俺だって十数年来の弟分を大事に思ってる。そしてあんたにとって龍司が赤の他人も同然であるように、俺にとってこいつは正真正銘の赤の他人だ」
安藤は呼吸も忘れたように硬直し、立ち尽くしている。
俺を見る目に先ほどまでの余裕は感じられない。得体の知れない不気味な何かを前にしたかのように、目を見張って身じろぎひとつせず、こちらをじっと見つめてくる。
俺はその視線を真っ向から受け止めることに、何の緊張も感じない。先ほどから、ただ事実を述べているだけだから、一切の気負いなく自然体でいられている。
「だから、あんたが龍司を攫わせたように、俺もこいつを攫って脅せる。俺はあんたと同じことをしているんだ。つまり、あんたができることは俺にもできる。龍司のためなら、こいつを傷付けることに何の躊躇いも感じない。復讐に殺すことも厭わない」
俺の中に、この赤子に対する肉親の情など、欠片も存在しない。
あるとすれば、それは羨望から生じる妬心だと自覚できる。だから、むしろ殺すに足るだけの理由さえあれば、これ幸いとばかりに殺せるだろう。
赤子に嫉妬するなど、我ながら笑える話だ。
「さて、もう一度、同じ質問をする」
青々とした空に蝉と赤子の合唱が不快に響く中、俺は腹の底に力を込めた。そして、これまで抑えてきた敵意を視線にのせ、低く唸るような声で問いを投げる。
「龍司はどうした?」
安藤が駆け出してきた。弾かれたように唐突に、放たれた矢の如く真っ直ぐに、僅か十メートルほど先から一気に迫ってくる。
「――ハッ!」
思わず笑みを零しながら、礼奈の腕の中にいる小うるさい奴を鷲掴み、力任せに放り投げた。こちらから見て右斜め前方に、放物線を描く形で上方に投げたため、当然の如く安藤の視線も意識も一瞬でそちらに吸い寄せられた。赤子の方へ進路を変え、走りながら中空に手を伸ばしている。端から俺など眼中になさそうで、甥っ子が地面に叩きつけられる未来を阻むことに全力を尽くしている。
安藤が無事に赤子を抱き留めた、その次の瞬間。
俺は駆け寄りながら大きく振りかぶっていた拳を、一切の手加減なく全力で、奴の顔面に叩き込んだ。安藤はろくな受け身も取れぬまま地面に倒れる。しかし、さすがというべきか、両腕で抱いた赤子はしっかりと保持したままで、何事もなかったかのように元気に泣いている。
「まーくんっ!」
「動くな!」
駆け寄ってきた晴佳さんに一喝し、鼻血を垂れ流す安藤の腕の中から赤子を引っ張り出した。安藤は意識が朦朧としているのか、軽く呻く程度でろくに抵抗されることなく、あっさりと確保できた。
俺は左手でぞんざいに抱えた赤子に、持ち直したナイフの切っ先を向けると、怯え竦んだように立ち尽くす晴佳さんを睨むように見据えた。
「息子を無事に返してほしければ、さっさと兄貴を叩き起こして説得しろ。龍司の身柄と交換でなければ、こいつは絶対に渡さん」
父さんと爺様以外、みんな唖然としていた。
その隙にさっさとキャンピングカーの運転席に戻り、同じく助手席に戻った礼奈に赤子を任せた。車外では父さんと晴佳さんが倒れた安藤の側に寄り、屈み込んでいる。
「とりあえず、お疲れ様。よく頑張ったね」
後ろから古都音の声がしたかと思ったら、頭を撫でられた。車外の何人かはまだこちらを見ているから、今はそういうのやめてほしいんだけど……まあ、べつにいいか。何をどう思われたところで、今更だしな。
その後、間もなく意識を取り戻した安藤は、自らの犯行を認めた。




