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終末よ、生きる望みの喜びよ  作者: デブリの遺灰
The 2nd Run
28/43

28 世態


 次の目的地は龍司のマンションで筆談したときに決めていた。

 郊外にある道の駅だ。

 都市部にある結城家からだと、約三十キロの道のりになる。道中では事故車などによって交通規制されているところが幾つかあり、その渋滞に捕まったり、回り道したりしたせいで、二時間ほど掛かった。

 到着した頃には十七時を過ぎていた。


「ゴールデンウィークのときより、だいぶ空いてるね」


 バック駐車を一発で決められず切り返していると、古都音が駐車場を見回しながら言った。

 ゴールデンウィークに古都音とドライブに行ったとき、ここに立ち寄って売店を覗いたりソフトクリームを食べたりしていた。一度来たことがあったから周辺環境を多少は把握できていたこともあり、ここを本日の宿泊地に選んだ。これだけ離れた場所なら、結城家の連中に万が一にも見付かることはあるまい。


「夏休みとはいえお盆はまだだし、今の社会状況で遊びに行く奴はそういないだろうしな」

「まあ、普通は家で大人しくしてるよね。パンデミックのおかげで巣ごもりに慣れてる人は多そうだし」


 何とか上手く駐車できたので、エンジンを切って車外に出た。


「なんか曇ってきたね」


 古都音も降車して、帽子を押さえながら空を見上げている。

 出発前まではよく晴れていたのに、だんだんと分厚い灰色雲が多くなり、今ではいつ降り出してもおかしくないような様相を呈していた。


「天気予報の有り難みが分かるな」

「だね。でも、車中泊するなら少しでも涼しい方がいいし、雨は好都合じゃない?」

「それもそうか」


 キャンピングカーに家庭用エアコンが積まれていることは龍司から聞いていたし、道中の信号待ちのときに車内を軽く見回していたので確認もできている。更に車体上部にはソーラーパネルが搭載され、バッテリーに充電されるようになっているらしいから、エアコンを使用できるとは思うけど、電力は相当食うはずだ。車内灯やIHコンロを使うことを考えれば、節電するに越したことはない。

 ひとまず、車体左側面の後部にある扉から車内に入った。居住スペースは主に座席とテーブル、シンクにコンロ、トイレ兼シャワー室、ベッドがあり、礼奈は赤子を抱いて座席に座っていた。座席はファミレスのソファ席のような二人掛けのタイプで、それがテーブルを挟んで二つあり、四人がテーブルを囲めるようになっている。


「礼奈、任せっきりで悪いな」

「大人しく眠ってくれているので大丈夫です。ただ、お手洗いに行きたいので、少しお任せしていいですか」

「ああ、もちろん」


 立ち上がった礼奈から赤子を受け取ろうとしたところで、俺たちの間に古都音が割って入ってきた。


「古都音?」

「ここはことねーちゃんに任せんしゃい」

「大丈夫か?」

「ぼくの母性本能が火を噴くぜ」


 少し不安だったけど、礼奈に頷いて見せると、彼女は古都音に赤子を手渡した。古都音は礼奈と入れ替わるようにソファ席に腰掛け、すやすやと眠る赤子を隣の座面にそっと下ろしている。


「礼奈、女子トイレには入らない方がいい。多目的トイレを使うんだ」

「……なるほど、そうですね。そうします」


 マナー違反だけど、今は非常時だ。もし女子トイレに暴漢が潜んでいれば、危機的状況に陥りかねないのだから、マナー云々より身の安全を優先せざるを得ない。


「ここから見張ってるから、何かあればすぐ駆け付ける」

「ありがとうございます」


 俺は再び外に出て、礼奈の背を見送る。駐車地点からトイレまでは視線を遮る物は何もないので見通しは利く。

 礼奈が多目的トイレのスライドドアを開けて中に入っていくのを見届けた後、改めて周囲を軽く見回してみた。道の駅の駐車場はバスやトラックなどの大型車用のスペースと、乗用車用のスペースに分かれており、俺が駐車したのは後者の方だ。どちらのスペースも空車が目立ち、全体の二割も埋まっていない。まだお盆前とはいえ、夏休み期間の日暮れ前にこれだけ空いているのはやはり違和感がある。ゴールデンウィークのときは満車で、運良く入れ替わりに駐車できたくらいだったから、元からここが閑散としているわけでは決してないはずだ。

 キャンピングカーの類いは他に見当たらない。まだ夕刻だから今夜どれだけの台数が車中泊でここに留まるのか、今の時点で判断は難しいけど、赤子の世話を考慮せずとも警戒のために交代で夜番をした方がいいだろう。

 そんなことを考えていると、礼奈が戻ってきた。


「少し売店の様子を見てくる。二人は外に出ず、車内で待っててくれ」


 そう言い残して、一人で道の駅の建物の方へ足を向けた。

 売店は閑散としていた。以前訪れた際には様々な土産品や地元農家の直売所として野菜が所狭しと陳列され、客が行き交い賑々しい雰囲気があったけど、今は空の棚や台ばかりで、残っているものはキーホルダーなど飲食物以外の雑貨しかなく、客の姿は二人しか見られない。

 売り場の隣には小さな食堂があり、客が何人か入っていた。今夜はここで夕食にしようかと少し考えたけど、既に人類バトロワは始まっている。食事に毒物を仕込めば簡単に殺害できることを考えれば、避けるのが無難だろう。今の段階ではさすがに警戒しすぎだと思うけど、車内に食料があるのだから、極小とはいえわざわざリスクを冒すことはない。

 道の駅とその周辺に関する案内板があったので、以前来たときにも軽く見たけど、改めて確認してみた。どうやら売店や食堂などの施設の営業は十八時までらしく、意外にも閉店時間が早い。

 天然温泉のパンフレットが置いてあったので手に取って見てみると、ここから二キロほどのところにあるようだった。ホテル内にあり、日帰り入浴も可能らしい。キャンピングカーがあるから宿泊するつもりは全くないけど、一汗流したい気分ではある。


「いや……ここで大人しくしておくべきだな」


 今回の龍司誘拐事件は、赤子を攫えた時点で既に半ば解決している。それくらい俺は安藤のおっさんが黒幕だと確信できてしまっているし、人質交換で龍司を助け出せる自信もある。おかげでそれほど深刻にならずに済んでいるけど、だからといって油断は禁物だ。温泉やホテルといった不特定多数が集まる場所に行けば、少なくともここで車中泊するよりかは何らかの厄介事に巻き込まれる可能性が高そうだし、今夜はもうキャンピングカーに籠もって大人しくしているのが今の俺にできる最善の行動だろう。龍司の無事が懸かっているのだから、軽率な真似は控えないとな。

 その後、道の駅の敷地内をぐるりと歩いて回り、何かしら危険の兆候がないか――死体や血痕の有無、見掛ける人々の様子などを一通り確認してから、キャンピングカーに戻った。

 少し小腹が空いたので、佐々木さんの遺体から回収したチョコレートを摘まみながら、二人に売店などの様子を話していく。眠っている赤子が起きないように、声の大きさには気を付けた。


「ところで、この後の予定はどうなっているのでしょうか?」


 話が一段落したところで、隣に座る礼奈が尋ねてきた。


「あ、悪い。そういえば説明してなかったな。明日の正午にまた結城家に行って、人質の交換をすることになってる」

「明日ですか」

「無駄に猶予は与えない方がいいからな」


 本日は八月三日、誘拐犯の指定日は六日だ。

 もし万が一、安藤のおっさんが黒幕ではなかったとしても、一日以上の時間は残ることになる。それだけあれば、身代金を用意するなど他の行動を取れるはずだ。


「暁貴さんは昨日、ご実家に手紙を出しに行きましたけど、どのような内容だったのかお聞きしても?」


 その問いから、礼奈が何を気にしているのか察しが付いた。


「一通り本当のことを書いておいた。ただ、婆様たちの様子からして、父さんは婆様たちに何も伝えてなかったみたいだけどな。でもこうなった以上は、俺の状況を――既に人を殺していることをみんなに話して、安藤のおっさんを突き上げるはずだ」


 今回の件がなければ、父さんが俺の状況を爺様以外に話すことはないと思っていたから、婆様たちが何も知らなかったことに疑問はないし、むしろ納得だ。

 しかし、大事な跡継ぎ候補筆頭が誘拐されたとなれば、みんなに俺の危険性を説いて安藤のおっさんを追い詰めることは想像に易い。


「もし突き上げなかった場合は?」

「俺は心結に暴力を振るってまで誘拐を強行した。こちらの本気は伝わっているはずだから、その可能性は低いと思うけど……その場合は、明日俺が安藤のおっさんを直接脅すしかない」


 礼奈はちらりと古都音を見てから、変わらぬ平静さで口を開いた。


「心結さんは、暁貴さんと母親のことを知っているのですか?」

「いや、知らない。表向きは母親の無理心中に巻き込まれたけど生き残ったってことになってる。古都音は知ってる」

「経緯はどうあれ、暁貴さんは母親を殺害した。であれば、弟を殺害することもあり得る……と考えてくれるでしょうか? 血の繋がりこそ半分とはいえ、相手は赤ちゃんですし、暁貴さんがそこまで非道なことをできる人だと、安藤に信じさせることが可能なのでしょうか?」


 もっともな疑問だ。

 しかし、そもそもの前提が間違っている以上、問題はない。


「その辺りも策はある。明日、もし安藤のおっさんが龍司を連れて来てなくても、最後の追い込みをかけられるだけの材料はあるから大丈夫だ」

「それはどのような?」

「秘密だ。もしものときのお楽しみってことにさせてくれ」


 言う必要がなければ、それに越したことはないからな。本来は俺と父さんと爺様だけの秘密ということになっているし、俺も積極的に話したいことでもない。


「お楽しみですか。こんなときでも、暁貴さんは余裕そうですね。さすがです」

「そういう礼奈もな。巻き込んでしまって申し訳ない」

「いえ、母との件に比べれば、これくらいどうということはありませんし、巻き込まれて嫌な思いもしていません。共に苦難を乗り越えることは、信頼関係の醸成になりますから、むしろ好都合というものです」

「正直だなぁ。ま、嫌いじゃないけどさ、そういうとこ」


 思わず笑ってしまった。

 礼奈はかなり変わった人だけど、好感の持てる変人だ。それに変人だからこそ、同じくらい非凡な古都音とも相性は悪くないはずだ。


「嫌いじゃないといえば、桐本さんは暁貴さんのことをどう思っているのですか?」

「な、なんや急に……?」


 本当に急だな。唐突すぎて古都音でなくとも困惑するわ。


「いえ、どうやら私は暁貴さんに恋愛感情を抱いているようなので、桐本さんが競争相手になるのかどうか、気になりまして」

「――――」


 そんな愕然とした顔でこっちを見るな古都音。

 俺だって直球すぎる物言いに驚いてるんだ。


「それで、どうなのでしょうか?」

「ど、どどどどうってそりゃあオメー……あれだ、えっと……ぼくとあっくんは愛し合ってるんだぜ!?」

「……そういえば、暁貴さんに交際相手がいるのかどうか、確認していませんでした。私も色々と初めてのことなので、失念してしまっていたようです」


 他人事のように平然と言っているし、ショックを受けている様子もない。いや、昨日俺は古都音のことを親友だと礼奈に話したから、古都音の言葉を真に受けたというより、単に交際相手の有無を未確認だったことに気付いただけの反応なのか……?

 どうあれ、念のため断言はしておくことにした。


「まあ、俺に交際相手なんていないけどな」

「それでは私にもチャンスはあるということですね」

「お、おまっ、おままままえぇっ、そこはいるって言っとけ! 目の前にいるって言っとけよ暁貴! ことねーちゃんの乙女心を察しろ! 察して既成事実化する流れやろここは!」

「礼奈はこんな状況でも協力してくれてるんだから、嘘は吐けん」

「なるほど。どうやら競争相手ではあるようですね」

「あ、あわわわわわわ……あっくん、ぼかぁ信じてるかんね……?」


 思わず溜息を吐きそうになったけど、何とか堪えた。

 龍司の危機だというのに、暢気に色恋の話などする気は起きないし、龍司を無事に助け出せた後でもしたくない。古都音と礼奈とは今の関係のままでやっていきたいからな。

 ふと、赤子がやかましく泣き始めた。


「あーあ、どっかの自称乙女が無駄に騒ぐから」

「うぐ……どっかのヘタレがいつまでも鈍感系主人公を気取ってるからやぞぉ」


 古都音は恨みがましげに呟いてから、少し震えた手付きでおずおずと赤子を抱き上げ、「おー、よちよちー、いい子でちゅねー」などと言ってあやそうとしている。


「じゃ、俺はちょっと自販機で飲み物買ってくるわ。二人はその子のこと頼む」


 先ほど道の駅の敷地内を見て回ったとき、あちこちに設置された自販機の様子もチェックしていた。売店の飲食物は全滅していても、自販機の飲料はまだ幾らか残っているようだったから、これは確保しておいた方がいいだろう。ペットボトルの飲料水は箱ごとキャンピングカーに積み込んであるけど、なるべく温存しておきたいからな。

 車内にあった適当なビニール袋を持って、再び一人で車外に出た。時刻は既に十八時を過ぎているし、頭上は分厚い雲に覆われているけど、まだ夜の闇とは言い難い明るさだ。ひとまずはキャンピングカーから一番遠い場所に設置された自販機に向かい、適当に買い漁っていく。

 スーパーなどの店頭で購入するより割高とはいえ、既にどこも品切れだろうし、いつ断水してもおかしくはないのだから、安全な飲料は貴重品といえる。幾らあってもいい。まずは缶類よりペットボトル類を優先して確保だ。


「ん……?」


 十本目のペットボトルを取り出したところで、鼻先に水気を感じた。気のせいかと思う間もなく、ぽつぽつと疎らに降り始めてくる。

 ひとまず撤収すべきか逡巡しつつ、何気なく周囲を見回すと、駐車場の一角で視線が止まった。駐車されたミニバンの側で、金髪の男と黒髪の男が何事か言い争っているような様子で対峙しており、そこはかとなく剣呑な雰囲気なのが見て取れる。こちらから五十メートルほど離れているので、生憎と会話内容までは聞こえてこない。

 徐々に雨足が強くなりつつあったけど、少し気になって様子を窺っていると、ミニバンから女が降車してきた。女は宥めるような素振りで、男二人の間に割って入ろうとしている。

 ふと金髪の男が腰元から何かを取り出し、黒髪の男の腹部にそれを叩き込んだ。


「お、ったか?」


 三人の男女は凍り付いたように一瞬だけ動きを止めている。しかし、次の瞬間には金髪の男の腕が再び動き、黒髪の男が崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。見た感じ、おそらく刃物で刺されでもしたのだろう。急に面白くなってきたな。

 女は遠目にも瞭然なほどの動揺を露わに腰を屈め、黒髪の男に寄りそう。金髪の男は乱雑な動きで黒髪の男に蹴りを入れて地面に転がすと、頭を勢い良く踏み付けた。そして女の髪を掴んだところで、不意に動きを止め、思い出したかのようにきょろきょろと周りに目を向け始める。


「おっと……」


 目が合った。間違いなく、向こうは俺に見られていることを認識した。

 金髪の男は女の髪を掴んだまま、身じろぎひとつせず、こちらを見つめてくる。だから俺もその場に突っ立ったまま、じっと見つめ返した。今は厄介事に首を突っ込むつもりはないけど、降りかかる火の粉を払うことに否応はない。向こうが来るのであれば、受けて立ってやろう。

 金髪の男は女の髪を手放し、そそくさとミニバンの運転席に乗り込んだ。車で突っ込んで来る可能性に緊張感がいや増す。しかし、ミニバンは道の駅の駐車場から車道に出て、走り去っていってしまった。

 なんか拍子抜けだな……。


「ま、いいか。いいもん見れたしな」


 正直、安心した。

 あの金髪の男と争うようなことにならずに済んだから、ではなく、ああした修羅場を目撃できたことで社会秩序が揺らいでることを実感できたからだ。

 ここ数日、俺の周りでは色々と血生臭いことが連発した。しかし、それは単なる偶然で、社会全体で見ると非常にレアなケースで、実際はまだまだ平和で安全な日常を送る人々が大勢を占めているのではないかと、少し疑問に思っていた。

 これまでの道中では何かしらの事件の痕跡を見掛けてはいたけど、今まさに荒事が起きている最中といった現場には遭遇してこなかったせいか、いまいち実感に欠けるところがあった。テレビの殺人シーンは真偽不明だし、所詮あれは画面越しの出来事だからな。

 しかし、先ほどの一幕は今ここで確かに起きた。この目で見た紛うことなき現実で、そこに疑問を挟む余地など皆無だ。倒れている黒髪の男はぴくりとも動かず、そんな男に女が泣きすがっている。すっかり本降りとなった黄昏時の中、雨音に紛れて微かに女の悲鳴めいた泣き声が聞こえてくる。

 こうしている今も、日本のどこかで――いや世界中で、ああした惨劇が頻発しているのだろう。事情など全く知らぬ赤の他人の切った張ったを第三者として傍観できたことで、それを感じ取ることができた。俺たちだけではないのだと安堵して、だからこそ改めて身が引き締まった。

 

「俺が死んだら、古都音もああして泣くのかな……」


 それは想像しただけで、かなりの罪悪感に苛まれる展開だから、なるべく死なないように頑張ろう。

 そんなことを思いながら、キャンピングカーに戻っていった。




 ■   ■   ■




 夕食は缶詰とパックのごはんで済ませた。

 キャンピングカーには冷蔵庫も電子レンジも備え付けられているので、冷やすことも温めることもできる。こんな状況でも温かい食事を摂れたおかげか、食卓の雰囲気は悪くなかった。古都音も礼奈も現状に対する不満や先行きへの不安などは少なからずあるだろうけど、それを殊更に表に出すような様子がないのは有り難い限りだった。

 食後には粉ミルクの用意をした。念のため、キャンピングカーに積まれていた鍋に、自販機で買ってきた水を入れ、IHコンロで沸かすことで、ほ乳瓶を煮沸消毒した。おかげで俺たちの夕食より準備が面倒だったし、赤子に飲ませるのも少し苦労した。いや、赤子の世話は古都音と礼奈に任せていたから、俺はほとんど端から見ているだけだったけど、見ているだけでも面倒そうだったし、苦労が伝わってきたんだよな……。

 食事の後片付けを終えると、トイレに行くついでに歯を磨くべく、古都音と二人で車外に出た。

 既に十九時も半ばを回っており、すっかり夜の帳が下りている。道の駅の敷地内にはあちこちに自販機があるだけでなく、街灯も立っているから、光源に不足はなく十分に視界は利く。駐車場には他に二台の乗用車が駐まっていて、大型車用の方にはトラックが一台だけ見られた。


「……あっくん」


 雨の中、二人で一つの傘に入って歩いていると、ふと腕をつつかれた。


「どうした?」

「あれ、さっき言ってた人?」


 古都音の視線の先には女がいた。トイレから少し離れたところにテーブルが幾つか置かれた休憩スペースがあり、そこの椅子に見覚えのある女が一人で座っている。足下には黒髪の男が横たわっており、ぴくりとも動かない。


「ああ、あの人だな」

「倒れてる人は……死んでる、んだよね……?」

「見た感じそうみたいだな」


 あれから一時間以上が経つ。

 今は龍司の件に専念する必要性から、赤の他人を助けてやろうとは思えなかったし、刺された男の生死や女のその後についても興味がなかったから、俺の中ではもう完全に終わった出来事として処理していた。

 先ほども今も、この道の駅には少数とはいえ俺たちの他にも利用者がいる。にもかかわらず、ああして一人悄然と椅子に腰掛け、男の死体が無造作に転がっているところを見るに、誰もあの女に手を差し伸べなかったのだろう。女の力でも男の死体を引きずるくらいはできるだろうし、誰かが手を貸してやったなら女の保護までしてやったはずだ。


「荷物も何もなさそうだけど、大丈夫なんかな……」

「助けてやりたいとか思ってるのか?」

「まあ、そりゃあ……なんか可哀想だし、できれば力になってあげた方がいいんだろうけど……でも今はこんな状況だし、あの人の事情とか何も知らないから、あの人が善良な被害者とも限らないわけで……うん、同情はしちゃってるけど、関わらない方がいいっていうのは分かってるつもりだよ」

「そうだな。それでいいと思う」


 古都音の言うとおり、俺たちはあの女の事情を何も知らない。だから、あの女が善人か悪人かを見極めるのは困難だ。こうして見る限りにおいては、確かにただの可哀想な女に見える。助けてやりたいという気持ちが微塵も湧き上がってこないと言えば嘘になる。

 しかし、現在は社会秩序が揺らいでいる。司法による抑止力が機能不全を起こしているような非日常の中で、安易に見知らぬ他人を助ける行為には一定以上のリスクを伴う。以前までの日常の中でさえ、人の善意を食い物にするような詐欺師はいた。油断はできない。

 あの女は男を殺されて号泣していたから、今は失意の底にある可能性が高く、人を害そうという思惑など持っていないとは思う。だから龍司の件がなければ、同情心と好奇心から関わってみるのもありだと思えたかもしれない。

 

「これから、どうなっちゃうんだろうね……」


 その呟きは雨音に掻き消えそうな弱々しさで、女を見遣る瞳の青さと憂いをたたえた横顔の白さは幻想的なまでに儚げだ。華奢な手が縋るように、傘を持つ俺の右手に重ねられる。その温もりと柔らかさが、雨に打たれる左肩の不快感を打ち消した。


「どうなるとしても、お前だけは必ず守ってやるから大丈夫だ」

「……唐突な聖騎士ムーブは、乙女がキュン死しちゃうんだよ?」

「じゃあ、今後はしないように気を付けるわ」

「なんでや! もっと不意打ちっ、きっとトキメキっ、ぼくは大好きっ、イェア!」


 あまりにも唐突すぎるラップ調がおかしくて、軽く噴き出してしまった。

 濡れた空には一切の光がなく、周囲は人口光の寒々しい明かりで薄らと照らされ、雨音が響くだけの不気味な静けさで満ちている。しんみりとした物寂しさの漂う夏の夜だ……と、つい今し方まではそう感じかけていたというのに、そんな雰囲気は一瞬で霧散した。


「急にラッパーになるな、乙女はどこ行ったんだ」

「乙女とラッパーは共存可能な属性なんやで」


 古都音も何か感じるところがあったのだろう。もはや弱々しさも儚さもすっかり鳴りを潜め、わざとらしいまでの露骨さで普段のふざけた調子を覗かせている。これが虚勢だとしても、虚勢を張れる程度には持ち直しているということだろうから、素直に笑えた。

 その後、俺はなるべく普段通りを意識した振る舞いを心掛け、古都音も茉百合さんの死や現在の状況を思わせる深刻さを感じさせないまま、この日を終えた。


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