22 母親
昨日と同じ道順で、例のコンビニまで向かった。
道中では昨日より非日常的な光景が多く見られた。昨日は何事もなさそうだった店が、今日は出入り口に車が突っ込んでいたり、ガラスが割れていたり、店そのものが焼け跡になったりしていた。特にカーショップが酷く、昨日は屋外にずらりと展示されていた車の大半が消えていた。店側がどこかへ移動させたのか、強奪されたのかは不明だけど、残っていた数台の車両は見るも無惨に破壊されて廃車同然か、炎上して黒焦げになっているかで、明らかに何か物騒なことが起きた形跡が見られた。
破壊された自動販売機の残骸は幾つも見掛け、交差点の隅には小型トラックが横転していて、何台ものバイクが猛スピードで歩道を爆走していく様子も見られた。人が争い合うような修羅場にこそ遭遇しなかったけど、一部の遵法精神に欠けた者たちが少なからず暴れ回っただろうことが察せられる程度には街並みが荒れていた。
まだ三日目、人類バトロワの開始時刻から五十時間ほどしか経っていない。通信障害の発生と人類バトロワの告知、そしてテレビで殺人シーンの映像が流れただけで、街では幾つもの犯罪の痕跡が見られるようになった。治安が乱れるとは思っていたけど、それが現実のものとなると、少し興奮を覚えた。そしてそれ以上に、より強く警戒する必要があると実感した。世界でも治安が良いとされる日本でこれなら、海外の国々の状況はもっと酷そうだ。
無事に目的地まで辿り着けるか少し心配になったけど、何事もなくあっさりと到着した。しかし、予定を変更してコンビニの駐車場には駐めず、そのまま車で礼奈のマンションまで向かうことにした。さすがに道中であんな光景を見掛けた後だと、まだ平穏な雰囲気を保っている住宅街だろうと徒歩で移動はしたくない。礼奈の親に車のナンバーを押さえられるリスクより、通り魔や轢き逃げに遭うリスクの方が看過できない。
礼奈のマンションに到着すると、正面玄関の脇に見覚えのある車が路駐されていた。
「あ、父の車です」
「今日はいたか」
俺も適当に路駐して、礼奈と共に車を降りた。向こうも気付いたのか、運転席のドアが開いて人が降りてきたけど、予想に反して母親の方だった。
「礼奈」
娘の名を呼びながら、小洒落たハンドバッグ片手にこちらへ歩み寄ってくる中年女性。その声を聞き、その顔を見て、目が合った瞬間、背筋がぞわりとした。今日もよく晴れて蒸し暑いというのに、寒気がして鳥肌が立った。
「お母さん……?」
礼奈も何か感じ取ったのか、訝しげに呼び掛けている。
旦那からは香奈子と呼ばれていた女は、昨日と比べてだいぶ酷い顔をしていた。化粧が乱れているのか、ところどころ肌の色味がおかしい。隈ができているのが分かり、目元にも口元にも力が入っておらず、髪も少し乱れているせいで全体的にやつれて見える。そのくせ目には妙な輝きが見て取れ、なぜか俺を凝視してくる。
この異様な感じ……嫌な予感がした。思い出したくもない記憶が刺激されるようで、心がざわつく。思わず逃げ出してしまいたくなる。
そんな自分を自覚して、深呼吸をした。
うん、大丈夫。俺は冷静だ。
「あの、一人ですか? お父さんは?」
「……そのことについて、話があってね。とりあえず部屋に入れてくれる?」
「……はい」
礼奈は気圧されたように頷き、マンションへと入っていく。俺は逡巡したものの、礼奈の母親が娘の後に続いていくのを見て、ひとまずは先に進んでみる。
斜め前を歩く女の足取りは顔色に反して悪くなく、階段でふらつくといった様子もない。やはり肉体面ではなく精神面での不調によって、あんな酷い顔をしていたのだろう。
二〇四号室の前まで来て、部屋の主が扉を開けたところで、一石を投じてみることにした。
「礼奈、俺はここで待ってようか? 親子だけで話した方が良さそうな雰囲気だし」
「瀬良さん、あなたも一緒にお願いします。礼奈の彼氏なら無関係な話でもありませんから」
礼奈が答える前に、女が即座に反応した。その声は娘に似て感情の読みづらい平板な調子だったけど、娘と違って仄暗い響きが感じられ、嫌な予感が強まった。
俺はちらりと礼奈の顔を窺う素振りを見せてから、頷いた。
「そうですか。ではご一緒させていただきます」
ここで礼奈の一件からは手を引くべきか迷ったものの、進むことにした。直感的な危機感はあったけど、面白いことになりそうだという思いも同じくらいあったし、ここで退くのは負けのような気もした。
だからこそ、警戒は怠りたくない。
「あ、お先にどうぞ。レディーファーストです」
微笑みながら如何にも仰々しい身振りで、女に先を促した。
今、この女に背中を見せたくなかった。
女は特に何の反応も見せず、娘に続いて入室していき、俺は最後に入って扉を閉めた。
「インスタントですけどコーヒー淹れるので、座って待っててください」
「ああ、ありがと」
短い廊下の先はリビングで、室内はあまり物がなかった。必要最低限の生活用品くらいしかなく、清潔感はあるけど生活感はあまりない。全体的に白を基調とした落ち着いた内装で、モデルルームをシンプルにしたような感じだ。
リビングの一面には二枚の引戸があり、左右に開かれていたので、隣が礼奈の私室になっているのが見えた。そちらはリビングとは打って変わって、カーテンやカーペット、ベッドの布団などはピンク系の柄で、枕元にはぬいぐるみまであり、全体的に可愛らしい内装になっている。女性的というより少女的で、少し意外だ。
「…………」
リビングの中央には、龍司の家の和室にもあったような正方形型の小振りなこたつテーブルがあり、女は無言のまま上座に座った。女の対面は礼奈が座るだろうし、そこは廊下やキッチンに背を向ける形になって危ない。俺は壁を背にして、女から見て左側で胡座を掻き、左足だけ膝を立てた。恋人の母親の前で随分と行儀の悪い座り方だけど、女に咎める様子はない。
「うーん、ちょっとずれてるな」
などと適当なことを言いながら、右手でこたつテーブルの足を掴んだ。そして設置位置の調整をするふりをして、重さを確かめてみる。全体的にプラスチック感丸出しの見た目にそぐわず、やはり軽い。いざというときは使えそうだ。
それはともかく、女が俺の右腕を凝視してくるのが気になる。たぶん古都音に噛まれたところを見てるんだろうけど、これもしかしなくても礼奈が噛んだと思われてそうだな。歯形ってキスマークみたいなもんだろうから、微妙に気まずい。
「礼奈、お手洗い借りるわよ」
「あ、はい」
女がハンドバッグを持って立ち上がったので、密かに身構える。しかし、女は俺の後ろを通らず、俺の対面側でテーブルを迂回し、廊下に向かって歩いていく。
少し拍子抜けしつつも、その姿を横目に追っていると、女が不意にくるりと身を翻した。かと思えば、こちらに大きく踏み出しながら、左手のハンドバッグを落とす。いや、手放した。
女の右手には先ほどまでなかった刃物が握られ、飛び込むような勢いで一直線に急接近してくる。
「――ハッ!」
思わず声を上げて笑いながら、左足に力を込めて腰を浮かせつつ踏ん張りを利かせ、念のため右手で掴んだままでいたテーブルを女の方へと全力で振り上げる。
「ぐぅ!?」
凶刃が届くより先に、テーブルが直撃した女は床に倒れ、苦鳴を漏らす。俺はテーブルの足から手を離し、代わりに女の手から落ちたナイフを拾い上げると、リビングの奥――ベランダに繋がる窓際まで後退した。
キッチンに立っていた礼奈は唖然とした顔で突っ立っている。
「え、な……え? 暁貴さん?」
「礼奈、どうやらお母さんは俺たちの交際に反対らしいぞ。俺を殺したいほどにな」
回収したナイフ――真新しくも安っぽい果物ナイフらしき刃物を礼奈に見せ付けながら苦笑してみる。そうやって冗談っぽく言わないと、胸中で溢れかえる感情の波に呑まれそうで、冷静さを保てそうになかった。
「お、お母さん?」
「何でよ……どうして、こんな……」
女は上体を起こしながら力なく呟いている。掠れたような声には不気味な響きがあり、先ほど刺されそうになったことも相まって、不快な記憶を想起させた。
だから、敢えて笑いながら言ってやる。
「生憎と、あんたみたいな手合いは初めてじゃないもんでな」
「おかしいじゃない……不公平でしょ……こんなのあっていいはずないわ……」
どうやら俺の声など聞こえていないようで、女は一人ぶつぶつと呟きながら立ち上がると、娘の方を見た。無防備にもこちらには背を向けている。
その無警戒な振る舞いで、もはやあの女は正気を失っていることを確信した。
「礼奈、あんたのせいよ」
「な、何がですか……?」
「あんたのせいでっ、慎吾さんが死んだのよ!」
あまり驚きはなかった。あれだけ娘のことを心配していた父親がおらず、女の様子がおかしかったのだから、むしろ納得だ。
礼奈も薄々感付いていたのかもしれないけど、一連の母親の言動に衝撃を受けているのか、クールビューティーには似合わない戸惑いを見せている。
「死んだ、って……どういうことですか」
「殺されたのよ! 頭おかしい奴に突然!」
あの女は不快極まるけど、状況そのものは面白くなってきたな。
「何度も刺されてっ、救急車呼べないからあたしが運転して病院行ったけどっ、死亡確認されて終わりよ! 訳分かんないわよどうしてこうなるのっ!」
背中からでも鬼気迫る勢いで怒鳴っていた。かと思えば、強張っていた肩肘からふっと力が抜けて項垂れると、仄暗い声を漏らし始める。
「せっかく……あんなにいい人と結婚できたのに……あんたを女として見ないで、あたしと比べたりしないで……本当に愛してたのよ、あんたが出ていって夫婦二人で最高に幸せだったのに……」
「…………」
「あんたにあたしの気持ちが分かる? 分からないわよね……だから少しでも分からせてやろうと思ったのに……何なのよ、そんな強い男捕まえて、これ見よがしに歯形なんかつけて……ほんとむかつくわ」
おいおい、娘への当て付けに俺を殺そうとしたってのか?
なんてババアだ。
「お、お母さん、実は暁貴さんは、恋人では――」
「あんたのせいで、あたしの人生めちゃくちゃよ」
娘の言葉など意にも介さず、女はどこか虚な声でぼそりと告げる。
瞬間、心臓が跳ねた。
かつて同じような状況で、同じような台詞を耳にした記憶が脳裏を過ぎった。
『あなたのせいよ、暁貴。全部何もかも台無しにした』
まずい……落ち着け。この状況で冷静さを失うのはまずい。
「あんたなんか産まなきゃ良かった」
『あなたを産んだのは間違いだったわ』
聞こえないはずの声が聞こえる。
今はあの親子の修羅場を傍観して、礼奈の人間性を見極めて、現状を楽しむにはどうすればいいのかを考えるべきなのに……そうするための余裕が急速に失われていく。
「ねえ、あんた何ぼけっと突っ立ってるのよ?」
『暁貴、どうしてあなただけこんないい暮らししてるの?』
動悸がする。呼吸が乱れる。腹まで痛くなってくる。
思わず拳を握り締めると、ナイフを手にしていることを思い出した。
人を刺す瞬間の感触を敢えて思い起こし、深呼吸をして、一度目を瞑る。
「あんたがいなければっ、慎吾さんは死ななかったのよ! 責任取りなさいよ!」
『あなたがいなければっ、私は今も幸せだったのよ! なのにおかしいでしょ!』
女が爆発したように金切り声で喚いたので、目を開けると、娘に向かって一歩を踏み出していた。もし俺の方へ近付いて来ていても、殺せば問題はない。
そう、あんな女の言葉に取り乱す必要など全くない。
自身の誕生を、存在を否定されたなら、こちらも否定してやればいい。頭のおかしい狂人の戯言など聞く価値もないし、真に受けてやる謂れもない。
「せ、責任って……どうやって」
やめろ、礼奈。もうそいつに話は通じない。
事情を察するに、そもそも礼奈に責任なんてない。
それより覚悟を決めろ。もう敵はすぐそこにまで迫っているぞ。
「死ね! 死んで償いなさい! あたしと慎吾さんに!」
『間違ってるのよ全部! 間違いは正さないといけないのよ!』
女は両手で娘の首を絞め始める。礼奈が後ずさっているのか、女が押し込んでいるのか、その両方か。礼奈は壁と敵に挟まれ、首元の手を引き剥がそうと抵抗するものの、為し得ていない。先ほど俺が女のナイフを回収していなければ、あのときの俺のように、今頃は礼奈の身体に突き刺さっていただろう。そう確信できるほどの明確な殺意が端から見ているだけでも感じ取れた。今、あの女は成人男性顔負けの膂力を発揮しているのかもしれない。
俺は自らが冷静さを取り戻していることを確認するため、ゆっくりと二人に歩み寄る。女はすぐ背後にまで来た男のことなど意識の埒外らしく、娘の首を絞め続けている。
「完全にイカレてやがる……」
思わず溜息を吐くと、無防備な後頭部を果物ナイフの柄頭で強く打ち付け――ようと思ったけど、寸前でやめた。これではつまらないし、礼奈のためにもならない。
振り上げていた手を下ろすと、礼奈が苦しげながらも不可解そうにこちらを見てくる。その疑問への答えとして、俺は左手で果物ナイフの刃先を摘まみ、女の耳元辺りで柄を差し出した。
「――っ!?」
礼奈の目が大きく見開かれた。
俺が女を無力化もしくは殺すことなど容易い。だから当然、礼奈は俺に母親を止めてくれることを期待している。もしここで助けてやれば、彼女は俺に少なからぬ恩義を感じてくれるはずだ。俺を巻き込んでしまった申し訳のなさだってあるだろうし、それらを上手く誘導すれば、今後は裏切る可能性の低い仲間として期待できるようになると思う。
しかし、それだけだ。
自分を殺そうとする敵とすら戦えない仲間など、足手纏いでしかない。
昨日の桐本家襲撃の一件で、いざというときは古都音を守ることすら困難であることを理解させられた。そして同時に、葵ちゃんという戦える仲間の存在の必要性を痛感した。
今までもこれからも、荒事において足手纏いが許されるのは古都音だけだ。そして俺が守れるのはあいつ一人だけと思っておくべきだろう。再び危機的状況に陥った際、他の奴を気に掛ける余裕なんてない。自分の身すら守れない奴など、古都音以外は許容できない。
そう考えておかないと、俺まで自分の身すら守れなくなりかねない。
「――っ、ぐ、う――ぅ」
礼奈は苦鳴を漏らし、敵の肩越しに視線で何かを訴え掛けてくる。
「…………」
俺はそれに無言を返し、ただただ武器を差し出し続ける。
敵はもはや言葉もなく、両手を娘の首に沈めていく。
美女の顔が鬱血により赤くなり、首絞めに抵抗する力も見るからに弱まってきた。それでも助けず、閉じかけている目を睨むように見据えていると、おもむろに手が伸びてきた。それは溺れる者が藁をも掴むような動きで、縋り付くように果物ナイフの柄を掴んだ。
もはや躊躇うような余裕はないのか、礼奈はすぐに刃を敵の左腕に押し付けた。しかし、敵は微動だにしない。続けて何度か切り付けても同様で、出血こそするものの、傍目にも深く切れていないのが分かる。もはやあまり力が入らないのだろう。
これはもうダメかな……と思いかけた、そのとき。
「ぎ、ぁ――ぁぁああっ!」
礼奈の口から断末魔のような声が上がり、両の目尻から雫が流れ落ちて、刃が突き出された。少し横手に回って見てみると、刀身の半分以上が敵の首元に埋まっていた。
しかし、それでも尚、敵の手は首から離れない。礼奈は左手で絞首の手を引き剥がそうとしながら、右手の刃を敵に突き刺したまま上下左右に無茶苦茶に動かした。
それでようやく、敵が倒れた。
礼奈も半ば倒れるように、壁を背にその場でへたり込んだ。何度も咳き込みながら肩で息をしており、床に左手を突いて項垂れている。右手には血塗れの凶器が握られたままだ。
女は床に倒れてから少しの間だけ微動していたものの、すぐにぐったりとして動かなくなった。首の傷口からはおびただしい量の血が流れ出て、早くも立派な血溜まりができている。まだ心臓は少し動いているかもしれないけど、傷の深さと出血量からして、もうどうやったって助からない。完全に致命傷だ。
死んだな。
まさか本当にやってのけるとは……。
実に素晴らしい展開だ。
「礼奈、大丈夫か」
礼奈の側に片膝を突き、左手で彼女の肩に優しく触れた。
「はぁ……はぁ……ど、どうして……」
顔を上げた礼奈の顔は酷いもので、両目の涙はまだ乾いておらず、口からは少し涎が垂れている。それらを拭わぬまま、息も絶え絶えといった様子ながらも、俺に困惑の眼差しを向けてくる。
彼女はまだ凶器を手放していない。ここで下手なことを口にすれば、俺を殺そうとするかもしれない。それはそれで面白くなりそうだけど、今は真面目にいこう。
ここからが正念場だ。
「どうしてって、俺がお母さんを止めなかったこと?」
「ぐ、ぅ……はぁ……ふぅ……そう、です……」
ここは嘘でも何でも並べ立てて、上手いこと宥めて懐柔すべきだと、理性は言っている。
しかし、それではつまらないし、もったいない。
「端的に言えば、厄介事に関わりたくなかったんだ。当初の約束だと、俺は両親と話をする、あるいはその場にいるだけでいいってことだったよな。でも、こんな修羅場になった」
「で、ですが……それでも……」
礼奈は涙や涎を軽く拭うと、不満を隠さず睨むような目で見てくる。母親を殺したばかりで錯乱してもおかしくないだろうに、割と落ち着いている。俺という責任転嫁できそうな人間が側にいるからだろう。
とすれば、今の礼奈は母親の死そのものよりも、自らが殺人を犯したことに対するショックの方が大きいことになる。結城暁貴のせいで母親を殺すことになったと本人に認めさせることで、罪悪感を和らげようとしている。そのために正気を保っている。
「ああ、そうだな。その場に居合わせたなら、普通は止める」
「それなら――っ!」
「でも、さっきの状況って、普通だったか?」
「――――」
咄嗟の反論に窮したのか、礼奈は口を開きかけたところで動きを止めた。
その隙に、俺は相手の肩に触れたまま、穏やかにゆっくりと、責めるような口調にならないように細心の注意を払って、理論武装する。論理的に、そうと気付かれないように、優しく追い詰める。
「昨日、龍司が言ってたよな。異常な状況で、異常な判断を下すことは、正常な行動なんだ。俺もそう思う」
「それは……ですが、あなたは、瀬良さんと桐本さんを助けた! 暴漢を殺してでも!」
「そうだな。片や隣に住んでる未成年の女の子、片や子供の頃からの親友だ。前者のためなら多少の危険は冒すし、後者のためなら命懸けで助けるさ」
礼奈はすぐ側の死体を見向きもしない。今は俺を見ることで、目を背けているのだろう。
「礼奈、俺たちは出会って間もない。お互いのこともあまり知らない。まだ友人とさえ呼べない関係だ。にもかかわらず、一度は俺を殺そうとしてきた狂人の暴走を止めろと? 危険を冒してまで?」
「……危険はなかったはずです。母は後ろなんて全く気にしていなかった」
「ああ。ついさっき殺そうとした相手の存在すら忘れて、ただ一心に娘を殺そうとしていた。完全に気が触れてでもいないと、そんな真似はできない。だからこそ、恐ろしかった」
そこは礼奈も同感なのか、何も言わず目を伏せて、大きく息を吐いている。
「礼奈が襲われたとき、俺はその隙に逃げ出すことだってできた。その女は娘への当て付けとして、俺を殺そうとしたんだ。だから、そもそもの話、俺の立場なら君を助けようと思うより、もう関わりたくないと思って逃げる判断を下すことこそが、この異常な状況下での異常な判断で、つまりそれは正常な行動――普通で真っ当な反応なんじゃないのか?」
並の女なら、とっくに喚き散らしているだろう。そんな理屈など知ったことかと、感情的になって俺を糾弾し、一方的に俺が悪いと決め付けて、俺のせいで殺してしまったと被害者ぶって泣くかもしれない。
しかし、礼奈は俺からも目を背けるように、俯きがちに目を閉じて、何も言わず両手を握り締めると、深呼吸をし始めた。その様子は理性的で、何とか感情を抑えて冷静になろうとしているように見えた。
「でも、俺は逃げなかった。異常な状況で、正常な判断を下した。俺が礼奈を助けようとしたことは客観的に見て異常な、普通じゃない行動だったんだ。とはいえ、俺が直接そいつを止める危険までは冒せないと思ったから、せめてもの助けとしてナイフを差し出した。その女は君の身内で、君の敵だった。あのとき、そいつは君しか眼中になかった。俺の敵ではなかった」
「…………」
「礼奈、俺は間違ったことを言ってると思うか?」
世間話でもするように、何気ない口振りで問い掛ける。
すると、礼奈は目を開けて、しかし俺も死体も見ず床に視線を落とし、小さく頭を振った。
「……いいえ……あなたの言葉は、筋が通っています。すみません、取り乱しました」
先ほどまでとは異なり、声に力がなく、呟くように言われた。
「仰る通り……これは、身内の問題で……暁貴さんは巻き込まれただけの、被害者です。私があなたの立場なら、きっと私はあなたを見捨てて……逃げ出していたと思います。いえ、それ以前に、不意に襲われたときに死んでいたでしょう」
この美女、期待を裏切らないな。
まず間違いなく初めての殺人、それも親殺しを犯したばかりだというのに、ここまで冷静かつ客観的に現状を理解し、感情を抑えて対応している。
素晴らしく理知的な人だ。感動すら覚える。
「暁貴さんが母の凶行から身を守り、刃物を奪ってくれたことで、私は刺されずに済み、殺されずに済みました。あなたを非難するなど、お門違いも甚だしいというものです」
感情を排したような冷たい表情で淡々と告げてきたかと思えば、頭を下げられた。
「申し訳ありませんでした」
今、礼奈はおそらく心を殺している。
なまじ賢いだけに、俺に責任転嫁できないことを嫌でも理解できてしまった以上、今度はそうすることで正気を保とうとしているのだろう。とはいえ、結城暁貴は悪くないと理解はしても、思うところは当然あるはずだ。頭では納得できても心では納得しきれないのが人間ってもんだからな。
例えば、もし先ほど俺が殺されていれば、女は礼奈に殺意までは向けなかったかもしれない。そう考えると、俺が身を守ったことは礼奈にとって不都合だったことになる。俺にとって礼奈が友人未満の知人であるように、彼女にとってもそれは同様なのだから、俺が死んでいた方が事態は今より遥かにマシだっただろう。その点に彼女が気付いていないとは思えない。
しかし、それはあまりに自分勝手で不条理な話だ。そう弁えるだけの自制心があるからこそ、無感情に謝罪している。感情を殺さなければ、俺に謝罪なんてできない。
少しは感情的になるかと思ったけど、期待以上の反応で安心した。
これで心置きなくちゃぶ台をひっくり返せる。
「……いや、謝るのは俺の方だ。君に嘘を吐いた」
触れていた肩から手を離してそう告げると、礼奈は頭を上げて怪訝そうな顔を見せた。
「……嘘?」
「ああ。さっき俺は、恐ろしかったから、危険を冒したくなかったから、君を助けなかったと言った。でも、本当は違う」
今の礼奈は論理的に追い詰められて心を閉ざしている。ある意味、安定している状態とも言える。不安定な心に優しく付け込んだところで、葵ちゃん二号ができるだけで全く面白くないし、礼奈にまで好意を持たれても面倒が増えるだけだ。
これほどの稀有な人材は、対等な関係として仲間に引き込んだ方がいい。
「礼奈が母親を殺すのか――殺せるのかどうか、確かめたくなったんだ」
「それは……どういう、ことですか……?」
俺を映す瞳に感情の揺らぎが見えた。戸惑いながらも、やはり結城暁貴のせいにできるという希望が覗いている。一度は叶わなかった望みだ、縋り付きたいだろう。
「人類バトロワの真偽にかかわらず、今後しばらくは治安が乱れるはずだ。実際、既に物騒なことが起きてるし、礼奈の父親も通り魔的に殺されたようだしな」
「…………」
「自分の身を守るためには、誰かと協力した方がいい。もちろん、誰でもいいわけじゃない。最低限、敵と戦える覚悟のある奴じゃないと、逆に足手纏いになるからな。敵に殺されそうな状況下で、敵を殺せるのに殺せないなんて甘ちゃんは論外だ。そうは思わないか?」
同意を求めてみると、口を半開きにして唖然としていた美貌がやにわに引き締まった。
「そ、そんなことを、確かめるために……私に母を殺させたっていうんですか!?」
「そうだ」
敵意すら感じる眼差しを正面から受け止めて、落ち着いた素振りで頷いて見せた。
「親を殺せた奴なら、もうどんな敵が相手でも躊躇いなく殺せるからな。協力し合えれば頼もしい限りだ」
「何言ってるんですかっ、ふざけないでください!」
今にも右手の刃を向けてきかねないほどの怒りを露わにして、礼奈は先ほどとは打って変わって感情的な声を上げた。
「親ですよっ、自分を産んで育ててくれた母親です! 殺したくなんてなかった!」
「でも、その母親は君を恨み、憎み、殺そうとした」
「それでもです! 傷付けたくもなかったっ、母親なんです当たり前じゃないですか!」
激昂する美女は迫力があったし、その言葉は真に迫っていた。
対して、俺は平静さを意識しつつも、堂々とした口振りで断言してやる。
「嘘だな」
礼奈が一瞬怯んだように息を呑んだので、すかさず言葉を繰り出していく。
「本当に傷付けたくないと思っていたなら、大人しく死んでやることだってできたはずだ。でも、そうしなかった。少なからず思うところがなければ、母親を刺し殺してでも助かろうとは思わない」
「それは……いえ、知ったようなことを言わないでください! あなたに何が分かるっていうんですかっ!」
「分かるさ、俺も母を殺したからな」
相手の目を真っ直ぐに見つめて、親愛の情でも感じられそうな微笑みを浮かべてみた。
礼奈は大きく目を見開き、口元を震わせて強張った声を漏らす。
「……う、嘘です……適当なこと、言わないでください」
「礼奈なら、もう直感とやらで理解してるんじゃないか?」
「――――」
この美女は俺がどういった経緯で合田のおっさんを殺したのか、龍司に話をしたときに聞いている。桐本家での一件はその場にいた。だから分かるはずだ。
真偽不明の人類バトロワなど関係なく、たとえ人助けのためだろうと、人を殺すべく殺せる奴など、まともじゃない。古都音は十分に、龍司はそれなりに俺のことを理解しているし、茉百合さんも事情は察していただろうし、葵ちゃんは助けられた当事者だから、俺に対する忌避感などがなかったのはいい。
しかし、礼奈は違う。殺人を犯した俺がどういう人間か何も知らなかったのに、同行してきた。事の顛末を聞いても忌避する様子もなく、平然と食卓を共にし、同じ家で夜を明かした。それができた時点で、そもそもまともじゃない。いわゆる普通の家庭環境で真っ当に育っていないことは、親に殺されそうになった事実からも容易に察しが付く。
まともじゃないからこそ、礼奈は俺が虚言を弄していないことを理解できる。更に、事ここに至った以上、もはや俺の言葉を信じざるを得ない。それが彼女自身にとって救いとなるのだから、今の精神状態で抗えるとは思えない。
「俺は刺されたから、腹に刺さった包丁を自分で抜いて、刺し返してやったよ。こんなババアのせいで死ぬのは御免だと思って、すぐに救急車を呼んだから何とか俺は助かったけど、母は死んだ。礼奈みたいにちゃんと急所を狙って刺してやったからな、当然だ」
俺からの視線に堪えかねるように、礼奈は目を伏せて何も言わない。
「だから分かるんだよ。自分が助かるためだろうと、殺してやろうという意思がなければ、首に刺そうとは思わない。礼奈はそいつに明確な殺意を向けられて、躊躇いはあっただろうけど、結局は殺意で応えた」
あるいは死にそうになれば、相手が愛する家族でも殺す人はいるだろう。所詮は自他の命を天秤に掛けて、どちらに傾くかという問題だ。殺されかければ、殺してでも生き延びたいと思う人は普通にいると思う。
しかし、今このとき重要なのは、礼奈が自らの意思で母親を殺したと思わせることだ。彼女は最初、腕を切り付けていたから殺したくなかったという思いに嘘はないのかもしれないけど、その点の真偽なんてこの際どうでもいい。
礼奈は母親を殺した。
その確かな事実さえあれば十分だ。
「礼奈、言ってたよな。自分がいない方が両親は夫婦円満で上手くいくって。母親に悪感情を抱かれていたことを知っていたわけだ。当然、母親に対して思うところがあっただろう。でも我慢して、折り合いを付けて、何とかやってきた。違うか?」
「だったら、何だって言うんですか……」
「親が子供への悪感情を勝手に爆発させて殺意を向けてきたんだ。そのせいで、せっかく折り合いを付けていた親への不満が暴発してしまった。少なくとも俺のときはそうだったし、今回も似たようなものに思える」
礼奈は俯いて何も言わない。否定しないということは、少なからず思い当たる節があり、納得できる余地があるということだ。
「だからさ、大丈夫だ」
美女の身体に両手を回して、抱きしめた。
抵抗はない。むしろぐったりとしていて、されるがままだ。
俺は労るように軽く背を撫でながら、耳元で囁いていく。
「礼奈はただ当然の反応として、殺し返しただけなんだ。べつにおかしなことじゃない。俺だって同じようなことをした。他の誰が何と言おうと、俺はちゃんと分かってるから、そう気に病むことはない」
実際、礼奈は悪くないと思う。
詳しい事情など分からずとも、我が子に対してあんな酷いことを言って殺そうとする母親だ。元からどこかおかしかったのは明白だし、そもそも自分で産んで育てておきながら子供の存在を否定するなど、親として以前に一人の人間として失格の、最低最悪の行いだ。
殺して正解だよ、あんなクズは。
「悪いのはそこの女だ。そいつは俺にも、娘の君にも、殺意を向けた。殺そうとした奴が、殺されても文句は言えないさ。そしてそいつの死は、礼奈だけの責任じゃない。半分は俺のせいだ。だから、一人で抱え込むことはない」
先ほど論理的に理性を説き伏せたことで、俺を非難するのはお門違いどころか、巻き込んだことを謝罪する立場であると十分に理解させた。その後、敢えて助けなかったことを告げ、理屈抜きの感情で非難できるようにした。感情のままに、心が欲するものを求めざるを得ない状態にした。
その上で、現状では俺が唯一の理解者であり、罪悪感を共有できる相手であることを教えた。
さて、どうなるかな?
「悪いとは思ってる。でも、俺は葵ちゃんと古都音が悪意に晒されたことで、茉百合さんが殺されたことで、痛感したんだ。自分たちの身を守るためには、強い仲間が必要だってな」
決して私利私欲のためではなく、誰かを守るためだった。
それは歴とした事実だから、きちんと理解させておかないと、俺を恨める余地が大きくなりすぎて危険だ。
「礼奈、君は美人だ。きっと暴漢に狙われると思う。だから、俺と助け合っていかないか? 知っての通り、俺は敵を殺せる。君が辛いときには支えることもできる。君もそうできると、俺は確信してるんだけど、どうかな?」
「どう、って……そんな、そんなこと……私は……」
震えた声に理知的な響きなど皆無で、困惑しか伝わってこない。もはやまともに考えられるだけの心的余裕はないのだろう。少し負荷を掛けすぎたのかもしれない。あまり追い詰めても逆効果になりそうだ。
「返事は後でいいから、少し考えてみてくれ。今は一旦落ち着いた方がいい」
抱擁を解いて立ち上がると、へたり込む礼奈に手を差し伸べた。
「立てるか?」
「あ……その、腰が抜けてしまってて……」
「じゃあ運ばせてもらうぞ」
有無を言わさぬ強引さで美女の身体を抱え上げた。
そのとき、血塗れの果物ナイフが床に落ちて、小さく音を立てた。礼奈は肩肘を強張らせることもなく脱力しきっていて、どこか虚な目で血に汚れた自らの右手を見つめていた。




