21 夜話
眠れなかった。
当初の眠気はどこかへ行ってしまい、もはや完全に目が覚めてしまっている。幸いにも原因は明らかで、それはすぐ隣で規則正しい寝息を立てている金髪女にある。べつに寝息がうるさいわけではないし、寝顔は安らかで、気になるほど寝相も乱れていない。ちゃんと眠れているようで、むしろ安心しているくらいだ。
しかし、どうにも匂う。
女の匂いだ。
葵ちゃんは入浴する前、荷物から着替えなどを取り出していたけど、あのときシャンプーか何かのボトルも見えた。今朝方、自宅に荷物を取りに行った際、事前に龍司の家に行くと伝えていたから、シャンプーなども回収していたのだろう。
だから、古都音から嗅ぎ慣れないいい匂いがすることに疑問はない。でも、こんな如何にもな女らしさを感じさせる匂いを嗅がされながら密着されると、何だか落ち着かない。
スマホで時刻を確認してみると、零時を少し回ったところだった。これ以上このまま眠ろうとしても無駄だろうから、一度起きて気分転換をした方がいいだろう。
古都音を起こさないように布団を抜け出し、とりあえずトイレに入った。用を足して廊下に出ると、ちょうど部屋から龍司が出てきた。
「まだ勉強してたのか?」
「まあね。そっちは眠れないの?」
「色々考え事してたら、なかなか寝付けなくてな」
適当に応じると、「古都音さんは?」と問われて一瞬どきりとした。しかし次の瞬間には龍司が何を尋ねているのかを正しく理解し、「寝てる」と短く答える。たぶん平静を装えていたはずだ。
「なら、せっかくだし少し付き合ってよ。今なら二人でゆっくり話ができそうだし」
「俺はいいけど、お前も朝早かったんだから、今日はさっさと寝た方がいいんじゃないか?」
「僕だってそうしたいところだけど、生憎と自宅に全然知らない女が二人もいて普段通りに安眠できるほど、僕は図太くないものでね。勉強してると逆に目が冴えてくるし、雑談でもしてた方が眠気を催しそうなんだよ」
「お前、昔から神経質というか繊細なところあったからなぁ」
と言いつつも、内心では感心していた。
普通は勉強していた方が眠たくなるものだろうに、そうならないということは、受験に対してかなり気合いを入れているのだろう。頑張りすぎて潰れないか心配になってくるな。こいつ相手には余計なお世話なんだろうけど。
「そういう兄さんだって眠れてないじゃないか。あ、いや……さすがに人を殺したばかりじゃ無理ないと思うけど……」
「ともあれ、話ならお前の部屋でいいよな」
いらぬ気遣いをされそうな空気になりかけたので、努めて気楽な感じに言いながら歩き出すと、龍司は「先行ってて」と言ってリビングの方に向かった。
龍司の部屋は整理整頓が行き届いていて、あまり飾り気がなく、テレビやゲーム機どころか娯楽品の類いも全然ない。古都音の部屋とは対照的な雰囲気で、勉強して寝るためだけの部屋といった様子だ。
机の椅子に座って待っていると、すぐに部屋の主が現れた。手にはトレイを持っており、麦茶入りのグラスを手渡された。
龍司がベッドの縁に腰掛け、互いに麦茶を一口飲んだところで、口を開いた。
「それで、話って?」
「特に話したいことがあるわけじゃないよ、単なる雑談。久しぶりに会ったんだから、近況報告くらい何かあるでしょ。大学生になったわけだしさ」
「何かって言っても……何もないな。大学生活はこれと言って面白味があるわけでもないし、変わったことは特にない」
本当に特筆すべきことは何もなかった。大学ではあれがしたい、これがしたいといった欲求もなく、あまりに何もなさすぎたからこそ、暇潰しに人類の滅亡とか考えてしまっていた。
「一応聞くけど、大学で剣道部に入らなかったの?」
「やめたって言っただろ。もう竹刀とか三年くらい握ってないぞ。そういうお前は? 見た感じ今年は大会とかろくに出ずさっさと引退したのか?」
「うん、部活は去年で十分な実績残せたからね。今年は受験勉強が優先だよ。まあ、たまに道場行って勘が鈍らないようにはしてるけど」
「真面目だなぁ」
こいつ去年は全国行ったくらいだし納得ではあるけど、その勤勉さは本当に凄いと思うわ。文武両道ってなかなかできることじゃないしな。
「昔の兄さんの方が真面目だったと思うけどね。それに才能だってあった。今思い返しても、神童だの天才だの言われるだけのことはあったよ。ほんと、あんなことがなければ、兄さんがこんな落ちぶれることもなかったのに……」
「本当に才能のある奴なら、何があってもそれを糧にして前に進めるもんだ。所詮、俺は落ちぶれる程度の凡人だったってわけだな」
「兄さんが凡人だったら、僕は凡才未満の鈍才だよ。そうやって自分を卑下するの、嫌みったらしいからやめてよね」
本気で言っているのか、力なく溜息を吐いている。
俺としては色々と思うところも言いたいこともあったけど、それを麦茶で飲み下して誤魔化し、話題を変えてみる。
「そういえば、龍司は古都音と会うの久しぶりだよな? いつ振りだ?」
「兄さんのお見舞いに行ったとき以来だね」
「それ三年くらい前じゃねえか」
「特に会う機会もなかったしね。今日久々に見たけど、外見は全然変わってないねあの人」
龍司はどこか遠い目をして懐かしそうに呟いてから、こちらを見てきた。今度はやけに真剣そうな目付きだ。
「で、古都音さんとは何か進展あった?」
「進展も何も、そもそも進む余地なんてない。何も変わらん」
「あんな様子でも、古都音さんが兄さんのことどう思ってるかくらい僕でも分かるよ。兄さんだって気付いてるんでしょ?」
「さあな、知らん」
古都音が俺のことをどう思っていようと、俺の古都音に対する気持ちは変わらない。
「それなのに、隣に住んでる女とか知り合って間もない女にかまけちゃって、古都音さん不安だと思うよ」
「…………」
「それにあの人もう二十歳でしょ? 茉百合さんも亡くなって心細いだろうし、兄さんには旗幟を鮮明にしてほしいと思ってるんじゃないかな」
龍司に冗談やからかっている様子はなく、真面目な顔で言っていた。こいつなりに古都音のことを思っての発言なんだろうけど、人にとやかく言われるのは不快だった。
「そういうお前はどうなんだよ、まだ心結のこと従妹として受け入れてやってないんだろ?」
「どうしてここでその名前が出てくるんだよ」
「どうしても何もない。お前にはそんな偉そうに人の関係に口出しする資格はないってことだ」
「僕はただ、古都音さんが可哀想だと思って……」
「心結だって可哀想だろ。あいつは何も悪いことなんてしてないんだぞ。むしろ親に振り回されてるだけの被害者だ」
本当に心からそう思う。
結城家の問題になど関わりたくはないけど、今朝方の龍司の心結に対する言い様は目に余るところがあった。少なくとも俺の目には心結は普通にいい子に見えるし、龍司も大人の事情なんか気にせず、心結と向き合ってやるべきだ。
「あー、もう分かったから、この話はやめにしよう」
渋面で溜息を吐く龍司に、俺は「分かればいいんだ、分かれば」ともっともらしく頷いてみせてから、グラスを傾けた。そうしないと、一緒に溜息を吐いてしまいそうだった。
その後は大学のことや高校のこと、一人暮らしのことなど、適当にだらだら雑談に耽っていった。龍司とは春先から疎遠だったから、久々にしっかりと話ができて楽しかったし、嬉しかった。でもやっぱり、心苦しくもあった。
「じゃあ、おやすみ」
一時を回り、そろそろ寝ることにして部屋を出る俺に、龍司は微笑みを見せた。雑談する前までより、明らかに柔和な表情だった。
「ああ、おやすみ」
俺も思わず頬が緩みながら、リビングに戻った。
寝床に入る前に、トレイとグラスを片付けて、軽く深呼吸をする。
冷静になって考えてみれば、古都音から女の匂いがするから何だって話だ。先ほど龍司が何か言っていたけど、女の匂いがしようが俺の古都音に対する気持ちは変わらないんだから、気にすることなど何もない。
そう自分を納得させたところで、リビングにある二張りのテントのうち一方のテントのファスナーが開いていることに気付いた。出入り口が全開になっていて、中には誰もいないのが見て取れる。その上、リビングのカーテンが少しだけ開いていた。
逡巡した末、窓を開けてベランダに出る。
「葵ちゃん、眠れないの?」
「あ……お兄さん」
穏やかに吹き付ける風は生温く、じっとりとした湿気を孕んでいた。それでも日中よりは遥かに涼しく感じられるから、あまり不快感はない。むしろ九階から夜の街並みを広く見渡しながらだと、幾分か心地良いほどだ。
しかし、少女の顔色は優れず、重苦しい溜息を吐いていた。
「色々考えてしまって、なかなか寝付けなくて」
「まあ、仕方ないさ。実際に色々あったわけだからね」
「はい……本当に、色々ありました」
今は下手に慰めの言葉を掛けるより、ただ一緒にいてやった方が良さそうだ。
項垂れる少女の隣に立って、夜景をぼんやりと眺めた。火事が起きているような様子は見えず、緊急車両のサイレンも聞こえず、静かな夜だ。それが逆に不気味にも感じられたけど、この近辺に目立った異変がなさそうなのは良いことだ。さすがに今夜はゆっくり休みたいしな。
しばらくの間、無言で夜風に当たっていると、シャツの裾を軽く引かれた。隣に目を向けると、葵ちゃんがちらちらと俺を見ながら言い辛そうに口を開く。
「あの、不躾なお願いだと思うんですけど、その……」
「遠慮しないでいいよ、とりあえず言ってみて」
「では、えっと……わたしも、古都音さんみたいに、抱きしめてもらえませんか……?」
「それくらいお安い御用だよ」
少女の背に両手を回し、優しく抱きしめた。すると彼女の方も遠慮がちに身体を預けてきた。古都音ほどではないにしても、やはり華奢だ。ある種の儚さを感じてしまう。それに柔らかさもさることながら、古都音と同じような匂いがした。というより、これは葵ちゃんの匂いだ。合田のおっさんを殺した後、慰めていたときにも香っていた。
「大丈夫?」
「はい……でも、もう少しこのままで……」
「葵ちゃんの好きなだけいいよ」
葵ちゃんは俺の肩に顔を押し付けるようにして、強く抱き付いてくる。俺も少し強めに抱きしめて、でも慰めの言葉などは掛けず、満足してくれるまで静かに待った。
「あ、あの……ありがとうございました」
そっと身じろぎして、身体を離す動きを見せたので、抱擁を解いた。葵ちゃんは少し俯きがちで、指先で軽く前髪を弄っている。照れているのかもしれない。
「これで眠れそう?」
「それは……自信がないので、その……わたしも、お兄さんの隣で寝て、いいですか?」
シャツの裾を摘まんできながら上目遣いに尋ねてきた。しかも瞳が少し濡れているようにも見える。美少女からこんな仕草でお願いされて断れる男など、そうはいないだろう。
俺としても状況的に好都合だったから、すぐに頷いた。
「うん、いいよ。それじゃあ戻ろうか、もう一時過ぎだし夜更かしは良くない」
「はい」
一緒にリビングに戻り、葵ちゃんのテントからシュラフを出して、和室の布団の隣に敷いた。俺は古都音と葵ちゃんに挟まれる形で寝ることになるけど、特に問題はない。古都音から女の匂いがすると思えてしまえる状況よりは遥かにマシだ。
葵ちゃんがすぐ隣にいるおかげで、これは葵ちゃんの匂いだと思えるようになったから、もう気にならない。葵ちゃんが俺の手を握ってきたけど、相手は心結と同い年なんだし、妹みたいなもんだと思えば緊張もしない。
ゆっくりと深呼吸をして身体から力を抜き、今度こそ本当に眠気に身を委ねた。
■ ■ ■
八月三日。
昨日、龍司が佐々木さんに新聞を頼んでくれたことで、早起きする必要がなくなった。龍司は七時頃に起床するということだったから、俺も同じ頃に起きた。というより、起こされた。スマホの目覚ましはセットしていたけど、古都音に腕を噛まれたことで、アラームが鳴る五分ほど前に起きることになった。
起きたら葵ちゃんがいて、思うところがあるのは分かる。分かるけど、何も噛むことはないだろうに……。かなり強く噛まれたせいか、出血こそしていないものの、綺麗な歯形がくっきりと残っている。これは消えるまで結構時間が掛かりそうだ。
古都音は少し不機嫌そうではあったけど、昨日より顔色がマシになっていて、朝食も半分以上は食べた。しかし食後は怠そうに布団に横たわり、何も考えたくないとでも言うように眠ってしまった。いや、ただ目を閉じているだけかもしれないけど、とにかく本調子には程遠そうだ。
葵ちゃんも本調子には見えないけど、精神状態は安定していそうだった。昨夜もあれからちゃんと眠れたようだ。朝食後は後片付けを手伝ってくれて、自分から洗濯させてほしいと言って俺たちの服までベランダに干してくれた。何かしていた方が気が紛れて楽なのかもしれない。
俺は昨日買ったキャンプ用品の整理をして、リュックやバッグに入れて纏めた。屋内キャンプで使わないキャンプ用品をこの後SUVに積み込めば、もし何か起きて急遽ここを出ていくときは一度の運搬で全ての荷物を持っていけるようになる。
「それじゃあ行ってくる」
十時になったところで、出発することにした。例によって例の如く、礼奈と一緒にいるところはマンションの住人に見られたくないから、まずは俺一人で九〇三号室を出る。
そのつもりだったんだけど、龍司もついてきた。
「ずっと家にいると運動不足になるからね。階段の上り下りくらいはしておきたいんだよ。夏休み入ってからは毎朝ジョギングしてたし」
その言い分は理解できたので、好きにさせることにした。急に俺たちが押し掛けてきて、少なからずストレスも溜まっているだろうからな。気分転換は必要だ。
「兄さん、世間が落ち着いたらキャンプ行こうよ。せっかく色々買ったんだしさ」
階段を下り始めて間もなく、今回は俺の後ろをついてくる龍司がそう話し掛けてきた。
「俺はいいけど、受験勉強は?」
「一日くらい息抜きしても問題ない程度には今まで頑張ってきたし、これからもそのつもりだよ。まあ、今年中に落ち着かなかったら、受験終わった後になるだろうけど」
やはり龍司は宇宙人説など信じていないのだろう。
「それと、行くのは二人でだよ。古都音さんは抜きだからね」
「あいつ一人で留守番させるのかよ。古都音も一緒でいいだろ。三人で遊ぶなんて小学生の頃以来だし、いい機会だ」
「男二人で気楽に行きたいんだよ。幼馴染とは言っても、もう子供じゃないんだから、異性として何かと気を遣うことになりそうで、ちょっとね……。古都音さんは本家に預ければいいよ、あの人お祖母様に可愛がられてたし」
「……ま、そうだな。男同士、気兼ねなく行くか」
思い返せば、龍司と二人で泊まりがけで出掛けたことは一度もなかった。これもいい機会かもしれない。
とはいえ、全ては人類バトロワが嘘偽りだった場合の話だから、今はあまり考えない方がいいだろうし、考えたくない。宇宙人によるデスゲームが真実である可能性を考慮した上で行動しないと気が緩みそうだ。逆に、今後ハッカー説を完全に信じ切って行動していくのは退屈そうだし、それはそれで危険だ。白黒はっきりしない状況である限り、どちらの可能性も捨てるべきではない。
「じゃあ、約束ね。今度は破らないでよ?」
「分かってるよ」
龍司も本気で念押ししているわけではないのか、冗談交じりな口振りで機嫌良さげに言ってきたから、俺も気楽に応じることができた。
階段を下りていく途中、中年女性と擦れ違い、少し警戒した。でも当然の如く何事もなく、互いに「こんにちは」と平和的な挨拶を交わしただけだった。気を張りすぎるのも良くないな。
一階に降り立ったところで、背後から「兄さん」と改まったように声を掛けられた。振り返ると龍司が足を止めていたから、俺も立ち止まって、真剣な眼差しを受け止める。
「本当に、くれぐれも気を付けて。今朝もまだテレビで殺人の映像流れてたし、さっきもベランダから火事みたいな煙が見えた。少なからず治安が悪化してるはずだから、危ないことはしないで、引き際は弁えて行動してよ」
「お前は心配性だな、ちゃんと分かってるから大丈夫だって」
「大丈夫だと信じられないから言ってるんだよ……現に大丈夫じゃなかったから僕のとこ来たわけだし」
それについては何も言い返せないな。こいつには迷惑掛けてるし、無駄に心配もさせてしまっているから、そこは本当に申し訳ないと思っている。
「まあ、とにかく俺は大丈夫だから、お前はもっと自分の心配をしろ。家にいるからって絶対安全とは限らないんだからな」
「分かってる。父さんたちや佐々木さん以外にはドア開けないよ」
「管理人の爺さん相手でもだぞ。ドアガードしててもドアそのものを開けるな」
「兄さんこそ心配性じゃないか……分かったよ、開けないから大丈夫」
龍司は微苦笑しながらも、しっかりと頷いている。
俺としても管理人の爺さんを本気で危険視しているわけではない。けど、警戒するに越したことはないからな。今回の階段ウォーキングだって一人ではさせたくない。
「それじゃあ、約束忘れないで。僕はここで戻るよ。もし佐々木さんにマンションの外出てるとこ見られたらまずいからね」
「ああ、そうだな。俺も見られたらまずいし、さっさ行くわ」
これ以上の立ち話は良くないので、俺は歩みを再開し、龍司は小走りに階段を駆け上がっていった。
その後、SUVの運転席で礼奈が来るのを待ち、彼女が助手席に収まるとすぐに発進した。




