02 隣人
結局、家を出る直前になってもテレビは延々と同じ映像を流し続け、チャンネルを替えても変化はなかった。もしかしなくても、今日はずっとこのままな気がする。
マンションを出て、愛車のSUVで近所のスーパーに向かった。
運転中に街の様子を流し見る限り、特に変わったところは見られない。地方都市のベッドタウン相応に住宅の多い街並みは平穏そのもので、平日昼間の交通量としては普段通りだ。今日は快晴で、真夏の蒸し暑さがこれでもかと感じられる猛暑日なせいか、歩いている人が少ないことに違和感はない。
到着したスーパーの駐車場は半分ほど空いていて、買い溜め目的に客が殺到している様子は全くなかった。店内の客たちものんびりしたもので、レジ付近を見てもショッピングカートいっぱいに買い物している人は見られない。
「ま、備えあれば憂いなしってな」
ショッピングカートを押して飲食物を選んでいく。
念のため、缶詰などの常温保存可能なものを重点的に買った方がいいだろう。今回の件がどうなるにしろ、とりあえず百日分あれば問題ないはずだ。もし何も起きず平穏無事に日常が続いていくとしても、百日分なら消費するのにも困らない。それでも結構な量にはなるから、満載のショッピングカード数台分は覚悟した方が良さそうだ。ペットボトルの水も多く買っておきたいから、何度か自宅に戻る必要もある。
普段は一応値札を見て買い物しているけど、今日はもう面倒なので、いちいち気にしない。どうせ父さん名義のカード払いだし、よほど大きな出費でもない限り、あの人は俺が何を買おうと口出しすることはない。
レジで支払いをして車に積み、再び店内で買い物をする。それを何度か繰り返して、SUVの積載スペースが粗方埋まったところで、マンションに戻った。
ビニール袋いっぱいに詰まった食料品を両手に提げ持って、上階から降りてきたエレベーターに乗ろうとしたところで、中から人が出てくる。宅配業者の格好をした中年男性は台車を押して去っていき、俺は入れ替わるようにエレベーターに乗って、思わず呟く。
「ミスった……ホムセン寄って台車買っておくんだった」
まだペットボトルの水や日用品も買ってないし、食料品も買い足りない。台車もなしに一人で全ての荷物を運ぶなど、よく考えなくてもただの苦行だ。台車は車に積んでおけば今後何かと使えるだろうし、荷運びは後回しにして先に台車を買いに行った方がいいだろう。
いまいち本気になれないせいか、どうにも頭が回らないな。
本当に人類規模の殺し合いが始まるならともかく、今の段階では古都音の言っていた説の方が現実味があると思えるから、危機感もあまりない。今こうして買い溜めに動いているのは、面倒ながらも大学に通うのと同じで、いわば義務感からの行動だ。今やらないと後でもっと苦労することになるかもしれないから、仕方なく動いているだけで、そういうときは深く考えず淡々とこなすのが精神的に楽なんだよな。
「あー、もういっそ本当にバトロワ始まってくんねーかな……」
他に誰もいないエレベーター内での独り言は酷く空虚に響いた。
人生の目標は失われて久しく、親子の絆など露と消え、何をしても倦怠感が付き纏う。日々を惰性で生きているような人生に、惜しむものなど何もない。そんな人間でも、生存という単純明快な目的のためであれば、否応なく行動せざるを得なくなるはずだ。
それを非常に面倒だと感じる一方で、期待に胸を膨らませている自分もいる。社会的な成功や幸福に魅力を感じられなくなって久しい昨今、俺は自分が何のために生きているのか分からない。だからこそ、人類社会が崩壊する最中での生存競争には魅力を感じずにはいられない。ただ生き延びることが成功であり幸福となる状況下であれば、俺はまた全力で走り出せそうな気がする。目標に向かって努力する喜びを得られるはずだ。
――と、そこまで考えたところでエレベーターが七階に到着した。
思わず失笑を零しつつ歩き出す。
「それでどうだい? やっぱり学校でも話題になってたかい?」
「はい。ネットでは凄くニュースになってますし、みんな気にしてるようでした」
七階の共用廊下には立ち話している人がいた。甚兵衛姿のおっさんとセーラー服姿の少女だ。どちらもこの階の住人なので、ここは適当に挨拶だけして通り過ぎたいところだけど……。
「あの、それではわたしはそろそろ……これから友達と待ち合わせがあるので」
「おぉ、それは奇遇だねぇ。おじさんもこれから出掛けようと思ってたんだ。今日は日差しも強いからねぇ、熱中症にでもなったら大変だよ。待ち合わせ場所まではおじさんが車で送ってあげよう」
「あ、いえ、そんな……大丈夫ですから……」
「お隣さんなんだし、遠慮してなくていいから。ついでだよついで」
おっさんは少女との会話に夢中で、少女はこちらに背を向けているから、二人とも俺の存在に気付かず会話を続けている。
俺は少し気合いを入れると、微笑みを意識して愛想良く声を掛けた。
「こんにちは。今日も暑いですね」
「あ……お兄さん」
振り返った少女の顔には明らかな安堵の色が見られ、一方のおっさんは不愉快さも隠さず俺を睨んでくる。対照的な反応がおかしくて、意識せずとも笑みが浮かんでしまうな。
「葵ちゃん、今日は登校日だったんだね。話聞こえちゃってたんだけど、待ち合わせの友達って、もしかして心結かな?」
「は、はい、そうです。そうなんです」
「俺もこれ置いたらまたすぐ出るから、どうせなら俺が送っていこうか? うちの妹との待ち合わせなんだし、合田さんに手間掛けさせるのも悪いですからね」
葵ちゃんから合田のおっさんに視線を移すと、敵視に近い眼差しを向けられたけど、にこやかに受け止める。
数瞬、目を合わせ続けた末、おっさんは両手で抱えるダンボールへと視線を逸らすように目を伏せて、そっと息を吐いた。その素振りからは苛立ちと苦渋がない交ぜになったような不快さを感じて、何とも嫌な気分にさせられた。
「……なるほど、結城さんがいるなら私の出番はなさそうだね。それじゃあ、私はこれで失礼するよ」
合田のおっさんは意外にもあっさりと踵を返し、開きっぱなしのドアから七〇三号室に戻っていった。大方、宅配便の荷物を受け取るタイミングで葵ちゃんが通りがかったものだから、これ幸いと絡んだのだろう。
「あの、ありがとうございます」
「とりあえず行こうか」
ここは七○三号室の前なので、おっさんが扉の向こうで聞き耳を立てていれば面倒だ。
俺たちは七〇四号室の前まで来たところで足を止め、顔を見合わせた。
「災難だったね、帰宅早々おっさんに絡まれて」
「いえ、そんな……お隣さんですし、挨拶くらいは普通でしょうから」
そう言いつつも可愛らしい顔には微苦笑が浮かんでいた。
目の前の少女を改めて見てみる。
端整な顔にはまだ少し幼さが残りながらも、この年頃特有の花開く最中といった瑞々しい美しさがあり、思わず見とれてしまいそうな魅力がある。背丈は百六十センチ程度で、全体的に細身ではあるものの、セーラー服の胸元を押し上げる膨らみは決して小さくない。艶やかな長い黒髪は後頭部で一つに結われてポニーテールになっており、高校二年生の若者らしく溢れんばかりの生気も感じられ、一見すると活発そうな印象を受ける。しかし、綺麗に背筋の伸びた立ち姿には品があり、こうして相対すれば礼儀正しさも伝わってきて、むしろ落ち着いた感じの子だ。それでいて朗らかで華やかだから、学校ではさぞモテることだろう。
「でも、普段から何かと絡まれてるんでしょ? 心結が言ってたぞ、葵ちゃんの話を聞く限り合田っておっさんは怪しいから絡まれてたら助けてやれって」
「心結ちゃん、お兄さんにそんなことを……」
葵ちゃんも合田のおっさんに絡まれるのを迷惑と思っていなければ、友達に相談したりなんてしないだろう。いい子だからおっさんのことを悪く言えないだけで、内心ではうんざりしているはずだ。
「すみません、お兄さんにはお手数をおかけしてしまって」
「いや、いいよ。俺もさっきの会話聞いてて、合田さんちょっとやばいと思ったしな。いくらお隣さんだからって、このご時世におっさんがJKを車に乗せようとするのはアウトだろ」
「それは、まあ……そうですね」
葵ちゃんは遠慮がちに頷いた後、ふと思い出したように悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、お兄さんもわたしを車に乗せようとしましたよね」
「いやいや、それは方便というか……え、この後ほんとに心結と待ち合わせしてる?」
「いいえ、今日はもう外出する予定はありません。でも、わたしお兄さんの車になら乗るの嫌じゃありませんよ? お兄さんさえ良ければ、これから二人でお出掛けしますか?」
小首を傾げて上目遣いに見つめてくる姿はとても可愛らしく、美少女という言葉がよく似合う。将来は大和撫子な感じの美人になるだろう。
この子がお隣さんでなければ、思わず頷いていたかもしれない。
「できることなら是非ともそうしたいところだけど、残念ながら今日はやることがあってね。またの機会ということで」
葵ちゃんも本気で言ったわけではないだろう。けど、仮にも女の子の誘いを断る以上は言い方ってもんがあるからな。そんな機会は永遠になくとも、円滑な人間関係に社交辞令は必要だ。葵ちゃんは賢い子だからその手の機微にも敏いだろうし、こちらの意図は伝わるはずだ。
「そうですか……残念です」
言葉通り凄く残念そうな顔してるけど……え、社交辞令だよな?
「あー、その、とにかく合田さんには一応気を付けてね。向こうがぐいぐい来てもしっかり断った方がいいよ。お隣さんだからって、いい人とは限らないわけだし。俺も含めてな」
冗談めかしたように言って話を戻すと、葵ちゃんは素直に「はい」と頷いてから、無防備な笑顔を向けてきた。
「でも、お兄さんはいい人ですよ。何度も勉強教えてくれましたし、心結ちゃんもお兄さんのこと何だかんだで優しいってよく言ってますし……あ、夏休みの間、また勉強教えてもらえませんか? できればマンツーマンで!」
「まあ、暇なときならね」
これも社交辞令だと葵ちゃんなら察するはずだ。
心結がたまに勉強教えてくれと押し掛けてくるから、仕方なく教えてやる際、あいつがついでだからとよく葵ちゃんを誘っていた。俺はご近所トラブルなど御免なので、葵ちゃんに教える際はかなり気を遣って面倒だった。
「やった、ありがとうございますっ。それでは八月中で都合の良い日が確認できたら連絡もらえますか、その日は予定空けておくので!」
「あ、ああ、分かった……」
予想外の勢いに押されて思わず頷いてしまうと、葵ちゃんは「よし、よし」と小さくガッツポーズしている。そりゃ無料で、しかも心結抜きのマンツーマンで家庭教師を頼めるんだから、嬉しいのは分かるけど、少しは俺の気持ちも察してくれないもんかね……。
というか、葵ちゃんってこんなに察しの悪い子だったか?
「それでは、あまり引き止めても悪いですから、今日のところはこれで失礼します。先ほどは本当にありがとうございました。連絡待ってますね」
「ああ、うん、それじゃあね」
弾むような足取りで少女が七〇四号室に入っていくのを見送り、俺も自宅の七〇五号室の扉を開けた。ずっとビニール袋を提げ持っていたせいで両手が痛かったけど、そんなことよりも気が重くて溜息が漏れ出る。
「いい子だとは思うけど……あまり深く関わると世間的になぁ」
葵ちゃんのことは嫌いではない。むしろあんな可愛い子と仲良くできるなど、男冥利に尽きるとすら思う。しかし、葵ちゃんはお隣の瀬良家の一人娘だ。あの礼儀正しさや朗らかさを見るに、善良な両親から十分な愛情を受けて大切に育てられたことは想像に易い。愛娘が隣家の若い男と仲良くしているなど、父親としてはあまり面白くないはずだ。
美少女と仲良くできる喜びより、近隣住民との関係を拗らせたくない思いの方が強い。
俺はその程度の人間だ。厭世的な思考をしていながら、法律やら倫理やら常識やらの社会規範に縛られ、人並みに世間体を気にして上辺を取り繕い、社会の片隅で無難に生きている。将来の夢や人生の目標など何もない自分の空虚さを適当に誤魔化しながら、今後も生きているのか死んでいるのか分からないような日々を送り続けるだろう。
人類滅亡とか馬鹿なことを考えて現実逃避するのも納得の人生だ。これではますます明日に期待してしまう気持ちが強くなる。今日よりも更に凄いことが起きて、世の中が混乱して、人に勉強を教えるどころではなくなってほしいものだな。
「……とにかく、今はやるべきことに集中しよう」
自分に言い聞かせるように呟き、気を取り直す。
両手の荷物を廊下に置くと、すぐに自宅をあとにして、車に戻った。ホームセンターでは台車を買うついでに、色々と必要そうな物も買っておこう。日暮れまでには運搬を含めた全てを終わらせて、後はのんびりとゲームでもしてモラトリアムを満喫すべきだ。
余計なことは何も考えないようにしながら、非常時への備えを続けていった。
■ ■ ■
翌日。七月三十一日。
夏休みに入ってからは特にこれといった予定が何もなかったので、生活リズムが乱れに乱れ、昨夜はベッドに入ったのが三時過ぎだった。おかげでスマホの着信音で目覚めたときには十時を回っており、俺は欠伸を零しながら電話に出る。
「どうした古都音?」
「……暁貴、テレビやネットは見たか?」
スマホから聞こえた声はやけに真剣――というより深刻そうだった。ただならぬ雰囲気なのが電話越しでも伝わってきて、まだまどろみの抜け切っていなかった意識が完全に覚醒する。
「いや、今起きた。またテレビで何かあったか? というか九時に何か起きたか?」
「あったし、起きたみたいだけど、その情報は自分で確認してほしい。十二時になったらまた電話するから、それまでに必ずあっくん自身で可能な限り情報収集をして、現状に対する判断を聞かせてほしい。いいかい?」
昨日の電話と異なり、まともな言葉遣いでふざけた様子がない。声には静かな緊迫感すら宿しているものだから、有無を言わさぬ迫力があった。
俺は素直に「ああ、分かった」とだけ応じておいた。
「ぼくももっと情報を集めて考えてみる。それじゃあ、また十二時に」
古都音はこちらの返事も待たず早々に通話を切った。
どうやらあいつがマジになるような事態が発生しているらしい。