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終末よ、生きる望みの喜びよ  作者: デブリの遺灰
The 2nd Run
17/43

17 弟分


 和室からリビングに戻って、葵ちゃんと礼奈も同席させて話をすることにした。女性陣は三人掛けのソファに座らせ、俺と龍司は和室から持って来た座布団の上でそれぞれ胡座を掻く。

 俺は自分でも状況を整理するため、自宅マンションで合田のおっさんを殺したところから先ほどまであったことを、順を追って説明していった。ついでに葵ちゃんにも桐本家で何があったのかを話してもらい、情報を共有しておいた。

 葵ちゃんの話によると、俺がコンビニへと出発して間もなく、リビングの窓が雨戸ごと破壊され、あの大男に侵入されたという。葵ちゃんと古都音はすぐ二階に上がり、茉百合さんの寝室に三人で立て籠もろうとした。しかし、相手はバーベルを武器として振り回す偉丈夫だ。あっさりとドアを破られた。茉百合さんは娘たちを背に庇い、大男を説得しようとしたみたいだけど、葵ちゃんは手斧で襲い掛かったらしい。それで相手に蹴り飛ばされ、ベッドの角に頭をぶつけて倒れ、気絶しないまでも意識が朦朧とした。その間に茉百合さんがバーベルの一撃で吹っ飛ばされ、倒れたところに鉄塊を叩きつけられて頭を潰されたようだ。その後、葵ちゃんは廊下に引きずり出され、大男が部屋の中に火を放って、古都音を連れて階段を下りていったらしい。


「あいつが……部屋にガソリンか何か撒いてるとき、凄い物音がしたんだ……それで、あいつすぐに火を着けて……」


 古都音はまた泣きそうになりがらも、そう補足してくれた。

 敵が燃料を撒いたタイミングから察するに、大男は仲間をあまり信じていなかったことが分かる。いつ俺が戻るか分からない状況下で、放火の準備を優先して古都音の回収を後回しにするのはリスクが高い。先に古都音を見張りの男に托して現場から離れさせ、それから大男が現場の後処理をした方が安全だ。その最中に俺が戻ってきても、一人なら逃げるのも容易だからな。

 しかし、敵はそうしなかった。仲間が古都音を連れて行方を眩ませる可能性を無視できなかったのだろう。あるいは古都音を回収後、あの大男は見張りの仲間を殺したかもしれない。それくらいはしそうな奴に見えた。

 いずれにせよ、あのとき俺が車を追突させたことで、敵は大きな物音で異常を察知し、すぐに火を放った。あの体格なら古都音と葵ちゃんの二人を同時に抱えて運ぶこともできただろうに、物音だけで望外の拾いものを切り捨てた。俺と対峙することを見越して、余計な荷物を抱える危険を避けたとしか思えない。

 茉百合さんを殺すだけなら未だしも、放火までしたとなると、宇宙人主催のデスゲームを信じていなかったことが窺い知れる。信じていれば、わざわざ燃料を撒いてまで放火する必要などない。後々警察に調べられて問題になると思ったから、目撃者の遺体を侵入の痕跡ごと燃やして、証拠を隠滅しようとしたのだろう。

 こうして事実確認をして敵の思惑を想像してみると、かなり危険な相手であったことが分かる。


「そんな、何てことだ……茉百合さんが……」


 一通りの説明を終えると、龍司は嘆息するように呟き、俯いて片手で顔を覆った。その様子を見るに、ショックを受けてはいるようだけど、悲壮感はあまりない。まだ信じられない思いが強いこともあるだろうけど、こいつは茉百合さんと頻繁に会うようなことはなかったと思うから、俺ほど思い入れはないのだろう。


「しかも兄さんが二件の殺人を……何やってるんだよ……」


 先にも増して重く深く息を吐き、背を丸めて両手で頭を抱えている。

 もしかしなくても、茉百合さんの死より俺の殺人の方を深刻に捉えていそうな感じがする。


「仕方なかった。やらないとこっちがやられてたし、二人とも目の前で暴漢に連れて行かれそうになってたからな。見捨てられないだろ」

「いや……いやいや、見捨てるべきだった! 兄さんは逃げるべきだったんだよ! そういうときは緊急避難ってやつで、自分の身の安全を優先していいんだよ!」


 龍司は顔を上げて力説してきたけど、俺は聞き捨てならない台詞に思わず眉をひそめた。


「は? じゃあお前が俺の立場だったら、古都音を見捨てて逃げてたってのか?」

「あ、いや……まあ、古都音さんは未だしも、隣に住んでるだけの女なら僕は見捨てるよ。当たり前だろう、相手が悪人だからって殺人を犯してまで助けるなんて馬鹿げてるよ! 兄さんはもっと自分を大事にすべきだ!」


 こいつ、本人の前でよく言えるな。葵ちゃんだって色々あって大変だったんだから、もう少し気を遣うとかしてほしいわ。

 その少女から申し訳なさそうな目を向けられたので、俺は微笑みながら頷きを返してやり、龍司に向き直った。


「俺を心配しての発言ってことなら今のは聞き流してやるけど、お前さっきの話ちゃんと聞いてたのか?」

「聞いてたし、兄さんは僕の発言を聞き流さないでよ」

「なら分かるだろ? 葵ちゃんのことがあったから、俺はすぐに桐本家に行ったんだ。もし翌朝に行ってたら、桐本家は既に襲撃されて古都音は攫われた後だったかもしれない」

「それは……」

「しかも葵ちゃんがいたから、俺は無傷で古都音を助け出せた。結果論だろうが何だろうが、それは事実だ」


 今こうして古都音が無事なのは運に恵まれたところが大きい。葵ちゃんにとって合田のおっさんの凶行は紛う事なき最悪の悲劇を引き起こしたけど、それが巡り巡って古都音を助けることになったのだから、俺は合田のおっさんに感謝しなければならないのかもしれない。


「……もう起きてしまったことに対して、あれこれ言っても仕方ないか」

「ああ、大事なのはこれからのことだ」


 溜息を吐く龍司の言葉に頷き、ようやく本題となる今後についての話し合いを始めようと思った矢先、イケメンが鋭い眼光で睨んできた。


「でも、これだけは言わせてほしい。兄さんは危機意識がなさすぎたんだ。そもそも一昨日、通信障害が起きる前の時点で、お祖父様の呼び出しに応じるべきだったんだよ」

「…………」


 口振りから察するに、龍司には爺様から呼び出しがあったのだろう。俺にはそんなのなかったことは黙っておいた方が良さそうだな。


「古都音さんも茉百合さんもお祖父様とは知らない仲じゃないんだから、二人と一緒に本家に行くべきだったんだ。でも兄さんはそうしなかった。状況を甘く見ていた結果がこれだよ」

「そういう龍司はどうなんだよ。今ここにいるってことはお前も爺様の呼び出しスルーしたってことだろ。しかもドアガードしてなかったぞ。危機意識ないとか偉そうに言えた立場かよ」

「え……あっ、いや、ドアは昨日色々あって忘れてたんだよっ、うっかりすることくらい誰だってあるだろ!」


 頬に含羞の色を浮かべて言い訳する美少年の姿は、年上の女が見れば可愛いと思うのかもしれないけど、男からすれば無駄なイケメンっぷりが憎々しいだけだった。


「そ、それに僕は、本家にはちゃんと行ったさ」

「でも結局戻ってきたのか」

「昨日、伯父さんが愛人とその娘まで連れて来たからね。お祖父様がいないときを狙って、伯父さんは勝手に母屋に上げたんだ。お祖母様は大騒ぎさ」


 龍司は思い出すのも不快とばかりに顔をしかめ、愚痴を零すように続けた。


「伯父さんは世間が落ち着いたら戻るって言ってたけど、あれは嘘だね。どうせまだ落ち着いてないって言ってずるずると滞在を長引かせて、なし崩し的に本家の方に住まわせる気だよ」


 なんか話が変な方向に逸れてるし、結城家のごたごたなんて俺にはどうでもいいことだけど、どうしても看過できない疑問が生じてしまった。


「ちょっと待て、確認させてくれ。爺様って心結のことは呼んでなかったのか?」

「何を今更……妾腹の子だよ、呼ぶわけないじゃん」


 となると、爺様は心結の存在を認めていないことになる。

 心結に対する爺様の心情なんて知る機会がなかったから、知らなかった。晴佳さんが父さんの愛人だったのは歴とした事実だから、あの人に対する忌避感なら分かるけど、心結は血の繋がった正真正銘の孫娘だ。

 以前、心結からは正月の集まりに参加しなかったとは聞いた。親族の大半が元愛人とその娘の存在に否定的であることは龍司から聞かされて知っていたし、爺様も新年の目出度い集まりで親族を不愉快にさせるような真似はできないだろうから、参加させなかったんだと思っていた。

 まさか爺様まで心結を受け入れていなかったとは思わなかった。てっきり俺の代わりとばかりに心結を可愛がっていると思っていた。最近の結城家の様子なんて知ろうとしていなかったし、むしろ敢えて情報をシャットアウトしていたから、全然気付かなかった。

 でも、まあ……これはこれで納得だ。心結は今でこそ世間的にも戸籍的にも結城貴俊(たかとし)の実子だけど、つい三年ほど前まで心結が父さんの愛人の子だったことは事実だ。堅物の爺様はその点を無視しきれないのかもしれない。

 

「それでも、龍司が今ここにいるってことは、結局爺様は心結たちの滞在を許可したってことなんだよな?」

「目の前で赤子の顔を見せられちゃ、あまり強くは言えなかったみたいだね。お祖母様の頑なな態度も赤子を抱いたら軟化したし、二人とも老いたってことかな。まあ、一応あの子は伯父さんが再婚してからできた子なわけだから、何だかんだ言いつつ受け入れやすかったんだろうね。そこは理解できなくもないけど」

「ならお前もそのまま向こうにいれば良かっただろ」

「嫌だよ、僕は本当に吐き気がしたんだ」


 龍司は侮蔑の念を隠そうともせず唾棄だきする。


「伯父さんも、あの愛人も、やり方が汚い。赤子を見せて頼めばお祖父様もお祖母様も折れると計算しての行動なのは明らかだった。今が好機とばかりに、情でほだそうって魂胆が透けて見えたよ」

「ま、子はかすがいって言うしな。いいんじゃないの、知らんけど」

「またそうやって他人事みたいに……兄さんがそういうスタンスだから、あの愛人も調子に乗るんだよ」


 聞いた感じだと、たぶん爺様にそこまで抵抗はなかったのだろう。問題は婆様だ。愛人云々は女の方がうるさいもんだし、婆様は潔癖なとこあるからな。爺様も内心では心結のことを受け入れていたけど、婆様や親族の手前、拒絶する姿勢を取らざるを得なかったのかもしれない。

 ま、どうであれ俺には関係のない話か。

 余計な質問しちゃったな、話を戻そう。

 まずは龍司の現在の状況を確認しておかないと、今後ここに結城家の人間が訪ねてきたとき対応に困りそうだ。


「それで、爺様はお前がここに戻ること何も言わなかったのか?」

「もちろん言われたよ。でも幸い……と言うのも癪だけど、実家では電波ジャックの前日から優子ゆうこが友達を三人も呼んでお泊まり勉強会とか暢気なことやってるみたいでね。夏休み前から計画してたってことで、こんな状況でも計画通り一週間やるらしいんだ」


 龍司はうんざりとした様子ながらも饒舌で、これまでの多弁っぷりも考えると、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。その相手が従兄なら事情も知ってて遠慮なくぶちまけられるってことだろう。


「お祖父様もあいつには甘いから、しばらくは外出せず家にいるって条件で、優子は本家に来なくていいことになってたんだ。おかげで僕は実家でも本家でも勉強に集中できないってことを強弁できたから、渋々って感じだったけど僕がここに戻るのを認めてくれたよ」

「なるほど。爺様は何としてでもお前に医学部行ってほしいと思ってるからな。受験を盾にされれば折れざるを得ないか」

「しばらく外出禁止を約束させられたけどね。あと、毎日様子を見に人を遣るって言ってた」

「それ何時頃に来んの?」

「さあ、教えてくれなかった。でも、一日一回とは限らないって言ってた。万が一にも僕が外出しないようにってね」


 もし昼の十二時に来ると分かっていたら、その時間帯だけ家にいれば様子見を誤魔化せるからな。爺様もそこまで孫に甘くないし、現状を楽観視してもいないのだろう。


「となると結局、爺様のとこにいる孫は心結と赤子だけってことか。さすがに県外の連中までは呼び寄せなかったんだろ?」

「うん。でも兄さんの話を聞いた限り、これから更に治安が悪化するかもしれないから、無理にでも呼び寄せるべきだったかもね。こういうときは親族で協力して身を守るのが一番だし」


 それは正論かもしれんけど、その親族を失ったばかりの葵ちゃんと古都音の前で言うことじゃないんだよなぁ。前々から性格が歪みつつあるとは思ってたけど、こいつ最後に会ったときから更に悪化してるな。

 しかし、この流れは好都合なので、俺はここぞとばかりに頷いた。


「そうだな、その通りだ。それが分かってるなら話は早い。そういうわけで龍司、お前は実家か爺様のとこに戻れ」

「僕はって何? 兄さんは?」

「お前には悪いけど、俺はしばらくここで過ごさせてもらう。理由はどうあれ殺人事件起こしちまったからな、事件と無関係のお前が俺と一緒に居続けるのはまずい。幸い、俺が合鍵で押し掛けてきたのは事実だから、お前は俺に追い出されたってことにすれば問題ない」


 龍司は将来有望な男だからな。

 できれば関わらせたくないし、こいつは葵ちゃんと相性が良くなさそうだ。現に葵ちゃんが龍地に向ける眼差しには先ほどから嫌悪感が覗いている。端から見てて分かるレベルの明らかな蔑視だ。友人のことを妾腹の子と蔑む龍司のことは受け入れがたいのだろう。

 そんなことは露ほども気付いていなさそうなイケメンは、俺に向けてこれ見よがしに溜息を吐いた。


「もう話聞いちゃったんだから、問題大ありだよ」

「聞かなかったことにして、筋書きはこんな感じで頼む。繊細な受験生のお前は他人が居座る家では勉強に集中できないし、従兄は何か訳ありみたいだったから、気を利かせる意味でも素直に追い出されて爺様のとこに戻った。爺様には気が変わったと言い、優しいお前は従兄の横暴を誰にも話さず、ただ勉強に集中していった」

「僕はここに戻るとき、お祖父様にこう言ったんだ。ここは愛人とその娘がいて気が散るし、実家は年下の女が四人もいてうるさくて集中できないはずだから、一人静かに過ごせるマンションに戻るってね」

「やっぱり一人は不安だからとか、そこはどうとでも言えるだろ。とにかくそういうことで頼む」

「あんな話聞かされて、今の兄さんを放っておけるわけないだろ」


 そう告げる声や表情からは、本心から俺を案じていることが伝わってきた。


「俺だってお前が邪魔でこんなこと言ってるわけじゃないんだぞ。むしろ迷惑掛けたくないから、こっちの事情には関わってほしくないんだよ。ここに来たのだって、龍司は爺様に呼び出されていないだろうと思ってのことだったし」

「なら結局はあの愛人共が元凶ってことじゃないか。いや、そもそも兄さんがあのマンションに一人暮らししてたのが事の発端なわけで、兄さんがお祖父様を避けてるのも、元を辿れば――」

「だから原因とか既に起きたことをどうこう言っても仕方ないだろ。今重要なのはそこじゃない、これからのことだ」


 龍司はソファに座る女性陣を一瞥してから、俺を真っ直ぐに見据えてきた。


「ここは僕の家だ。何をどう言われたって出て行くつもりはないよ。かといって兄さんと大事な証人を追い出すような真似もしないさ。ここに来た以上、世間が落ち着くまで、ここで大人しくしていてもらう」

「……で、様子見に来た爺様の使いに俺のことをチクるってか?」

「もしそんなことして、お祖父様が兄さんを迎えに来たら、逃げるでしょ」

「当たり前だろ。爺様が俺の状況を知れば、間違いなく蔵か離れに監禁だ。まだ予断を許さない状況で自由を奪われるわけにはいかん」

「だから、ここで僕が強引に追い出すより、僕の目の届くところで大人しくしててもらった方がマシなんだよ。こんな話聞かされた後で兄さんに行方を眩まされたら、心配で勉強どころじゃなくなるからね」


 こいつは何だかんだ言いながらも、俺に対して親愛の情を向けてくれている。今の言葉も嘘ではなく、爺様に告げ口したりもしないだろう。それが嫌でも感じられて嬉しかったけど、同時に苦しかった。


「お前はそれでいいのかよ? 後々面倒なことになりかねんぞ」

「兄さん、さっきの話は全部本当なんだよね?」

「ああ」

「なら問題ないさ。殺人犯を匿うのは重罪だけど、兄さんが殺人を犯したのは人助けのためだ。その物的証拠は兄さんの家にあるみたいだし、証人だっている。古都音さんの家が燃えてるなら、消防が警察を呼んで駐車場の遺体について記録に残すはずだ。今の社会状況で警察に身柄を拘束されることの危険性は、宇宙人が絶対にいない確証を得られない限り、無視できるものじゃないという主張には一応理があるし、従兄を危険に晒せないという僕の動機は真っ当なものだ。しかも僕の誕生日は来月だから、今はまだ十七歳の未成年だ。ちゃんとお祖父様と弁護士に相談してから一緒に出頭すれば、僕は大した問題にはならないさ。兄さんの取り調べは大変なことになりそうだけどね」

「まあ……それはそうかもな」


 龍司は天才というほど頭は切れないけど、秀才ではある。昨日までの古都音に負けず劣らずな饒舌さからは思考力の高さが窺えるし、身体能力の高さは折り紙付きだ。結城家と距離を置きつつこいつと協力できるなら正直かなり助かる。まかり間違っても古都音や葵ちゃんに性的暴行を加えないと思えるほど信頼できる男の味方は、治安の不確かな現状では得難い味方だ。


「それに状況が落ち着く頃には、警察は相当な数の案件を抱え込むことになると思う。騒ぎに乗じて強盗や性犯罪なんかはかなり起きそうだし、既に起きてるだろうしね。この騒動が長引けば長引くほど、混乱が酷くなればなるほど、ある程度の犯罪は立件されずに処理されるんじゃないかな。そうなれば殺人事件の多くは緊急避難が適用されることになるかもしれない」

「緊急避難ってさっきも言ってな。それって確か、やむを得ない場合の違法行為はオッケーみたいなやつだっけか」

「概ねそんなものだね。有名なのはカルネアデスの板だけど、知らない?」

「いや、知ってる。言われて思い出した」


 葵ちゃんもいるし、一応説明しておいた方がいいだろう。さっきから女性陣は黙ったままで、俺と龍司しか話してないけど、様子を見るに話はちゃんと聞いているようだしな。


「カルネアデスっていう哲学者による寓話だよな。船が難破して、乗員がみんな海に投げ出された。ある男は溺死しないために漂う板に掴まったけど、そこに他の乗員が掴まってきた。でも板の浮力は一人分しかなさそうだった。そこで男は後から来た奴を突き飛ばした結果、相手は溺れて死んでしまった。それで男は救助された後に裁判沙汰になったけど、罪に問われることはなかった……みたいな話だろ」

「うん、今はそれに近い状況と言えなくもない。十人殺さないと生き残れないとして殺人を促すだけでなく、通信を妨害したりテレビで殺人の映像を流したりして、人々の不安や恐怖を煽っている。これは明らかに異常な状況で、誰もが正常な判断を下せるとは限らない非常時、緊急時と言える。そんな中で、生き残ろうと思って人を殺したなら、それは自らの生命を守るためのやむを得ない殺人と見ることもできるよね。異常な状況で、異常な判断を下すことは、正常な行動なんだ。情状酌量の余地は十分過ぎるほどあるはずだよ」

「人類バトロワのルール的に、自衛以外で一日に二人以上殺せばアウトだけど、一日一殺だけの奴なら可能性はありそうだな。それに殺人事件が多かったら刑務所とかもパンクするだろうし、完全無罪とはならずとも減刑とか執行猶予付きとかにはなりそうだ」

「しかも兄さんの殺人は、どちらも相手が明らかな悪漢だし、私利私欲のためではなく女性という弱者を守るために行われた。これは大きい。証人さえ守れれば、実刑を避けられる可能性は十分にあると思う」


 俺もそんな感じに漠然と考えてはいたけど、現状を客観視できる立場の人間から言われると、それなりに安心できるな。

 まあ、それはともかく、龍司に及ぶ被害が最小限に留まるのであれば、こいつが一緒でも大丈夫か。話によってはここを出て別の場所に移ることも考えないといけなかったから、何とか丸く収まりそうで良かった。


「分かった。龍司がそれでいいなら、もう何も言わん。けどまあ、迷惑掛けて悪いな。ありがとよ」

「感謝してるなら、ちゃんと大人しくしててよね。騒がしくして勉強の邪魔だけはしないでよ」


 龍司は満更でもなさそうに言い、そっと一息吐いている。その様子に当初あった怒気はなく、むしろどこか安堵感めいた穏やかさすら感じられて、俺は思わず尋ねた。


「ところで、もう怒ってないか?」

「いいや、怒ってるよ」


 即答だった。しかも腕組みして睨んでくる。

 でもその姿に迫力はないから、本気で怒ってるわけではなさそうだ。


「兄さんは約束を破って、僕の夢を壊したんだからね。その責任は何らかの形で取ってもらうから、そのつもりでいてよ」


 俺だって好きで破ったわけじゃないんだけど……そこを説明することはできないから、苦笑を浮かべて「はいはい」と頷くことしかできなかった。


「でも……兄さんがどうしてもって言うなら、今は非常時ってことでひとまずその件は棚上げにして、また前みたいに仲良くしてあげてもいいけど?」

「とか言いつつ、ほんとはお前が仲直りってことにしたいんだよな?」

「な――っ、じゃあいいよもう! 人がせっかく歩み寄ろうとしてあげたのに!」


 龍司は顔を赤くして鼻息荒く立ち上がり、顔も見たくないとばかりにリビングを出ていこうとした。俺も慌てて腰を上げ、細身の割にしっかりとした肩に腕を回して笑いかける。


「悪い悪い、ちょっとした冗談だって。また仲良くしてくれるって言われて、嬉しくてつい調子に乗っちまったんだよ」

「……そういう冗談は嫌いだ」

「じゃあ今後は気を付けるからさ」


 前はもう少し可愛げのある奴だったんだけど、怒りっぽくなってるな。思春期か受験勉強のストレスかはともかく、あまりからかわないようにした方が良さそうだ。


「色々あったみたいなのに、冗談を言える余裕があるなら大丈夫そうだね」

「頼りになる弟分のおかげで、何とかな」

「なら言わせてもらうけど、そもそも兄さんからは僕に対する申し訳のなさとか謝罪の気持ちが全然――」


 何だか面倒臭そうなことを龍司が言い始めた矢先、間の抜けた音がリビング中に響き渡った。結構な音量で、龍司も口を止めて俺と一緒に振り返るほどだ。ソファに座る三人のうち二人も音源に顔を向けている。


「申し訳ありません。四時頃に起きてから、水しか口にしていないもので」


 礼奈は片手で腹を押さえながら、恥ずかしげな様子もなく、淡々とそう言った。

 龍司は毒気を抜かれたような顔でそっと息を吐き、強張っていた肩から力が抜ける。


「ひとまず話はここまでにして、朝食にしよう……」

「そうだな、俺も腹減った」


 時計を見ると、そろそろ七時だった。

 無事に話が一段落付いたことだし、今後のことを考える前に、腹に何か入れて一息吐きたいところだ。


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