16 悲嘆
目的地には五分ちょっとで到着した。
時刻はちょうど五時頃だ。
俺の住むマンションは最寄り駅から見て北側にあり、龍司の住まうマンションは南側にある。幸いにも最寄り駅は高架駅だから、踏切を渡る必要がない。通信障害の只中でも踏切が正常に稼働しているのかは分からないけど、駅のすぐ近くを通ったときには駅舎に何人か入っていく様子が見えたし、テレビの殺人シーンでも駅のホームの映像があったから、通信障害の中でも電車は動いているのだろう。となると、踏切も稼働していそうだ。していなくても交差点みたいに人を使ってどうにかするだろう。
まあ何にせよ、目的のマンションは駅から徒歩五分ほどのところにある。駅近の物件ということで、龍司の住むマンションの駐車場は出入り口に立派なゲートがあり、ETCによる自動認証によって登録された車両しかゲートを開けられないと以前に聞いた覚えがある。
マンションの隣には十以上の様々な店が集まったショッピングセンターがあり、立体駐車場こそないものの、二百台は駐まれそうな広々とした駐車場がある。今が開店前の早朝でなければ、とりあえずそちらに駐めることができただろう。
仕方がないので、コインパーキングに駐車した。駅の近辺にはあちこちにある。マンションから一番近くて、前払い方式のところを選んでおいた。ロック板が上昇するタイプは通信障害の影響を受けている可能性を考えて、念のため避けた。前払い方式ならダッシュボードの上に券を置いておくだけだから、確実に出庫できる。
四人でSUVを降りて、ぞろぞろと歩いていく。マンションまでは二百メートルほどで、油断はせず周りを警戒しながら進んだけど、何事もなく到着した。この辺りには事件の痕跡などは特に見当たらず、平穏そのものだ。
とりあえず正面のエントランスに入ろうとしたところで、そのすぐ脇にある駐車場のゲートが開きっぱなしになっていることに気付いた。
「……開いてたのかよ」
考えてみれば当然かもしれない。通信障害の影響でゲートの自動開閉が機能しなくなったのだろう。だからマンションの住人のために開けっ放しにしてあるというわけだ。今の時間に駐車場に空きがあれば、そこは元から利用者のいない空きスペースである可能性が高いから、そこに駐めたかった。後でこっちに駐め直そうかな。
自分では冷静だと思ってたけど、どうにも頭が回ってない。ちょっと考えれば分かりそうなことを分かっていなかった。でもまあ、茉百合さんが死んだわけだしな……無自覚に動揺してても無理はないか。
エントランスに入ってみると、奥にある閉まったままのドアに張り紙がしてあった。そこには「現在こちらはご利用いただけません。住人の方は駐車場の方にある通用口をご利用ください」と書かれている。
住人はともかく、客人はどうするんだろうな。現在の治安が危ぶまれる状況下で、ここを全開にするのも不用心だから、どうしようもないとは思うけど……気にしても仕方ないか。
俺たちは駐車場の方に行き、通用口を合鍵で開けてマンションの中に入った。このマンションは十五階建てで、同じようなマンションが二棟並んで建っており、ここはA棟だ。目的の部屋は九階だから、思わず溜息を零しながらもせっせと階段を上っていった。
「さて、龍司はいるかな」
九○三号室の表札プレートにはローマ字でTAKIと書かれている。そのすぐ下にインターホンがあったけど、押す前に鍵を差し込んで解錠し、ドアを開けた。不在の可能性の方が高いし、インターホンはどうせ鳴らないだろうし、まだ五時過ぎだ。在宅でも寝ているだろう。
「お、いない……か?」
ドアガードに阻まれることなく、普通に開いた。つまり龍司は不在だ……と思いかけたけど、靴がある。スニーカーと運動靴、サンダルがあるから、まだ何とも言えない。でも在宅なら用心のためにドアガードはしておくだろうし、不在か?
念のためインターホンが鳴らないことを確認してから、玄関に入った。
「三人はまだ靴脱がずここで待っててくれ。龍司以外の奴が誰もいないか確かめてくるから」
念のため家の中を一通り見回ってみることにした。
まず最初に龍司が私室としている部屋の扉を開けてみると、ベッドに人がいた。部屋の明かりを点け、足音を忍ばせて歩み寄ってみると、当然のように龍司だった。
無防備な寝顔からでも腹が立つほどのイケメンであることが分かる。男らしい精悍さは希薄で、繊細な顔立ちは中性的だ。無駄に長い睫毛や髭のない綺麗な肌も相まって、相変わらずアイドルみたいな美少年だった。最後に会った四月頃よりだいぶ髪が伸びている。前はこざっぱりした感じだったのに、今は全体的に長めだ。もう高三で部活は引退しただろうし、最近は勉強で忙しいはずだから、伸ばしっぱなしになってるのかもしれない。
「…………」
起こすのも悪いし、色々と事情を説明する前に一息吐きたいから、黙って部屋をあとにした。尚も警戒は怠らず、他の部屋や風呂トイレまで含めて全て見回って誰もいないことを確かめた後、玄関で待つ三人と共にリビングに入った。
「あの、本当に勝手に上がって大丈夫なんですか?」
リビングの片隅に荷物を置いた葵ちゃんが戸惑いも露わに尋ねてきた。古都音は力なくソファに腰掛け、礼奈は無遠慮にあちこちを見回して「良い部屋ですね」などと呟いている。
「たぶん起きてきたら怒るだろうけど、それは俺に対してだから大丈夫」
「それは大丈夫じゃないような……」
「それより手当てしないとね。とりあえずそこ座って、頭の傷見せて」
俺は葵ちゃんをキッチンのカウンターチェアに座らせると、ポニーテールにしていた髪を解かせ、髪を掻き分けて傷口を探してみる。頭頂と額の間あたりに少し切れている箇所があった。頭部は少しの傷でも大量に出血することがあるけど、既に血は止まっているし、傷口も割と綺麗だから重傷ではなさそうだ。そこ以外は後頭部に少しこぶができている程度だった。これは合田のおっさんにやられたのと同じこぶかもしれない。
「頭痛とか吐き気はない?」
「ぶつけたところに少し違和感があるくらいです」
一応、スマホのライトで瞳孔反応を確認してみたけど異常はなさそうだし、脈拍に乱れはなく、呼吸も安定している。SUVに積んでいた救急セットを持って来ていたので、消毒して塗り薬を塗布しておいた。
「少なくとも今日明日は安静にして様子を見よう。もし頭痛とか吐き気とか、他に何か体調に異変を感じたらすぐに言ってね。傷とこぶはまた昼頃に見せて」
「はい、ありがとうございます」
「こっちこそ、ありがとう。あのとき結構ピンチだったから、葵ちゃんが来てくれなかったら、今頃どうなってたか分からないよ」
本心からそう思う。
あの大男と殺り合った末に死ぬのは構わなかったけど、それで古都音が連れて行かれるのは断じて許容できなかった。だからこそ高揚した面はあるにせよ、あの場面で背後から奇襲してくれたから、俺も古都音も無傷で済んだ。おかげで俺は、今後より混沌としていきそうな世界に五体満足で臨むことができる。
「いえ……ごめんなさい。茉百合さんを守れなくて……」
「葵ちゃんは何も悪くないよ。むしろ十分によくやってくれた。マンションでのことに続いてこんなことになって辛いと思うけど、大丈夫?」
「今はわたしよりも、古都音さんの方が……」
葵ちゃんはソファに悄然と腰掛ける古都音を痛ましげに見ている。なまじ自分も両親を失ったばかりなだけに、今の古都音の心境は察して余りあるだろう。
こうして人の心配ができるほどに精神が安定しているのは、敵を殺した――殺せたことで自信や踏ん切りが付いたのもありそうだけど、自分と似た境遇の人を助けたいという気持ちが強くあるのかもしれない。自分のためには頑張れないときでも、人のためには頑張れる。それは人並みに善良な人間なら珍しくもないことだ。
古都音は背もたれに上体を預けることなく、猫背ぎみに浅く座っている。耳に痛いほどの静寂の中、俺はそちらに近付いて、正面から頭を抱き込むように小さな身体を抱きしめた。
「もういいぞ、古都音。ここは安全だ」
先ほど階段を上がっているとき、こいつが我慢していることに気付いた。桐本家を出発してからはずっと心ここに在らずといった様子だったから、てっきり現実を受け止めきれずに惚けてしまっているのかとも思ったけど、違う。単に全ての感情を身の内に押し込めていただけだ。
少女が大男相手に何度も手斧を叩きつける光景は、あまりにも衝撃的だった。奇しくもあれのおかげで、一度は感情の波に呑まれていた古都音は我に返ったはずだ。でなければ、茉百合さんを助けに行こうとした俺を引き止めるという理性的な判断などできなかっただろう。古都音の心は決して強い方ではないけど、馬鹿でもない。一時的にせよ冷静さを取り戻した以上、かつてない非常時に感情的になって俺たちの足を引っ張るような真似はできないと思ったはずだ。
「もう……いいの……?」
「ああ、いいよ」
俺の背に両手が回り、ぎゅっと抱き付いてきた。そしてか細い肩を小さく震わせたかと思うと、胸元に顔が押し付けられ、嗚咽を溢れさせた。
「う、うう……うえぇ……ああああああああああああ」
シャツ越しの涙が沁み入り、慟哭が胸の奥底にまで響いてきた。
こうして泣かれると、茉百合さんが死んだことを嫌でも実感させられてしまう。結局、俺はあの人に世話になりっぱなしで、何も返すことができなかった。最近は実の母よりも母のように思っていただけに、彼女の死は悔やんでも悔やみきれない。
しかし、だからこそ、活力が湧き上がる。
これまでの日常から一転して、非情な非日常と化した現実に対し、本当に命を懸けて真剣に向き合わねば、次は古都音を失うことになる。心から本気にならねば、人類バトロワの真偽など関係なく、俺も簡単に命を落とすことになる。それが重くて、苦しくて、嬉しかった。
茉百合さんのためにも古都音だけは守らないといけない――というある種の使命感、責任感による重さだ。将来は周囲の期待以上の立派な医師となって結城家を継ぐのだと夢見ていられた頃に感じていた、誇らしい気持ちになれる重苦しさだ。そうした重圧がなければ、人生は真に充実しない。何かを背負えば背負うほど苦難は多大なものとなるけど、その分だけ大きな喜びを得られる。昨日までも古都音を守るつもりではいたけど、今回のことで、どこか半端だった覚悟が定まったように思う。
……そんなことを考えていないと、俺も我を忘れるほどの悲しみに呑み込まれて、嗚咽を漏らしてしまいそうだった。溢れてくる涙に関しては止めようがなく、そっちはそもそも我慢する気もない。
実の母の死には泣けなかった分、せめて茉百合さんの死は涙を以て悼んでおきたかった。
■ ■ ■
リビングの隣には襖で隔てられた和室があるので、幼子のように泣く古都音と共にそちらに移動した。四畳半のこぢんまりとした空間にはこたつテーブルと座布団が二枚あるだけで、その殺風景さが今は心地良い。古都音が落ち着けるように襖は閉めておく。
座布団の上に胡座を掻き、正面から抱き付く古都音を抱き留めた状態で、しばらく二人だけで悲しみを共有した。言葉を交わす必要はなく、ただ一緒にいるだけで十分だった。
俺の涙は十五分ほどで乾き、古都音も三十分ほどでひとまずは落ち着いた。
「安心しろ、お前のことは死んでも守ってやるから」
「…………」
そろそろ話もできそうだと思って声を掛けたけど、反応はない。古都音は両手両足で抱き付いたまま、動かない。
「宇宙人なんかいなくて、社会が落ち着いた後は、しばらく俺んちで一緒に暮らせばいいさ」
「……しばらく?」
泣きすぎたせいか、少し嗄れた声でぼそりと呟かれた。
「お前が自立するまで」
「……そんなの、一生できない」
「じゃあ一生でもいいよ。とにかく何があっても俺はお前のこと見捨てたりしないから、今はそれだけ覚えといてくれ」
「……うん」
古都音はほとんど全てを失ってしまった。家が燃えたことで貴重品や思い出の品などはもちろん、ほぼ全財産だった現金まで焼失し、頼れる親族は皆無だ。宇宙人などおらず、平和な日常が戻ってきたとしても、今回の後始末は大変なものになるだろうし、死別の悲しみと同じくらい未来への不安も大きいはずだから、今は少しでも安心させてやるべきだ。
「……あっくん」
「なんだ?」
「もう、嘘でも……あんなこと、言わないでほしい……」
何のことを言っているのかはすぐに分かった。あの大男と対峙した際、俺が古都音を見捨てる旨の発言をしたことだろう。
「あのときはああ言っておくのが得策だと思ったんだ。お前ならそれは分かってるだろ?」
「分かってる……けど……やだぁ」
「……じゃあ、まあ、今後は善処する。悪かったな、嘘でもあんなこと言って」
あのとき、もし逆の立場だったら、敵を欺く方便だと分かってはいても、俺も少なからず傷付いたかもしれない。今の精神的に弱っている古都音にとっては相当なダメージになっていたのかもしれない。
謝罪する意味でも、少し強く抱きしめ直した。
「誰だお前らっ、ここで何してる!?」
ふと、襖の向こうから怒鳴り声が響いてきた。リビングの空気が一瞬で張り詰め、緊迫感が漂い始めたのが伝わってくる。
俺はすぐに、のんびりとした調子を意識して、声を上げた。
「おーい、龍司こっちだー」
そう言い終わるや否や、襖が勢い良く開けられた。
「――兄さん?」
龍司はこちらを見つめて愕然と突っ立っている。すらりとした細マッチョな美少年はどんな様子でも絵になるな。
「朝から悪いな、邪魔してるぞ」
「それ古都音さん? どういう状況?」
「話せば長くなりそうだから、まずは朝飯にしようぜ」
敢えて軽快な口振りで言い、普段通りの態度で応じてみたけど、さすがに誤魔化されてはくれなかった。龍司は眦をつり上げ、こちらに一歩踏み出しながら、声を荒げる。
「いや、こっちは朝飯とか言ってる状況じゃないよ! どうして兄さんが僕の家にいるんだよっ、どうやって入った!?」
「前に合鍵くれたじゃん」
「…………そういえば、そんなこともあったね」
龍司は虚を突かれたように呆然とした後、ぽつりとそう呟いた。
しかし、一瞬で先ほどの勢いを取り戻す。
「でも、そもそも僕たちは喧嘩中だろ!? 何を堂々と入って来てるんだよ!」
「喧嘩なんてしてないだろ。お前が一方的に怒ってるだけじゃん」
「そりゃ兄さんが約束を破ったからね!」
もう半年くらい経つのにまだ怒ってるとか、しつこい奴だ。予想通りではあるけど、相変わらずの根に持つタイプで面倒臭い。
まあ、嫌いじゃないけどさ、こいつのそういうとこ。
「もう今更それ言っても仕方ないだろ。そっちは一旦置いといて、いきなり来ることになった事情を説明させてくれ」
「説明なんていらないよ、さっさと出てってくれ。古都音さんはともかく、僕に断りもなく見知らぬ女を二人も連れ込むなんて……ちっ、女臭い。朝から最低の気分だ」
冷たい声と舌打ちからは相当に不機嫌であることが伝わってくる。こちらが冷静に話をしようとしても、まともに聞く耳など持ってくれなさそうだった。
しかし、こいつも桐本母娘とはそこそこ親しい間柄だ。
「龍司、茉百合さんが殺されたんだ」
「……は?」
「茉百合さんが死んで、桐本家が火事になった。色々ありすぎて、頼れる奴がお前しかいなかったから、ここに来た。お前には迷惑な話だと思うけど、助けてほしい」
じっと相手の目を見て告げると、唖然とした顔で見つめ返された。抱き付く古都音が俺の肩から顔を上げて、ちらりと龍司を見遣る。すると何を思ったのか龍司は目を閉じて、大きく深呼吸をしてから、戸惑いも露わに言った。
「…………とりあえず、詳しく説明して」