13 休息
葵ちゃんは十二時頃に起きてきた。
茉百合さんから冷蔵庫の中のものは好きに使って良いと言われていたので、昼食は適当に野菜炒めを作って、インスタントラーメンと一緒に食べた。コンビニの弁当は古都音が食べた。
その後、暇を持て余したので菓子を作ることにした。
「葵ちゃん、ビスコッティ作ろうと思うんだけど、一緒にやらない?」
「……ビスコッティ?」
「知らないかな、二度焼きしたクッキーって感じの焼き菓子。たぶん一度くらいは食べたことあると思うんだけど」
葵ちゃんは陰のある表情ながらも意外なものを見るような目を向けてきてるから、単に俺が菓子を作ることに驚いているだけかもしれなかった。
「ま、とにかく嫌じゃなければ一緒にどう?」
「……はい」
葵ちゃんの様子を見ていると、アニメ観賞のような何もしない時間を過ごさせるのは精神的に良くなさそうだから、何か一緒にできる作業をして気を紛らわせてやった方がいいだろう……というのは後付けの理由で、本当は食べかけのグラノーラと使いかけのホットケーキミックスを見付けて、俺が作りたくなった。
「昔からよく茉百合さんが作ってくれてね。おかげで大好物になっちゃって、たまに自分でも作ったりしてるんだ」
「…………」
「茉百合さんはお菓子作りが趣味みたいなとこあるから、あの人の作ってくれる菓子はどれも凄く美味しいんだけど、ビスコッティだけは俺の方が上手い自信あるんだよね」
「…………」
頑張って気さくな感じに話し掛けても相槌を打たれることはなく、葵ちゃんは素材や容器を準備する俺を所在なさげに立って見ている。
まあ、当然といえば当然の反応だ。両親が殺された翌日に楽しく菓子を作ることなんてできるはずもない。それでも手を動かして美味しいものを食べていれば、少なくとも今以上に気が滅入ることはないだろう。
「調子に乗るんじゃあないよ」
ハート型のサングラスをした古都音がそう言いながらキッチンに入ってくると、板チョコを二枚置いてすぐに去っていった。チョコ味にしろということだろう。
「じゃあやろうか」
俺は葵ちゃんに教えながら、ビスコッティを作っていった。使うのがホットケーキミックスだろうが薄力粉だろうが、小学生でも作れる程度には簡単なので、今の葵ちゃんでも問題なくこなせていた。
二度の焼成を終え、粗熱が取れるまで待った頃には、いい感じに小腹が空いてきていたので、三人でおやつとして食べた。もちろん茉百合さんの分は残しておいて、感想を聞かせてもらうつもりだ。
「ふむ……腕を上げたな暁貴。もうわたしが教えることは何もない」
などと、カップメンにお湯を注ぐことを料理だと豪語する二十歳の女が偉そうに言っていた。
葵ちゃんに味を尋ねると「……美味しいです」とは言っていたけど、表情は決して明るくなく、悲壮感が漂っていた。
その後、十八時頃に夕食の準備をしていると、なぜか古都音がそわそわし出した。葵ちゃんがトイレなのかリビングから出て行くと、縋り付くように俺の服を掴んでくる。
「あっくん……ママンが帰って来ない! 何かあったんかな!?」
「出勤前に、色々あったから今日は遅くなるかもって言ってただろ。病院だって通信障害の影響でごたごたするだろうし、傷害事件とかで急患も多いかもしれない。忙しいんじゃないのか」
この程度のことは古都音も十分承知しているはずだけど、人から言葉にして言われた方が安心するだろう。そもそも、まだ十八時だ。普段は帰りに買い物などしなければ、十七時半頃に帰ってくるらしいから、まだそれほど心配することはない。
「十時までに帰って来なかったら病院行ってみればいいさ。というわけで、お前は風呂入ってこい。こっちは夕飯作っておくから」
「う、うん……うん、そうだね、まだあわわわ……ふぅ、慌てるような時間じゃない。諦めたらそこで試合終了なんだ、うん……」
無駄に心配する古都音が浴室に向かうのを見届けて、夕食の準備を再開した。次は餃子を作ることにして、葵ちゃんにも声を掛け、テーブルで一緒に具を皮で包んでいく。
茉百合さんのことは俺も気掛かりではあるけど、心配したからってどうなるものでもない。こういうとき、普段ならスマホにメッセージ一つ送られてくるだけで安心できていたから、昨日までの生活が如何に便利だったのかが実感できるな。
もし茉百合さんの身に何かあれば、誰かが桐本家にその旨を伝えに来るはずだ。特に彼女は結城家の覚えがいい看護師のはずだから、その程度の人手くらいは回すだろう。その連絡がないということは、単に多忙なだけと判断していい。
帰宅の遅さは病院の忙しさに比例し、延いてはこの地域がどれだけ混乱しているのかを意味することにもなりそうだから、茉百合さんの心配ばかりもしていられない。夜闇は犯罪を助長する。今は真夏で日没も遅いとはいえ、今日は人類バトロワ初日だ。日暮れと共に動き出す奴だっているだろう。いつ暴漢が桐本家を襲撃してきても冷静に対処できるように、より一層の用心が必要だ。
……などと密かに覚悟を固め直していると、車の音が聞こえた。テレビの音もなく静かだから、しっかりと耳に届いてくる。音からして軽自動車で、桐本家の駐車場に駐車したのか、音が途絶える。間もなく玄関扉を解錠する音が微かに、でもはっきりと響いてきた。
その時点で俺は急いで手を洗って廊下に出て、いつでも腰元のナイフを抜けるように身構えていた。けれども、扉を開けて現れたのは見慣れた女性だった。
「ただいまぁー。あらぁ、あっくぅん、どうしたのぉ? お出迎え?」
「いえ、念のため警戒をと……おかえりなさい、茉百合さん」
少し拍子抜けしたものの、無事に帰宅してくれた安堵感もあって、思わず胸を撫で下ろした。
茉百合さんはそんな俺の内心を知ってか知らずか、普段通りの穏やかな表情でリビングに入ってくる。
「あらあらぁ、餃子? 二人ともありがとねぇ」
「特にやることもなくて暇だったので。ビスコッティも二人で作ったので、良かったらどうぞ」
「ふふ、あっくんは本当にビスコッティ好きねぇ。それじゃあせっかくだし、晩ご飯の後にいただこうかしらぁ」
そう嬉しそうに微笑む茉百合さんに切迫したものは特になく、キッチンの流しで手を洗う姿は普段通りの彼女そのものだ。この分だと身近で殺人などの事件は起きなかったのだろう。
「ところで、少し遅かったですけど、やっぱり病院は忙しかったんですか?」
「ええ、そうなのよぉ。通信障害のせいで、色々混乱しててねぇ……それに急患も多かったみたいで、事前に連絡なくいきなり来るのもあって、だいぶ慌ただしかったわねぇ。病棟にいた私も少し駆り出されちゃったわぁ」
「院内で何か物騒な事件とかなかったですか?」
「大丈夫よぉ。でも、今日は警備員さんが多かったわぁ。私たちにも不審な人には気を付けるようにって上から通達があったから、院長先生たちは警戒してるみたいねぇ」
通信障害が起きてから警備員の手配をしたとは思えないので、昨日のうちから念のためにと手を打っておいたのだろう。爺様も父さんもその辺り抜かりない人だから、意外感は特にない。
何しろ人類バトロワを信じて凶行に及ぶ奴が現れる場合、病院は標的にされる可能性が高い施設だ。人が集まる場所なら学校や会社など様々あるけど、今が夏休み期間であることを除いても子供を殺傷するのは心理的なハードルが高いし、働ける程度には健康な成人を相手取るのは返り討ちに遭うリスクが高い。
病院ならば弱者が多く、もし反撃されて致命傷を負っても、負傷者を放っておけないという病院側の博愛精神が期待できる。もちろん殺し損ねれば救命されて無駄骨になるリスクはあるけど、その分だけ加害者の安全性も高い。
単純な殺しやすさだけなら老人ホームなどの介護施設が狙い目だ。しかし、医療従事者が宇宙人説を信じるほどにまで秩序が崩壊しない限り、病棟があるような大病院を襲撃するのは賢い選択と言える。いや、ずる賢いと言うべきかな。
「あ、そういえば、副院長先生にあっくんがうちにいること、伝えておいたわよぉ」
しっかりと手洗いうがいを済ませた茉百合さんが、何でもないことのようにそう言った。しかし、その言葉で俺は不意打ちも同然に自らの失態を悟った。
「……葵ちゃんのことは?」
「いいえ、今はうちでことちゃんと一緒にいてもらってるってだけねぇ」
「それは……ありがとうございます。それと、すみません。父に伝言をお願いすること、すっかり忘れていました」
「いいのよぉ、状況が状況だしねぇ」
茉百合さんの配慮に自然と頭が下がった。
「それと副院長先生からの伝言預かってきたわよぉ」
茉百合さんはバッグの中から折り畳まれた紙片を取り出し、手渡してきた。広げてみると、そこには確かに父さんの字で短文が走り書きされていた。
『短慮な行動を慎んで、桐本さんに迷惑を掛けず、不要不急の外出は控えて大人しくしているように』
まあ予想通りといった内容だ。
しっかし……これは危なかったな、完全に失念していた。
爺様や父さんは俺の安否など大して気にしないだろうけど、俺の迂闊な行動によって結城家の名に傷が付くことは大いに気にするはずだ。通信障害が起こり、テレビで殺人シーンが流れるような状況になれば、このメモのようなことを忠告しにマンションを訪ねてくる可能性は十分にあった。
あのマンションの部屋の名義は将来的に俺のものになる予定だけど、今はまだ父さん名義だ。当然、鍵は父さんも持っている。そしてインターホンが鳴らない状況であれば、不在だろうが何だろうがひとまず鍵を開けて中に入るだろう。そして合田のおっさんの遺体を発見し、俺が桐本家にいることを察したはずだ。
父さんが俺のことを茉百合さんに尋ねれば、その状況では彼女も嘘は吐けないはずだ。そうなれば現在の世情でも、父さんと爺様は殺人の理由などお構いなしに俺の身柄を確保しようとすることは想像に易い。俺は桐本家にも、自宅マンションにもいられず、どこか安全な拠点を探すことになっただろう。
今後の情勢がどうなるのか見通しが立たないうちは、結城家に俺が問題行動を起こしていると認知されるのは避けるのが無難だ……と、茉百合さんがそこまで考えてくれたのかは分からないけど、とにかく助かったことは確かだ。
古都音がその点に気付いていれば一言あったはずだから、あいつも失念していたな。葵ちゃんの存在が気になって、そこまで気を回す余裕がなかったのだろう。
「私としても、あっくんにはことちゃんの側にいてほしいから、うちにいてくれるのは助かるのよねぇ。テレビの放送、あんなのになっちゃったでしょ? もし今日あっくんがうちにいてくれてなかったら、ことちゃんが心配で仕事が手に付かなかったところよぉ」
「そう言ってもらえると助かります」
「本当に有り難いと思ってるんだからぁ。ことちゃんの側に二人もいてくれてると思うと、おばさん安心できるからぁ。だから葵ちゃんも遠慮なんてしないで、ここを自分の家と思ってくれていいんだからねぇ?」
「はい……ありがとうございます」
茉百合さんの言葉は本心だろう。この人は俺を信頼してくれているし、何かあれば必ず古都音を守ってくれると当然のように思っているはずだ。俺も彼女の信頼を裏切るような真似は死んでもするつもりはない。茉百合さんにはそれくらい世話になってきた。
「さて、と。餃子だけじゃ寂しいだろうから、何か一品手早く作っちゃうわねぇ」
今日は疲れただろうに、そんな素振りは全く見せず、茉百合さんはエプロンを手に取った。
「あ、冷製スープとサラダも作ったので、冷蔵庫に入れてあります」
「あらぁ、さすがあっくんねぇ」
茉百合さんは椅子に座る俺の後ろから抱き付いて、頭を撫でてきた。この人にとって、俺はいつまでも子供なんだろうな。
「葵ちゃんもありがとねぇ」
「後は餃子焼くだけなので、茉百合さんは適当に寛いで待っててください」
「それじゃあお言葉に甘えちゃおうかなぁ」
その後、餃子が焼き上がる前に古都音が風呂から出てきた。今日は髪を洗わないと聞いていたから、金髪は入浴前と変わらず団子状のままなのはいいとしても、早くもサングラスを装着している。茉百合さんはそんなこと気にした様子もなく、娘に抱き付いていた。普段からそこまでスキンシップ過剰な人じゃないから、おそらく古都音が心配していたことを察したのだろう。
朝食と同じように、四人で食卓を囲んで夕食を済ませた。俺はあまり自炊しないから、料理はどれも特別美味しくも不味くもない平凡な味だったけど、茉百合さんはどれも美味しいと言ってくれて、世辞でも嬉しかった。
「葵ちゃん、お風呂おばさんと一緒に入ってくれるぅ? 背中流してもらいたいわぁ」
「……はい」
食後、茉百合さんは葵ちゃんを伴って入浴してくれた。今の葵ちゃんが一人で風呂に入るのは精神的にどうかと思っていたので、そこにまで気を回してくれて助かった。
これまでのこともあるし、茉百合さんには一生頭が上がりそうにないな。
■ ■ ■
翌朝、八月二日。
昨日と同じくスマホのアラームで目が覚めた。昨夜も確かにベッドで寝入ったはずの金髪女がすぐ隣にいるのも同じだ。ただし、今朝は昨日より一時間早く、現在時刻は四時ちょうど。
「おい、古都音、起きろ」
「……んにゅ……やぁ、ぅ」
肩を揺すっても起きそうにないので、頬を叩いたり、両の目蓋を開かせたり、鼻を摘まんだりしていると、ぼんやりとした青い瞳が俺を捉えた。
「ふへ……ほふはは……?」
「ああ、もう朝」
つねっていた頬から手を離し、華奢な肩を掴んで強引に上体を起こした。古都音は目をしょぼしょぼさせながら、ふらふらと立ち上がり、欠伸交じりに一言。
「……おはよぅ」
「おはようさん」
二人で部屋を出て、階段を下りたところで、けたたましいブザー音が鳴り響いた。
「――うひゃっ!?」
「まあ、お前なら引っ掛かると思ったけどさ」
俺は回れ右して階段を半ば以上まで上がり、手摺を支える金具部分に括り付けられている防犯ブザーの音を止めた。
「あー、びっくらこいた。警報トラップ仕掛けてたことすっかり忘れてたぜ」
「目は覚めたか?」
「ちびりそうなくらいには。あっくん仕掛け直しといて」
古都音は割と切羽詰まった動きでトイレに駆け込んでいった。まだ意識のはっきりしなかったあいつにはいい目覚ましになるかと思ったけど、かなり効果があったようだ。
階段を下りてすぐのところに、再び糸を仕掛け直しておいた。防犯ブザーは古都音が小学生の頃に使っていた引っ張ると鳴るタイプのものなので、足を引っ掛けると鳴るようにしてある。
昨夜、録画しておいた殺人シーン集を確認したことで、俺も古都音も警戒心を強めた方がいいと思った。だから警報くらいは仕掛けておかないと、不安で眠れなかった。
録画の殺人シーンの中には、包丁を持って暴れる男を複数人で取り押さえるといったケースもあり、その過程で何人もの死傷者を出していた。人類バトロワのルール的には一日に一人を殺せば問題ないものの、そんな作業的に一日一殺ができる奴は現時点では少数派だろう。録画でも一人だけ殺す奴より、何人もの被害者を出す奴の方が多かった。
だから、被害者数イコール加害者数と考えるのは短絡的だ。茉百合さんは急患が多かったと話していたけど、それだって一人が暴れただけで複数の被害者が出ただけかもしれない。むしろバトロワ開始直後は無駄に暴れ回るような頭のおかしい奴の方が多そうだ。
そう考えると、現時点では住宅に押し入って殺す奴より、不特定多数の人間が集まる場所で凶行に及ぶ奴の方が多いだろうと推測できる。ただし、葵ちゃんのような美少女をピンポイントで狙った犯行は当然あるはずだから、油断はできない。古都音を狙って桐本家が襲撃を受ける可能性は決して低くない。
「やっぱ合田のおっさんの死体が邪魔だな……」
「何か言った?」
洗面所で洗った顔を拭いていると、古都音が入って来た。やけにスッキリした顔をしているのが少しおかしかった。
「いや、俺の家に死体がなければと思って。俺の家に移れれば、少なくともお前や葵ちゃんを狙った暴漢に襲撃されることはなさそうだからな」
「でもマンションは放火されたら厄介じゃん。今は消防車すぐ呼べないんだから、低階層で火事になれば七階から避難できるかは運次第になるんやで?」
「それはそうなんだけど、でもピンポイントで狙われるよりはマシだろ」
「まあね、分かるよ。不特定多数より個人を狙う人の方が悪意とか殺意に指向性がある分、厄介そうではあるよね。でも聖騎士アッキーなら何とかしてくれるって、ぼかぁ信じてるぞ。それに自宅警備員としては、自宅でこそ本領を発揮できるかんね」
古都音の性格上、その頭脳に十分な仕事をさせるには、この桐本家を拠点にするのが最適だとは俺も思う。しかし、既に葵ちゃんという他人がいることでパフォーマンスが低下しているはずだし、こいつを狙う輩がいる可能性は軽視すべきではない。
「何とかならんことだってあるだろうし、お前の本領は俺んちでも発揮できるだろ」
「ん? それはあっくんちがぼくの自宅って意味に……プロポーズかい?」
「とにかく、みんなでマンションに移ることは考えといてくれ」
「ことねーちゃんはそういう変化球よりストレートなのが好きなんよ。これ豆な」
考慮するつもりがなさそうな金髪女が顔を洗う横で、俺は歯を磨いていく。
こいつがマイホーム大好き女であることは今更だし、一昨日電話してきたときには俺に桐本家へ来いと言っていたけど、安全面だけを考えるなら古都音が茉百合さんと一緒に俺の家に来るのが最善だったと思う。それはこいつも分かっていたはずだ。
しかし、一昨日の俺にそこまでの危機感はなかったし、結果的には合田のおっさんのせいで、ひとまずは桐本家に行く他ない状況になってしまった。おっさんの死体を移動させれば、宇宙人など存在せず、秩序が崩壊しなかった場合、面倒なことになりかねないからな。
それでも尚、死体を移動させてでも桐本家からマンションに移るべきか……うーん、迷うな。黒幕が宇宙人かハッカーか、もうどちらでもいいと思ってたけど、良くないな。
「……おはようございます」
歯磨きを終えて廊下に出ると、ちょうど葵ちゃんが階段から下りてきたところだった。
「ああ、おはよう。ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫です……こういうの、あった方が安心ですし……」
足下の糸を見る少女の顔色はあまり良くない。目元にも隈がある。眠れなかったか、眠りが浅かったか、いずれにせよ心身の調子は良くなさそうだ。
まあ、起きてきたのなら俺としては都合がいい。
「これからコンビニ行くから、俺が留守の間、古都音と一緒に一応警戒しておいてくれる?」
「はい……あの、お兄さん」
「ん? 何か欲しいものある?」
「いえ、気を付けてください……外、危なそうですし」
葵ちゃんはかなり不安そうだった。テレビの殺人シーン連続放送による影響だろう。俺という庇護者に死なれることを心配しているようだ。いや、恐れているのかな。
「ああ、十分気を付けるよ。それと、少し面倒かもだけど、俺が戻るまでは家の中でも手斧を肌身離さず持っておいて」
「……はい」
そう短く頷くと、少女はすぐに階段を上がっていった。
昨夜、葵ちゃんには手斧を渡しておいた。本当はナイフの方が女子供でも扱いやすくていいんだけど、そちらは古都音に渡した分と俺の分しかない。さすがに今の状況で手斧を携帯して外に出ると、正義漢ぶった輩に襲われかねないから、隠し持てる武器じゃないと逆に危ない。
とはいえ、ナイフの余りがあっても葵ちゃんには手斧の方がいいだろう。何せ合田のおっさんを殺したものと同型の品だから、彼女にとってはナイフより心強く感じてくれるはずだ。
「――ぬわっ!?」
葵ちゃんが手斧を片手に下りてきた直後、古都音も洗面所から出てきた。カバー付きとはいえ凶器を手にした少女に驚いたのだろう。
「古都音、お前も家の中だろうとナイフ持っとけ」
「……うむ、取ってこよう」
強張った顔で頷く古都音は葵ちゃんと目を合わせようとしないまま、俺たちの横を通り抜けようとした。
「――ひゃぅっ!?」
ブザー音が鳴り響き、足をもつれさせた古都音が転びそうになったので、咄嗟に抱きかかえる。もろに胸元を触ってしまったけど、柔らかさより肋骨の硬さの方が気になった。
「茉百合さん起きちゃうだろ、気を付けろ」
「……すまぬ」
ブザー音は葵ちゃんが止めてくれたので、俺は再び糸を仕掛け直した。起床したなら外しても良さそうだけど、こっそり侵入されて気付かない場合だってあるだろうし、気は抜かない方がいいはずだ。
それにしても、やはり古都音は自分の身を守るのも難しそうだな……。