11 開始
七時半になる前に、茉百合さんは仕事に行った。
俺は布団を干した後、念のため桐本家の敷地内をぐるりと歩いて、扉や窓の位置を改めて確認し、戸締まりに不備のあるところはないかも確かめておいた。
一通り済ませてリビングに顔を出すと、古都音と葵ちゃんが一人分の間を空けてソファに座り、テレビでアニメを見ていた。葵ちゃんは視線こそ画面に向けていたけど、心ここにあらずといった遠い眼差しで、楽しく視聴しているようには到底見えない。古都音の方は相変わらずサングラスをしてはいるものの、顔の動きからちらちらと葵ちゃんの様子を窺っているのが一目瞭然だった。
「古都音、今から車洗うから、そのまま葵ちゃんと仲良く頼むな」
「頼まれるまでもないさ。そっちは存分に存在感を示してきたまえ。ただし九時までには終わらせて戻ってくるように」
「おう」
どういう風の吹き回しかは分からないけど、古都音が葵ちゃんの様子を見ててくれるうちに、やるべきことを済ませておいた方がいいだろう。
再び屋外に出ると、庭の物置から洗車道具を拝借し、散水ノズルの付いたホースで愛車に水を掛けていく。現在は八時頃、この時間帯の住宅街は通勤やゴミ出しなどで桐本家の前を通る人は少なくない。そんな中、この近所では見慣れぬ車が駐まっていて、朝っぱらから洗車している様子は人目に付きやすいことだろう。
今のうちに、桐本家の駐車場で洗車する俺という男の姿を晒し、その存在を近隣住民に認知させることで抑止力としておきたい。もし近所に古都音を狙っている奴がいるとしても、成人男性がいるとなれば二の足を踏むはずだ。あいつが襲われるような事態は何としてでも防がないとな。
のんびりと洗車を済ませた頃には八時五十五分になっていた。屋内に戻ると、冷蔵庫から麦茶を取り出し、三つのグラスに注いでトレイに載せ、ソファに座る二人のもとに向かう。
「ご苦労。もうすぐ九時だ、覚悟はいいかい暁貴」
「俺はともかく葵ちゃんは? お前この後のこと話しておいたか?」
「……いや、まだ」
古都音は気まずそうに呟くと、テレビのリモコンを手に取り、アニメから地球の映像に変えた。相も変わらず例の宣言が繰り返されていて、もはや新鮮味など感じない程度には見慣れてしまったし、聞き慣れてしまった。
俺は古都音と葵ちゃんの間に空いたスペースに腰を下ろし、グラスを二人に手渡すと、自分の分の麦茶を飲んで一息吐く。しかし、刻限まであと二分しかないので、あまりのんびりもしていられない。
「葵ちゃん、古都音の予想だと九時からテレビの映像が変わる可能性があるらしい。それがショッキングな内容になるかもしれないから、葵ちゃんはひとまず見ない方がいいと思う」
「……ショッキングな、内容?」
「もう時間がないから説明は省くけど、人が殺される映像。だから、念のため葵ちゃんは二階に行ってた方がいい」
少女は生気の薄い顔を伏せて、数秒ほどの沈黙を挟んだ後、俺の左手に触れてきた。
「…………ここにいます」
「そっか、じゃあ一緒にどうなるか確認しよう。何も変わらないかもしれないしね」
とは言ったものの、古都音の予想通りになる可能性は高いと思う。黒幕が宇宙人だろうとハッカーだろうと、人類バトロワが始まるタイミングでそれを促す一手を打ってきそうな気がする。
これで地球の映像は見収めになるかもしれないので、漫然と画面の中の美しい青い星を眺めながら、麦茶を飲み干した。そしてグラスをローテーブルのトレイに戻したところで、古都音がスマホ片手に「十……九……八……」と呟き出す。そして「……零」と聞こえた瞬間、テレビの映像が一瞬で切り替わった。
《はじめまして、人類諸君。我々は諸君が言うところの地球外生命体である》
これまでと変わらぬ音声を発するテレビは、これまでと一転して人間を映していた。それも一人や二人ではなく、十人以上はいる。高いところから斜め下を広く俯瞰するような画角で映っており、人間の他にはベンチと縦長の看板、そして画面の端では何台もの車が通り過ぎていく様子が見て取れる。
《我々のことは好きに呼称してもらって構わない。我々は諸君が地球と呼ぶこの星から、遠く離れた銀河よりやって来た》
バス停だ。ベンチや時刻表や歩道の路面など、全体的に真新しい感じがする。この映像が防犯カメラのものであることを考えれば、整備されて間もないバス停といったところか。しかも人々の姿や時刻表の文字からして、日本だ。生憎と全く覚えがない地名なのでどこの地域かすら定かではないけど、これが偽の映像でないとすれば、日本のどこかであることは間違いなさそうだった。
《我々は地球、そして人類を観察した結果、両者とも我々の管理下に置くことを決定した。しかし、人類は無駄に数が多い。それは種としての諸君が、地球上において優れた生物として繁栄していることの証左ではあるが、人類は個体間の能力差が大きく、劣等な個体は我々にとっても地球にとっても害悪であり、不要である》
今のところテレビの音声は地球の映像のときと同じ内容で、バス停で待つ人々の姿はありふれた日常風景といった様子だ。古都音の予想通り、もしこの映像がリアルタイムで中継されているとしたら、彼らは自分たちがテレビに映っているなど夢にも思っていないだろう。
実際、カメラを見上げるような者など一人もいな――いや、いた。ちょうど今まさに、帽子を目深く被った男がそっとカメラを見上げる素振りを見せた。帽子の鍔から覗く目に覇気はなく、背格好からしてもくたびれた中年男性といった印象だ。
《我々は人類の生態について概ね理解しているため、個体ごとの優劣は一概に語ることが困難であるという見解を有している。一方で、人類を含む地球上の生物は、自らの生命が危機に瀕した際、その能力を十全に発揮する傾向にあることも把握している》
帽子の男は左手に鞄を提げているだけで、右手は何も持っていない。
古都音曰く、昨夜の時点ではスマホでもテレビが視聴できるようだったから、帽子の男がスマホを手にしていれば、この映像に気付いてカメラを見上げたのだと思えたけど、そうではなさそうだ。
《そこで我々は、優劣を判ずる基準を生物として最も基本的な生存能力と定め、人類が極限状態となる状況を作り出した上で、選別を行うことを決定した。人類の中でも優秀な個体のみを我々の管理下に置き、それ以外での生存を決して許さないことを人類諸君に告げるものである》
テレビの音声だけがリビングに響いていた。
ちらりと横目に窺うと、古都音は既にサングラスを外しており、睨むような険しい眼差しで画面を注視している。葵ちゃんの横顔はどこか訝しげな様子ながらも、身構えるように全身を強張らせている。
逸らしていた視線をテレビに戻すと、帽子の男が腕時計を見るような動きで左腕を上げたところだった。先ほどカメラ越しに目が合ったせいか、どうにもこの男の動きが気になる。
《以上のことから、人類諸君には殺し合ってもらう。これは生存競争である。自己保存の本能に従い、存分に同胞を殺し、自らが優秀な個体であることを我々に証明せよ》
帽子の男はじっと腕時計を見た後、右手を鞄に入れた。かと思えば、次の瞬間には鞄から右手が出ていて、すぐ前に並ぶ女性の背に触れていた。女性がびくりと身体を強張らせ、後ろを振り向こうとしたところで、帽子の男の右手が女性から離れた。その手には赤い何かが握られていた。
その赤い何かが何なのかは直感的に分かった。昨夜にも同じようなのを見掛けたばかりだし、事前にこの映像がどんな内容のものになる可能性が高いのか聞いていたこともあって、見間違いだと思うこともなかった。
《自らの手で殺害する限り手段は問わない。殺害対象の人種年齢性別も問わない。十人殺すのだ》
少しよろめきながら振り返った女性に向けて、帽子の男は一歩踏み出しながら右手を突き出した。今度は女性の腹部に刃物が突き刺さる。それはぐっと押し込まれてから、一気に引き抜かれた。
女性の清潔感ある白い服が見る見るうちに赤く染まっていく。
《ただし、各人で有効となる殺害数の上限は二十四時間毎に一人とし、零時を基点とする。我々の用いる全ての時間表現は人類の定めた協定世界時に準拠するものである。最短でも十日間の闘争すら生き延びられない者など我々には不要である》
刺された者は尻餅を付くように倒れ、刺した者は血塗れの凶器を手に突っ立っている。すぐに周りの者たちが気付き、誰もが呆然としたような数瞬の間を置いてから、蜘蛛の子を散らすように画面内から姿を消していく。
残ったのは地面に倒れて動かない女性と、それを見下ろす帽子の男だけだ。
《期間は八月一日零時より、百日間とする。期間中、先述の条件下で有効な殺害数を満たした者は、我々のもとで生きるに相応しい個体であることを認め、有効な殺害数を満たした日の二十四時に保護する》
「あ……あ、ぁ……」
左隣を見ると、葵ちゃんが愕然と目を見開き、唇を震わせて、喘鳴めいた声を漏らしていた。画面内の男が腰を屈めて、女性の胸元に刃を突き立てると、少女の身体は震えだし、両目から涙が流れ落ちた。しかも過呼吸を起こしたのか、呼吸が荒く不安定になった。
「暁貴、その子を二階に」
言われるまでもなく、俺は葵ちゃんの前に立つことで視線を遮り、古都音はテレビを消音した。ここでテレビの電源を落とさず、今も少女より画面に目を向けているあたり、古都音の葵ちゃんに対する関心の低さが窺い知れる。それとも現状に対する危機意識の高さだろうか。俺としてもテレビが気になるところだけど、さすがにこの状態の少女を放ってはおけない。
「葵ちゃん、大丈夫だから、落ち着いて」
抱きしめるようにして震える背を撫でながら、穏やかな声を意識して告げていく。
「ゆっくりと深呼吸して。今は深呼吸することに集中して」
葵ちゃんにとって先ほどの映像は、母親が合田のおっさんに殺された場面を彷彿とさせたのだろう。彼女は実際にその瞬間を見なかったようだけど、だからこそ男が女を刃物で刺し殺す映像には衝撃を受けたはずだ。母親がどのようにして殺されたのか、せっかく見ずに済んだ光景が悪夢のように思い浮かんだのかもしれない。
俺は少女をお姫様抱っこしてリビングを出た。葵ちゃんは縋るように俺の肩を掴んで、未だ落ち着かない呼吸音を弱々しく響かせ、目元を濡らし続けている。
茉百合さんの寝室に入り、大きなベッドの縁に座らせて、背を撫でることで前屈みの状態にさせた。過呼吸のときは胸式呼吸をしている場合がほとんどらしいので、自然と腹式呼吸になるような姿勢を取らせる。
手を握って背を撫でながら「大丈夫だよ」などと適当に優しく声を掛けてやっていると、少女の様子は次第に落ち着いていった。呼吸が穏やかなものになったところで、背を撫でていた手を肩に回す。こうしていた方が安心してくれるだろう。
「お兄さん……さっきの、あれは……本当に起きたこと、なんでしょうか……?」
やや泣き腫れた目で俺を見上げる様子からして、その問いは否定してやるのが優しさなのかもしれない。しかし、ここはきちんと現実と向き合わせた方が、俺のためにも葵ちゃんのためにもなると思った。
「どうだろうね。どこかのバス停の防犯カメラから映像を中継したのか、それともハッカーが作った偽の映像なのか……判断が付かないくらいにはリアルだったことは確かだ」
「でも、あんな……人が殺される前から映ってるなんて、変じゃないですか? 最初はただのバス停の映像でしたし、だからあれはハッカーの作った偽物ですよね!?」
その意見は一理あるし、そう言いたくなる気持ちも理解できるけど、少女の期待に応えてやることはできない。
「そうだね、その可能性はもちろんあると思う。あの映像が本物にしても、以前どこかであった事件の録画を流していただけかもしれない」
「それなら――」
「とはいえ、それと同じくらい、リアルタイムで中継された本物の可能性もある。古都音が言ってたんだけど、防犯カメラの映像を自動で解析して不審者を見つけ出すシステムが既に実用レベルであるらしいから、犯人が宇宙人でもハッカーでも、それと同等以上のことができないとは思えない。事前に殺人を犯す人間を検知していて、そろそろ犯行に及びそうな奴の映像を中継したとしたら、あれがリアルタイムのものでも不思議はないよ」
おそらく、そこがかなり重要だ。
これまでと同様に、今回の件もまた、既存技術の応用でどうにかなる範囲内のことだった。またしても宇宙人の存在を確信させる出来事にはなり得なかった。
「ごめんね、葵ちゃん。凄く不安だろうから、俺も安心させてあげたいけど、これからのことを考えると、あの映像が実際に起きたことの可能性をきちんと見据えた方がいいと思うんだ」
再び泣き出しそうな様子を見せる少女の瞳を真っ直ぐに見つめて、優しく語りかけていく。
「葵ちゃんのことは俺が守るよ。でも、物事に絶対はない。もしものときは、葵ちゃんが自分で自分の身を守らなくちゃいけない。君にはその覚悟を持ってほしいんだ」
「わたし……わたしも、ああして人を……」
「今すぐじゃなくていいよ、焦らなくていいから。今の葵ちゃんは心も身体も疲れてるんだ。しっかりと休んだ方がいい。ほら、横になって」
葵ちゃんは素直にベッドに上がって、仰向けになった。俺はエアコンを点けると、少女の身に薄手の掛け布団を被せる。俺も横になろうか迷ったけど、まだそこまで距離を詰めるのは尚早だろうから、ベッドの縁に腰掛けたままにしておく。
「昨夜はあまり眠れなかったみたいだし、目を閉じて横になっているだけでも休まると思う。葵ちゃんが嫌じゃなければ、俺はここにいるから」
「はい……ありがとうございます」
向こうから手に触れてきたので握ってやると、少女の肩から力みが抜け、目を閉ざした。俺は彼女の手を握ったまま、じっと静かに座り続ける。
しばらくすると、葵ちゃんは眠りに落ちてくれた。気の抜けた顔を無防備に晒して、穏やかで規則正しい呼吸を繰り返しているので、間違いあるまい。
俺はそっと胸を撫で下ろし、物音に気を付けて、茉百合さんの寝室をあとにした。