10 遭遇
翌朝、八月一日。
セットしていたスマホのアラームで目が覚めた。
すぐにアラームを止めようとしたところ、右腕が動かない。何かが重たく纏わり付くような感じがしたので隣を見てみると、古都音がいた。昨夜、こいつは確かにベッドにいたのに、いつの間にか俺の布団に潜り込んできたようだ。
「……んぅ……うぅしゃぃ」
人の腕を抱き枕にして何やら寝言を呟く金髪女を強引に引き剥がした。凹凸に乏しい幼児体型とはいえ、腕に当たる胸元の感触は男にはない柔らかさがあって、こいつも女なのだと久々に実感させられてしまった。
何はともあれアラームを止めた。
スマホの時刻表示は五時ちょうどだ。
古都音の部屋の窓は雨戸と遮光カーテンで外からの光は完全に遮断されているものの、念のため警戒して常夜灯は点けっぱなしにしているので、視界はきく。
とりあえず古都音をベッドの方に戻しておいた。小柄な身体を抱え上げたとき、見た目以上に華奢で軽くて、思いがけず不安を覚えた。こんな見るからに弱々しく美しい女など、格好の獲物として真っ先に狙われるだろうし、俺にちゃんと守り切れるのかどうか……。
床に散乱した物を踏まないように気を付けて部屋を出る。
トイレや歯磨きや着替えを済ませ、持参した荷物の中からプロテインバーを一本取って腹に収める。朝食は六時半頃に茉百合さんが用意してくれるらしいから、それまで空腹が紛れれば十分だ。
確認のため、リビングのテレビを点けてみたけど、やはりどのチャンネルも例の映像が流れているだけだった。スマホもネットに繋がらず、状況は昨夜と変わっていない。
予想通りだったので思うところは特になく、桐本家を出発した。
目的地は最寄りのコンビニで、徒歩三分ほどの距離だ。
戻るまでの間、桐本家には女が三人の状況になるけど、さすがに今の段階で押し入る奴がいるとは思えないから、心配はあまりない。それでも合田のおっさんみたいな奴だっているだろうから、古都音にはSUVに積んでいた予備のナイフを渡してあるし、茉百合さんにも油断はしないように伝えてある。当然、玄関は古都音から借りた鍵でしっかりと施錠してあるし、家中の窓は昨夜のうちに施錠を確認済みで、雨戸は全て閉めてある。
早朝の閑静な住宅街に人の気配は希薄で、特に何事もないままコンビニに到着した。
「結構いるな」
駐車場には五台ほど車が駐まっていた。自転車も何台か見られ、ちょうど退店してきたオバサンが前籠に荷物を入れて去っていく。マイバッグの口からは新聞らしきものが覗いていた。
少々不安に思いながら足早に歩いていくと、入口脇の張り紙が目に付いた。赤い大きな文字で「通信障害のため、電子マネーやカードはご利用になれません。お支払いは現金のみとなります。ご理解ご協力のほどお願いいたします」と書かれていた。俺は昨日のうちにクレジットカードのキャッシング機能で五十万円分の現金を用意しておいたので、特に問題はない。そのうちの半分は念のため自宅マンションに置いてきてあるから、不測の事態で所持金を全て失うようなことがあっても安心だ。
入店してまず目を引いたのは、レジ前に並ぶ数人の客の姿だった。そのレジ横の傘立てめいたラックに新聞があり、今まさに客の一人がそこから一部抜き取ってレジの列に加わっていく。
俺も一直線にそちらに向かい、ちょうど最後の一部を入手した。ギリギリセーフだったな。
「――あ」
ふと横手から、小さく漏れ出たような声がして、反射的にそちらを見た。若い女が二、三歩ほど離れたところで立ち止まり、俺が手にする新聞を見つめている。
何となく目が合った。
やけに美人で見とれそうになったけど、状況的になんか気まずいから、すぐに目を逸らして歩き出す。その矢先、女が声を掛けてきた。
「あの、そちらの新聞、少し読ませていただけませんか?」
赤の他人からの突然の頼みではあるものの、この人は僅差で入手しそびれたわけだから、意外感はなかった。逆の立場なら俺もそう言いたくなるだろう。実際に言うかどうかは相手によるけど。
「新聞の代金はお支払いしますし、五分ほどでお返しします。いかがでしょうか?」
「いいですよ」
タダで見せてくれと言うような奴だったら気乗りしないけど、五分貸すだけで新聞がタダになるなら、俺としても悪くない。それに相手は美人だ。
美女の年頃は俺とそう大差なさそうで、まだ僅かに少女の名残こそ見られるものの、端整な顔立ちと百七十センチほどの背丈、それに大人びた雰囲気からは十八歳以上の成人であることが伝わってくる。女性的な凹凸には乏しそうだけど、八頭身のすらりとした身体付きはモデルみたいで、心結とは別方向のスタイルの良さがある。パンツルックで飾り気のない格好なのもあって、素材の良さがよく分かる。
切れ長の双眸と肩のラインで切り揃えられた黒髪からは、良く言えば知的そうな、悪く言えば冷たそうな印象を受けるけど、いずれにせよクールビューティーという言葉がしっくりくるタイプの美人だ。媚びるような態度がなく、凛と背筋を伸ばして真っ直ぐに目を合わせてくる姿に嫌なものは感じられない。
以前ならともかく、今はこの手の美人と少しでも関わりが持てるなら、持つべきだった。
「それじゃあ先に――」
「おいっ、ふざけんなよ!」
名も知らぬ美女に新聞を手渡そうとしたとき、不意に怒鳴り声が店内に響いた。
「お前んとこのカードだろうが!」
「申し訳ありません。現在は通信障害の影響で電子マネーやカード類がご利用いただけない状況ですので、現金でお支払いいただくより他になく……」
「んなもん知るかボケ! オレは前にこの店でっ、このカードにっ、テメェの言うその現金をチャージしてんだよ! いいからさっさと会計しやがれっ!」
三十路ほどと思しき男がレジカウンターを手でバンバンと叩いている。
まあ……うん。
あの手の輩は無視するに限るな。並んでる人が多いときにレジが一つ使えなくなるのは迷惑極まりないけど、わざわざ口を挟んで揉め事になる方が面倒だ。
「えっと、今レジ混んでますし、先に並んでてもらっていいですか? 俺は他に買いたい物あるので」
「分かりました」
俺は美女に新聞を渡して、買い物籠を取り、まずは店内を一周してみる。
やはりというべきか、カップ麺のコーナーは全滅していた。パン類と菓子類はほとんど売り切れで、ペットボトル飲料と日用品の類いも似たようなものだ。一方でアイスはまだ半分ほど残っていて、おにぎりや弁当はあと二割ほどだろうか。朝方ということもあって、後者はあと一時間もしないうちになくなるだろうけど、まだ残っているのは少し意外だった。
いや、入荷時間が遅かったのであれば、そう意外でもないか? おそらく人が殺到したのは零時頃がピークで、以降は品切れによって客足が急速に落ちていったはずだ。そのタイミングでおにぎりや弁当などが入荷してきたのかもしれない。それに購入個数制限の張り紙もしてある。曰く、「おにぎり、お弁当、サンドイッチなどはお一人様いずれか一品のみでお願いします」と書かれている。
桐本家の食料も有限なので、ついでに弁当を買っていくことにした。あとスイーツ類も残っていたので、そちらも二個買い物籠に入れて、レジ前に並ぶ美女に合流した。彼女は新聞に軽く目を通してるようだったけど、気にせず声を掛ける。
「弁当一人一個だったんで、二個持って来たんですけど、買います?」
「はい、ありがとうございます。助かります」
「エクレアとシュークリームもありますけど」
「それではエク……いえ、やっぱりシュークリームの方が……………………エクレアを買わせていただいても大丈夫ですか?」
美女はやけに真剣な眼差しで籠の中を見つめながら長考した末、真面目くさった声でそう尋ねてきた。
「ええ、好きな方をどうぞ」
俺が食べるために買うわけじゃないから、適当に頷いておいた。
やはり若い女は甘い物が好きな傾向にあるようだな。今の葵ちゃんがコンビニスイーツ程度で元気になるとは思えないけど、何もしないよりはマシだろう。
「クソがっ、もういい話にならん! 使えねーのはそっちの責任なんだから、こいつはもらってくぞ!」
「あっ、ちょっとお客様!?」
先ほどから人目も憚らずカスタマーハラスメントに精を出していた男は、レジカウンターに置いていた商品を手に退店していった。結局、金は払わなかったようで、店員が店の外まで追いかけている。
今は電話が使えないからその場ですぐに通報できないし、あちこちで同じようなことが起きてそうだな。仮にこの後コンビニ側が警察に被害届を出しても、今は傷害事件でもない軽犯罪をいちいち取り締まる余裕なんてないだろう。あの男もそれを理解していたから、ああも横柄な態度で強気に出られていたのかもしれない。
このまま通信障害が続けば、あの手合いが増えそうだ。いや、その前にコンビニなどの小売店は入荷が滞ったりして休業するか?
「お待たせしました。お次の方どうぞ」
並んでいたレジが空いた。
店員は商品のバーコードを読み取ることなく、電卓に値段を打ち込んでいく。通信障害の影響か、レジの機械類が使えなくなっているようだ。なかなかに非日常感が漂う光景だった。まだ通信障害が発生してから半日も経っておらず、例のデスゲームの開始時刻にすらなっていないとはいえ、当たり前の日常が静かに揺らぎ始めている。
とりあえず代金は俺が一括して支払い、美女と共にコンビニを出る。すぐにビニール袋から新聞を取り出して渡そうとしたところ、軽く頭を振られた。
「先ほど並んでいるときに読ませていただいたので、もう結構です。こちらの分の代金を払わせていただきます。袋はそちらでお使いください」
美女は金を手渡してくると、ビニール袋から弁当とエクレアを抜き取り、低頭した。
「ありがとうございました。それでは失礼します」
「ええ、こちらこそどうも」
美女は終始クールな素振りで他人行儀を貫いたまま、そそくさと歩き去っていった。愛想笑いすら見せることなく、俺個人のことなどまるで興味なしといった様子だった。
「……ま、縁があればまた会えるだろ」
こういうのはナンパと同じで数が物を言うし、今はまだ種を蒔いた段階だ。芽が出るかどうかは完全に運次第なので、過度な期待はしないでおこう。いや、俺にナンパの経験なんてないし、する気もないんだけどさ。
それでも現状でできることなど、このくらいしかない。とにかく今は、どんな些細なことでもいいから、若くて綺麗な女と――狙われやすい奴と縁を作っておくことが大事だ。今後、もしあの美女が俺の前で暴行などの被害に遭うようなら、俺は知人を助けるためという大義名分を以て介入できるし、上手くいけば葵ちゃんのように仲間にできるかもしれない。
まあ、しばらくは桐本家で大人しく過ごす予定だから、外で人と会うことなんてそうそうなさそうだけど。
■ ■ ■
桐本家に戻り、まだ誰も起きてきていないリビングで新聞を読んだ。
どうやらようやく政府が声明を出したみたいで、集団消失の件にも触れていた。
曰く、人が消えるといったことは起きておらず、テレビのニュース番組などは電波ジャック犯による偽映像だったらしい。今後、政府の発表などは新聞でのみ公表し、現在の通信障害が復旧しても、しばらくの間はテレビやインターネットやラジオの情報を信じないようにして、自治体の指示に従うように……といった感じの内容だった。
「このタイミングで明言してきたか」
通信障害が発生してから政府声明を発表する意味。
その点については昨夜、寝る前に古都音と話し合ったおかげで、ある程度は推測できる。
『アッキー……やべーことに気付いちまったよ。いやむしろ今になって気付いたぼくがやべーよ、どうして今まで思い至らなかったんだってレベルの間抜けっぷりだよ』
『そうか、お前がやべー奴なのは知ってるよ。おやすみ』
『暢気に寝る前にぼくの話を聞け! 明日混乱しないようにな!』
昨夜の話はかなり有益だったと思うけど、そのせいで逆に混乱している部分もあったりする。だって結局は宇宙人の仕業かハッカーの犯行か、政府声明があったからって白黒はっきりしないんだからな。
『いいかい、真面目な話だ。もし明日の新聞で政府が集団消失の件を否定して、全てはハッカーの仕業だって声明を出せば、それは何を意味することになると思う?』
『何って、そりゃあ……ハッカー説が有力になるってことじゃないのか?』
『表面的にはそうだね』
宇宙人だろうがハッカーだろうが、俺はもうそれほど気にしてないから、あまり考える気が起きないんだよな。俺にとっては、社会が混乱して面白い状況になれば、とりあえずそれでいいんだ。
だから、俺もそれなりに考えはするけど、もうその辺のことは古都音に任せておけばいいかと思っている。あいつの言葉なら信じられるし、俺より頭も回るからな。
『テレビで集団消失が起きたというニュースが流れてる最中に、新聞で逆の情報を発信すれば、大衆が少なからず混乱することは想像に易い。でも、通信障害が発生した後でなら、大衆の情報源が新聞に絞られるし、SNSとかで個人が不特定多数に対して情報を発信できなくなる。新聞の影響力が最大に高まるタイミングで、政府という最大の権威が改竄不可能な情報媒体で事の次第を明言すれば、大衆の大半は信じるだろうし、安心もするだろうね』
『つまり、政府が昨日の時点で集団消失の件について何も声明を出さなかったのは混乱してたからじゃないってことか。世界規模の通信障害っていう未曾有の災害みたいな状況下で、最善の一手を打てるように、敢えて出さなかったと?』
『かもしれないって話だけどね。もちろんそれは一種の賭けになる方策だけど、最悪のケースに備えるという意味では利に適っているし、政府声明の効果を最大限に発揮できる』
『なるほど……でも、それって裏を返せば、このままでは大きな混乱が起きかねないと政府機関が判断したって意味にも取れるよな。政府がかなりの危機感を抱いてるのが伝わってくる気がする』
何しろ首都圏の人間であれば、本当に集団消失が起きたかはどうかは現地に直接確認しに行けば分かることだ。都民にとっては地元なんだし、同時多発的に発生した交通事故の痕跡は隠し切れるものではないから、現地に行って見極めるのは子供でもできる。
もし本当に集団消失が起きていて、政府がそれを否定するような声明を出せば、都民は政府に対する不信感を募らせるだろう。それは逆に治安の悪化に繋がりかねない。無論、その場合は首都圏と地方とで新聞に記載する政府声明の内容を変えてくるだろうけど、それほどの情報操作めいた対応が必要になるということでもあるわけだ。
『それか、宇宙人こそが偽ニュース番組を流して、人類を殺し合わせようとしてるからこそ、最適なタイミングで新聞による抑止を図ってきたって可能性も捨てきれないわけだよな』
『それもなくはないけど、それよりも見過ごせない可能性がある』
『と言うと?』
『状況の半分は政府の自演って線』
正直、あれは俺にとって全くの盲点だった。
『集団消失が実際に起きていた場合、その場所が首都であるなら、政府が事の真偽を把握できないはずはないから、早々に宇宙人の仕業だと確信するわけじゃん? となると、敢えてテレビ局に集団消失の発生を報道させてたのかもしれない』
『……だから今日の夕刊では集団消失の件に触れなかったと?』
『うん。宇宙人の宣言通りに通信障害が起きた後で、新聞でハッカー説の肯定を行えば、ハッカー説の真実味が増す。ひとまずの治安を維持するために、政府がそれを狙っていたとしても不思議はないよね』
一度、敢えて民衆の不安を煽ってから、安心材料を与える。
確かにその方が心理的な効果は高くなりそうな気がする。不安な未来を否定したい――安心したいという気持ちが強く働くことで、軽率な行動をより抑止できるものなのかもしれない。
『でも、それなら新聞社のサイトで集団消失のことが記事になってなかったのはおかしくないか? 集団消失が起きたってネットで記事を出しておかないと、ハッカー説の信憑性に疑問が生じるだろ』
『うん、そこはぼくも疑問だったけど、よく考えると問題ないんだ。新聞社には新聞っていうハッカーには改竄不可能な情報媒体があるんだから、新聞社のサイトに偽記事を出すのはハッカーにとって悪手なんだよ。だってハッカーは宇宙人による人類バトロワ展開を大衆に信じさせようとしてるわけだからね』
『あ、そうか。ハッカーが新聞社のサイトに偽記事を出してしまうと、新聞でそれを否定されたとき、ハッカーの犯行であると証明されてしまう。だからハッカーは新聞社には手出ししない……という考えが成り立つ以上、政府も新聞社のサイトには下手に手出しできないってことか』
『たぶんね。真実がどうであれ、政府は一連の騒動をハッカーの仕業にしたい。でも、これほどの事を起こすハッカーが自らの首を絞めるようなヘマをするはずがないってことは、少し考えれば誰だって思い至る。だから新聞社のサイトには何もしない。政府にとってもハッカーにとっても、それが無難なんだ』
改めて新聞――紙媒体の強さが分かるな。
デジタルな情報はその伝達速度と引き替えに、第三者に改竄されるリスクを常に孕んでいる。今回のようなハッカーの犯行なのかどうかすらも分からないような状況下では、あまりにも信頼性に欠ける。
その点、新聞であれば、第三者による改竄の心配がない。新聞社による虚報以外を疑わなくて済む分、信頼性が高い。
『そういうことなら、ネットで現地に行ったって奴が集団消失は起きてないって主張してたのは、政府機関にアカウントを乗っ取られてたって可能性もあるわけか』
『うん。日本の情報機関だって無能じゃないんだ。ネット上の情報をある程度操作するくらいはできるはずだし、どこの新聞社のサイトにも集団消失の記事が上がってなかったってことは、政府がそれを指示した可能性が高いんだと思う。まあ、ハッカーにサーバーを完全に乗っ取られてて、記事を出したくても出せなかったって線もあるんだけど、政府がこの状況で何の策も講じてないとは思えない……というか、そんな無能だとは思いたくないよね』
古都音の気持ちは理解できたけど、政府がどれほど有能なのかは首を傾げるところだ。何しろ丸一日も続いた電波ジャックを止められなかったんだからな。それはハッカーの能力の高さを意味することになり、同時に宇宙人説の信憑性も高めている。
『十中八九、明日の朝刊で政府声明は出すと思う。それで大衆はハッカー説を信じるか、信じたい気持ちが強くなるだろうけど……』
『けど?』
『……明日、人類バトロワの開始時刻とされる九時に、ぼくの予想通りのことが起これば、治安は悪化していくことになると思う』
その予想とやらについても聞いたところ、十分にあり得そうな話だったけど、それについては今考えても仕方がない。大事なのは何が起きても動揺せず、冷静に目の前の現実と向き合い、情勢を見極めることだ。
そして、今の俺は落ち着いている。古都音のおかげで様々な可能性があり得ることは分かっていたから、まだ予断を許さない状況にあることはしっかり認識できている。
新聞を脇に置いて、一息吐いた。
「ま、この分だと政府はそこまで無能じゃないっぽいな」
仮にも国家を運営している連中なのだ。俺より頭脳明晰な人ばかりだろうし、偉い学者などのアドバイザーだっているはずで、得られる情報は良質かつ多量だろうから、一般人より視野も広くなるのは間違いない。地方の大学に通う学生風情には計り知れない方策を今も講じていることだろう。
だからこそ、こうした展開があり得ることに思い至れた古都音は頭が切れると言わざるを得ない。仮に今回の政府声明にあいつの言っていた思惑などなかったのだとしても、そういう可能性もあるという点に考えが及んだだけでも大したもんだよ。
「あっくぅん、おはよー」
そろそろ六時になろうかという頃、茉百合さんが起きてきた。葵ちゃんも一緒で、二人とも昨夜見た寝間着姿ではなく、ラフな普段着に身を包んでいる。
「おはようございます、茉百合さん。葵ちゃんもおはよう」
「……おはようございます」
「昨夜は眠れた?」
「いえ……あまり……」
美少女の顔は昨夜より暗澹として見えた。泣き疲れて少しは眠れたかもしれないけど、目元には薄らと隈ができているし、両親が殺されて間もない状況では安眠などできなくて当然か。
「新聞のついでにエクレア買ってきたから、好きなときに冷蔵庫から取って食べてね」
「……はい」
「あ、新聞は買えたのねぇ。コンビニの様子はどうだったぁ?」
茉百合さんが朝食の準備を始めながら尋ねてきたので、その問いに答える前に手伝いを申し出たら、やんわりと断られた。まあ断られるとは思ったけど、しばらくは居候の身だから最低限の礼儀として言っておかないと、肩身の狭さを感じてしまうんだよな。
俺は葵ちゃんと一緒にテーブルにつき、コンビニの品薄状況やカードを使用できず怒鳴っていた男について、二人に話していった。
「あらぁ、それじゃあ昨日の夜に買い占めが起きたのかしらねぇ。ことちゃんは少し大袈裟だと思ってたけど、本当に通信障害が起きちゃったし、全然そんなことなかったわねぇ」
「食料品とか、しばらくは大丈夫そうですか?」
「ええ、大丈夫よぉ。ことちゃんが一緒に買い物行こうって言うなんて久しぶりだったから、おばさん嬉しくて張り切っちゃってねぇ。あっくんが泊まることを計算に入れて、一ヶ月分のご飯とかティッシュとか色々買ってあるからぁ。だから葵ちゃんがいても全然大丈夫よぉ。一人くらい増えたってどうってことないからぁ」
「俺の方でも食料品や日用品は車に積めるだけ積んでありますし、まだマンションの方にもいっぱいあるので、この家の分と合わせると四人でも二ヶ月は余裕で大丈夫だと思います」
「とりあえず食べる物があれば安心よねぇ。本当は何事もないのが一番なんだけどぉ……」
今後どうなっていくのか、現状ではまだ見通しが立たない。
だから俺は「そうですね」と相槌を打つことしかできなかった。
「あっくぅん、一応ことちゃん起こしてきてもらえるぅ?」
俺は茉百合さんの言葉に「はい」と頷き、腰を上げた。
直後、リビングに当人が姿を見せた。
今朝は葵ちゃんという他人がいるから、どうせ起こしに行っても部屋から出てこないだろうと思っていた。茉百合さんも同感だったのか、意外そうに娘を見つめている。
「おはよう、皆の衆」
古都音はやけに硬い声でそう言うと、一直線に葵ちゃんのもとへ歩み寄っていく。なぜか長袖長ズボンの軍人めいた迷彩柄の服を着て、長い金髪は頭頂で団子状に纏め、目元はハート型のサングラスで隠し、手には萌えキャラの描かれた紙袋を提げ持っている。
「はじめましてだね、瀬良葵くん。わたしは桐本古都音、よろしく頼むよ」
「あ……は、はい」
金髪グラサン迷彩服女の異様な雰囲気に気圧されているのか、葵ちゃんの反応はたどたどしいものだった。
「何か相談したいことがあれば、遠慮なくわたしを頼ってくれたまえ。これでも二十歳だ。大人として、同じ女として、そこの男よりきっと力になれると思う」
「…………」
「それに暁貴は幼い頃から何かあると『ことねぇちゃぁ~ん』とか言ってすぐわたしを頼ってきてね。おかげで年下に頼られるのには慣れてるんだ」
確かにそんな時期もあったとは思うけど、せいぜい幼稚園の頃までだ。
「だから、何かあれば暁貴を頼る前に、まずはわたしに言ってほしい。いいね?」
古都音の意図が読めないので、ひとまず見守ることにした。葵ちゃんの俺に対する印象が悪化しかねない発言は看過しがたいものの、今後のことを思えば二人が良好な関係を築いてくれるのは良いことだ。
「お近づきの印にこれを貸してあげよう。今はテレビもネットもダメだからね、気を紛らわせられるものがあった方がいい」
「……ありがとう、ございます」
「うん。ブルーレイはそこのテレビで好きに見てくれたまえ」
古都音は紙袋を手渡すと、俺の隣の席に座った。そしてテーブルに置いていた新聞を手に取り、まるで葵ちゃんの視線から隠れるように大きく広げて、サングラスをしたまま読み始める。
「そのサングラス、小学生の頃のか?」
「それが何か?」
「いや、べつに」
新聞読むなら外した方が読みやすいだろうに、外そうとする様子はない。やけに肩肘張っている感じがするし、おそらく葵ちゃんの前では外すことはないだろう。
「はぁーい、ご飯できたわよぉ」
その後、俺たちは茉百合さんの作ってくれた朝食を頂いた。
食事中、古都音は終始無言で、葵ちゃんも自ら進んで口を開くことはなく、俺も二人に話を振るのは控えておいた。しかし、やけに機嫌のいい茉百合さんのおかげで食卓に重苦しい空気はなく、むしろ幾分かの和やかさすら感じられ、彼女との他愛ない会話のおかげで息が詰まるようなことは全くなかった。