眠死
「……でくれ……。」
ピピピピ……。アラームの音が聞こえた。朝が来た。何度かアラームをつけたり消したりを繰り返しながら、ゆっくりと起床した。たくさん夢を見たような気がするのに、どうしても思い出せなかった。でもどこか重く苦しくて、心にぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。シャワーを浴びて、歯を磨いた。でも、鏡に映る自分の顔を見るのが何故だかどうしても出来なかった。それでも俺は、その違和感に蓋をして、支度をしていつも通り仕事に向かうことにした。
何の変哲もない一日が始まった。記憶通りのルーティンのような一日。それなのに何故だか、妙にソワソワする。知ってる仕事、知ってる人、知ってる空間、記憶にはあるのに、体験した実感が湧かない。俺の何かが、おかしくなってしまったようだった。いや、いつからおかしかったんだろうか。それでも俺は、何も問題ないかの様に記憶の通りに周りに振る舞い、記憶の通りに仕事をして、記憶の通りに一日を過ごし終えた。
家について1人になると、朝家を出る時に見て見ぬ振りをしていた不安が込み上げてきた。俺は一体、どうしてしまったんだろう。記憶も体も間違いなく俺のはずなのに、何故かそれを俺だと認めることが出来ずにいる。魂というものが実在するのなら、俺の魂が、俺の記憶や身体を異物だと叫んでるようだった。そもそも、俺とは一体何なのだろうか。体と肉体が同じなら、周りの人から見れば俺だと思われる。なのに俺はこの記憶と肉体を俺だとは思えない。じゃあ、今俺が「俺」だと感じているコレは一体何なんだろうか。本当は俺なんて存在すらしてなくて、すぐに消えてしまう一瞬のバグなのだろうか。俺はどんどん増幅していく猜疑心と恐怖に押し潰されそうになる前に、睡眠薬を飲んで無理やり眠りについた。
目を開けるとそこには、自由が広がっていた。俺が今までに見たもの、聞いたこと、体験、情報、全てが詰まった海のような夢幻の世界。何でも好きな物や人、情景を意のままに操れる。まるで魔法のようだった。夢がこんなにも鮮明で、コントロール可能なものだったなんて。そうか、今日なんだかおかしく感じたのは、この夢を見るための布石だったのかもしれない。それならいっその事、存分に楽しもう。そう思い、やりたい事を片っ端からイメージして堪能してみた。会いたかった旧友にあい、大切な人との楽しい時間を過ごし、好きなアニメのキャラクターになりきってみたりしてみた。空を飛び、海を泳ぎ、宇宙を漂い、まるで神か何かにでもなったような気分だった。
「この時間が永遠に続けばいいのにな。」
心の底からそう思っていた。
どれだけ時が経ったんだろうか。やりたい事はすべてやり尽くした。思いつく限り全てのイメージを絞り尽くした。そのせいでもう何も思い浮かばなかった。辺り一面には、見渡す限りの真っ暗闇が広がっていた。自由で縛られない天国のような夢の世界は、瞬く間に深い虚無と孤独が押し寄せる地獄へと変わった。必死に何かをイメージしようと、思考を凝らして、張り巡らそうにも、記憶も経験も全てを使い果たしてしまったためか、全くもって何も思い浮かばなかった。
「早く夢から覚めてくれ、起きてくれ。」
そう念じ続けても、何故だかそれだけは叶える事はできなかった。絶望感が広がった。暗闇の中何もできず、ただ意識だけが存在し続けた。さらに長い時間それを続けていると、だんだんとある考えがよぎり始めた。
「あぁ、もう死にたいな。」
すると、ナイフが突然手の中に現れた。無意識にイメージしたのだろう。そしてそのまま刃先を喉元に当てて、ソレをしようとしたが、一つの疑念が引っかかって手を止めた。
「夢の世界で死んだらどうなるんだろう。」
ここは何の世界なのか、よくわからない。俺の中にある精神の世界なのか、それとも、もっと高次元の凄い世界なのか。そもそもここで死んだところで死ねるのかもわからないし、仮にここで死んでしまったら、今俺だと思ってるコレは一体どうなるんだろうか。目を覚ました明日の俺は、コレを覚えてるのか、それともまた別のソレになってしまっているのか。或いは何もかも消えて終わりになるのか。考えれば考えるほどに、どんどん深みにハマっていき、気づけば夢を廻始めた時からは、気が遠くなるくらいの時間が経ってしまっていた。
「もしかして、俺はもう死んでるのかもしれない……」
初めから何かおかしいと思っていた。夢がこんなに鮮明に感じられるわけがない。寝る前に飲んだ睡眠薬の飲み合わせが悪かったのか、毎日の疲労やストレスの積み重ねで遂に過労死してしまったのか。もしかしたら、起きてからの違和感の正体も、死期が迫っていたからなのかもしれない。きっと、身体だけ死んでしまって、意識だけが残り成仏できてない幽霊のような状態になっているのかもしれない。そんな悲観的な想像が、どんどんと膨らんでいった。俺の意識はもう限界だった。もしそうなら、もう終わりにしよう。この永遠に続く天国のような地獄の世界に永遠に存在し続けるくらいなら、消えてなくなりたい、そう心から願った。手に持つナイフを喉元に突き立て、ソレをした。そして、迸る血飛沫を薄目に眺め続けた。遠のく意識の中、真紅の雫の煌めきが実に美しいなと、熱い喉元の痛みを感じながら考えていた時、聞き覚えのある音が鳴り響いた。ピピピピ……。
アラームの音が聞こえる。朝が来る。意識が消えたり、戻ったりを繰り返しながら、少しずつ静かに消滅していく。でも俺は今、心底安堵している。何故なら、現実ではまだ俺の身体は死んでないことを知れたから。そして消え入るような声で、俺は囁いた。
「忘れないでくれ……。」
コレが、ソレをして消えることで、アレになれることに気づいた頃には、もう朝が来ていた。たくさん夢を見たような気がするのに、どうしても思い出せない。でもどこか重く苦しくて、心にぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。
それでも僕は、その違和感に蓋をしていつも通り今日も生きていく。